【三】
「もう……二十三年も経つのかぁ」
立派な狗鷲――天狗の素質を持つ存在になった夜野を見て、珠樹が微笑した。艶やかな唇の両端を持ち上げて、まじまじと夜野を見る。もう、己と変わらない年頃に見える。どちらも二十代半ばの姿だ。
「立派になって、僕も嬉しいよ」
「だろう?」
大人びた夜野は、もう『子供扱いするな!』とは言わなくなった。余裕ある素振りに、ドキリとさせられる事があって、珠樹は時折困ってしまう。鴉の濡れ羽色の髪と瞳をしている夜野は、精悍な顔立ちをしていて、今では背丈も珠樹よりずっと高い。
人の姿を象る時、夜野は黒い羽だけはそのままにしている事が多い。今もそうだ。その腕と羽で抱きしめられ、珠樹は微苦笑してみせた。頬にさした朱には、気づかれたくない。当初は抱きつかれても、きっと寂しいのだろうと思っていた。だが今では、その温度と肌触りが優しく感じて、頻繁に珠樹は戸惑う。
「ん、何?」
白い珠樹の顎を持ち上げて、じっと夜野が覗き込んでくる。
「綺麗だな、珠樹は」
「まぁねぇ。ブナは美しい木だと僕も思うよ。我ながら」
「そろそろ答えを聞かせてくれないか?」
夜野の言葉に、珠樹は息を呑む。
「俺の番になって欲しい」
「いつか、ね」
「約束だぞ?」
……珠樹とて、夜野の事を十分すぎるほどに意識している。ただ、自分達には越えられない寿命の差がある。
「僕から見ると、まだまだ夜野は若いからなぁ」
「今、珠樹は二百五十歳だったな?」
「正確には、二百五十六歳です。ブナとしてはまだまだ若輩者だけどさ」
「俺はもう成鳥だ。時期がきたら、神宿様の元へと行く」
「それは、そうだね。夕陽様も、待ち遠しいと思ってるみたいだね」
「――父上に習った」
「何を?」
「天狗紋をつけておけば、番になる約束をしたという証になると」
夜野がそのまま、珠樹の右の耳朶を噛んだ。するとツキンとその部分が疼いてから、熱を帯びた。唇が離れてすぐ、真っ赤になって珠樹が耳を押さえる。
「これで、約束となった」
「い、いつかって、言ったよね?」
「うん? いつか、時が来たら、番になってくれるのだろう?」
「――ほ、ほら、人間は、さ。『前向きに検討します』は『お断り』だったり、『遺憾です』は『激怒』だったりするんでしょう? いつかというのも、だからつまり、さ」
「方便だという事か?」
「う……」
「俺の番になるのが嫌なのか?」
悲しげな声を発した夜野に対し、珠樹が引きつった顔で笑う。無論、嫌なわけではない。珠樹だって夜野が好きだ。
「嫌ではないけど、いつかは、いつかだよ。今じゃないよ」
「そうか。では、きちんと俺が、天狗神になったら、また請う。俺を愛してほしいと」
「……う、うーん。だ、だからさ、今も愛はしてるよ? でも、僕らは寿命も違うでしょう?」
「神にとってはあって無きようなものだろう? 特に雪狗山の天狗となれば、俺は永劫の時を生きる事になる。ほとんど不老不死となるぞ」
「そうだねぇ。僕の場合も、木がある限りは生きているから、あと二百年くらいは、何事も無ければ無事だけどさぁ」
「二百年も先の死別など、俺は問題にはしていない。現に、父上だって母上を失ったけれど、今も天狗として生きている」
「夕陽様は、それでも一途だよね? 後添えをどうかと、神宿様に言われているのに、ずーっと断っているし」
「それは俺にも受け継がれている。俺だって、珠樹以外は考えられない」
「口説き方も教わった感じ?」
「? ただの本音だ」
そんなやりとりをしてから、夜野が珠樹の唇を掠め取るように奪った。ドキリとした珠樹は、反射的に目を閉じる。そのままキスが深くなっていった。夜野が珠樹の首筋を撫でる。そして服を開けていく。珠樹も抵抗しない。二人が体を重ねるようになって、もう一年は経った。
秋の山には、ブナの木の葉が色づいて落ちている。
その絨毯の上に、迷う事なく夜野が珠樹を押し倒す。素直にされるがままになっている珠樹は、猛禽類じみた――いいや、そのものである、夜野の瞳をじっと見る。
「そのいかにも獲物をとります、みたいな、眼の色。本当、反則だよね」
「どういう意味だ?」
「さぁね」
夜野の瞳にも、存在にも、とっくに己が絡めとられている事を、珠樹はよく自覚していた。そんな珠樹の白い肌を舐めた後、右足を持ち上げて、夜野が既に硬く反り返っている陰茎を進める。
「んン――っ」
昨夜もシたばかりであるから、すんなりと挿入が果たされた。根元まで迷わず突き立てた夜野は、右手では珠樹の足を持ち上げたまま、もう一方の手ではその腰骨を掴み、抽挿を始める。
「あ、あ、あ」
夜野の律動に呼応するように、珠樹が華奢な喉から嬌声を発する。繋がっている箇所が熱くて、全身がドロドロに蕩けてしまいそうだと珠樹は考えた。夜野が緩急をつけて動く度、快楽が強く残酷になっていく。
「ん、ぁ……ア、っァ……ああ……ンぅ」
本心から、夜野と交われる事は嬉しい。だが、だからこそ、不安が先行し、素直になれない自分がいるのだと、快楽に飲まれていない部分で珠樹は考えていた。
――天狗神になるには、雪狗山では試練がある。それを越えられなければ、通常の狗鷲と同じ寿命しか、夜野には与えられない。そして素質を持つからといって、皆がその試練を乗り越えられるわけではない。寧ろ、乗り越えられない場合の方が、圧倒的に多い。
だから、いつか、なのだ。
いつの日にか、夜野が無事に天狗となったならば、少なくとも二百年程度はそばにいられるだろうと、そう珠樹は考えていた。
「何を考えているんだ? 余裕そうだが」
「あ、あああ! 待って、余裕なんてないよ、激しい、ぁ! あン!」
「そうか? じゃあ、もっと俺の事だけを見てくれ」
掠れた声で笑われて、涙が滲む瞳を夜野へと珠樹が向ける。夜野の陰茎が最奥を一際強く貫いたのは、その時の事だった。
「ああああ!」
形の良い陰茎から、珠樹が白液を放つ。ほぼ同時に、内部に飛び散る夜野の精液を感じた珠樹は、その後、眠るように意識を手放した。
そのようにして、数年の間、二人は散々交わった。
既に外見年齢は、夜野の方が上であり、彼は二十代後半に見える。この日の事後、夜野の腕と羽に包まれながら、珠樹は星空を見上げた。それから、ゆっくりと目を閉じる。
「もうすぐ、神宿様の所に行くんだよね?」
「ああ。必ず試練を乗り越えて戻ってくる。そうしたら、俺の正式な番になってほしい」
珠樹の耳に触れながら、夜野が笑みを吐息にのせる。そこには、天狗紋がしっかりとついている。月を噛んだみたいな、そんな小さな痣がはっきりと見える。
「いつか、ね。それより、約束だよ? ちゃんと、戻ってきてね」
「勿論だ。俺は、珠樹を一人にしたりしない。俺は、ずっとそばにいたい」
そう述べた夜野は、顎を珠樹の肩にのせる。艶やかな黒髪が頬に触れた時、嘆息してから、散らばる着物に忍ばせてあった首飾りを、珠樹は手繰り寄せた。この雪狗山で産出される鉱石を蔓細工の紐に通した品である。勾玉の形をしている。
「これ、持って行って。君のために作ったお守りだよ」
「っ、これは……有難う、珠樹」
両頬を持ち上げて、夜野が嬉しそうな瞳をした。そして両腕にギュッと力を込めて、さらに強く珠樹を抱きしめた。その夜、二人は朝が来るまで交わった。
夜野が旅立ったのは、その翌々日の事だった。
見送った珠樹に、双子の弟である木魂が声をかける。
「行っちゃったねぇ」
「うん……」
「寂しくなるねぇ」
「……きっと、帰ってくるよ。多分、きっと、おそらく」
「来ないと思ってる声に聞こえたけど、私としても応援しておくよ。珠樹兄さんの初恋が叶う事」
「な」
「――長いブナの生涯ではあるけれど、恋に堕ちるのはまれだからね。基本的に、私達って自分で繁殖可能じゃないか」
「それでも僕の神格は男なんだけど?」
「私だって男だ。そして、どうやら夜野もあれだけ兄さんを抱き潰してるんだから男なんだろうけど……神に生まれて幸いなのは、自然界とは異なり同性でも番(つが)う事に問題が生じない事だねぇ」
「うん。まぁ、僕と夜野の約束は、あくまでも『いつか』だけどね」
「無事を祈ろう」
木の葉が音を立てる中、そんな話をした双子は、それからそれぞれ空を見上げた。
最近の秋の空は不穏で、今日の空も紫色だ。旅立ちにはふさわしい色には思えないし、時折稲妻が空を走っている。それが不安をより一層、?き立てる。
「どうか、無事に……」
呟き珠樹は目を伏せたのだった。夜野の生存率の方が、無事に帰還する確率の方が低い事は、知っていた。