【五】







 それ以後、新しい若き天狗神は、それでもなお、ずっと珠樹という名であったブナの木の残骸のそばにいた。

 本来であれば、神の遣いとなった以上、やるべき事は数多ある。けれど喪失感に苛まれた夜野は、いつもぼんやりと虚ろな目をして、既に珠樹という神格の無くなってしまった木々の残骸が、朽ちて土に還っていくのを呆然と眺めているだけだった。夏も、そして秋も、次の冬も。既に食物をとらなくても生きていられる体となったが、それが逆に忌々しい。珠樹のそばにいたかったから、二百年でも良いから隣にいたかったから、必死で天狗神となったというのに、結果は残酷だ。世界は冷酷だ。

 次の春が訪れる頃には、既に雪狗山からは、珠樹の気配が消えてしまった。大雪の最中、夜野が羽で守るようにしていた僅かに残った幹の残骸も、春になれば完全に腐食し、土に還ってしまった。

 食べないからではなく珠樹を喪失した結果から、窶れ、やせ細っていく夜野を、周囲は心配そうに見ていた。だが、誰の声も、夜野には届かない様子で、夜野は夜になれば悪夢に魘されるか、幸せだった頃の夢を見ては、目を覚ましてから、どちらにしろ涙を零す事が増えた。辛い夢も幸せな夢も等しく、珠樹の不在を思い知らせるから、夜野にとっては迫る朝はいつも絶望からの開始だった。

 時々首から下げている勾玉を握っては、昼間であっても珠樹を思って慟哭した。
 しかし、死は等しく訪れる以上、もうどこにも珠樹はいない。
 バサバサと音がしたのはある日の事で、ぼんやりと夜野は空を見上げた。
 そこには一匹の若き狗鷲の姿があった。

「……昼奈?」

 弟の気配を感じてポツリと呟いてから、すぐに違うと気が付いた。それは寿命があるからでもあったが、すぐに木魂の幹に背を預けていた夕陽が気づいて笑顔を浮かべたからだ。

「昼奈の孫にあたる」
「孫……」
「我の曾孫だ。が、夜野の言う通り、魂は昼奈と同じだ。この一帯の輪廻の中にいる以上、こうして再び再会が叶う事もある」

 それを聞いた時、夜野は息を呑んだ。
 そして、神宿様の言葉を、夜野は思い出した。

『夜野が天狗紋をつけた者が輪廻転生した際、必ず目印として、同じ場所に同じ形の印を生じさせると約束しようか』

 あの日、己は、必ず珠樹の魂を持つ者を見つけに行くとも誓ったではないか。
 そうだ、確かに誓った。

「……では、珠樹もどこかに?」
「魂を同じくする存在は、どこかにいずれ生じる可能性は高い」
「っ」

 夜野はギュッと目を閉じた。そして、久しぶりに悪夢とも幸福な夢とも、日中の思い出の回想の結果でも無く、幾ばくか温かな気持ちで涙を流した。そうだ、珠樹には確かに天狗紋を残したのだから、見つけ出す手掛かりはある。魂が同じであっても、それはきっと珠樹とは別の存在なのだろうし、記憶だって持ち合わせてはいないかもしれないが、そうであっても構わない。珠樹に会いたい。珠樹の気配を感じたい。

「夜野。生きるとは辛い事だ。だが、神宿様は約束を違える事はしないぞ」
「……はい」
「我に似て一途なのも良いが、再会した時に今のように酷い顔をしていては、心配をさせてしまうのではないか?」
「……はい」

 父天狗の言葉に、涙をぬぐってから、夜野は頷いた。

 こうして、この日から、夜野は待つ事に決めた。そうしてその後、齢を重ねた天狗神となった現在もそれは変わらないらしい。隣の木魂という双子の弟が、テング巣病で朽ちた後も、ずっとその珠樹というブナのあった場所に、夜野は暮らし続けた。それは、今も同様らしい。だから、いつからから、夜野は――『珠樹天狗』と呼ばれるようになった。きっと今も、いつか天狗紋を刻んだ珠樹が再来するのを待っているのだろうと、地元民は囁いている。そして正確には、今では自ら、珠樹の魂を持つ者を探し始めた。