【1】父『ちょっと隣国の正妃になって欲しい』
「――アスナ、ちょっと良いか?」
「父上、どうかしたのか?」
「ああ、ちょっとな。まぁ座れ」
「うん?」
ちょっとちょっとと呼び止められて、俺は父上の執務机に歩み寄った。今は資料を書庫に持っていくという雑用中だったので、暇である。一応、形ばかりは、俺も父上の後継者として伯爵家の仕事に従事しているのだ。実際は、ただのスネカジリである。別に俺が持っていく必要もないのだが、何もしていないと気まずいから、本の整理をかって出たのだ。
促されてソファに座ると、父も机からこちらへやってきた。
そばに控えていた侍女が、俺達に紅茶を淹れてくれた。
「あのな、アスナ」
「なんだよ、改まって」
「ちょっと隣国の正妃になって欲しくてな」
「――ん?」
「ちょっと遠いけど、地図上では隣だし」
「え?」
「ちょっと婚姻するだけだから」
「父上、あの」
「何か質問があるか?」
「俺、男です」
根本的な問題である。俺は、父上が老人特有の物忘れを発症してしまったのかと不安になった。隣国は実在する。遠いというか、地図上では隣という表現をするしかないその国は、アザレア帝国と言って、空の上に浮かんでいるのだ。俺の生まれた子のミモザ王国の西には海が広がっているのだが、その海の真上に浮かんでいる。海の向こうにある他の大陸に、どちらかといえば帝国は近距離だろう。なお、ミモザ王国の逆側は、山脈で、そちら側の向こうには荒野が広がるばかりだ。あちらには国はなく、遊牧民が暮らしているらしい。だが、空の上に行くよりは、山脈を越える方がまだ近い。なにせミモザ王国には、馬車と船しかないので、空に行くすべはない。
だが、そんなミモザ王国であっても、正妃というのが女性のお妃様であるという程度の知識は広まっている。男は、お妃様にはなれない。これは、俺が十九年間培ってきた知識からの導出だ。間違いない。
「分かっておる」
「男は結婚できない」
「いいや、アスナ。結婚できるのだ」
「できないぞ?」
「できるんだ、アザレア帝国でならば」
「え」
「男同士でも婚姻が可能なんだ」
父上は、机の上に身を乗り出すようにして、両手を組んだ。
俺は怪訝に思って眉をひそめた。
「そうなのか? それはきっと父上の聞き間違いだろうけどな。そんな馬鹿な」
「アザレア帝国は、お世継ぎ争い防止のため、また後宮が荒れぬよう、代々男の正妃を立て、子を成す側妃様達の管理とお手伝いを男にさせてきたと聞く。また男の正妃であれば、妊娠中に安静にするということもなく、死ぬまで隣で外交が可能だから、馬車馬のようにこきつかえ――いや、その、男とは体が強い生き物だ」
「父上……なんだか最後、怖いことを言いかけなかったか?」
「気のせいだ。して、な。その正妃にお前を是非にと考えておる」
「俺、体弱いから無理」
俺は首を振った。意味は分からないが、馬車馬に良い印象はない。
馬は可愛いが、全力疾走で働くのは無理だ。
「お前の場合は、引きこもりすぎて体力がないと言うんだ。考えても見ろ、この十九年間で、お前は二回しか風邪をひいたことはなく、それ以外の病気は一度もしたことがない。むしろ幼少時にかかっておくべき麻疹や水疱瘡すら未経験であろうが。さらには引きこもりであるから、怪我もしない。ちょっと怪我をするくらいが男らしくて良いと父は思う」
「俺もう十九歳だから、今更木登りして落ちる度胸とかない」
「まぁ良い。お前が運動音痴であり、それができないことの言い訳だと重々承知しながら続けると――」
「おい」
「――ぜひ、お前を正妃にという話が出て、な。国王陛下からも早く返事をせよという催促が来ている」
「催促? 一体いつからそんな話が? 俺、初めて聞いたんだぞ、今」
「それがなぁ……そ、その……一昨日、わしは、街に飲みに出かけただろう?」
「うん」
「その時に、隣の席にいた客が、飲み比べに負けたらお前を嫁によこせと言ってな」
「……」
「冗談だとばかり思った。わしも男は嫁にやれないとその時点まで確信していた」
「で? 負けたんだな?」
「うむ……――結果、その客は、アザレアからお忍びで来ていた皇族であり、昨日わしが登城して陛下に朝の謁見をした時には、縁組を褒め讃えられて催促されるに至った。昨日一日、わしは断る方策を考えたが、既に外堀は全て埋まっていた」
父上は、正直者である。微笑している。
これは、あれだ。断れないなら結婚したら良い、という結論に達したということだ。
「なんで俺が?」
「知らん。相手は最初、わしの子供を嫁によこせといった」
「俺、三人兄弟で、一応長男だからここの跡取りだと思ってたけど、違うのか?」
「じゃあお前は、二歳の双子の弟の片方をアザレアに嫁がせろというのか? あの二人が成人するまでわしは現役で働ける。現に今お前は何もしていないが、大丈夫だ」
「っ、え……そういうつもりは……――けど、俺じゃなくても良いだろ? アザレアって大きい国だと聞くし、正妃ならこちらも王家の方に頼んだらどうだ? 国民の責任は、王家がきっととってくれるだろう」
俺が首を振ると、父上が少しだけ視線を落とした。
「……――実はなぁ、言おうか迷っていたことがあるんだが」
「なんだよ?」
「お前の母さん……」
「うん」
ゆっくりと俺は頷いた。俺の母親は、俺が幼い頃になくなったので、俺はあまりよく知らないのだ。現在の義母は、すごい良い人で、俺の初恋の人である。
「……――前々アザレア皇帝と、ミモザの王家の当時の王女様の、隠し子だったんだ」
「へぇ。それ、街ですごい噂になってるから、衝撃は特にないな。山脈の向こうには実は人ならざるものの国が存在するとかいうレベルでよく聞くから。不死鳥の王っていう化物が治めている霧の国のおとぎ話」
「あ、そう? つまり、お前と現皇帝陛下は従兄弟なんだ」
「ふぅん」
「帝国は性別問わず長子存続らしく、本来は、お前の母さんが皇帝だったらしい。さらにそれを辿ると、現在はお前が皇帝だったはずらしい」
「……へ、へぇ。そ、それはちょっと驚いた」
「だろう? して、現在の皇帝陛下は、皇位継承権五位だったところを、勝ち上がって即位したらしいんだ。実力はあるそうだが、後ろ盾が弱いし、血統面でも難癖をつけられるらしい」
「? あれ? 正妃様が、そういう争いが起きないように管理してるんじゃないのか? さっきと話違うだろう」
「前皇帝陛下は後宮を開いていなかったらしい。それがお前の叔父上ということになる。おそらくであるが、お前の母さん――ひいてはお前に皇帝位を、と、考えておられたのだろうな」
「……」
「だが、結果的に、前皇帝陛下の死後、お前の叔父叔母従兄弟姉妹により、継承権争いが発生して、現在の新皇帝アルファス様がご即位なされた。何があったのか深い事情は知らぬが、そういう経緯で――その正当性の補強の観点からも、お前を正妃にと言ってきたのだろう」
「飲み屋で?」
「本当それ。不意打ちじゃった……」
父上が頭を抱えた。俺は腕を組んだ。
「断れば、戦争になるだろう」
「え? そこまで話大きいのか?」
「うむ。そもそも、隠し子だった母さんを返さなかった時点で一度戦争になりかけて、お前が生まれた後は、お前を渡さなかった時点でも戦争になりかけて、そして今回だ。もう今度こそ、許してはくれないだろう。二度の時は、母さんが撃退してくれたが、わしにはそんな力はない」
「……」
「頼む、わしとてお前と離れるのは寂しいが、穀潰しを家に飼っておく余裕は――ええと、お前もそろそろ仕事を――違う、この国のためを思って!」
「さりげなくヒドイだろ」
「まぁ考えておいてくれ」
そんなやり取りをして、俺は頷いてから、父の執務室を後にした。
本の山を運ぶ作業を再開しながら、ぼんやりと考える。
亡くなった母さんの件に関しては、本当に昔からフォークロワ的に聞いてきたので不思議はない。だが、なるほど、母さんが皇帝陛下の隠し子という噂話が本当なら、俺は皇帝陛下の孫だ。ただ、自分が皇帝になるはずだったという風に聞いてもピンと来ない。
けれど、漠然と、父の言った戦争という語を思い出してしまう。
父は明るく軽い口調で言ったが――そういえば昨日から、海の方に出かける騎士団の師団が多い。事故でもあったのだろうかと噂していたのだ。戦争だったらどうしよう。俺は、まさかな、と、その思考を打ち消しつつ、書庫へと向かった。
ウェルナース伯爵家の書庫は、領地の人々に解放されているので、数人がいた。学校がない代わりに、みんなここで自習していくのである。俺の場合は、家庭教師がいた。王都の最寄りの領地なので、徒歩三十分で王都にも行ける。外に出るのがだるいから、俺は家にいるが、たまに遊ぶときは、専ら王都だ。たまにそちらから見知らぬ人が、観光に入ってくることもある。
俺は書架に本を入れながら、ぼんやりと思考を続けた。
もし俺が、皇帝だったら――そんなことを思ったのである。
絶対に戦争なんてしないんだけどな。怖いし。
そればかり考えていたら、気づくと日が落ちていた。
はしごを降りて窓を一瞥した時には、夕日が薄闇に飲まれようとしていた。
「働き者なんだな」
「っ」
その時、不意に声をかけられて、俺はびくりとした。
慌てて視線を越えのほうに向けると、本棚と本棚の間に、一人の青年が立っていた。腕を組んでいる。夕日で綺麗な髪が染まっている。誰だろう? 俺は、深い赤の瞳をしたその青年をじっと見た。気配なくそこに立っていたのに――視界に入った瞬間から、俺は惹きつけられて目が離せなくなった。妙な迫力があるのだ。切れ長の瞳をしていて、背が高い。骨格が違うとでも言うのか、背が高くて大きいと思うし俺より一つ一つが大きい気がするのだが、全体のバランスとしては細いと感じる、不可思議な体型をしている。同じ人間だとはわかるのだが、俺から見ると、作り物に思えたのである。たまたま迷い込んだ先で、満開のツツジを見たら、こう言う気分になる気がした。
「折れそうに細いな」
その人は、そう言うと、俺に歩み寄ってきた。
そして不意に――俺の腰を抱き寄せた。違う、そっちが大きいんだと言おうとしたが、上手く声が出なかった。なぜなのか、俺は惹きつけられていたのである。
「お前を迎えに来た」
「……」
「俺の正妃になって欲しい」
きっと、この人は、アザレア帝国の皇帝だ……――俺は、そう思った。
外国の人だから、大きいのだろう。
完全に空気に飲まれた俺は、両頬に手を添えられ、思わず頷いていた。
父親も望んでいるのだし、国を挙げて望まれているのだし、戦争は嫌だし。
「では、行こう」
「あ、父上に――」
「こちらで伝えておく」
そう言われ、さらに強く抱き寄せられた瞬間、周囲に白い花弁が舞った。
綺麗だなと思った直後に、光が溢れたから俺は目を伏せた。
そんな俺を、ぎゅっとその人物は抱きしめた。
「おかえりなさいませ、不死鳥の王」