「なんだこのまずいパンケーキは」

 僕が作ったブラックベリーが乗るパンケーキを食べながら、ラピス様が目を吊り上げた。バクバクと食べているが、いつもラピス様はこのように言う。

「勿体無いから食べてやるが、次からはもっとマシなものを用意しろ」
「申し訳ございません」

 謝る僕もいつも通りである。
 学院から帰るとまず、ラピス様はおやつを召し上がるのである。投げつけられた布ナプキンを体で受け止めた僕は、その後新しい紅茶を用意した。

「明日はチョコレートケーキを用意しておけ」
「承知致しました」
「もう良い。下がっていろ」

 ラピス様が僕をジロリと睨んだ。頷き、一礼して僕は下がる。僕の中で、ラピス様の命令は絶対である。その後は厨房に向かい、夕食の準備をした。

 呼び鈴が鳴ったのは、準備が一段落した、十七時頃の事だった。来客の予定は無い。僕は首を傾げながら、玄関へと向かった。するとこの国の第二王子殿下であるエドガー様と従者のシルクさんが立っていた。僕を見ると殿下はニヤリと笑い、エドガー様は半眼になった。

「ラピスに会いに来た。通せ」
「……確認してまいります」

 急な来訪であるが、僕が従う主人はラピス様だけである。僕と同じくらいの背丈であるエドガー様を正面から見て軽く頭を下げた僕を、不機嫌そうにシルクさんが見ている。この国にあって、王族に従わない僕は、シルクさんから鬱陶しいと思われているのも、よく理解している。片眼鏡をしているシルクさんは、いつも僕を見ると不機嫌さを露にする。しかしそれは彼だけではなく、この国の多くの人びとがそうだ。

「ラピス様。エドガー様がお越しですが」
「エドガーが? 帰らせろ。僕には、用なんかない」
「承知致しました」

 僕は溜息を押し殺した。
 エドガー様は、ラピス様の二つ上の学年なのだが、ラピス様に何かと声をかける。十五歳の第二王子殿下が、ラピス様を好いているようだという事は、僕も理解していた。しかしラピス様は、まだ中身が無垢であり、エドガー様のような『好きな子を虐めてしまう人間が存在する』という部分を理解出来ていない様子である。

「お会いなさらないとの事です」

 引き返して僕が告げると、今度はエドガー様も僕を睨んだ。僕は無表情を貫き通す。本来、王族を相手にこのような態度に出れば、この国の人間だったならば厳罰が与えられるだろう。

「通せと言っている」
「出来ません」
「通せ」
「ラピス様はお会いになさらないそうです」
「……折角、俺が会いに来てやったんだぞ?」
「そう申されましても、ラピス様のご命令が絶対です」

 僕が断言すると、エドガー様が顔を歪めた。シルクさんが呆れたように吐息する。

「融通が利かないにもほどがあるのでは? 主の恋の一つや二つ、応援できないのですか?」
「――ラピス様が、お会いにならないと仰っておられるのです。お通しする事は出来ません」

 僕の仕事は、ラピス様のご命令通りに全てを行う事なのだ。例えラピス様の側からも、好意を感じられたとしても、ラピス様が会わないと断言した以上は、お通し出来無いのである。実際、学院で浮いているラピス様に声をかけるのはエドガー様だけであるらしいという事は、僕も理解している。ラピス様だってその全てを拒絶しているわけではない様子である。そこに恋が横たわっているのかまでは不明だが、不明であっても、仮にラピス様もまた恋をしている様子であっても、僕はラピス様が会わないと仰る限りはお通し出来無いのだ。

「お帰り下さい」

 再度僕が述べると、エドガー様が非常に不機嫌そうな顔になった。やれやれといった様子でシルクさんが腕を組む。このような来訪とやりとりは、週に二度はある。ラピス様が気まぐれで通せという事が、月に一度ほどだ。僕は月に七度断り、一度中へ通す形だ。

「次こそは家に上げろ」

 渋々といった様子で、エドガー様が踵を返した。シルクさんは僕をひと睨みすると、それに従う。しかし僕を睨まれても、結果は何も変わらないのだ。施錠してから、僕は食堂へと向かい、料理を並べる事にした。

 食後、入浴を終えられて、ラピス様がお休みになった。
 僕は邸宅中の戸締りを確認し、最後にまた銀器を拭いてから、自室へと戻った。
 使用人室は地下にある。食料庫やワインセラーも同様だ。
 半地下なので、僕の部屋には上部に窓がついている。
 冬の風が入り込んでくる。お世辞にも暖かい部屋であるとは言えない。

 日付が替わって少ししてから眠り、翌朝は午前五時に起きた。そして邸宅の見回りを済ませ、銀器を拭きながら時間を潰した。ラピス様を起こす時刻の少し前から朝食作りを開始して、起こしにいった時には、邸宅の全てを完璧に整えておいた。

 いつも通りである。
 不味いという声を聞きながら、僕は朝食を見守り、リボンが曲がっているという言葉に頷いて何度もラピス様の制服をただし、靴を履かせて、馬車に促す。これが僕の日常だ。僕はそれに満足している。

 王立学院に到着すると、いつもとは異なる事が一つあった。昨日見かけたガイスという騎士が、校門の脇に立っていたのである。馬車から降りて、周囲から視線が集まっている彼を、僕も一瞥した。すると真っ直ぐに目が合った。本日は行事ではないから不思議に思いつつ、ラピス様が降りるのを手伝う。

 騎士の横を通り過ぎて、僕は本日も生徒玄関までラピス様を送っていった。
 そして引き返し、校門を通り過ぎる。

「……っ」

 その時また、息を呑む気配がした。思わず振り返ってしまった。そこでは騎士が、片手で唇を抑えていた。一体何なのだろうか? 不審者として学院に通報したい所だが、相手は王国の騎士だ。身分は保証されているはずだと考え直して、僕は馬車に向かった。

 今日もまた、いつも通りの一日が始まるのだ。
 僕は疑う事も無かった。

 本日は、チョコレートケーキの材料を購入しなければならない。
 一度邸宅に戻り、僕は十時頃、改めて買い物に出かけた。
 煉瓦造りの食料雑貨店に入り、僕は棚を見上げた。

「おい」

 すると、気配なく声をかけられた。驚いて硬直してから、僕はゆっくりと首を動かして顔を向けた。

「……? 何か?」

 そこには、今朝も校門で見かけた、ガイスという騎士が立っていた。
 奇遇である。

「甘い匂いがするんだ」
「? お菓子の材料が売っている区画ですからね」

 僕が首を捻ると、何か言いたそうに彼が唾液を飲み込んだのが分かった。

「お前は……その、魔術師か?」
「――何故ですか?」

 唐突な問いに、僕は内心で少しだけ狼狽えた。実際、僕は魔術を修めている。しかしながら、この国に来てからは、一度も魔術を使っていない。僕は護衛も兼ねているのだが、通常は剣を用いている。僕が魔術を使えるとご存知なのは、僕が魔術面での家庭教師役を担っているラピス様だけなのだ。それ以外の場合、僕は魔力量を調整し、自分が魔術師である事を隠している。魔術は、万が一の場合にしか使わない事になっているからだ。

「……」
「……」

 彼は窺うように僕を見ている。僕は困惑するしかない。

「あの?」
「甘い匂いがするんだ」
「ええと……――ああ、なるほど。剣士ですか? 魔力過敏症ですか?」

 僕はそこで、一つの結論を導出した。剣士の中には、強い魔力に敏感に反応する者がいるらしいのだ。そうであるならば、僕が制御している魔力に気づいても不思議ではない。

「確かに俺は剣士で……ああ。俺もそれを疑っていたんだ」
「こちらは最低限まで魔力量を制御して封じております。これ以下に調整すると、咄嗟に魔術を使用できなくなりますので、これ以下には……なるべく距離を取りますので、ご容赦下さい」

 僕はきっぱりと、魔力量を下げられないと述べた。さっさとチョコレートケーキの材料を手に取る事にする。

「いいや、待ってくれ。距離を取る必要は無い」
「? お辛いのでは?」

 魔力過敏症の場合、強い魔力に当てられると目眩や吐き気がするという。それ以外の自覚症状は無いらしく、他に害もないが、十分辛いだろう。

「どうやら、違うらしい」
「え?」
「名前を聞かせてもらえないか?」
「? レイ=ウィンスラートと申しますが?」
「レイ、か」
「ええ」

 僕が頷くと、彼は思案するような顔をした。それから一人で小さく頷いた。

「俺はガイス=フェルンストと言う。第二騎士団で団長をしている」
「そうですか」

 だから何だというのだろうか? 僕は不審に思いながら、材料を選び終えた。

「仕事があるので失礼致します」
「あ、ああ……」

 すると引き止められるのでも無かったので、僕はそのままそこを後にして会計を済ませた。この日作ったチョコレートケーキも、まずいと言われたが、完食してもらった。