3
本格的に冬が訪れようとしていた。
「夜会ですか」
王立学院から配布された紙を、投げるようにラピス様が僕に渡した。冬期休暇の前に、学院で若年層を主体にした夜会が行なわれるらしい。
「ああ。朝まで学院でバカ騒ぎをするそうだ。迎えは翌日の昼過ぎで良い」
「畏まりました」
五年制の王立学院で、毎年行われる大規模なイベントであるようだった。紙にも翌日の昼間に迎えに来るようにとある。この国に訪れてから、僕は二十四時間以上ラピス様と離れるのは、これが初めてとなる。
「レイ。お前は、休日は何をしているんだ?」
「休日……ですか。僕には、休日は存在しないので……銀器を拭いております」
僕はラピス様に問われたというのに、返答に詰まってしまった。するとラピス様が僅かに驚いた顔をした。そしてそれから、少しだけ困ったような顔に変わった。
「その……――その日は、俺はいない。休んで構わないぞ。ひと晩くらいな」
「承知致しました。ご配慮、感謝致します」
「ああ。この俺の配慮だ。たまには家の外に出て、そうだな……飲みにでも行けば良い」
「有難く存じます」
僕が頭を垂れると、ラピス様が満足そうに笑った。思えばこの幼い主人に気遣われたのは、初めての事かもしれない。少しずつ少しずつ、ラピス様は大人に近づいていくようだ。
こうして、夜会の当日が訪れた。
この日も朝はいつも通り、ラピス様を送っていった。
そして馬車を邸宅へと戻してから、僕は思案した。
――『飲みにでもいけ』というご命令だ。その命令が無かったならば、何をして良いのかすら分からなかったかもしれない。僕には、ラピス様にお仕えする以外、何もやる事が無いのだ。
「外に、か」
呟いてから、僕は自室で私服を眺めた。
付き人として身に纏っているものから、少し簡単な服に着替える。
休暇など本当にこれまでには無かったため、私服はほとんどない。大体は、帝国で支給された服を着て過ごしてきた。そうか、服でも買いに行くか。そう思いついて、僕は財布を鞄に入れた。
外に出て、街へと向かう。王宮の前に広がる通りに、様々な店舗が並んでいるのだ。いくつかの店を見て回り、適当に服を選んだ。そうする頃には、日が落ちていた。
随分と歩いたようにも思う。
酒場が開店しだしたのを確認し、僕は王宮前の通りから一つ逸れた場所に向かった。そこが酒場街だった。街人と騎士達の姿が目立つ。貴族はあまり好まない場所のようだった。治安が良さそうには思えないなと考えつつ、適当に歩いていた。その時だった。
「――レイ?」
「? あ……」
声をかけられたので立ち止まると、そこには以前会ったガイスさんの姿があった。
「こんにちは」
「ああ。ここで何をしているんだ?」
「飲みに出かけようと考えていて」
「誰と?」
「一人ですが」
「一緒に行っても良いか?」
突然の言葉に、僕は驚いた。何故、彼はこんな事を言いだしたのだろうか。別段断る理由は無いのだが、飲みに行きたいわけでもない。
「ダメ、か?」
「……構いませんが」
どこか切実そうな表情で詰め寄られた為、僕は勢いに飲まれて了承してしまった。するとホッとしたようにガイスさんが苦笑した。
「良かった。断られるかと思っていたんだ」
実際、断るか悩みもしていたので、僕は何も言わない事にした。
僕の隣に立つと、ガイスさんが歩き始めた。僕も歩みを再開する。背丈が違うので歩幅も異なるのだが、ガイスさんはゆっくりと歩くからなのか、僕と速度は変わらない。
「ずっと、気になっていたんだ」
「何がですか?」
「甘い匂いが」
「はぁ……?」
「昼頃に、大通りへ昼休憩で顔を出したら、ずっと甘い香りがしていたんだ。それで、もしかしてと思って」
「?」
意味が分からない。前回会った時も甘い匂いがすると話していたが、この口ぶりでは、まるで僕から甘い匂いがするかのようではないか。
「特に香水などは身につけていないのですが」
「――ああ、そういった類のものではないようだな」
「?」
「そこに俺が行きつけの酒場がある。行きたい場所があるのでなければ、そこへ行かないか?」
「ええ。土地勘も無いので助かります」
話を変えられたようにも思ったが、僕は頷いた。
到着したのは、ごく普通の酒場だった。カウンター席とテーブル席がある。迷わずにガイスさんはカウンター席を選んだ。店主がそこに案内したとするのが正しいかも知れない。僕を見ると店主は不思議そうに目を丸くした後、ニコリと笑った。必然的に僕はガイスさんの隣へと促された。
「歳はいくつだ?」
最初の酒が、注文しないのに運ばれてきた。僕には水が出てきた。そんな僕にメニューを差し出しながら、ガイスさんが言った。
「二十四歳です」
「俺は二十七歳だ」
「そうですか――あの、僕にもビールを頂けますか?」
年齢の話には興味がない。僕は本日、ラピス様のご命令でお酒を飲みに来たからだ。僕の言葉に店主が頷いている。ガイスさんは思い出したようにジョッキを置いた。
「先に飲んでしまって悪いな」
「いいえ、どうぞ」
僕は水を飲む。するとガイスさんが、非常に困ったような顔をした。
「平常心が消し飛んでしまいそうになるんだ」
「お酒に弱いんですか?」
「いいや、そういう事ではなくて」
その時、僕の分のビールが運ばれてきた。ガイスさんが「乾杯」と口にしたので、改めてジョッキを重ねる。僕は一口飲みながら、改めてガイスさんを見た。
「触れてみても良いか?」
「触れる? え」
尋ねられたと思った瞬間、下ろしていた左手に触れられた。
――ビリっと、何かが走り抜けた。慌てて僕は手を引いた。
「静電気……」
だろう。多分。バチっと走った電流のような感覚が、まだ痛いほど肌に残っている。
「……静電気?」
「今、バチっとしたから……」
「確かに痛いほどの衝撃だったな」
僕は何度も自分の手を見た。まだ指先から痺れるような感覚が残っている。
「何を食べますか?」
「敬語で無くて構わない。俺のおすすめは、この辺りだな」
「では、適当にそれを」
頷きながら僕は店主を見た。店主は愛想笑いを浮かべている。
その後は料理が届くまでの間、ポツリポツリと話しかけられて、僕もまた答えた。
「恋人はいるのか?」
「いないですけど」
「そうか。俺もいない」
「へぇ」
あまり興味が無かった僕は、フォークを動かしつつ、適当に聞き流していた。
ラピス様は今頃何をしているだろうか。
何時まで飲んでいれば、命令を守った事になるだろうか。
ずっとそんな事を考えていた。
現在は、十八時四十分を過ぎた所だ。一時間半程度、時間が流れた。もう十分だろうか。僕は、呼び捨てるようになったガイスを見た。
「そろそろ帰ろうかと」
「――もう少し一緒にいたい」
僕は正直困ってしまった。僕と話していても、面白味など無いはずなのだ。適当に相槌をうっているだけなのだから。
「……明日も仕事ですので」
「そうか。では、送らせてくれ」
「結構です。道は覚えたから、一人で戻れます」
僕がそう言って立ち上がると、ガイスもまた立ち上がった。
「送る」
「……はぁ」
曖昧に僕は頷き、財布を取り出した。しかしそれとほぼ同時に、ガイスが言った。
「つけておいてくれ」
店主が頷いている。
僕は慌てて首を振った。
「僕が出します」
「良い。気にしないでくれ。誘ったのは俺だ」
「……」
そういうものなのだろうか? 悩んでいたが店主も頷いている上、ガイスが入口に向かって歩きだしたので、僕は追いかける事にした。
冬の夜風が冷たい。
「レイ」
「はい?」
「その……また会ってもらえないか?」
「機会があれば」
「機会を作ってもらえないか?」
「?」
「次の休みはいつだ?」
「……僕には、これといった休みが無いので、お約束出来ません」
「断り文句か?」
「そうとって頂いても結構ですが、事実です」
歩きながら僕が述べると、ガイスがこちらをチラリと見た。そしてどこか悲痛そうな面持ちに変わった。
「……そうか」
「送って頂き有難うございました」
僕はそう告げて、その場でガイスと別れた。