【十一】婚約準備
その後すぐに、別室で俺は、宰相閣下立ち会いの元、婚約証明書類にサインする事になった。ここから逃れるって、どう考えても無理だ。謁見の間を出て、宰相閣下の後ろを俺は歩いた。シュトルフは俺の一歩前にいる。
「式の準備について考えなければならんな」
「宰相閣下、まず雑務としてのいくつかの項目は、既に検討済みです」
「シュトルフ卿、それは、具体的には?」
宰相閣下がシュトルフへと視線を向けた。シュトルフはいつになく柔和な笑みを、上辺に浮かべている。作り笑いだというのは、従兄弟であるからか、俺にもよく分かった。
「まず『結婚式の食事について』『衣装について』『招待状の手配について』は既に事前準備をほぼ終えているため心配は不要です」
「事実か? 非常に助かる」
「ええ。ですので、あとは国交上での招待客リストが必要だと考えられます」
「そちらの手配に関しては、こちらとも打ち合わせを――」
宰相閣下が満面の笑みで、歩きながら指折り数えて招待客の例を挙げている。
それにしても、シュトルフは準備が良すぎる。
「多忙になる事だけを危惧したが、シュトルフ卿がお相手ならば、その悩みも回避された」
「お任せ下さい」
シュトルフがニコリと笑った後、俺へと振り返った。そしてしらっとした顔をした後、またしてもしてやったり顔で笑った。こいつ、そんなに俺と結婚したいのか? いつからだ?
「シュトルフは……一体いつから俺の事が好きだったんだ?」
思わず俺は口走った。するとシュトルフが硬直して立ち止まった。宰相閣下の表情も自然なものへと変化した。宰相閣下は不思議そうな色を目に宿し、シュトルフに向ける。
「それは――……二人きりの時に、直接伝える事とします」
シュトルフは俯いたままで、少しばかり声を固くした。すると宰相閣下が吹き出した。
「確かに我輩も惚気を聞いている時間的な余裕は無い。落ち着いた時に、そういった話題は聞きたいものだ。何せこれから忙しくなるのだからな」
完全に躱された俺は、『惚気』という単語に頭痛がした。
きっと周囲は現在、俺がシュトルフにベタ惚れだと信じている。だが実際は、俺の認識が著しく間違っていなければ、逆だ。しかもシュトルフ本人は、俺がシュトルフを好きでない事を理解しているのに、結婚すると言っている。
だが……これは、見方を変えてみると、結婚後に気を抜いて断罪されるコースは残っていないのだろうか? 元々俺は、シュトルフから、断罪する力を削ぐために、嘘を放ったわけだ。俺の事を好きだという事は、優しくしてくれるのだろうか?
「シュトルフは、二人きりの時、俺に優しくしてくれるのか?」
「な」
俺が小声で問うと、シュトルフがポカンとしたような顔をした。それから頭を抱えるように手で髪に触れた。
「俺に優しくされたいのか?」
「ああ」
素直に俺は頷いた。冷たくされて、断罪されたら困る。シュトルフは俺を見ると唇を震わせた後、顔を背けて目を閉じた。
「それも、二人の時にな」
「……断言してくれ」
そんなやりとりをした後、俺達は宰相閣下の執務室横の部屋で、婚約証明書類にサインをした。これで俺とシュトルフは、正式に婚約者となってしまった。結婚式は、急であるが三ヶ月後という事になった。
現在は初春。夏の一歩手前くらいの頃に、俺達は式を挙げる。
そして俺は、アクアゲート王族ではなくツァイアー公爵家の人間となるのか……。
前向きに考えようと自分自身に念じながら、俺は書類をじっと見た。我ながら、俺の文字は上手い。王族には、文字の家庭教師もつく。なお、高位貴族は皆が文字を習うので、シュトルフも字は上手い。二人の連名という形で、双方用及び王宮保管用の三通の書類を作成した。なんだかまだ、全然実感がわかない。
「お二人は、昼食はどうする?」
宰相閣下に声をかけられて、俺は我に返った。どう、とは? 俺は自分の部屋でいつも通りに食べるものだと思っていた。
「折角相思相愛の二人が揃っているのだし、二人で楽しんではどうだ?」
「え」
優しく温かい気遣いなのかもしれないが、俺の頬は完全に引きつった。恐る恐るシュトルフを見ると、シュトルフは思案するように僅かに瞳を揺らした後、静かに頷いた。
「ご厚意感謝致します。クラウス殿下、どうされますか?」
「えっ……っと、そ、そ、うだな……」
「俺ばかりが決めてしまったので、打ち合わせしたい事柄や再検討したい事も沢山あるので、お時間を頂けるのであれば是非こちらとしては、共に昼食を」
「あ、ああ。じゃあ、俺の部屋で、二人で食べるか?」
急な来客に備えて、王宮の厨房には用意が常にある。俺の提案に対し、シュトルフが小さく首を動かした。
「本日はご公務が無いご様子だが?」
「ああ、無いぞ」
本来であれば立太子するはずだったので、今頃はその準備に追われていたのだろうが、それは白紙となったので、俺に待っている公務のほとんどは以後、結婚式準備となる。
「急ではあるが、今後暮らす家も見てもらいたいし希望も聞きたいから、ツァイアー公爵家で食べないか? クラウス殿下に、当家のシェフも紹介したい」
「そ、そうか。じゃあそうするか?」
俺が何度か頷くと、シュトルフが細く長く吐息してから、宰相閣下を見た。
「クラウス殿下をお連れ致しても?」
「婚約者同士の逢瀬を、理由なく邪魔するほど狭量ではない。好きにしろ」
宰相閣下はいつになく優しい顔をしていた。
こうして、俺は急遽、ツァイアー公爵家に行く事となったのである。