【九】花が咲く庭@
「キルト……キルト?」
「ん……」
気づくと僕は、眠っていたようだった。ゆっくりと瞼を開けると、隣でゼルスが笑っていた。彼の肩へと寄りかかり、僕はうとうとしていたらしい。
「おはよう、キルト」
ゼルスはそう言うと、僕の肩を抱き寄せた。そして頬に口づけた。ごく自然な動作だったから、僕はぼんやりしたまま、その唇の感触を受け入れていた。
「王宮に着いた。降りよう」
「う、うん」
その言葉に一気に覚醒して、僕は目を開けた。ゼルスは僕の手を優しく握ると、馬車から降りた。屈んでついていくと、大勢の騎士達が並ぶ橋の先に、馬車が停車しているのだと分かった。騎士の衣服は、本に描かれていた挿絵にそっくりだった。
地に降りた僕は、腰をゼルスに支えられながら、空を見上げた。先程とは月の角度が少し違う。けれど沢山の星が煌めいているのは同じだ。思いっきり空気を吸い込んでみる。室内とは違う冷たい感覚がする。深呼吸を、こんなにも意図して行うのは初めてだ。
外、だ。
改めてそう考えていると、ゼルスが僕の手を優しく握った。
「行こう」
「……うん」
「早く君をみんなに紹介したいけど、謁見は明日だ。襲撃があったばかりだからな。今日はゆっくりと休んだ方が良い」
「有難う」
僕が小さく頷くと、微笑してからゼルスが歩き始めた。手を繋いだまま、僕もついて行く。その後、王宮の中へと促された。白亜の床には緋色の絨毯が敷かれていて、所々に巨大な魔導灯がついている。等間隔に彫像や絵画が並んでいた。僕は階段を連れられて登り、三階へと導かれた。その奥にある一室の前に、王宮の侍従がいて、僕達を前にすると腰を深く折ってから、扉を開けてくれた。ゼルスが鍵を受け取っていた。
「今日はここで休んでくれ」
中に入ると、テーブルの上に、僕の鞄が置かれていた。持ってきてくれているのだと、知らなかった。テディ・ベアを抱きしめたまま中へと進み、僕はテーブルを見る。巨大な部屋で、僕の塔の部屋の、リビングと寝室を合わせたのと同じくらい大きな部屋に通された。そこから複数の部屋に繋がっていて、ゼルスが手をかけた扉の向こうに寝台が見えた。その部屋だけでも、やはり広い。
「浴室は向こう。魔導具で常に湯は沸かしてある。トイレはその隣。寝室はここで――」
ゼルスが一つ一つ丁寧に説明してくれたが、僕は見て覚える事で精一杯だった。
「今日はもう休むか?」
「うん……休みたい」
「そうか。疲れただろうからな」
テディ・ベアを抱きしめている僕に歩み寄ると、ゼルスが穏やかに僕を抱きしめた。目を伏せ、僕はその感覚に浸る。優しいのに力強い腕の感触に、僕は思わず両頬を持ち上げた。
「みんな、無事だったんだよね?」
「――ああ。何も心配する事は無い」
「本当に良かった……」
僕がそう伝えると、僕の額にゼルスが己の額を押しつけた。
「そうだな。そして、ここはどこよりも安全だ。もう何も心配はいらない」
ゼルスは言い聞かせるようにそう述べると、僕の体に触れ、寝室へと促してくれた。ついていき、僕は枕元にテディ・ベアを下ろした。そして静かにベッドに座る。そしてまじまじと、正面に立つゼルスを見上げた。
「ゼルスはゼルスのお部屋で寝るの?」
「ん? ああ、そうしようと思っているけどな。どうして? ……怖いか? 慣れない場所は」
「うん。怖い……」
正直に答えると、そんな僕を見て、ゼルスが照れくさそうに笑った。
「俺のそばは、怖くないか?」
「うん。ゼルスがいてくれたら怖くないよ」
「――今は、そうだろうな。が、今後の夜を俺は保証できない。今だって理性が焼き切れそうになってるんだ。これでも自重しているんだぞ?」
「どういう事?」
「まずは、正式にプロポーズしてから……だな。ああ、耐えろ、俺」
「?」
ゼルスが何を言いたいのか、僕はよく分からなかった。その時、彼が両手で僕の頬へと触れた。そしてじっと覗き込まれる。
「俺はキルトを守りたい。心も、体もな。だから今夜、一緒に眠る事を許してもらえるか? 誓って何もしない」
「うん? 僕は……これまで誰かと一緒に眠った事は一度も無いけど、ここに一人でいるよりは、ゼルスがいてくれた方が安心できるよ」
実際、馬車の中でも隣にある体温が心地良すぎて、僕は睡魔に飲まれたのだ。
ゼルスと一緒にいると、漂ってくる爽快な香りも相まって、僕の体からは力が抜けるみたいだ。
僕は無意識に、ゼルスの腕の袖に触れた。その布を僕が掴むと、ゼルスが目を丸くして息を呑んだ。
「そばにいて?」
「キルトの願いは全て叶えたいから、困ってしまうな。ああ……俺もそばにいたいよ。では、今夜はここに泊まると近衛に話してくる。待っていてくれ」
ゼルスはそう言って僕の額に唇で触れると、一度部屋から出て行った。僕は寝台の上に上がって、テディ・ベアを見据える。この子も、無事で良かった。ずっと一緒にいてくれた。
「……持ってろって、ベリアルが言ったんだ」
もしも暗闇の中、クローゼットに一人だったならば、僕は恐怖で今以上に震えていたと思う。血や硝煙の気配を思い出す。ゼルスは、案内人も無事だと話していたし、また会えるようではあるから、今は無事を祈るしか無いだろう。
「キルト」
そこへゼルスが戻ってきた。そしてベッドサイドに座ると、横になっていた僕の髪を撫でた。僕はテディ・ベアから視線をゼルスに向け、小さく頷く。
「これからは、一緒にいられるんでしょう?」
「ああ、勿論だ」
ゼルスは頷くと、僕の隣で横になった。そして僕を片腕で抱き寄せる。腕枕される形になった僕は、おずおずと片手をゼルスの胸板に載せた。
「キルト。まだしっかりと言ってなかったように思う」
「何を?」
「愛している、と。直接触れてからは、一度もな。ガラスが俺には、遠い隔たりに思えていた。だがこれからは、存分に言える」
「……ゼルス」
その声を聞いたら、僕の胸の中に温かい何かが満ちあふれてきた。
「好きだよ、キルト。本当に愛しているんだ。人を好きになるというのは、こういう感覚なんだな」
「僕も……ゼルスが好きだよ」
「もっと言ってくれ」
「好き」
「足りないな」
ゼルスはクスクスと笑いながらそう言って、僕の頬に唇を落とした。僕はその感触が照れくさくなって、目を閉じる。大きな窓がある寝室だったから、目を開ければいつでも夜の表情を見て取る事が出来た。
僕にとっての新しい日々の開始は、このようにして訪れたのだった。直後、僕は睡魔に飲み込まれた。