【十】花が咲く庭A









 次に僕が目を覚ましたのは、瞼越しに白い光が顔に触れたのを実感した時の事だった。うっすらと目を開けると、白いレースのカーテンが引かれている窓から、陽光が差し込んできていた。

「おはよう、キルト。目が覚めたか?」
「……ゼルス」

 その声にまだぼんやりとしている視線を向ければ、ゼルスが優しい顔で笑っていた。僕の髪を撫でている。

「起こしてしまったか?」
「ううん。朝が来たんだね。魔導灯の白とは、全然違う」
「ああ。俺にとってはこちらの方が自然だから、いちいち意識した事は無かったが――朝だよ。これからは毎日来る」
「うん。ゼルスは起きていたの?」
「つい先程な。それで、腕の中にいるキルトを見ていた」

 僕を抱きしめるように腕枕をしていたゼルスが、不意に僕の頬に口づけた。その柔らかな感触に、僕の胸がツキンと疼いた。僕はゼルスにキスをされると嬉しいみたいだ。

「あちらの部屋に、既に朝食は運んできてある。先程侍従達が用意をしていく気配がした。一緒に食べよう」

 考えてみれば、僕は昨夜は食事をしていない。いつも規則正しく食べていたからなのか、実感してみれば非常に空腹だった。僕が頷くと、ゼルスが微笑し、上半身を起こした。僕もそれに合わせて起き上がる。

「着替えをしなきゃ」
「衣類は今日にでも商人を呼ぶから、新しく仕立てよう。今日の分は持参した品を着てくれ。それらも、いつもよく似合っていた」
「そう? 塔から渡されていたんだよ」
「管理者が選んでいたようだな。今後は俺にも選ばせてくれ。俺が贈った服を身につけて欲しい」

 ゼルスが苦笑を零した。小さく頷いて、僕は隣室へと行き、鞄に手をかける。中から真新しいシャツを取りだした。その場で着替えようとすると、ゼルスが慌てた顔をした。

「ま、待て。着替えは浴室脇の脱衣所で」
「どうして?」
「俺の理性を試すつもりか?」
「理性? 僕はいつもお部屋で着替えていたけど……?」
「いつもの部屋には、俺がいなかっただろう? 今後は無防備にしすぎてはダメだ」

 よく分からなかったが、僕はゼルスのお話はいつも勉強になると思っていたから、これもまた僕が知らない規則なのかもしれないと考えて、頷く事にした。僕が着替えに行く姿を、心なしか頬を染めて、ゼルスが見送っていた。

 着替え終わってから、僕は部屋へと戻った。すると侍従の人が二人、室内に入ってきていた。ゼルスはソファに座っていて、テーブルの上には、先程も料理が並んでいたのだが、それらから湯気が出ていた。冷めていたように見えたし、塔では基本的に冷たくなり始めた料理しか食べた事が無かったから、僕は温かそうなスープを見て、目を丸くした。

 大きなお皿があって、そこには見た事の無い果物が並んでいる。とても甘い匂いがする。

「これは、果物でしょう?」
「ああ。魔力量を高める魔法植物の果物だ。特にキルトのように強い魔力の持ち主は、多く摂取した方が、魔力が安定する。そうでなくとも、この:桃色梨(ももいろなし)は美味しいぞ」
「このスープはポタージュでしょう?」
「ああ。ジャガイモのポタージュだ」
「温かいんだね」
「? スープは、冷製の品を除けば、大体温かいだろう?」

 僕の普通とゼルスの普通は、やっぱり大分違うようだ。この日僕は、人生で初めて、フワフワのパンを食べた。いつもの硬く質素なパンとは全然違った。何も塗らなくても、パン自体からバターの風味がした。

「この後は、謁見に行こう。俺の家族に会って欲しい」
「謁見……」
「父である国王陛下は、いつも朝の九時から謁見の間にいるんだ。今日は十時に、約束を取り付けてある。あと十五分ほどだ。移動があるから、そろそろ出よう」

 ゼルスは何でもない事のように述べたが、僕は少し緊張した。国王陛下というのは、このスヴェーリア王国で、最も偉い人の事だ。僕のような欠陥品……ではないのかもしれないが、そう言われて育ってきたΩが会うには、恐れ多いように思うのだ。

「怖い人?」
「俺が一緒にいるんだから、何も恐れる事は無い。父上はなぁ……厳格な所はあるが、根は優しいぞ。特に母上の前では終始顔を緩ませているしな」

 小さく吹き出すようにゼルスが笑ったのを見て、僕は曖昧に頷いた。既に僕には両親の記憶がほとんど無いから、照れくさそうに語るゼルスを見ていると、心が温かくなってくる。

 こうして食後、僕達は部屋を出た。緋色の絨毯の上を、僕達は歩く。僕の腰に触れ、促すようにしながら、ゆっくりとした歩幅でゼルスは歩いている。僕の歩幅に合わせてくれているのだと分かった。僕はもう少し速く歩いた方が良いだろうか?

 だが、栄養剤を飲んで筋肉を維持してきたとはいえ、僕は長距離を歩いた事がほとんどない。だから歩くだけでも、とても必死だった。速度にまで気を回す余裕は正直無い。

「ごめんなさい」
「ん? どうしたんだ、キルト」
「僕、遅い……歩くのが」
「気にするな。自分のペースが一番だ。もしかして、歩くのが辛いか?」
「ううん。歩くのは楽しいよ。僕は、ずっと歩いてみたかったんだ」
「そうか。ならば少しずつ覚えていけば良い。無理にこれまでの生活を変える必要は無いが、やりたい事をこれからは自由に行って良いからな。俺がついてるから」

 心強い気持ちになりながら、僕は小さく頷いた。その後は階段を降りて、一階の回廊を抜けてから、謁見の間へと向かった。豪奢な飴色の扉の前には、近衛騎士らしき人々が控えていて、扉を開けてくれた。同じ格好の騎士が一人、僕とゼルスが部屋を出てからも、ずっと後ろをついて歩いていたのを、僕は知っている。

 中へと入ると、黒地に金縁の細い絨毯が、最奥の台座の上まで伸びていて、三段ある階段の上に玉座があった。そこに、壮年の国王陛下が座っていた。ゼルスとよく似た暗い緑色の瞳をしていて、どこか顔立ちも似ている。

 ゼルスは僕の手を握ると、真っ直ぐに正面まで歩き、台座の下で深く頭を垂れた。僕も慌ててそれに倣う。

「面を上げよ」
「おはようございます、父上」
「ああ。その者がキルトか?」
「はい。キルト、ご挨拶を」

 慌てて頭を上げ、僕はぎこちなく頷いた。

「キルトです。その……はじめまして」

 僕は言葉を知らない己を呪った。どう挨拶をすれば良いのか分からない。だからゼルスと繋いだ手に、ギュッと力を込めた。

「ゼルスの父だ。今後はキルトの義父ともなる者だ。私達は家族となるのだから、そう硬くなるな。所で、ゼルス。既に誓約の百合は渡したのか?」
「父上に婚約と結婚の許しを貰ってからと考えていました」
「私の許しが無ければ、手放せるのか? キルトを」
「無理です。そうなれば、俺は王家から出ます」
「そうか。無論、認めよう。ゼルスが初めて選んだ相手であるからな。運命の番だと明らかならば、誰にも止める権利などありはしない」

 二人のやりとりを聞きながら、僕は黙って立っていた。