【一】お藍の端緒





 慶帳五年。
 |徳川時康《とくがわときやす》が|栄戸幕府《えどばくふ》を開き、天下は少し落ち着きを見せ始めた。
 源和九年になると、|徳川時光《とくがわときみつ》が将軍となる。

 将軍をはじめ、多くの有職の人物は、この世界では基本的にアルファの男性が担っている。

 この世界には、男女の性別の他に、三つの性別があり、それはアルファ・ベータ・オメガだ。なお、アルファの子供はオメガしか産むことが出来ない。古来は、何故なのか男を孕ませられる男と、男の子を産める男という認識であったが、それは|緒蘭陀国《おらんだ》から流入した知識により、現在では変化したのである。

 また、優秀な男性アルファの子は、男性のオメガでなければ、孕むことが出来ないと言われている。そのため、栄戸城の大奥には、多数の男性オメガが集められている。巷では、美男オメガが三千人いると囁かれている。そして将軍であるアルファの男性に侍っているのだとか。人々の関心は尽きない様子だ。

 これは、そんな大奥のお話である。


 ◆◇◆


 お|藍《らん》は、本日もぼんやりと茶屋の店番をしていた。現在お藍は、麦湯とお団子を出す茶屋で、店番として働いている。茶色い髪が艶やかな青年で、今年で二十歳。背丈は、百七十五センチほどだ。センチという概念は、緒蘭陀国から入ってきた知識で、蘭学の中の一種であり、民衆にも広く広まっている。

「はぁ……」

 思わずため息を零したのは、客の食べるお団子があまりにも美味しそうだったからだ。
 貧乏なお藍は、一日に一食口に出来ればいい方で、控えめに言っても痩身だ。
 綺麗なアーモンド型――アーモンドというのも輸入品だ――の目を眇めているが、元の美貌は間違いなく、髪と同色で茶色の睫毛も繊細だ。とても整った顔立ちをしているので、お藍はそれなりに客達には人気であるが、オメガであるのに縁談は来ない。

 男性のオメガは優秀なアルファの子を産むとして、非常に人気が高い。
 そもそも男性のオメガの数自体も少数だ。
 しかしお藍に縁談が来ないことには理由があって、それは彼の父が、禁猟とされている鶴を射殺してしまったからだ。罪人の子、その噂がどこへ行ってもつきまとっている。

 そのため、万が一発情期が訪れても、相手にしてくれるアルファのあてもなく、同時にオメガの場合、有能なアルファを誘惑すると流刑なので、こちらも輸入品の抑制剤を寺から貰って常用する毎日だ。発情期は三ヶ月に一度訪れる。また、アルファにうなじを噛まれた場合も誘発される。一応多くのオメガがそうしているように、お藍もまた首を保護し噛まれないようにする特殊な紐を巻いている。この柄は、最近の栄戸では青地に鶯の刺繍の品が人気で、これは欲してお藍も購入した。

 ――お腹いっぱい食べたいなぁ。

 半ば諦観しながら、お藍がそう考えていた時のことだった。

「おや」

 不意に流麗な声音が響いてきた。お客様だと気づいて、お藍は慌てて顔を上げる。
 そして硬直してしまった。
 そこには明らかに、高貴な身分は疑えない羽織姿の麗人が立っていた。少々つり目をしている男性で、出で立ちからオメガだと分かる。男性でもオメガの場合は、袴を着用しないことが多いからだ。

「い、いらっしゃいませ……」
「うん。皆の者、先に戻るがよい。私は、少々ここで休息していくゆえ」

 麗人が述べると、多数いた豪華な着物姿のオメガ一行が、一礼して道を進み始めた。お藍はそれが、すぐに浅草詣の帰りの大奥の人々だと気がついた。時々この店の前を通るので、知識だけは持っている。お藍は緊張しながら、護衛らしき武士と二人、茶屋の軒先に座った麗人を見守る。

「豆大福を一つ頂こうか」
「は、はい」

 緊張しながら、何度もこくこくとお藍は頷く。麗人はその間、ずっと微笑していた。年齢不詳のその人物は、老人にも若人にも見える。ただ貫禄があって、老成した気配を放っていた。

 慌ててお藍が豆大福を用意し、綺麗な顔立ちの青年の前に置くと、彼がにこやかに言った。

「そなた、名前は?」
「お藍と申します」
「そうか。その首紐、オメガで間違いはないな?」
「え、ええ……僕はオメガです」
「実によい。私は、大奥総取り締まりの|秋日局《あきひのつぼね》と申す者」
「――え?」

 大奥総取り締まりという言葉に、お藍は呆気にとられた。それが大奥で一番偉い人らしいというのは、瓦版で目にしたことがある。

「そなたを取り立てたい。奥勤めをせぬか?」
「え、え? 僕がですか?」
「左様。そなたのように麗しければ、時光様もお喜びになるであろう」

 お藍は唖然とした。
 大奥に上がることは、めったに叶うことではないという知識がある。
 また大奥では、とても豪勢な生活が送れるというが、そこまで行かずとも、一日三度の食事は保証されていると耳にしたことがあった。今、母も没し、一人きりで日々が精一杯のお藍としては、非常に魅力的な誘いではあった。だが――……。

「……僕の父は、罪人ですので……それに養子先のあてもなく、奥勤めをするのは難しいと思います」

 どうせ調べれば分かることである。正直にお藍は伝えた。

「別に構わぬ。そのようなこと、実に些末」

 しかし秋日局は、優雅に笑うだけだった。

「こちらで身分の保障先は手配しておく。明日より、そなたは武家の子息。栄戸城に、朝十時に参れ」

 十二時間という概念も、蘭学由来のもので、広く定着している。

「さて、豆大福はそなたが食べて構わぬ。私はもう行く。明日、待っているぞ」

 秋日局はそう言うと立ち上がった。そして武士と共に、ゆっくりと歩き去った。
 その姿を呆然とお藍は見送る。
 まだこの時は、何が起きたのか、よく分かっていなかった。