【二】お藍、大奥へ
それから三十分ほど、お藍は夢だったのだろうかと考えながら、店番を続けていた。
駕籠が停まったのは、その時のことである。
「お藍様はおられますか!?」
降りてきた老齢の武士が、慌てたようにそう声をあげたものだから、お藍はビクリとした。硬直していると、その武士が深く頭を下げた。
「私は|朝生《あそう》家からの遣いで参りました。本日より、お藍様は朝生家のご子息!」
「……?」
狼狽えたお藍が呆然としていると、そこにこれまで外出していた店主の|藤吉《ふじきち》が駆け足で帰ってきた。そして武士を見ると、慌てたように立ち止まり、深々とお辞儀をする。
「お藍。大奥に上がるそうだね。いやぁ……」
藤吉の心なしか引きつったような声音に、武士が大きく頷いた。
「ええ、ええ。秋日局様のたってのご希望とのこと!」
「さすが、お目が高い。いやぁ私も、いつかこの子はやってくれると思っていたのですよ、ハハハハハ」
そこから二人が探り合うような眼差しで世間話を始めたのを、お藍は唖然としたまま見守っていた。
「とにかく準備がございますゆえ、お藍様はどうぞ、駕籠へ」
「お藍。家の荷物はこちらで処分しておく。特に持っていくような品は無いだろう?」
「えっ……」
会話を終えた様子の二人にそれぞれ顔を向けられて、お藍は戸惑った。
実際、現在の家は藤吉に借りているものであり、そこに家財は無い。実家とも父の件があったから、縁が切れるようにと、なにも持たされてはいない。母の遺品は、生活苦により、既に質屋に入れてしまった。天涯孤独、それがまさに、お藍を表す言葉である。
「……はい」
おずおずと勢いに呑まれたこともありお藍が頷くと、二人は笑顔になった。
「では、参りましょうか」
武士にそう告げられ、お藍はその場で駕籠に促される。こんな高級な籠に乗ったこと自体が無いため、恐る恐る中に入った。そして引きつった顔で笑ったままの藤吉に見送られ、お藍は半ば拉致されるかのように、連れて行かれることとなった。
それから少しして、到着したのは|古雅《こが》藩の藩主である朝生|直正《なおまさ》の栄戸邸宅だった。ぎこちなく駕籠を降りて中に通されると、恭しく頭を下げた、本来であれば自分よりも立場も身分も上だろう使用人達に着替えをさせられた。
「……」
姿見を見れば、そこには馬子にも衣装とでもいうほかない、武家の令息らしきオメガの姿がある。服が違うだけで、こんなにも変わるのかと、正直お藍は驚いた。しかしそれ以上に、纏っていることも恐れ多い上、まだ現実感が欠如しているので、言葉が何も出て来ない。ただ緩慢に瞬きをしながら、鏡の中の己を見ていた。
「よくぞ参った」
それから連れて行かれた朝生直正の前で、必死で頭を下げていると、柔らかな声がかかった。
「面を上げよ。以後、そなたは儂の養子となるのだからな」
おずおずと顔を上げたお藍は、目元の皺が深い直正を見た。
「明日からの奥勤め、不便なきようにこちらで取り計らう。なにも心配はいらない」
「……は、はい。あの、はじめまして、その……」
「――くれぐれも、朝生の名を貶めぬようにな。さすれば、御右筆の者が、病死と記す日が来る」
喉で笑った直正の黒い瞳は、全く笑ってはいなかった。
ゾクリとして、背筋が粟立ったお藍は、思わず両腕で体を抱える。
すると不意に、直正が微笑した。それで緊張感が解れた。一気に汗が出る。
「上様もきっとお気に召すだろう。なぁに、心配は無用。秋日局様のご慧眼は確かであるからな」
――その日、朝生家で振る舞われた食事は豪勢で、白米を食べたのは久しぶりのことだった。柔らかな布団も、人生において初めての経験だった。
翌朝、六時。
お藍は眠れぬ夜を過ごしていたため完全に寝不足であったが、使用人達にたたき起こされ、着付けられ、化粧を施された。そして気づけば駕籠に乗せられ、午前九時には栄戸城の前に到着していた。
そのまま大奥の中へと連れて行かれたお藍は、非常に高級感が漂う一室で、座るように促され、両手を前に突き、頭を下げていた。そのまま三十分ほどして、誰かが正面に座る気配がした。
「面を上げよ」
声で、昨日出会った秋日局だと分かり、怯えはあったもののお藍の緊張が少しだけほどけた。言われた通りにすると、やはり正面には秋日局の姿があった。
「よくぞ参った」
「は、はい……え、ええと……」
「ほう。朝生直正は挨拶を教えなかったか」
「っ」
「よい。責めているのではない。礼儀とは一朝一夕で身につくものではないからな。ただ……お|滿《まん》の方様にはやはり劣るな。いやよい、気を悪くしないで欲しい。どうしても、この大奥では比較がつきまとう。それは心するように」
微笑したままでつらつらとそう述べた秋日局は、それから傍らにあった金魚鉢を一瞥した。中には二匹の朱い金魚が入っていた。
「そなたを本日より、私の部屋子とする」
「部屋子……?」
「表向きは私の世話をする者ということだ。よいか、まずは、『ありがたき幸せ』とでも申せ。教養の講義は必須だな」
やれやれというように、秋日局が笑った。曖昧にお藍も笑い返してみる。
愛想笑いは店番で染みついたものだ。
すると、秋日局がまじまじとそんなお藍を見た。
「ゆくゆくは、上様の側室にと考えておる。精進するように」
それを耳にし、お藍は何を言えばいいのか分からなくなった。
「本日より、学を身につけよ」
こうして、お藍の大奥での日々が急展開で幕を開けた。