【序】雪の降らない街
――綿雪が舞い降りてくる季節だ。
黒髪の青年の頭に、ふわりと白い雪がのる。だがそれは、彼が一歩、|会津深雪市《あいづみゆきし》に足を踏みいれると、不自然なほど唐突に降り止んだ。軽く頭を振り、黒いコートの肩を、同色の手袋で、青年は払う。すると雪が落ち、アスファルトに触れてすぐ、溶けて消えた。
彼は切れ長の黒い瞳でそれを一瞥してから、静かに歩いて行く。ブーツの色も、また黒だ。長身の青年は、歩道を進むと少しして、右手にあったフラワーショップの前で足を止める。
「いらっしゃいませー!」
自動ドアが開いてすぐ、朗らかな笑みの女性の店員が声を出した。青年を見ると、柔らかな表情になる。それは、彼がこの店に、たびたび立ち寄る常連だからでもあるし、整った造形に、時折見惚れるからでもある。
ガラスケースの中を見ていた青年は、反して無表情で、無機質な目をしている。
見る者に、冷酷な印象を与える。
だが、それから視線を揺らして、薄い青の薔薇の花弁を目にすると、少しだけ青年の口元が綻び、その瞳には優しい色が差した。彼は店員の女性に向かい振り返ると、片手を伸ばして、薔薇を示す。
「この青い薔薇を二十本ほど包んでくれないか?」
「畏まりました! プレゼント用ですか?」
「いいや、そういうわけではない」
「ラッピングは致しましょうか?」
「すぐに花瓶に生けるから、不要だ」
淡々とした声で、青年が答えた。女性店員は頷くと、ガラスケースに歩みより、その扉を開けて、示された青い薔薇を頼まれた数だけ手に取った。それから薔薇をまとめた後、レジの前に立つ。青年は支払いを終えると、青い薔薇の花束を手に、店から出た。
この街は、白く乾いている。
雪が降っている前後左右の街とは異なり、空は確かに白い雲で圧迫されているというのに、気象条件を無視したかのように、雪が降らない。時折、雨は降るが、それも不規則だ。街の住人は、天変地異だと困惑している。テレビの天気予報にも、この街だけは曇りか晴れの印しかでないけれど、テレビ局も県も国も『問題ない』としているので、不安はあっても受け入れている住人が大半だ。名前に反して雪が降ら無い事を、『当然だ』とする者が多いのである。
青年は、そんな乾いた街の歩道を、ゆっくりと進んでいく。
そして暫く歩いた時、正面に立つ、全面ガラス張りの側部が斜めに張り出している、ハイセンスな深雪センタービルを見上げた。青に近く見えるガラスは、鏡のように街並みを映している。中には、各階ごとに様々な施設が入っている。それから青年は、再び正面に向き直った。その時のことである。
――まるで古のブラウン管のテレビにノイズが走った時のように、青年の正面の風景が、一瞬だけ亀裂が入ったかのように、ブレた。
片瞼を細くして、青年は立ち止まる。
そこには、道行く人もいれば、車道を走る軽自動車もいる。
いくつもの建物が並び、多数の人の姿がある。
だが、誰もがいつも通りの顔をしており、なにかが起こった気配など、微塵もない。
青年は暫くの間、薔薇の花束を左手に持ち、腕をおろしながら、正面を見据えていた。
◆◇◆
簡素な椅子から身を乗り出して、ガイは正面のモニターを凝視していた。その表情は険しく、眉間には皺が刻まれている。寝ないでモニタリングをしていたせいで、無精ひげが生えている。それさえなければ、そして普段のような笑顔を浮かべていたならば、三十六歳という実年齢よりも若く見えるのだが、現在の眼差しやその風貌は、彼を年相応に見せている。
――状況は、お世辞にも芳しくない。
今、モニターの向こうでは、この地域、もっというならば会津深雪市の正義の味方であるハルキが戦っている。この国中に、今、|異邦神《いほうじん》を倒すために、正義の味方とそれを支援する者がいる。これは一般の国民には知らされていない現実だ。多くの場合、異常気象として片付けられる気候の変化が、それらの場所には見られやすいが、国を挙げてそれらは隠蔽されている。
異邦神というのは、天空にある|闇青国《あんしょうこく》ドゥルンケルハイトから地上に降りてきた者達のアジトより、放たれている。その者達は、いわゆる悪の組織だ。それらは、日本中に存在する、霊脈の随所に施された封印を破壊し、そこに闇青国の力を流して、日本を制圧することを目的としている。霊脈に闇青国で生成した|粒輝力《りゅうきりょく》の青闇粒子を大量に流し込むことで、日本列島の属性をドゥルンケルハイトと同一に変化させることが目的だ。それを達成すれば、日本列島は目には見えない部分で、ドゥルンケルハイトの一部という扱いになる。各大陸には、それが空の上であっても海の上であっても、それぞれの色があり、その色を変える事で、自国の属国などにすることが可能だ。
霊脈というのは、日本列島の大地に走っている、目には見えない水路のようなものだ。現在は、そこには、日本特有の色彩の力が流れている。その特に脆い場所には、色が変化してしまわないようにと、古から現在に至るまで、国の要人が、封印を施している。
その封印を破壊されれば、その綻びから、別の色の水が流れ込んでくるようなイメージで、霊脈を流れる力の色が変わってしまう。
さて、その色を変化させる粒輝力であるが、これは天空の国では誰もが持つ力である。地上の者から見ればある種の超能力のようなものだ。ただ、実際には、地上の人間の脳では多くの者が眠らせている能力を、天空の人々は解放している状態だといえる。地上の人間の脳には、使われていない部分が多々ある。その中のいくつかを、天空の人々は用いており、その結果、ある種の超能力じみた力を持っていて、それを粒輝力と呼んでいるのである。
それが天空の国である青闇国ドゥルンケルハイトや、今モニターを凝視しているガイが来た、|希聖国《きせいこく》ポラールシュテルン、また既に滅んだいくつかの天空の国においては、普通の存在であり、また各国の位置する大陸を天空に飛行させる動力源でもある。天空独自の科学技術も、多くの場合粒輝力を用いている。
そして異邦神を倒すために、この国の住民の中から、脳機能的に粒輝力を使用可能な者、先天的に天空の者と同じように、粒輝力を操れる地上の者を、正義の味方と位置づけて、悪の帝国であるドゥルンケルハイトに対抗するべく、希聖国は教育と指導・補助をする者を派遣している。その一人で、この会津深雪市を担当しているのが、ガイだ。
なぜドゥルンケルハイトが『悪』かといえば、それは勿論異邦神で結界を破壊しようとし、日本を制圧しようとしているからである。
ガイは紫色の瞳を次第に険しくしていく。形の良いアーモンド型の瞳の下には、薄らと赤い隈がある。真剣すぎる、気迫在る面持ちだ。その時、画面の向こうで、深雪センタービルが倒壊した。蟲型の異邦神が、蝗のような口を開けて、ビルの側面を喰い破った結果である。
――あと、十五分。
モニターの下部に表示されている数字を見て、ガイは唇を噛む。
実際に今、建造物が倒壊しているわけではない。
というのは、|粒輝域《りゅうきいき》が展開されているからだ。
粒輝域は|粒輝造成《りゅうきぞうせい》によって構築される、特殊なフィールドだ。指定した範囲の周囲を粒輝力が覆うことで、ある種の結界がそこに生じる。粒輝域の内部での死や負傷、街の破壊は、粒輝域から外に出たり、粒輝域が消失すると、無かったことになる。怪我は癒え、建物は何事も無かったかのようにそこに建っている状態に戻る。たとえば粒輝域の内部で、死んだり倒したりした場合は、青い小さな菱形の粒子になって消滅する。だが、死んだ場合は、粒輝域が解除された瞬間に、その死んだ場所に立っている形になる。ただ見た目は治るが、負傷した箇所には、暫くの間残存ダメージが残る上、死亡した場合は、数日は眠りから目覚めない。
即ち、粒輝域の内部で、人間は死はない。ただ、異邦神は、倒すと復活しない。代わりに、倒せなければ、街に|喚具化《かんぐか》されてしまう。普通の街に怪物が現れるような状態となる。粒輝力で生み出されている異邦神は、粒輝域内部でその力が消失してしまうと、元には戻らない。だが、人間が構築する粒輝域が消失した場合、堂々と通常の世界で活動可能となる。勿論、建物を壊すことが彼らの目的ではなく、霊脈の封印の破壊が主なのだが、時には建造物を攻撃することもあれば、住民に目撃されてしまう場合もある。
異邦神は、その時々で見た目を変える。蟲であったり、魚であったり。
ただし知性はもたない。
なお、異邦神が基本的には、街を攻撃しないのは、悪の帝国ドゥルンケルハイトが、制圧後に、街が破壊されている状態を望んでいないからだ。
さて――正義の味方や、天空からきた者だけが粒輝造成可能な、粒輝域であるが、これは実は、最長で一時間しかもたない。一時間を越えると、自動的に消失する。そのため、異邦神や、敵の悪の組織の者達との交戦は、一時間以内に終える必要がある。
その数字が、刻一刻と減っていくので、ガイの表情は非常に厳しい。
まだハルキは、倒し終えていない。
喚具化した自分の武器である、大きな剣を必死で揮っているが、蝗のような異邦神の脇腹に刺さって体液が呼び散ってはいるものの、まだ致命傷は与えていない。
喚具化というのは、粒輝力を用いて、自分専用の武器などを、粒輝域の中で生成する能力だ。粒輝域の中でしか、効果を発しないが、粒輝域の中では、非常に強い武器を用いることが可能になる。どんな武器かは、個々人により違う。ハルキの場合は、それが大きな剣だ。なお慣れると、自分の好きな武器を喚具化できる。
その時、無事にハルキが、異邦神の頭を切り落とした。
体液が緑色の滝のように飛び散っている。
ホッとしたように吐息したハルキが、大きな剣を地面に置いた。
それからすぐに、自分の意思で、ハルキは粒輝域を解除した。一時間経たずとも、己の意思でも解除可能なのである。
それを見て取り、ガイは深々と背中を背もたれに預けた。
椅子にもたれかかり、両腕を組む。
ヒヤヒヤさせられたが、正義の味方を育成している以上、あまり己が手を出すのは望ましくないと、ガイは考えている。長い脚を伸ばして、大きく息をし、気を抜いた。
粒輝域が解除されたので、今は深雪センタービルも元の通りに戻っている。
街行く人々は、皆平和そうだ。
それから、二十分ほどして、正義の味方達の本部である、深雪市役所の最上階に、ハルキが戻ってきた。
「やったよ、ガイ先生!」
満面の笑みのハルキの声に、立ち上がって、先程までの表情が嘘のように、快活に笑いながら、ガイが頷く。白衣を揺らしながら、彼はハルキに歩みよる。ハルキは174cmという別に低くはない身長なのだが、186cmのガイにはとても叶わない。博士でもあり、指導者でもあり――時に手本というか、ハルキでは本当にどうしようもない相手を簡単に倒してくれるガイは、ハルキから見ると良き先生だ。同時に粒輝力の研究者で、粒輝力の、空にあるそれぞれの国、日本、世界各国における人々の、脳機能の違い――ようするに粒輝力の違いなども調べている。
「本当によくやったな」
両頬を持ち上げて、口角を片側だけ動かしにやっと笑ったガイを、大学生のハルキは俗に言うイケオジだと思っている。
それからは、今回の異邦神についての報告を、ハルキからガイは受けた。
会津深雪市役所の最上階にある、正義の味方の本部――通称・スフィダンテには、明るいムードが漂った。
◆◇◆
「リオン様」
黒髪の青年が、闇青国ドゥルンケルハイトに戻ると、直属の部下のエリルが話しかけてきた。金にも銀にも見える髪色で、まだ少年という言葉が相応しいように思えるが、実際には二十七歳の青年……リオンとほとんど歳は変わらず、エリルは二十五歳だ。ただ、178cmのリオンからすると、164cmのエリルは小さく見える。エリルは、ちらりとリオンが持つ花束を見たが、何も言わなかった。そんな場合ではないから、だろう。
「本日放った異邦神が倒されました。また希聖国の息がかかった、正義の味方を名乗る現地人ハルキの仕業です」
「――そうか」
目を少しだけ眇め、リオンが頷く。その声は、感情が見えず、冷淡だ。
それからリオンは、少しの間エリルから報告を聞いた後、自分の私室へと戻った。この闇青国ドゥルンケルハイトの地上の拠点があるのは、深雪タワーの地下である。現在までには、希聖国とその息がかかった人間達、またこの現地の国の政府の、異邦神対策を行っていると述べる担当機関には、位置が露見していない。
私室は、その拠点の中にある、個々人の部屋で、仮眠用のベッドや簡素な机など、好みの品が置ける。リオンの好みの品は、しかしながら備え付けの家具を除外すると、窓際の花瓶のみだ。そこにリオンは、青い薔薇を生けた。そして、規定の制服に着替える。黒いハイネックコートのような軍服で、色は黒、ブーツと手袋は先程のままだ。ハイネック自体が口元まで隠すが、さらにその下に、同色のネックウォーマーを装着し、完全に口元まで覆っている。これは、毒ガスなどを対策するためで、さらに鼻まで覆うことも可能だ。
着替えてからすぐに自室を出て、今度は執務室へと向かう。リオンは、会津深雪市の拠点の上層部の一人だ。全国の拠点の中でも、リオンは闇青国の皇帝であるジーク・ドゥルンケルハイトの直属の部下であり、この国に来ている者の中で、非常に力があり、組織全体において立場が上の幹部だ。
リオンは、ジーク・ドゥルンケルハイト皇帝陛下に、忠誠を誓っている。
そもそも、希聖国ポラールシュテルンの人間達は、自分達を悪の組織だのと言うが、リオンはそうは思わない。
地上の現地人達は、人口爆発や飢餓、職に就けなかったり、就けても過重労働で自殺したり、中には戦争をしている国も在れば、政治家の汚職が激しい国もある。闇青国の目的は、自分達の国の考え方を、自分達の国の一部とすることで、広めることだ。最初は地球のひな形であるこの国、そして世界中を、闇青国にして、幸せな国を構築する――そのためには、全てを闇青国にする必要があるし、それはある種の制圧や征服・文化的侵略の側面はあるが、その方が、地上の現地の者達は、絶対に幸せになるだろう。全てを、こちらで導く、道標となる。そうすれば、地球は平和になるだろうと、リオンは考えている。そしてそれを提唱した皇帝陛下に心酔している。皇帝陛下の望みを、必ず実現する。
と――告げているし、上辺は少なくともそうだ。
本音を言えば、他に生きる道もやるべき事も無いだけだ。両親祖父母の死後、他に身寄りもなく、ずっと一人で生きてきた。一人になった十三歳の時、家と食事が与えられるからという理由で、皇帝陛下の皇宮の軍の募集に応募した。それが通ってからは、ずっと軍人として生きてきた。趣味もなく、自由もない。言われたことを、遂行する。訓練漬け、勉強漬けの毎日だった。その中には、料理や掃除の技能の習得などもあった。皇帝陛下が目をかけてくれるようになったのは、生え抜きのリオンが、優秀だったからだが、リオンから見れば、他にやること、できる事が無かっただけだ。それでも、皇帝陛下には感謝をしている。だから、その期待には応えたい。
また、希聖国ポラールシュテルンの人間は、『地上の者達は、その者の自主性に任せるべきだ』と唱えているが、要するにそれは、粒輝力を一部の者に与えることはあっても、根本的な技術協力はしたくない――天空の者の優位性を保ちたい、というようにも感じられる。だからあまり、リオンは彼らが好きではない。
執務室に入り、窓際の執務机に座る。
そしてリオンはふと思い立って、二段目の抽斗を開けた。そこには、父が遺した形見の懐中時計が入っている。リオンの両方の祖父母、両親は、|月冴国《つきさえこく》シュテルネンリヒトの人間だった。正確には、四人の祖父母が月冴国から闇青国へと行き、それぞれ母と父を設けたのだという。そしてその両親から生まれたのが、リオンだ。リオンは生粋の月冴国の人間だ。ただ、月冴国は、既に亡い。闇青国にいるのは、リオンのみだ。他の生存者は、希聖国に逃れたそうで、そちらには臨時政府があるという。他にもごく僅かに地上に逃れ者がいるという話もあるようだ。
月冴国は、疫病で滅んだ。逃げ出した一部の者と、最初から別のところにたまたまいた者が、生存者だ。国民の98%は、死亡したそうだ。リオンの場合は、四人の祖父母が、外交官として闇青国にいたために、難を逃れて、後に両親から生まれた形だ。
だがリオンは、ほとんど話を聞いたこともない上、行ったことも見た事も無い月冴国のことなど、ほとんど知らない。
その時、ノックの音がした。
リオンは抽斗を閉める。
「入れ」
そう声をかけて、静かに扉に視線を向けた。