【一】今という時代




 白い綿雪が、灰色の空から落ちてくる。
 黒いスーツ姿の|灰野遼《はいのりょう》は、下ろした左手でケーキの箱を持っている。白い紙の箱には、安っぽいピンク色の細いリボンがかけられている。中身はホールケーキだ。

 無表情の灰野は、アスファルトの上を進んでいき、外階段のある簡素な一軒家の前で足を止めた。黒い瞳で階段を一瞥してから、灰野は一階の玄関の前に立つ。古びた呼び鈴をチラリと見てから、右手をスーツのポケットに入れて、銀色の鍵を取り出した。

 家の中へと入った灰野は、背後で扉が閉まる音を聞きながら、じっと正面を睨むように見据える。傍らには、埃を被ったスリッパがある。その横にケーキの箱を落とすように置いた灰野は、そのまま土足で中へと入った。

 居間にかけられたカレンダーには、平成最後の年の十月の暦が印刷されている。

 目を伏せた灰野は、脳裏に浮かんでくる緑を忌々しく思った。
 緑の葉、カカオ。
 収穫する実、決して作業に従事する者は食べられないチョコレート。

 決して品の良い農園ではない。違法ですらある。
 それでも生きるために、カカオが必要で、毎朝早く起きては実に触れる。

 そんな農園を過ぎて暫く、進んだ先には、開発途上を象徴するような店舗が並び、住宅街を少し抜ければスラムにすぐに辿り着く。それらの広がる一帯の向こうには、巨大なビル群が聳えている。富裕層が暮らす地域だ。

 一生カカオを育て続けるか、スラムに堕ちるか、運良く街の住民として職に就くか、あるいは新鮮な腎臓あたりを一つ売って金を獲るか。こんな空想をする人間は多いが、実際には、この国にあって、臓器は売り物ではなく、搾取される対象でしかない。

 目を開けた灰野は、過ぎった光景を脳裏から振り払うと、踵を返した。


 ――元号が変わり、二度季節が巡った。
 昭和のまま動きを止めてしまったかのようなあの家にも、等しく令和という時代は訪れたはずだった。どこかで思い込んでいた。あの家だけは、変わらないと。どんなに時が流れようと、多忙になろうと、良い事が起きようと、悪い事に苛まれようと、あの家だけはそこにただ在るのだろうと、漠然と考えていた。

 しかしそれは、幻想だった。
 既にあの場に家主はおらず、いずれの部屋にも灰野を迎えてくれる家族など亡かった。訃報は聞いていた。だから理性では分かっていたが、埃まみれの現実を直視した今日まで、生存を信じてすらいたのかもしれない。

 雑居ビルの合間を抜け、大通りに出た灰野は、花屋の前で立ち止まった。
 白い薔薇と、名を知らぬ青い生花で出来た、小さな花束を買う。既製品だ。
 その足で向かった先は、墓地だ。

 墓地の場所は、この国においては、あまり変化が無い。縄文時代から同じ場所だ、なんていう話にも、事欠かない。少なくとも、灰野が知る位置と同じ所に、その墓石は存在していた。

「ただいま」

 花束を供え、灰野はポツリと声をかけた。
 次にここに来る時は、己が埋葬される時なのだろうかと、内心では考えていた。


 ◆◇◆


「今日、灰野は?」

 苛立つように、|時瀬創《ときせそう》が眉間に皺を刻んだ。中指と薬指の間に挟んだ煙草のフィルターを、それから不機嫌そうに銜える。

「休暇だそうです」

 答えたのは、隣に立った|雪田景《ゆきたけい》だ。

「使えねぇな」
「灰野さん、お休み無しでしたし……たまには有給くらい……」
「違う。灰野がいないと何も出来ない、雪田。お前が使えないという話だ」
「あ、はい」

 頬を引きつらせて、雪田が作り笑いを浮かべた。不機嫌そうな顔のままで、時瀬は煙草を吸っては煙を吐いている。公安第五課所属の三名に現在与えられているこの旧東北地方の小さなオフィスには、分煙という概念は存在しない。

 2000年代初頭、日本国という国で、自由生活性アメーバによる髄膜脳炎が広がりを見せた。後に日本病と呼ばれる事になるこの髄膜脳炎は、感染した場合ほぼ十割、脳死する。世界的な規模で、日本からの渡航制限がなされた。しかし日本病は広がりを見せ――結果として、地球上から日本人の六割を死滅させた。『日本人のみ』を。

 当初、他国は自国民にも罹患者が出る事を恐れたが、なんの因果か、感染者は日本国籍を保有した事のある者以外には現れなかった。

 同じ人体である。人間の決めた法を、アメーバが厳守してくれたなどとは考えられない。

 様々な説が囁かれたものの、日本人以外が感染しないと判明してからの世界は、楽観的だったと述べても良いかもしれない。すぐに医療崩壊した日本国には、人道支援の名のもとに、多くの国々が自軍や医師らを派遣した。その上で、奇っ怪な病を抱えてしまった日本という国はある側面では責められ、またある側面では『もう自治は無理だろう』と囁かれた。

 国際的な風当たりが、どんどん強くなっていく。
 その中で、与野党の内の半数ずつが、新党を立ち上げた。それが、|蒼生《そうせい》党である。
 政権交代がなされ、蒼生党の総裁が内閣総理大臣に指名されてすぐ、日本は国際的にある宣言をした。

『以後、日本病による脳死患者の臓器は全て、国の管理下にあるものと定め、各国の臓器提供が必要な患者に、移植のための提供を行うものとする』

 結果として、日本という国は、今も残っている。
 世界は、日本という臓器の牧場の存在に、好意的だ。

 現在、臓器移植を拒む者は、『テロリスト』である。公安第一課から第四課は、その前提で動いている。そして新設された第五課のみ、別の角度からの捜査を担っている。

 ――日本病の原因であるアメーバを広めたのは、誰なのか。

 誰が、いかにして、日本という国を滅ぼさんとし、日本人を絶滅せしめたろうとしたのか。これを追いかける部署が、第五課であり、その存在は、秘匿されている。実を言えば、公安同士の捜査がぶつかる事は別段珍しくはない。お互い秘密裏に捜査をしているから、相手の内情を知らない事など多々ある。

 今、日本という国は、緩やかに死へと向かっている。
 地球全体の異常気象も重なって、旧関東圏でカカオが取れるようになって久しい。
 日本病を罹患せず、生き残っている少数の人間は、嘗ての発展途上国の人間のような生活をしている事が多い。カカオを育てて、その実を売って、僅かな稼ぎを得ている。他には、旧東京という一大スラム街で溝鼠のように残飯を漁るか、他国の『特定指定日本人』という権利を得て、住宅街で暮らすか――あるいは、病院で臓器移植を待ちながら、脳死状態で繋がれているかの、いずれかだ。

 現在の日本はアジアで、最も暮らしにくく、最も裕福な国と言われている。
 臓器を売りさばいた金で、脳死した患者の呼吸を維持するだけの国だ。

 さて、そんな国内にあって、時瀬と雪田、灰野が担当している『作業』の内容であるが、違法なブローカー団体の構成員の監視と特定である。第五課で、最も多い捜査内容だ。きちんと手順を踏めば、公的に臓器は提供はされる。だが、必ずしも適合する者が日本病に罹患しているとは限らない。ブローカー達は、対象者を見つけ出すと、『人為的』に、日本病にしているらしい。そして脳死状態を誘発させ、依頼者に売りつけている。

 時瀬達の目的は単純に言うのならば、人為的に感染させて日本病患者を増やしている違法団体の監視である。監視し、その団体に誰が依頼をしたのかなどを調べる。主として情報収集が目的であり、摘発や逮捕、犯罪行為の糾弾は目的としていない。

「灰野さんの代わりと言われましても、僕じゃちょっと……」

 雪田が気を取り直したようにそう言うと、煙草を深々と吸い込みながら、睨むように時瀬が視線を向ける。

 この捜査班のリーダーは、一応のところ、時瀬警部だ。高卒で警察官になったノンキャリア組の時瀬は、昭和に生まれ、日本病で激動だった平成の時代に地方国家公務員試験に合格し、令和の現在では――叩き上げながらに、その優秀さ、あるいは無謀さを買われて、公安に属する事となった。今年で三十五歳、バツイチで、一人娘がいる。夢見ていたものは、交番のおまわりさんだったはずなのだが、多忙な現実に喰われた結果、愛想を尽かした妻は娘を連れて出て行った。妻子の身に危険が及ばないようにと、己が公安部の所属である事を知らせた事はなく、職務規定というよりも写真が苦手だからと一緒に一枚も撮らずに過ごしてしまい、スマートフォンの中にもアルバムの中にも、家族写真は一枚も無い。夢は娘に「パパ、格好良い?」と言われる事だったはずなのだが、常々おかしいなと感じている。短気で不器用、ただし、真っ直ぐなのが時瀬だ。

 一方の雪田は、大卒の、さらに言うならばキャリア組だ。二十四歳、独身。警察学校を出たばかりで配属されるなど、異例中の異例で経験に乏しい――ように見えるが、その実、平成という時代の申し子と言わんばかりに、小学生の頃から情報技術を呼吸するように習得し、本人が公安にマークされそうになるような子供時代を過ごした、IT分野のエキスパートである。はっきりと言うならば、民間人の協力者にならないかという要請を受け入れた雪田は、その後、組織にも公的に入る事に決めたという経歴の持ち主だ。

 最後の灰野遼は、準キャリア組の警部である。
 以上の三名で、現在は、『|宇迦《うか》』と呼ばれる闇ブローカー団体を監視している。

「お前も、対象の尾行を足でやれ、足で!! 安全な場所にふんぞり返って監視カメラばっかり見て、楽してんじゃねぇぞ!」
「時瀬さんは古いんですよね」
「あ?」
「あ……っと、ええと、別に時瀬さんこそ座って、監視カメラすら見ずに煙草吸ってるだけじゃんなんて思ってないんで!」
「なんだと!?」

 時瀬が表情を歪めると、雪田が顔を背けた。引きつった顔ではあるものの、雪田は笑みを崩さない。ノックもなく扉が開いたのは、それからすぐの事だった。