【二】日常
「あ、灰野さん!」
「……何をしている」
扉を開けた灰野は、時瀬に襟元を捻り上げられている雪田を見た。雪田は笑顔、煙草を銜えている時瀬は、これでもかというほど顔を歪めている。
「よぉ、遅かったなぁ」
時瀬が手を離し、片手で煙草を挟むと、灰野に向き直った。
「このクソ忙しい中で有給ねぇ?」
「……」
「彼女にでも会いに行ってたのか?」
満面の笑みで時瀬が言う。無論、ほぼプライベートなど無い灰野に、そんなものが存在しないだろう事は、上司でもある時瀬はよく知っている。結婚していてさえ、バツがつくほどの環境だ。口約束ばかりのお付き合いなどで続く関係など無いに等しいと、経験上もよく理解していた。
ただ時瀬から見ても、二十七歳の灰野遼は、俗に言うイケメンであるとは言える。もし仕事が仕事で無かったならば、女性は放っておかないだろう。
「いない」
「寂しい奴だなぁ」
「最初からなければ寂しくは無いが、あった存在を失う事は非常に寂しそうだな」
「……どういう意味だ?」
「時瀬警部、今日、娘さん、誕生日らしいな?」
「な……っ、な、な? なんで知ってる」
「愚問だな。身内の弱みは真っ先に掴むものだろう? プレゼントに買ったウサギのぬいぐるみ。今年八歳の、背伸びしたがるお年頃の小学生には、ちょっと子供っぽすぎやしないか?」
無表情のまま、つらつらと灰野が語る。どんどん時瀬の顔は赤くなっていき、最終的に彼は煙草をもみ消すと、両手で顔を覆った。
「……子供っぽかったか……じゃ、じゃあ……代わりに、何が良いと思う?」
客観的に考えて、時瀬は仕事が仕事でさえなかったならば、不器用ながらも良い父親だったのだろう。娘思いだ。灰野は無表情を貫いたままで雪田を見る。雪田は二人のやり取りを眺めて苦笑していた。
「僕だったら、『小学生』『女子』『流行』とかで、まずは検索しますけどね」
「検索して結果を言え。結果から言え。それが大人だろ? お前、本当ガキだよな」
「僕的に、このメンバーの中で、一番歳をとってるお子様は時瀬警部だと思うけど、その上でいいますね。変わり種の貯金箱が流行見たいでーす」
「貯金箱?」
時瀬が指の間から、胡散臭そうな眼差しを雪田に向けた。雪田が何度か頷く。
それを見守ってから、灰野が背広の内ポケットに手を入れた。
取り出したBOXから、煙草を一本抜き取る。銜えた灰野は、オイルライターで火を点けた。
「協力者に接触して、直帰する」
そうして今後の予定を述べた灰野へ、雪田が顔を向ける。
「あれ? 有給なんじゃ?」
「あってないようなものだろう、届出なんて」
そんな灰野の言葉に、大きく時瀬が頷いた。
「その通りだ。だが俺は、今夜は働かない。娘にプレゼントを直接渡す約束をしているんだ。三ヶ月も前から、取り付けていた約束なんだよ。悪ぃな、俺は帰る。それで? その貯金箱は、どこに売ってるんだ?」
「次から、離婚してるんだし、当日のセッティングはやめるのをおすすめしますけどね? 前日とか、数日後とかの方が……娘さんだってお友達とお誕生会とかしたかったかもしれないし。はい、どうぞ。僕、気が利くんで、用意してましたぁ。発案者は灰野さんだけど」
「お前ら……!」
雪田が箱を差し出すと、時瀬が目を見開いた。煙草を挟んだ右の掌で口元を覆っている灰野は小さく頷く。
「娘にはきちんとお前らの存在は微塵も知らせずに、俺の手柄として渡しておく。本当に有難う」
「時瀬さんの口からお礼……新しいな」
吹き出した雪田から、箱を受け取り時瀬が両頬を持ち上げる。時瀬は表情豊かだ。
「僕は今日は合コンなんで帰りますね」
「……あんまり、公安の刑事が、顔広めるなよ」
時瀬の表情が僅かに引きつった。そんな中で、この街において毎日夕方五時に響く町内放送が流れた為、それぞれがそれぞれの行動をとる事となった。
◆◇◆
――面識、面割り、様々な言い方はある。
灰野はこの日、丸対(マルタイ)である宇迦の幹部と、初の接触を試みようとしていた。
宇迦という闇ブローカー団体は、少し変わっている。語源は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。記紀に出てくる日本の神だ。豊饒を司る。宇迦という組織の象徴は、三本尾の狐のマークだ。構成員は、黒い狐のトライバルタトゥを入れている事が多い。
本日接触を試みる相手は、波積直幸(はずみなおゆき)。二十八歳、表向きは若き実業家。ベンチャー企業の社長だ。学年で言うならば、灰野の一つ年上である。ここ二ヶ月ほど、ずっと監視をしてきた。接触するタイミングを探してきた。
茶色く染めた波積の髪、元々僅かに茶色い瞳。長身で肩幅が広い。
灰野も背が低い方ではない。身長は178cmだ。波積はそれよりも高く、入手した資料によると183cmとある。なお、時瀬も178cm、雪田が175cmだ。公安部には、身長制限がある。体重維持、筋力の維持も、大切な職務の一つだ。
波積は甘い酒をあまり好まないらしい。それは既に掴んであった。
いつも波積が指定席にしているカウンターの隣の隣を、新顔のふりで占拠した灰野は、蜂蜜の香りがするウイスキーを舐めながら思案する。灰野からすれば、このウイスキーの香りとて甘い。なのに何故、マルタイはこの酒を好むのだろうか。
扉についた鐘が音を立てる。半地下のBarに、その時灰野が目的としていた人物が入ってきた。灰野はグラスの中の氷を見る。そうしながら、定位置に対象である波積が座った事を確認した。
「マスター、いつもの」
「――どうぞ」
初老のマスターは笑顔だ。それをチラリと見てから、灰野はロックグラスを持ち上げる。香りは甘いが、別段酒の味まで甘いわけではない。舌先でアルコールを飛ばしながら、灰野は切り出し方を考えていた。
どのように、信頼関係を築くか。
そのはずだったのだが――「ん? おや、美人がいるなぁ」と、声がかかった。既に室内の客の顔識は終えていたため、灰野は逡巡する。女性客はいない。ならば男性客で美人と表する事が可能な人間、と、考えていく。
「そのウィスキー、俺も好きなんだ」
灰野の肩に、波積が触れた。なるほど、『自分』かと理解し、俯いたまま灰野はまぶたに力を込め目を眇める。それから緩慢に瞬きをしてから、顔を上げた。
「……」
「はじめまして、隣、いい? と、言ってもここは、俺の指定席だから、君が俺の隣に座ってたってことだけどな」
「……灰野と言います」
「俺は波積。好きなモノは、男女問わず美人。嫌いなモノは、身持ちの固い人間だ」
灰野は笑うでもなく、怒るでもない。潜入調査や接触であれど、灰野は表情を変えはしない。グラスを置いた灰野は、右手の親指で唇を撫でる。
「俺の好きなモノは、口の軽い人。嫌いなモノもまた、口の軽い人間となる」
「――言うねぇ。俺は、君好みの機微に富んだ会話を約束し、ただし君から聞いた秘密は守ろうとしよう。だから率直に言おう。今夜、ホテル行かない?」
「行くと思うんですか?」
「思ってるよ、だって君は、『俺と話したいんだろう?』」
灰野は答えず、グラスを煽った。
その後、二人がBarを出たのは、三十分後の事だった。