【三】三者三様の夜








 妻の同伴は無い。
 娘のために予約したのは、小さな創作フレンチのお店だった。何が食べたいかとトークアプリで連絡をしたら、一丁前に『フレンチ!』と娘が言ったから、普段馴染みのないこの店を、時瀬は選んだ。チョイスは、雪田に任せたのは内緒だ。

「お父さん、遅い」
「悪い」

 苦笑しかかった時瀬は、予約席に座っていた娘の|真凛《まりん》を見た。今日で八歳、小学二年生の娘は、会わない間にまた大人びたように、時瀬には思えた。

「真凛、ほら、これを」

 ウサギのぬいぐるみと、雪田から渡された箱。その両方を、時瀬は渡す事にした。目を丸くした真凛は、左側で一つに纏めている髪を揺らすと、まずぬいぐるみを受け取った。

「もう子供じゃないんだよ? 幼稚園の子と勘違いしてる?」
「まぁそう言うな。もう一つも開けてみてくれ」

 時瀬は沸点が低いが、今日は愛娘の誕生日だからと、内心で僅かに苛立った感情は押し殺す。同時に、雪田と灰野の指摘は正しかったのだと考える。

 そんな父から箱を受け取り、真凛はリボンを解いた。そして包装をはがすと、目を丸くした。中身に釘付けな様子で、健康的な色彩の頬が僅かに赤く染まった。

「お父さん……なんで私がこの貯金箱ほしいって知ってたの?」
「真凛の事なら、なんでも分かる」
「キモ」
「え」

 真凛はそう言うと、傍らに置いてあった鞄にぬいぐるみと貯金箱をしまった。素直じゃないのは父親譲りなのだが、時瀬はそれには気がつかない。

「そんな言い方、無いだろう?」
「キモいもん。あーあー、お腹減った!」

 思わず時瀬が目を細くしそうになった時、店員が最初の料理を運んできた。パンのかごとスープを出すと、空のグラスに目を留める。料理は予約してあったが、飲み物は都度選ぶ店だった。

「何になさいますか?」
「ああ、そうだな――……おすすめを」

 普段は発泡酒ばかりの時瀬には、ワインの知識はあまりない。潜入調査前に記憶し、マナーを覚え、そして嗜んだ程度だ。だから皆無というわけではないが、馴染みは無い。心得たとばかりに、一度下がってから戻ってきた店員が、真凛のグラスにはノンアルコールのシャンパンを、時瀬には日本よりもさらに暑い地方で作られた赤ワインを注いだ。

「ね、ねぇ、お父さん」
「あ?」
「こ、これってさ、グラスを回すんだっけ?」
「料理も飲み物も、楽しめりゃ、それでいいんだよ」
「そういう概念なんか聞いてない!」

 真凛が吠えるように言う。そんな娘が愛らしくて、時瀬は顎を持ち上げて口角を持ち上げた。


 ◆◇◆


 ――旧東京スラム街。
 合コン、と、述べた事に偽りがあるわけではなかったが、雪田はコートを纏い、ゆったりとした足取りで路地を進んでいた。レトロな家屋、継ぎ足された雑居ビルのパイプ、入り組んだ街中を進み、壁に寄りかかるホームレスを見る。寧ろこのスラムにあって、家がある者の方が、珍しいのかもしれないが。

 カカオの栽培という、ある種のまっとうな仕事を捨て、貧困からの脱却を夢見て、旧東京を目指す人間は、老若男女を問わず多い。しかしその成れの果ては、大抵の場合が、スラムにおいて、骨と皮ばかりになる姿だ。

 このアジア最大のスラム街は、同時に、アジア最大の闇市場でもある。この旧東京において、日本国の法律は機能していない。独自の規則がある。

「あーあ。時瀬さんキモがられてるし。なにこれ、昔の言葉で言うと――ウケるってやつ?」

 首から下げたヘッドホンから流れてくる上司達のやり取りに、雪田は歩きながら吹き出していた。

 その後、雪田が向かった先は、スラム街南区角の地下にある闇カジノだった。日本病が流行してから、言い方は悪いが乗り込んできたいくつかの国は、日本にカジノの合法化を迫り、時の蒼生党政権は許可を出した。よってこの国には、公的なカジノも存在するのだが、それ以前よりもアンダーグラウンドに根付いていた非合法カジノを駆逐するには至らなかった。

 そこで賭けるものは、通貨でも玩具のコインでもない。
 一昔前は、臓器や角膜などの人体だった。だが、臓器牧場というに等しくなった現在の日本において、それらの価値は低下している。よって現在では、主に『戸籍』と『性行為』が賭けの対象だ。

 裏口から雪田が馴染みのカジノに入ると、店の黒服達が恭しく頭を垂れた。
 その後VIPルームに通された雪田は、待っていた『友人』を見る。

「遅かったな、雪田」
「そう? 早くない、僕にしては。それで、今日の合コン相手は?」
「いやぁ、やってくれた奴がいてなぁ。非合法の媚薬を持ち込んでる」
「直江。僕、SEXしにきたわけじゃなくて、お酒を飲めると聞いてきたんだけどね?」

 |直江行《なおえぎょう》は、雪田の中・高時代の同級生だ。私立の一貫制の学校だった。

「媚薬を盛られた被害者連中との『合コン』だ。事情を聴いてやってくれ」
「そういう事なら、普通に110番すれば良いのに」
「昔のよしみで頼むよ。よし、呼ぶぞ」
「……」

 こうして雪田の合コンが始まった。


 ◆◇◆


 灰野が波積に連れられて入ったホテルは、有り体なラブホだった。防犯設備などあったものでもない。壁だけはラブホらしく防音ではあるが。そして、宇迦傘下のホテルであるので、従業員は皆――敵だ。

 シャワーを浴びて、白いバスローブ姿になった灰野は、膝を組んで煙草を銜えていた。現在は波積がシャワーを浴びている。

「……」

 気怠い。

「……お世辞にも、趣味が良いとは言えないな」

 波積が己を抱こうとしていると、正確に灰野は理解していた。潜入調査、でなくとも、『協力者と親睦を深める為』に、過去にも何度も体は使った。対象が女性であれば甘く抱き、男性であれば、相手がタチなのかネコなのか見極める。タチをするのは、そう難しくはない。女性とのアナルセックスとあまり変わらない。問題は、ネコの場合だ。

 灰野は、ガタイも良い方であるし、ネコらしいネコではない。だが、何か艶があるのか、体を求められる時、組み敷かれる事が多い。しかしこれまで、受身になった事は、実を言えば一度も無かった。つい、と、でもいうのか、取り押さえるか逃げてしまう。

 男を抱いた事は数ある。生理的な嫌悪があるわけではない。が、主導権を相手に渡すようなSEXが怖い。貫かれネコになるとしても、主導権を握る事は可能かもしれないが、灰野にはその自信は無い。SEXのもたらす快楽は、よく知っている。

 ――酔えないのに酒を飲む事は、愚かだ。

 快楽に浸れないのならば、SEXだって似たようなものに成り下がると灰野は思う。

「あがったよ。さて、ベッドに行こうか」
「……」
「その前に、少し飲む?」
「……」
「俺に何が聞きたいんだい? 少なくともペニスのサイズじゃないだろ?」
「つまらない冗談が上手いんだな」

 そんなものには興味がないと、灰野が半眼になる。

「口が軽い人が好み何だったかな?」
「ああ」
「――てっきり、俺に何かを『斡旋』して欲しいんだと思っていたんだけどなぁ。ねぇ、灰野さんだっけ? 何が欲しいんだい?」

 それを耳にし、灰野はじっくりと目を閉じた。欲しいのは、『信頼関係』だ。
 現状、波積を見る限り、それは叶いそうにもない。

「悪い、今日は帰る」
「ダメ」
「帰る」

 そのままスーツを着直そうと、灰野はバスローブの紐に手を掛けようとした。
 すると波積が、苦笑した。

「じゃあこうしよう、少しだけ、話をしよう」

 それを聞いて、灰野は手を止めた。