【四】朝






「いくら出せる? まずは、金の話だ。これが肝要でね」

 波積の言葉に、唇に力を込めた灰野は、緩慢に視線を向けた。すると余裕たっぷりに笑った波積が、小さな冷蔵庫を開けた。中から有料の缶麦酒を二本取り出した波積は、ソファに座ると、正面のテーブルに缶を置く。一つは己の前に、もう一つは、横長のソファの隣の空間の正面だ。

「座れ」
「……」

 結局バスローブを纏ったままで、灰野は細く長く吐息する。そうして寝台から立ち上がると、言われた通りにソファに座った。三人は座れる仕様だが、これもこの場で体を重ねやすいようにという配慮なのだろう。

「まぁ飲みな。もう、酔いが醒めてるみたいだ」
「……」

 無言で手に取った灰野は、プルタブに手をかける。缶に不審な点は無い。無意識にそれを確認してから、舌の上に炭酸を乗せる。

「そちらこそ、酔っていないようにみえるが」
「俺はロックの一杯程度じゃ元々酔わない」
「ではその缶麦酒、飲んでも退屈なんじゃないのか?」
「強い酒をゆっくり舐める分には飲み方を知っているから酔わないけれど、麦酒なら浴びるように飲めば泥酔だって可能だ。幸い俺は、貧乏舌でね。味や質は求めていないんだ」

 波積の言葉に、灰野は缶を持つ手に力を込める。

「俺はそう多く飲む方ではないんだ。酔っぱらいと話がしたいわけでもない」
「話を急いでいるのなら、金額を提示してもらえるかな?」
「三倍の値段がするこの缶麦酒を三つ買える程度の所持金しかない」
「そう。残念ながら俺は、ドラッグストアの風邪薬は斡旋していないんだがね」
「貧乏人には用がないか?」
「美人には用がある。灰野さんは、どんな薬が欲しいんだ?」

 公安の人間であるという事は、露見していないと判断出来た。だが、何故、薬を求めていると勘違いされているのかは、よく分からない。当てずっぽうだろうかと思案しつつ、ゆっくりと灰野は缶を傾けた。

「おすすめは?」
「俺はソムリエじゃない……が、せめて種類と好みが知りたい。君の事が知りたいんだ」
「何を扱っているのか分からないのでは、種類の伝えようもないだろう」
「灰野さん。腹の探り合いは止めよう。俺はまどろっこしいのが嫌いなんだ。いるのかいらないのか、いるならば何がいるのか、明確に聞かせてもらえるかね?」

 波積の瞳が、僅かに鋭くなった。灰野はそれを見逃さなかったが、決断は出来ない。

「麻取の人なら、俺よりもよっぽど薬に詳しいと思うんだけどね」
「――どういう意味だ?」
「灰野さんって潜入捜査官だろう? 見れば分かる。これで何人目だったか、俺に近づいてきた麻取の捜査官」
「……」

 灰野が監視していた範囲では、麻薬取締捜査官が、波積に直接接触した事は無かった。とすると過去の話か、それともそちらとは現在別の連絡手法を用いて連絡しているのか、それとも協力はしていないのか。別の組織は厄介だ。そう考えながらも、灰野は更に缶を傾ける。

「波積さんの目には、俺がどう見えるんだ?」
「美人」
「……」
「ドラッグストアで買えない部類の薬が欲しいのなら、いいや、『薬の情報が欲しいのならば』――今夜俺に抱かれてみないか?」

 薄く形の良い唇の両端を、ニッと波積が持ち上げる。それを聞き、灰野は缶を一気に煽った。軽くなった麦酒の缶を、音を立ててテーブルに置く。

「今夜は帰る。俺は、口が軽い男は好きでも、下半身が軽い男は嫌いなんだ。早漏も論外だ。求めるものをチャラチャラ聞き出そうとする人間なんて願い下げだ」


 ◆◇◆


 この朝は曇天で、さもこれから雨が降ると訴えかけているような顔をした空が、人々を見下ろしていた。最初にオフィスの鍵を開けるのは、大体の場合時瀬だ。新人や年下が開けるような年功序列は古いのだと、雪田が笑って拒否した結果ではない。単純に、時瀬が最も規則正しい生活をしているだけだ。

 シャツの首元の釦をあけて、昨日は楽しかったなと振り返る。月に一度、それが取り決められた娘と会える回数だ。だが、実際には、三ヶ月に一度会えればマシな方だ。

「ん?」

 鍵を開けて中を見れば、机に突っ伏している雪田の姿があった。午前八時三十分というこの出勤時間に雪田がいる場合、それは大抵の場合徹夜明けだ。

「なにしてんだ、雪田。合コンで飲みすぎたのか?」
「えぇ……まぁそんな感じですかね」
「仕事に響くほど飲むんじゃねぇよ」

 目を吊り上げ、呆れたように時瀬が言う。両腕をデスクに投げ出して額を押し付けたまま、雪田は咳き込んだ。

「僕だって好きで飲んだわけじゃないです」
「ほどほどにしとけよ」

 hotの缶珈琲を開けた時瀬は、呆れを隠すでもなく舌打ちしてから、缶を傾ける。
 程よく冷めていた。
 始業時間十分前になったのはその時の事で、いつもと同じ時刻に、扉を開けて灰野が顔を出した。毎朝十分前に、何事も無ければ顔を出すのが灰野だ。

「おはようございます」

 灰野はいつもと変わらない姿で、自分の席につく。

「おう、おはよう」
「……おはざまーす」

 顔を上げた雪田は、それからまたすぐに突っ伏す。時瀬は雪田の頭を軽く叩いてから、椅子に座って煙草を銜えた。

「で? 昨日、無事に接触は出来たのか?」

 時瀬が双眸を細めるようにして問うと、それを一瞥した灰野がこちらも煙草を取り出した。火を点ける音が響く。

「接触はしましたが、協力者とするには不向きだと考えて、身元は明かしませんでしたよ」
「二ヶ月も尾行したのに、調査不足だったって言うのか?」
「上からの調査資料に、波積が麻取から接触を受けていたなんて話は無かった」
「なんだって? それは俺も知らねぇぞ?」

 どいつもこいつも使えないなぁといった心境で、時瀬が肩を落とす。

「下調べからやり直しって事か……誰がやる? 酔っ払い、お前やれるか?」
「もう終わってますよ。今日仕事にならない自信しかなかったんで、灰野さんがホテルから出たのを確認してからすぐ、夜中に再調査しときました。なんで、これから仮眠室お借りしまぁす」
「ホ、ホテル? 灰野、お前まさか……」
「好みじゃなくてな。缶麦酒をご馳走になって帰ってきただけだ」
「そ、そうか」

 時瀬は比較的純情だ。捜査で体を重ねるような事を、時瀬はした事がない。雪田と灰野は視線を交わした。たまに堅物の捜査班長に、呆れかける事がある二名だ。

「じゃ、僕寝るんで。おやすみなさい」

 雪田は体を起こすと、仮眠室に消えていった。残された時瀬は、最後に雪田がモニターに移していった捜査資料へと顔を向ける。それは灰野も同じだった。