【五】出会い方
毎日が、緩慢に過ぎていく。
結局、雪田の資料から、捜査をしなおした灰野と時瀬は、別の対象にあたりをつけていた。季節はなだらかに変化をし、雪は残っているものの、春を感じさせる空模様が増えていく。
三月も三分の一が経過した。
一日の経過はあっという間で、多忙な日々は心身を疲弊させる。
コーヒーサーバーの清掃は、雪田が担当している。灰皿の掃除は時瀬だ。
灰野は特に何もしない、オフィス周りの事に関しては。代わりに誰よりも外回りをしている。本日も尾行のために、灰野は外に出ている。時瀬は今日は、雪田と共に集会にて対象のマークをした帰りだ。
関東一帯のようにカカオが栽培できるほど暑くはないが、この旧東北地方も嘗てと比べれば雪解けが早い。
「まとめ終わったか?」
煙草をふかしながら、時瀬が雪田を見る。肺を満たす煙草の煙を感じる時、時瀬は満たされた気持ちになる。
「人使い荒」
「お前に出来るのは、リストアップと資料整理くらいだろうが」
「時瀬さんに出来る事なんて、喫煙だけじゃないすか」
「なんだと!?」
カードキーを外側でかざした時に鳴る音がして、自動ドアが開く。革靴の踵の音はしない。だが、灰野が戻ってきた事に、すぐに気づいて時瀬と雪田は顔を上げた。
「時瀬さん、今夜空いているか?」
「あ? おう。なんだ灰野」
「波積が同性の恋人と同棲を始めた」
「……へぇ」
波積直幸との接触を、灰野はあの後も続けていた。薬に関しては、穏便にのらりくらりとかわし続け、今では『飲み仲間の一人』という関係性を築いている。信頼関係を築くための『趣味の一致』としては、ホテルに入った事をいかして、『お互いに同性愛者であるから』と上辺では話している。
「引っ越してこないかと言われている。宇迦の息が掛かっているマンションだ。上層階にはレストランがあって、その個室で取引が行われている可能性が高い」
それを耳にした時瀬は、辟易したような顔になった。ちらりと雪田を見る。
「そこには監視カメラは無いのか?」
「無さそうですね。新深雪市のタワーマンションでしょう? 波積の行動範囲内で同棲が可能そうでいかにも取引してますって感じの、宇迦の傘下って」
雪田がパソコンのキーボードを叩き、壁にかけられている大型モニターに、壁がガラス張りに見えるタワーマンションを表示させた。そちらを確認して、灰野が頷く。
「波積には、恋人を紹介すると、連れて行くと伝えてある」
「っ、げほ。は、はぁ!? ま、ま、まさかの、俺か!?」
あからさまに咽せた時瀬が、目を見開き唇を歪めた。手に提げていたコンビニ袋をデスクに置きながら、灰野が顎で頷く。
「雪田で良いだろうが!」
「雪田では、情報機器以外の潜入経験が浅すぎる。レストランや、招かれた波積の家に盗聴器やカメラを仕掛けるには、手練の時瀬警部の方が適任だと判断してます」
灰野の言葉は適切だと、すぐに時瀬も理解した。しかしながら、他国の介入により古来より続いてきた男女が結婚するという感性が変化しつつあるこの国においても、古めかしい部分が残る警察組織で長らく生きてきた時瀬には、自分がLGBTといった波の中に踏み込む姿が上手く想像出来ない。
その点、校風から変化している大学教育を受けてきた灰野や雪田は、『好きになった相手であれば、性別は無関係である』という価値観を刷り込まれている。時瀬がまさに戦後教育の申し子だとするならば、二人は日本病後の歴史観を肌で感じて呼吸してきた世代だ。
別に時瀬とて、明確に差別意識を持っているというわけではない。
世界には、同性愛が溢れるようになった事は理解している。ただ、男が男を選ぶ権利が生まれたように、男であっても女性を選ぶ権利だってあるはずだというのが、上手く言語化できないなりの、時瀬の考えだった。
「それに、年上のノンケとして話してあるからな」
「……本部に応援を要請するとか」
「そんなに俺の恋人役を演じるのは嫌なのか? 時瀬さん」
「嫌に決まってるだろう!」
時瀬が率直に答えると、雪田が吹き出した。
「過度な同性愛嫌悪は、本当は興味があるかららしいですけどね」
「無ぇよ……はぁ、ったく。夜の何時だ?」
しかし仕事は仕事である。仕事人間の時瀬は、最終的には断らない。口では何を言おうと、時瀬が引き受けるだろう事は、灰野にも雪田にも分かっていた。
「雪田はバックアップを頼む」
「了解でーす」
こうして本日より、ある種の潜入調査が行われる事が決定した。
既に灰野はある程度の偽りのプロフィールを伝えてある。調査されても足がつかないよう、公安の刑事であるという個人情報は封印されて久しい。それは時瀬や雪田も同じだ。
名前は本名を伝えてある。
本名を調べれば、灰野の警察関連以外の情報が得られる。しかしどこにも、公安の痕跡は無い。それが潜入調査の手法だ。
――もしも、潜入調査に失敗したならば。
――もしも、公安の人間の中に、潜入調査官だと知る者がいなくなったならば。
その時待ち受けるのは、公安とは無関係の人間としての一生と死である事が多い。
なお今回の時瀬の役回りは、『無職』である。
日本病の関連で、この国には、時瀬の年代に、第二回就職氷河期が訪れた。
一度目の、海外金融機関の崩壊によるショックが、ようやく上を向こうとしていた頃、蒼生党の新政策により、一意的に株価が下がる事件があった為、現在の三十代半ばから後半は、氷河期経験者である事が多い。なお、第一回目の氷河期世代は既に四十代から五十代に近いが、その多くは日本病を患って病院に繋がれている。
一方の雪田は、パソコン関係の仕事とだけ伝えてある。在宅の情報関連のエンジニアで、趣味は筋トレなのだと話してあった。
別段それを、波積が信じているかは、問題ではない。
相手の懐に、なるべく深く、尚且つ安全に入り込む事が目的だった。
「あとは、俺と時瀬さんの出会いについての嘘を覚えてもらわなければならないな」
「出会い? 飲み屋とかじゃダメなのか?」
時瀬が辟易したような顔で煙を吐く。コンビニ袋から取り出した10秒飯を片手に、灰野が無表情で頷く。
「警備会社の監視カメラを辿られたら困るだろう。場所によっては数年映像を残している」
「――はっきり言って、俺はゲイやバイがどうやって出会うのか、さっぱり知らないからな」
「アプリで出会った事にしよう」
「アプリ?」
「出会い系アプリがメジャーなんですよね、最近」
雪田が補足すると、曖昧に時瀬が頷いた。こうして少しずつ準備が整っていった。