【六】演技の開始
「このテーブル、良さそうだな」
相変わらずの灰野の無表情を見て、時瀬は頬を引きつらせかけた。引きつった顔で笑うのは雪田の特技ではあるが、今回に限っては時瀬の顔色が冴えない。
「ああ。そうだな」
ぎこちない笑顔――では、ない。時瀬はある種完璧な捜査官だ。顔色こそ良いとは言えないが、時瀬は嘗てないほどの笑顔だ。恋人に向ける表情、それを時瀬は心がける。こんな表情、過去に、妻にすら向けた事は無い。不器用な恋愛を一度だけした事しかない時瀬ではあるが、演技だと思えば笑顔くらい浮かべられる。
しかし提案してきたくせに、灰野はいつもと変わらない。普段通りすぎる冷たく無機質な表情を一瞥し、恋人同士の甘さの演出は不要なのだろうかと時瀬は悩んだ。
「っ」
その時、実にさりげなく、下ろしたままの時瀬の手の甲に、灰野が触れた。ビクリとしそうになったが、時瀬はぎこちなく顔を向けるに留める。
「……これ、必要なのか?」
「ああ、このソファは良さそうだ」
灰野が左後方を流すように見てから、そのまま長々と瞬きをした。なるほど対象者かその関係者が近くにいるのだろうと納得し、時瀬は唇の両端を無理に持ち上げた。
「買うか」
「お前には収入がないだろう」
「っ、お、おう……」
年下に養われている無職、それは時瀬の価値観では不甲斐ない存在という認識だ。昭和の残り香を最後に受けた世代の時瀬には、凝り固まった価値観が巣食っている。しかし仕事となれば、上辺を取り繕える。その点は平成という時代に思春期を過ごした柔軟性も確かにあった。
「なぁ、『遼』」
灰野をこれみよがしに、下の名前で呼んでみる。同じ身長の灰野は、顔を向けると――ここに来て、初めて微笑してみせた。ちょっとグッとくる笑顔の、男前。時瀬は溜息を内心で押し殺す。どうやら灰野にも、演技をする気がないわけではないようだった。
「どうしたんだ? 『創さん』」
馴染みのない呼ばれ方に、時瀬は奥歯に力を込め、違和感に耐える。
「早く部屋が見に行きたくてな」
「ああ、そうだな。俺も楽しみにしてるんだ」
「遼の友達が貸してくれるんだったよな?」
「正確には、友人の会社が管理しているらしい」
白々しい会話を笑顔で重ねる。同性婚制度は施行されて久しいし、同性愛は珍しくなくなったとは言え、公衆の面前で手を取り合い笑い合っている己に、時瀬は強い違和を覚えていた。仕事、仕事と、念じる。
「どんな友達なんだ?」
「飲み友達だよ」
「お、お前……まさか俺に隠れて、ゲイバーに行ったんじゃないだろうな?」
「創さんが気にするようなバーじゃない。ウィスキーが美味しい店なんだ。今度、一緒に行くか?」
「行く」
対象関係者らしき人物が歩み寄ってくるのを意識し、灰野と時瀬は会話を弾ませた。
「やぁ、灰野さん」
二人の想定通りで、そこに顔を出した波積直幸が声をかけた。高級そうなスーツを纏っている。ほぼ同時に振り返った灰野と時瀬は、顔を把握していた波積と、その隣に立つ青年を見た。
「これは、波積さん。今日は内見をさせて頂けるとの事、本当に有難うございます」
「いいや、灰野さんのたっての頼みだからな。俺に『斡旋』出来るものがあって良かった」
奇妙に力がこもった単語に、灰野は表情を崩さず、時瀬は知らん顔をした。時瀬は波積が違法なものに関わっている事は知らない設定だ。
「こちらは俺のパートナーで、|結城黎人《ゆうきれいと》。今日お見せする部屋の隣に、二人で暮らしているんだ。先月から」
「よろしくお願いします」
波積が紹介した結城という青年は、柔和な微笑を浮かべた。色素の薄い茶色の髪をしていて、細いフレームの眼鏡をかけている。印象は、一般人。ここに来るまでに得てきた捜査資料にも、組織の関係者としては無い名前だ。
「よろしくお願いします。隣にいるのが、俺のパートナーの時瀬創さんです」
「あ、よろしくお願いします。遼がいつもお世話になっているみたいで……」
「創さんは俺の父親か?」
「な……そんなつもりはねぇよ! 微塵も無い。ゼロだ!!」
灰野の声に、思わず普段通りに時瀬が反応すると、くすりと波積が笑い、その場に和やかな空気が生まれた。結城もまた、口元を手で隠して楽しそうな目をする。
結城黎人も、灰野や波積と同世代の、二十代後半に見える。時瀬から見ると、まだまだ若い。逆に言うならば、自分だけが場違いのような思いもあり、気が重い。
「さ、行きましょう」
先導するように波積が歩き始めた。その隣に結城が並ぶ。視線を交わしてから、灰野と時瀬もまた歩き始めた。
四人で向かったタワーマンションで、エレベーターに乗る。一つの階に、二つの家がある仕様らしい。靴を脱いで中へと入った灰野と時瀬は、真っ直ぐにリビングへと向かった。家具はまだ、何もない。引越しの予定は週末だが、今日見て決めるという演技段階がある。
「良い部屋だな。見晴らしがいいし」
風景になど、本来興味は無かったが、時瀬が窓の向こうを見て感想を述べた。高層ビルが並んでいる。ここは旧関東のカカオ畑からも見える――富裕層が暮らす街だ。開発された旧東北のはずれに作られた新深雪市という住宅街は、そこに住んでいるというだけで、ある種のステータスだ。貧富の格差が激しくなったこの国において、無職でも生きていられるというのは、実家がそれなりに裕福な証でもある。無職は必ずしも、底辺と呼称されるような立場では無い。
「馬鹿と煙はなんとかというな」
「は!?」
ボソリと灰野に言われ、時瀬が目を剥く。
するとクスクスと結城が笑った。
「仲が宜しいんですね」
「創さんはからかいがいがあるんだ」
灰野も珍しく微笑している。
――どんなキャラ設定なんだ? どういう役作りなんだ? と、時瀬は抗議したい気持ちでいっぱいだ。
「あちらの部屋を、俺の仕事部屋にしたい。創さんは、どの部屋が良い?」
間取りは5LDKだ。今度はリビングから繋がる他の部屋へと足を運びながら、時瀬は思案する。妻と娘と暮らしていたのは、一軒家だ。ローンではなく、一括で購入した持ち家だった。収入を得ても使う機会が極端に少なかったせいで、時瀬には貯金が相応にある。毎日必要とするのは、三食の弁当代、適度な飲み物代、煙草代、それくらいだったからだ。
微笑みかけている灰野も、似たようなものだ。多忙すぎて金は貯まっていく。しかし、灰野には貯金は無い。仕送りをしていたからだ。作り笑いのままで瞬きをすれば、貧しかった幼少時の記憶が蘇る。父は出稼ぎに行き、カカオを育てていた。母は病院で移植を待っていた。される側ではなく、提供する側だ。だから姉と二人、灰野は旧東北のはずれで生きていた。貧乏からの脱却には紆余曲折があったが、相応の苦労をして、灰野は大学に進学した。現在の義務教育は小学校を二年間任意のタイミングで出る事であり、その中にあって、小・中・高・大学と進学できただけでも、灰野は幸運だ。
例えそれが、他者の死の上で掴んだ幸運で、喪失を喜んでしまったような過去があったとしても。
「俺はお前の隣の部屋にする」
「だめだ」
「どうして?」
「そこは寝室にしよう。一緒に寝たい」
「!」
灰野の声に時瀬が目を丸くした。しかしここで拒否するのは変だろうかと、必死に頭を回転させる。
「まぁまぁ、ゆっくり選んでいけば良いでしょう。そうだ、このダイニングキッチンですが――」
空気を読んだように、波積が話を変える。その後も皆で、家を見て回った。