【三】グレイグ兄上
兄上はアルマ殿下の行いを察しているらしい。過去にも何度も俺は殿下に呼び出されて、弱みにつけ込まれて……もとい友人なので頼み事という名の厄介な事件の数々に関わってきたことを、兄上は非常によく知っている。
「……」
俺は言葉を探しながら立ち上がった。激高している兄上とは、いつも以上に顔を合わせたくない。だが兄上は俺が歩き出そうとした瞬間、俺の首元の服をねじり上げた。
「っ」
「人の話を聞け!」
「離せよ」
「あれほど危険なことをするなと繰り返し繰り返し言っているのに、どういう了見だ!?」
「……」
「一体今度は何をするつもりだ!?」
「離せって。別に……アルマ殿下とは、お茶を飲んだだけで……」
「もう呼び出しに応じる必要は無い。ユクス第一王子殿下を通して俺からお断りしておく」
ユクス殿下も二十七歳で、兄上はご学友だったそうだ。
俺も今年の春までは、王立学院に通っていた。春に卒業してからは、俺はまだ自分の将来を決めかねているから、家でぼんやりしている。兄上のように働き者の貴族の方が珍しく、俺のようにゆっくり考えながら過ごす者の方が圧倒的に多いので、別に俺が珍しい存在というわけではない。
だが、これはまずい。ユクス殿下の耳に入ったとなれば、アルマ殿下は激怒するのは間違いない。既にキレている兄上と、俺の弱みを握っているアルマ殿下の、どちらが恐ろしいか……俺としては、まだいつも怒っている兄上に対処する方が比較的マシに思えた。
「友達とお茶を飲むのがいけないっていうのか?」
「そうは言っていない。だが用件もなくアルマ殿下がお前を呼び出すとは考えがたい」
「なんでだよ? 小さい頃からのご学友の俺が、アルマ殿下に呼び出されても、なんの不思議も無いだろ」
「本当にそう思うのか? 隙さえあればユクス殿下のそばに行くアルマ殿下が、今日の午後ユクス殿下はご公務に空き時間ができたにも関わらず、姿を見せないという異常事態が発生したんだぞ? なにか? 天変地異の前触れだとでも言うのか? ジェイス、断言してアルマ殿下が、お前をユクス殿下より優先することはあり得ない。あり得ると思うのか?」
「っ……それは、その……」
兄上の言葉は正しい。俺も、ユクス殿下を最優先にしないアルマ殿下など、想像もつかない。
「大方ユクス殿下がらみのことで、何か頼まれたな?」
「……」
「正直に言え。俺が断ってやるから!!」
「……本当にお茶を飲んだだけだ。離せよ、もういいだろ!」
俺はついに声を上げ返した。するとグレイグ兄上が唇を歪め、その後で手から力を抜いた。長身の兄上にひっぱられていた首元が苦しい。俺は襟を正してから、兄上を睨めつけた。
「ユクス殿下も無関係だ。兄上は過保護すぎるんだよ」
我ながら冷ややかな声音で俺が告げると、グレイグ兄上がひるんだ顔をした。唾液を嚥下した様子の兄上は、それから腕を組むと、俺を睨み返してきた。
「当然だろう。俺はお前の保護者だ」
今度は兄上の声も冷ややかだった。こちらが常である。先ほどのように感情的に怒鳴り散らすことは、決して少なくは無いが、あまりない。俺達の間には、基本的には冷気が漂っている。
実際、兄上は俺の保護者で間違いない。俺個人も伯爵位は継承しているが、それはあくまで公爵領地の中の一部にある伯爵領の主という立場だ。
――両親が没してからだ。グレイグ兄上が過保護になったのは。
葬儀の日、まだ十三歳だった俺の背に手で触れてくれた時は、兄上の存在が心強かったし、大きく思えた。たった二人きりの兄弟だが、一人きりでなく兄上がいるのだから、これからも頑張ろうと、両親の喪失後には思いもした。
だが、年々兄上は過保護になっていき、俺はそれが鬱陶しくてたまらない。
その結果、俺達には冷戦状態が訪れ、それでも抑えきれない時には、兄上は声を上げるようになった。昔は優しかったのだが、今は面影も無い。
面倒ごとに巻き込まれた場合、兄上にも責任が及ぶ可能性が高い。それもあって、兄上は俺の行動を制限しようとするのだろう。
「ジェイス、俺はお前を心配してるんだぞ!?」
「自分の立場を心配してるの間違いじゃないのか?」
「どういう意味だ?」
「エリート様の経歴に汚点を残す可能性のある、できの悪い弟で悪うございました」
「なんだと?」
「もういいだろう、止めてくれよ。それよりお腹が空いた。そろそろ夕食だろ?」
「……ああ、そうだな。とにかく、危ないことだけはするな。いいな?」
兄上はそう述べると、俺より一足先に部屋を出て行った。
本当は顔を合わせて食事なんてしたくもないが、晩餐は家族でとるのが、この国のしきたりのようなものだ。別々に用意するよう頼んで、使用人達に迷惑をかけたいとも思わない。
「はぁ……」
溜息をついた俺が肩を落とすと、足下にキルトが絡みついてきた。
「また派手に喧嘩したね」
「兄上は煩いんだよ、いちいち」
「ボクは、グレイグは本当にジェイスを心配してると思うけどなぁ」
「なんだよ、キルトまで兄上の肩を持つのか?」
「ううん。ボクはジェイスの味方だよ。今までも、これからも、ずっと先まで!」
その言葉に頷いて、俺はキルトを抱き上げた。首の下を撫でてから、そのまま抱いて、階下の食堂へと向かうことにした。キルトがいるだけでも、兄上と一対一の食卓よりはずっとマシだ。
実際それから食堂で顔を合わせた俺達の間には、一言も会話は生まれなかった。
使用人達も慣れたもので、何も言わない。俺の隣の椅子に座ったキルトを時々眺めながら、俺は急いで食事をとり、その後部屋へと戻った。
明日は出かけるのだから、今日は早く休もうと決め、それから入浴して、俺は休んだ。
俺がベッドに横になると、腕のところでキルトが丸くなる。これも毎晩の決まりのようなものだ。温もりを感じてから、俺は就寝した。