【二】ぜんまい族の中身
魔導馬車に乗って帰宅した俺は、玄関でキルトを床に下ろした。執事のエヴァンスが出迎えてくれた。
「紅茶はいかがですか?」
「アイスで。部屋に持ってきてほしい」
「畏まりました」
エヴァンスが頷いたのを見てから、俺は階段を上る。キルトも横をついてきた。
この邸宅は広く、俺の部屋は四階にある。四階の他の部屋は、客間や書庫、物置だ。グレイグ兄上の執務室や寝室は三階にある。二階にはリビングスペース、一階には厨房や食堂の他、大広間と応接間がある。使用人の部屋は地下で、地下には他にワイナリーが存在している。それらの至る所に、家紋のスペードの意匠が施されている。
両親の部屋は無い。嘗て父上が使っていた執務室は兄上が使用しているし、両親の寝室だった部屋は、今では客間だ。両親が没して、今年で五年になる。
「はぁ……」
飴色の豪奢な扉に手で触れて、ひんやりとした感触を確かめてから、俺は部屋に入った。先に中に入ったキルトは、ソファの上に飛び乗って、定位置で丸くなる。俺はその隣の窓側に腰を下ろした。すると少しして、エヴァンスがアイスティーを運んできた。
正面のテーブルにティースタンドとグラスを置き、一礼して退出した。
エヴァンスは、家令のシュミットが連れてきた青年で、執事学校を卒業したての二十七歳だ。兄上と同じ歳である。
現在グレイグ兄上は、王宮にいる。そう、つい先ほどまで俺もいたあの空間で勤めている。宰相補佐官として、次期宰相との呼び声も高く、文官としてはエリート中のエリートだ。父上が亡くなった際に公爵位も引き継いだため、他に領地の管理も行っている。
俺はストローをグラスに入れて、静かにアイスティーを飲み込む。
檸檬とミルクがそばにあるが、今はストレートの気分だ。喉を癒やしてから、俺はスコーンに手を伸ばし、クロテッドクリームを塗った。シェフのガードナーが用意してくれるお菓子や食事は絶品だ。元々は王宮の厨房で働いていたと聞いた事がある。
「ねぇ、ジェイス?」
「なんだ?」
「アルマ殿下のお願いは、どうするの?」
「ああ……まぁ、適当にぜんまい族に話を聞いて、注意を促せばいいんじゃないか?」
キルトを一瞥すると、緑色の瞳が楽しげに輝いていた。
「捕まえないの? 大捕物!」
「……そういうのは、ちょっとなぁ。俺には向いてないって言うか」
「そう? ジェイスには、ボクがついてるのに?」
ぜんまい族の体の中に入っている魂は、元々の多くは人間のものだ。時には喪失したペットの魂を定着させる者もいるようだが、基本的には死者の魂をなんらかの理由で器に定着させることが多い。キルトも例に漏れず、中身の魂は、人間のものだ。ただし全ての人間の魂が器に適合するわけではないし、術式の行使には様々な制約があるから、例えば俺の両親を蘇らせることはできなかった。
「確かにキルトは強いと思うけど」
俺は頬杖をつき、目を眇めた。キルトの中身は、約三百年ほど前に活躍した大魔導師なのだという。キルト・ジョーンズワートの名が出てこない歴史の教科書は、この王国には存在していない。
約三百年前といえば、人類が『白紙の時代』を抜けた頃だ。それ以前の二百年間の記録が、すっぽりと抜けているため、その名で呼ばれている。王家と三大公爵家は1500年より前から存在していた様子だが、たとえばぜんまい族は三百年前からの記録が残っている時期に、まるで降ってわいたように出現したとされている。誰が機械魔術や生体魔術を生み出したのかも、記録には残っていない。
ただ一つ分かる事として、1500年前には『女性』という存在がいたが、今の世界には『男性』しか存在しないということだ。昔は女性が子供を産んだそうだが、現在は妊娠魔術で人工卵と呼ばれる球体の中に、両親の半分ずつの魂を混ぜ合わせて注入し、そこから子供は生まれてくる。魂の分割方法は様々だから兄弟でも全く同じ人間にはならない。そう考えると、魂の定着させる先が違うだけであるから、人もぜんまい族も、そう大きな違いはなさそうに思える。
「ジェイスが困ったら、ボクが魔術で敵を倒すよ?」
「それは心強い。本当にそう思う」
俺は頷いてから、再びストローを銜えた。実際、過去に幾度か、キルトに命を助けられたこともある。キルトは俺の、心強く頼りになる相棒だ。
「ただ、まず明日は、予定通り王都のぜんまい族に話を聞いてみることにしよう」
「誰に聞くの?」
「そうだな……黒のアトリエに行って、ファレルさんに話を聞いてみるか」
「ふぅん。ボクも行く」
キルトが異を唱えなかったので、俺はホッとした。それからもう二つほどスコーンを食べた俺は、手を拭いてから立ち上がり、本棚へと向かう。そして最近流行している小説を手に取った。隣にあるゾルクス帝国で出版された書籍で、大陸共通語で書かれている。まだ読んでいないので内容は知らないが、恋愛小説だと聞いた。興味があるわけではないが、読書は暇つぶしには最適だ。俺が読み始めると、キルトがソファの上で丸くなった。
それから数時間――気づけば、すっかり外の日が落ちていた。
夏至をすぎたばかりだから日が長いはずだが、思いのほか俺は没頭していた。
読み終えた本をテーブルに置き、裏表紙を見据える。赤い布張りの本だ。続きが読みたくてたまらない。
「ジェイス!」
乱暴に扉が開け放たれたのは、その時のことだった。視線を向けると険しい表情の兄が、黒く細いフレームの眼鏡のおくの眼を鋭くして、俺を睨み付けていた。
「……なにか?」
「今日、王宮に来たな!?」
「……それが?」
「またアルマ殿下と面倒ごとに関わるつもりじゃないだろうな!?」
厳しい声が飛んでくる。グレイグ兄上は、苛立ちをあらわに、俺の方へと歩み寄ってきた。