【十】(SIDE:グレイグ)預かっているモノ
「我輩は少し出てくるゆえ、あとのユクス殿下の補佐は頼んだぞ」
上司である宰相、リークス・バーレンの声に、顔上げてグレイグは頷いた。
宰相府はいつも多忙で忙しない。
与えられた書類を一山片付けてから、立ち上がってグレイグは、ユクス第一王子の執務室へと向かった。グレイグの基本的な仕事は宰相補佐であるが、その中で最も多いのは、ユクス王子の公務の手伝いである。
王宮の回廊を抜け、階段を上がっていく。
夏が迫る窓の外は曇天で、王宮の庭園には咲き誇る赤や白の小さい薔薇が見えた。
この国では、王家と三大公爵家の家紋である絵柄が描かれたトランプというカードは神聖視されている。その上で、遊びにも占いにも用いられている。漠然とそんなことを思い出しながら階段を上がっていき、王宮の五階にあるユクス王子の執務室の扉の前に立った。二度、ノックをする。するとすぐに返事が返ってきた。
「失礼します」
「グレイグ、来てくれて助かった。書類の山が雪崩を起こしそうなんだ……」
疲れ切った声を上げたのは、ユクスである。金色の髪は、弟のアルマによく似ているが、瞳の色が異なる。その色は、紅色だ。紅色の瞳は、魔を呼び寄せるという伝承があるため、気味悪がられることが多いが、誰も第一王子であるユクスに面と向かってそれは言わない。ただ、民衆の多くは、王子様然としたアルマの即位を望んでいるという統計の結果もある。
それも手伝ってか、ユクス自身も、王位にこだわりはない様子だ。だが、アルマがそれを許さないし、国王夫妻も目の色など無関係だという姿勢を貫いている。この国は、基本的に嫡男が相続することが多い。
だが、例外もある。
――たとえば、グレイグも例外の一人だ。グレイグは、ナイトワース公爵位を継いだ。だが、実際には、養子である。人工卵の定着による子の出生には、勿論死産もある。王家と同時期に、ナイトワース公爵家が子を作った際……死産だった。その同時期、分家である、ジェイスから見ると叔父夫妻の三男として生まれたのが、グレイグである。結果として、王家の長子であるユクスと出生年代を合わせたある種の『スペア』を得るという理由で、グレイグはナイトワース公爵家に養子として引き取られた。
その後、没した前ナイトワース公爵夫妻は子をなさなかったのだが、王家の第二王子アルマの出生に合わせて、再び人工卵に魂を宿した。そうして生まれた、本当の嫡男が、ジェイスである。即ち、グレイグとジェイスは、実際には従兄弟だ。ただそのことを、ジェイスは知らない。また、グレイグの本当の両親と兄二名は、隣国で暮らしているため、今ではほとんどやりとりもない。
前ナイトワース公爵夫妻が没したとき、まだジェイスは幼かった。
だから、ジェイスが独り立ちするまでの間と決めて、グレイグは公爵位を『預かった』という認識だ。ジェイスに爵位を返した後、一人で生きていくために、王宮でキャリアを積んでいる。それが本人の実情だった。
だが――ジェイスが王立学院を卒業して、既に数ヶ月になるのに、まだこの話を切り出せないでいる。理由は一つだ。ジェイスの家族でなくなるのが怖い。グレイグは、ジェイスのことを、本当に大切に思っている。冷戦状態の現在であっても、頭を占めているのは、ジェイスのことばかりだ。最早この感情は、兄弟愛を超えているのではないかと時に考えては、叶うはずもないのだからと、グレイグは恋心に蓋をする。なにせ、己は嫌われているのだから。
「一つ一つ、片付けましょう」
「そうだな。私もそうしたいところだが……本当に私にできるのだろうか……」
ユクスは時折ネガティブになる。
実際、執務能力だけ切り取るならば、それもまた、アルマの方が圧勝だ。それを自他共に認識された状態であるから、ユクスも時折ぼやく。特に幼少時からのご学友であるグレイグの前では隠さない。それでも、結果として前向きに行動するのがユクスだ。グレイグはそれをよく知っている。
この日はその後、夕方まで欠けて、二人で書類を整理した。
「終わったー! ありがとう、グレイグ」
満面の笑みを浮かべたユクスに向かい、こちらも微笑してグレイグは頷いた。それから指で眼鏡の位置を直す。これは、魔力量を調節するためにかけている。視力に問題があるわけではない。グレイグは生まれつき、非常に強い魔力を持って生まれた。それは二つの瞳に宿っている。眼鏡のレンズで制御していない場合、目が合った者に、簡単な暗示をかけてしまえる力を持っている。今では眼鏡がなくても、自制心で制御可能だが、念には念を入れて、予防のために、グレイグは眼鏡を装着している。これは時折、ナイトワース公爵家の血筋に宿る魔力だ。だから、グレイグの能力を知る者は特に、養子だとは考えもしない様子だ。
「いえ、仕事ですので。それでは、私はそろそろ宰相府へと戻ります」
「うん。助かったよ」
こうして別れて、グレイグは宰相府へと戻った。ユクスの手伝いが終わっても、今度は別の仕事がある。それが常だ。戻ってみれば、宰相がツンで老いたらしき書類が、グレイグの執務机の上には山積みになっていた。それを一枚一枚処理していた時、扉がノックされた。宰相府には来客が多いからと、気にせず羽ペンを動かしていると、不意に声をかけられた。
「グレイグ」
馴染みのある声に、グレイグは顔を上げる。そこには王立学院の同期だった、騎士団の第二師団長であるヴァレンが立っていた。
「なんだ? なにか用か? 珍しいな」
「今日、お前の弟ぎみに会ったぞ」
「なに? 一体どこで?」
「――イチジク通りの黒のアトリエだ。何故そこに、町人風の格好で、公爵令息がいたのか、俺が尋ねたいんだが」
「っ」
グレイグが顔色を変える。先日、喧嘩した理由を思い出す。ユクス第二王子に何かを頼まれたという己の推測が当たっていたと確信した。
「帰宅して問いただす」
「おうおう、結果が分かったら、報告を頼むぞ。一応こちらも、部下を護衛につけて送り返させたけどなぁ」
「恩にきる」
そう言って、グレイグは書類を明日に回す事にし、荷物を手早くまとめて帰宅する準備を整えた。己の横を、血相を変えて通り抜けていくグレイグの姿を、ヴァレンは苦笑しながら見送っていたものである。