クレセントムーン号の沈没





 ――その貨物が運び出されるという報せを聞いたのは、昨夜のことだ。

「行ってきてくれるな?」

 問いかけるように宰相閣下は俺に言ったが、紛れもなくこれは、『行け』という勅命だった。宰相補佐官をしている俺への密命だ。差し出されたのは、休暇届。羽ペンを走らせてから、俺はチケットを受け取った。豪奢な燭台が封筒に落とす影は、夜の闇よりは薄かった。

 こうして翌朝、俺は豪華客船を謳うクレセントムーン号に乗船した。



 この世界には、古代兵器という物が存在する。
 なんでも”中世”という分類で滅んだ前文明から少し先の遺物らしい。蒸気船が行き交う現在からでは、その空白の歴史地層に何があったのかは不明だ。例えば、人間の耳の形は変わらないから、携帯電話などは、当時も今も形式は変わらないだろうと言われている。だが、”中世以降”の世界について、今、俺達が知る事柄は、ほぼ皆無だ。

 けれどその”中世以降”と呼ばれる古の時代の古代兵器を発掘して、俺達は戦争に用いている。例えばエスセラミック製の銃弾などは、井戸から水を汲む俺達には、機序が分からない代表的な代物だ。理屈は分からないが、広く普及している。

 首元のリボンを直し、俺は『休暇を楽しむ宮廷勤務の宰相補佐官』として、ゆっくりと船の中の階段を上った。俺の部屋は、地上三階。地下七階地上四階の客船であるから、非常に恵まれた部屋を与えられている。上から下に向かうにつれて、有り体に言えば、貧乏人の部屋になる。

 本来の俺は、貨物室の真上の地下三階に迷わず部屋をあてがわれて、何の不思議もない。俺は貧乏貴族の形ばかりの養子である。元々は平民だ。絶対階級制のこの国において、本来俺は、貴族が楽しむような休暇など甘受する資格はない。

 ただ、ただ一点――俺は、魔力を持っていた。
 この世界では、貴族しか魔力は持たない。だが、ごく稀に、平民の中にも魔力を持つ者が生まれる。そういった者は、例外なく強い魔力を持っている。平民社会では、魔族のご落胤だと嫌われる。しかし、その子の親だけは、大概の場合歓喜する。貴族に売り払う事ができるからだ。俺もその例に漏れず、両親に売られた。俺を買った貴族は貧乏だったが、それは貴族社会においてであり、平民から比べたならば大富豪だ。

 俺はそこで魔術を叩き込まれた。毎日鞭打たれながら、呼吸をするように人を屠る魔術を使えるようにと教育された。いつしかそれは、殺戮の術へと変化し、最終的には暗殺術となっていった。そして俺は――迷わず、養父の首を落とした。血腥い日々が嫌いだった。俺は、誰かを殺してまで生きていきたいとは思わなかったのだ。だから、俺に人殺しを命じる養父の息の根を止めた。

 当然俺に待ち構えていたのは、処刑だった。だが――……

「来るか?」

 あの日そう口にして、宰相閣下が俺に手を差し伸べてくれた。
 以降俺は、宰相補佐官となり――結果的には、手を汚している。だが、嘗ての日々とは意味合いが違った。行いは同じだ。暗殺業。けれど名前は異なる。俺は今、潜入調査官となったのである。学のない俺に、宰相閣下は知識を授けてくれた。だがら普段は、本来の宰相補佐官の仕事も任されるようになっている。その傍らだ。俺は、そんな現在の自分が好きだったし、生きていたいし、何よりも宰相閣下のお力になりたかった。

 その宰相閣下が「絶対に解き放ってはならない」と口にしていた古代兵器――それが、この船には積んである。俺は、宰相閣下の御心のままに、その貨物を排除しなければならない。この国で発掘されたそれを、隣国が手中に収めることを、絶対に阻止しなければならないのだ。

 緋色の絨毯を進み、俺は客室に入った。初めから用意されていた手荷物を、飴色のテーブルの上に置く。中身は見るまでもなかったが、その触感を確認するために、一応開けた。これは――宰相府から支給されている、潜入調査官専用の暗殺用具だ。銀の拳銃を手に取り、俺は一度くるりと回してみた。

 それから階下に降りて、二階のカジノの前に立った。別段興味は無い。賑々しい華やかな空間は、俺の苦手とする所だ。だが、ここに、古代兵器持ち出しの主犯がいると、俺は知っていた。昨夜、宰相閣下から見せられた写真を思い出す。セピア色の写真は、最近復古された技術で、貴族達がこぞって撮りたがる人気の品だ。

 ギギギと音がして、硝子製のカジノの扉が開かれた。俺は開けてくれた従業員に会釈してから、黒く細い絨毯の上を進む。地味なのに派手に思える黒。それが不可思議だと思いながら顔を上げ――そして息を飲んだ。

 正面の休憩卓に肘をついて酒を飲んでいる男が、じっと俺を見たからだ。
 ニヤリと右の唇の端を持ち上げたその男こそが、俺の今回の対象者である。

 彼の表の顔は、隣国へ平民を亡命させる義賊的な貴族だ。
 この船の地下の客室にいる平民達は、自由な隣国への脱出を願っている。
 男は、その手助けをしているのだ。その影で、古代兵器を運び、隣国と癒着しながら。

 面識などない。だから、気づかれたとは思いたくなかった。
 だが、明らかに俺を値踏みするような絡みつく視線を投げてきたから、焦燥感に駆られる。平静を装い、俺は唾液を嚥下した。瞬きをしながら、それとなく視線を逸らす。ルーレット、ポーカー、そういったゲームを眺めるフリをしながら、現在時刻を確認した。まだ、朝の十時を回った所だ。ジャケットから銀のケースを取り出して、俺は煙草を一本手にとった。煙草は、動揺を落ち着けるには良い。周囲の評判は良くないが、俺はそう思っている。とはいえ、吸い出してからまだ半年だ。俺は法定年齢を厳守して、二十歳になった半年前に初めて吸ってみたのである。――宰相閣下と同じ煙草だ。ずっと憧れていた。

「火を」

 その時声がかけられた。顔を上げると、対象者――カルヴァレノ伯爵が俺を見ていた。先程まで座っていた席から、この一瞬で気配なく、如何様にして俺の前に現れたのか。俺はそれが非常に気になった。だが、それよりも……目があった瞬間に、背筋がゾクッとする肉食獣じみた視線を向けられていた事実に、心臓が凍りつきそうになった。思わず短く息を飲んだ俺の前で、彼は鈍銀のオイルライターの蓋を開く。カチリと、音がした。

 ――バレているのだろうか?

 俺が殺しに来たと、露見しているのだろうか?
 早鐘を打つ鼓動を必死で制する努力をしながら、俺は彼を見た。

「貴方のような美人が一人では、すぐに丸裸にされるぞ」
「え?」
「この俺がついているからには、もう心配はないがな」

 そう口にした瞬間、伯爵は、それまでの気配を一変させた。
 一気に体から力が抜けた俺は、煙草に火を貰う。甘いラベンダーの香りと紫色の煙が、細い煙草から広がった。

「歳はいくつだ?」
「二十歳です……」
「ならば次の誕生日の祝いとして、21に賭けよう。俺のチップ全額で」

 伯爵はそう言って楽しそうに笑うと、俺の腰を抱き寄せた。何が起きているのかわからない俺の前で、ルーレットが回り出す。赤黒赤黒と茶色い球が転がっていく。

「よし、勝った」

 固唾を飲んで見守っていた俺の前で、伯爵がそう宣言した時、周囲からも歓声が上がった。ホッと一息ついた俺は、煙草の煙と共に安堵を吐き出した。

「祝おう。この船の出立と君の次の誕生日を」

 貴方から君に変わった二人称――伯爵は、ニヤニヤと俺を見て笑っている。完全に子供扱いされているのが分かった。だが、それで良い。その方が都合が良かった。俺は、目の前に「プレゼントだ」と言われて置かれた、莫大な量のチップを一瞥しながら、小さく頷いた。

「ありがとうございます」
「――意外だな。断られると思っていた」
「え?」
「美人とは大概の場合、つれないものだ」

 クスクスと表情豊かに伯爵が笑った。こうしていると、とても悪人には見えない。
 光により金にも見える彼の黒茶の瞳が、俺を真っ直ぐに見ていた。漆黒の前髪を片手で後ろに持ち上げながら、伯爵はもう一方の手で俺の腰を軽く押し、すぐそばの席へと促した。おずおずと座った時、彼が指を鳴らした。パチンと小気味の良い音が響いてすぐ、俺達の前には高級なシャンパンが運ばれてきた。

「名前は何と言うんだ?」
「ソルトです」
「良い名前だな」

 本当かよと俺は突っ込みかけた。両親が適当に『塩』と名付けた俺の名前だ。本名である。平民に多いのだ。貴族には、このような名前はあまりない。話を広げる種になればと思って、俺は口にしたのである。

「私はエルグランド=カルヴァレノ伯爵だ。ああ、爵位は気にしなくて良い。この場では不要――君の興味を引く以外には、な。気軽にエルと呼んでくれ。先に断っておくが、独身だ。二十八歳の寂しい独り身でね。常に君のような美人の配偶者を求めている」

 聞いていた周囲が吹き出すのが分かった。それもそのはずだ。俺は、男だ。
 配偶者――妻になどなれるわけがない。法的に無理である。

「からかうのはやめてください」

 少しムッとして俺が言うと、伯爵が首を傾げた。

「何もからかってなどいないさ。一体私の発言のどこに揶揄があったと言うんだね?」
「配偶者」
「――何も婚姻だけが、寄り添う証では無いだろう。そう例えば――ああ、指輪だ。この指輪を君に贈ろう。私達の愛の証に」

 伯爵はそう口にすると、右の人差し指から銀色の指輪を引き抜いて、俺の手を取った。ブカブカのその指輪は、俺の左の中指の上で輝きだした。アイスグリーンの優しい色をしたサファイアの薔薇が、大げさに光る指輪である。一瞥しただけで、これが数千万はくだらない代物だろうと分かった。

「伯爵は……同性愛者なんですか?」
「いいや? 女性も男性も等しく愛する事が可能なだけだ。ただし今は、この愛を、ソルト――君だけに注ごう」
「どうして?」
「一目惚れだ。言わせるな、恥ずかしい」

 俺は思いっきり咳き込んだ。本当に恥ずかしい。伯爵の頭はおかしい。
 こうして見た時――俺の中で、伯爵を見る目が少し変わってしまった。
 潜入調査の対象者であり暗殺対象である人間を、俺は好ましいと思ってしまったのだ。馬鹿な奴だな、と、微笑ましくなってしまったのである。元来俺は軽薄な人間が嫌いなのだが、何故なのか伯爵の距離感は俺にとって気安かった。ずかずか踏み込んでくるのだが、つい許せてしまう。それは、物腰が本当に丁寧で、奥深い所では一線を引いているのが気配から分かったからかもしれない。彼が、このように冗談を交えて、カジノでかもにされそうになっていた俺を守ってくれようとしているのが、非常によく分かったのだ。

「ソルト、昼食は既に誘いがあるか?」
「いいえ」
「では、一緒にどうだ? ご馳走しよう、この船のシェフとは顔見知りでね。特別に、君のためのデザートをお願いしておこう」
「……ありがとうございます」
「好きな果物は?」
「桃です」
「桃? ならば次の酒は、マイネースの新作にしよう」

 伯爵は、その後も俺をもてなしてくれた。
 ――昼食は、暗殺の絶好の機会だ。終始用いる毒殺用の薬を思案していた俺は、飲みやすいシャンパンを気づけばクイクイ開けていた。無意識だった。



「……っ」

 目を開けた時、俺は酩酊感に襲われながら、柔らかいソファに寝転がっていた。横長のソファの上で、腕を持ち上げて、手の甲を額に当てる。最初、自分がどこにいるのか分からなかった。そしてすぐに、ハッとして息を飲んだ。

「目が覚めたか?」
「あ」

 飛び起きると、テーブルを挟んだ向かいの席で、パイプを燻らせている伯爵が目に入った。琥珀色のウイスキーをロックグラスで飲みながら、彼は柔らかく微笑んだ。

「飲ませすぎてしまったな」
「ご、ごめんなさい……」

 素早く室内を一瞥し、ここが客室であると理解した。間取りから、俺と同じ階の部屋だと判断する。運び込まれている調度品の中に、写真で見たカルヴァレノ伯爵家の紋章があるのを見て、ここがエルグランド伯爵の部屋なのだと理解した。

 何もされていないことを咄嗟に確認した。幸い、俺に命の危機は無さそうだった。時計は、午後の二時手前を指している。

「何もしていない」
「っ」

 その時放たれた言葉に、心を読まれたのかと思った。だが、すぐに違うと気づいた。

「誓って俺は真摯だ。酔っている人間の寝込みを襲ったりはしない」
「……」
「けれど目を覚ましている、麗しく酔っている人間を襲わない自信はないぞ」
「な」
「ずっと眠っているソルトを見ていた」

 グラスとパイプを置き、伯爵が立ち上がった。狼狽えている俺の前に歩み寄ってきた彼は、毛足の長い絨毯の上に膝をついてから、そっと俺の頬に手で触れた。

「本当に綺麗だな」
「言われたことが無いです」
「それは周囲に見る目が無いんだ」

 果たしてそうだろうか? どちらかといえば、伯爵がB専というか……不器量な人間を美しく思ってしまう審美眼の持ち主である気がした。きっぱり言っておくが、俺は美しい方の人間ではない。貧弱な体型の、目ばかりがギョロギョロ大きい、不格好な人間だ。あるいはもう少し俺が美しかったならば――……宰相閣下も少しは俺を見てくれるだろうか? そう考えて俯いた。同性愛者は俺だ。

「好きな相手がいるのか?」
「え?」
「想う相手を思い出している顔をしていた。そういう表情は、よく分かる」
「っ」
「私に慰めさせてくれないか? すぐに、忘れさせてやる」

 じっと伯爵が俺を見た。そのあまりにも透き通った真剣な瞳に、俺は気圧され――飲み込まれていた。目を見開いた時、唇を奪われた。息を詰め、ソファの上で交代しようとしたが、背もたれに阻まれる。

「ん」

 そのまま舌を絡め取られ、そして――俺は激しいのに優しいキスを受け入れた。
 俺が震えているうちに、リボンがするりと解かれる。
 それが落ちてすぐ、シャツのボタンに手をかけられた。あまりにもの手際の良さとキスの上手さに、酒の酔いではなく空気に酔って、俺はぼんやりと瞬きをした。すると、その時再び、肌がゾクリとした。見てしまったからだ。伯爵の、肉食獣のように変わった瞳を。



「ぁ……あっ、ああ……」

 伯爵の舌が蠢く。口淫され、俺は両手で唇を抑えた。しかし声が漏れてしまう。腰に力が入らない。ゾクゾクと這い上がってくる射精したいという欲求に、俺は目を潤ませる。俺の太ももを右手で持ち、左手を陰茎に添え、ねっとりと伯爵が口を動かす。俺には、既に抗う術などない。太ももを撫でられながら、俺は腰を揺らす。俺の肌を撫でていた指は中へと入って来たのは、そのすぐ後のことだった。

「ひゃっ……ン……」
「力を抜いてごらん。何も怖くない。何一つ、酷いことはしないからな」

 吐息に笑みを乗せながら俺を指で暴く伯爵は、充分酷いと俺は思っていた。
 いつか、そういつか――俺は、宰相閣下に抱かれてみたいと思っていた。つまり、男に。けれど、実際に男に抱かれた経験など俺には無い。どころか、女性との経験すらないのだ。そんな初めての俺の体を、伯爵は優しくも強引に開いていく。二本の指が入りきった時、それを振動させられた。

「ああっ、あ、あ、あ」

 響いてくる甘い疼きに、俺は声を上げる。すると気を良くしたように、香油の瓶から薬液を追加して、ぐちゅりと動かす指をさらに一本伯爵が追加した。三本の指に翻弄され、俺の体が解けていく。

「あ!」

 その時俺は、知識だけで知っていた前立腺を見つけ出された。

「ここが好きか?」
「あ、いやっ、あ……ああっ……」

 全身が震える。俺は涙ぐみながら、小さく顔を振った。ジンジンと体が熱くなっていく。痺れるような快楽が――怖くなった。ここに来て初めて、俺は伯爵を押し返そうとした。

「やめて……もう、やめて……」
「残念だが、もう逃せないな」
「ひっ!」

 この時になってようやく――俺は、捕食されている事に気がついた。獰猛な瞳をした伯爵が、俺の首筋に噛み付く。

「やぁあっ」

 陰茎から離れた手が、俺の乳首を嬲り、胸と中を同時に刺激する。唇もすぐに逆側の右の乳頭を挟んだ。チロチロと舌先で責められた直後、甘く噛まれて俺は嬌声を上げた。

「ああああっ」

 そして、伯爵が中に入ってきた。ゆっくりと、だが実直に挿入された太い肉茎は、俺の知らぬ奥深くまで進み、全身に快楽を響かせた。伯爵が腰を揺らすたび、俺の声帯は、あ、あ、あ、とあられもない音を漏らす。俺の太ももを持ち上げて、感じる場所を的確に伯爵は突き上げる。

「いやああっ、ああ、ああっ」
「気持ち良すぎて嫌か?」
「あ、あ、あ」
「ここが好きらしいな」
「ひあっ! あ、ン!」

 何度も何度も突き上げられ――その内に、俺は自分で腰を動かし始めていた。

「もうだめぇっ、あ、出る、やっ」
「何度でも果てれば良い」
「あああああああああああああああああああああああ!」

 そのまま強く打ち付けられて、俺は放った。その後も、体勢を変えられ、俺は何度も体を貪られた。


 俺が我に返ったのは、伯爵の部屋の湯船に浸かっている時だった。
 ――ヤってしまった。
 そう思った時に我に返ったものだから、瞬時に俺は赤面した。カッと頬が熱くなった。

 なんという事だ――対象者との接触は望ましいが、親密になって警戒心を解くことは必要だが、俺はこれまでに体を使ったことなんて一度もない。完全に想定外の事態だった。慌てて外へと出る。そして、大切に鏡台へと置いた指輪を俺は見た。俺は、夢現に、伯爵にもらったその指輪を愛おしいと思って、大事に大事にそこに置いたのだ。隣には自分の安っぽい時計がある。夜の七時を回っていた。それらを身につけ、服を着て、俺は外へと出た。すると伯爵が、書類を眺めていた。すぐに俺に気づくと、顔を上げて微笑する。

「食事に行こうか」
「……あの……」
「なんだ?」
「……っ」

 俺は――この場においても、また真っ赤になってしまった。伯爵が視界に入った途端、意識して体が硬直した。頬が熱い。俺は、もう伯爵の事しか考えられなくなっていた。体に絆されたと言われたらそれまでだろうが――伯爵を見るだけで、胸が高鳴る。このような生々しい動悸を俺は知らなかった。宰相閣下を前にしてすら、このようにドキドキした事は無かったのだ。もしもこれが、恋という名前をしているのだとしたら、俺はこれまで恋を知らなかったのだろう。俺は――確かにこの時、伯爵に恋していた。正しく恋していると思う。そうでなければ、この鼓動の音の説明がつかない。

 今のこの瞬間が、これまで生きてきた中で、最も幸せだ。

「――そんな顔をしないでくれ。もう一度欲しくなる」

 伯爵は書類を投げるようにテーブルに置くと、立ち上がって俺へと歩み寄ってきた。そしてそっと屈んで俺の頬に触れると、じっと俺を見た。この、じっと、そう、じっと見る視線が駄目なのだ。俺は、絡め取られる。全てを支配されそうになるのだ。

「あ」

 降ってきた唇は、荒々しくも優しい。そのまま深くキスをした。俺は、恐る恐る伯爵の背中に手を回す。そして――無性に幸せだと思った。満たされた気分になった。

 そのままもう一度体を重ね、風呂には一緒に入りそこでも体を繋ぎ、そうして――夜の十一時を回る頃、二人で遅い食事へと向かった。俺はもう、伯爵の虜だった。

 ――殺さなければならないというのに。

 それだけは、間違いはないのだ。仮にいくら心が疼こうとも、そして宰相閣下への想いが恋で無かったと分かっても、俺は閣下を裏切るわけにはいかない。そう念じながら食べたラムのステーキは、味がしなかった。


 爆発するような音がしたのは、俺達が食事を終えたまさにその時だった。

「何?」

 思わず呟いた俺の手を、ギュッと伯爵が握った。そして、静まり返った周囲から守るように抱き寄せた。

「地下だな」

 伯爵が真剣な顔をしていた。俺はこの時、笑顔以外の表情を初めて見た。まだ俺は、彼の様々な表情を知るほど、長い時間一緒にはいないのだ。

「氷山です。座礁しました!」

 誰かが駆け込んできて、叫んだ。見れば、乗組員が、食事中だった船長に、動揺したように声をかけていた。また一拍、その場は静まり返った。張り詰めた緊張の糸を途切れさせたのは、響いてきた女の子の声だった。

「ひょうざんってなぁに?」

 瞬間、俺は脳裏に氷の塊を思い浮かべた。おそらく俺と同じ人間が大多数だっただろう。それに自然と答えようとしたその子の母親が――顔面蒼白になって叫んだのだ。

「沈没するの……?」

 まさか、と、誰かが息を飲んだ。そこからざわめきが広まり始めた。一人、二人、と客達が立ち上がる。そして――入口へと殺到した。倒れるグラスやボトルの音、硝子が割れる激しい音色。それらに俺が目を見開くと、伯爵が俺の頭を軽く抑えて胸に押し付けた。

「落ち着いた方が良い。まだ動かない方が良い。何より、船には安全装置がある。そもそも貴族だらけだ――魔術師だらけだ。海に出てまだ一日だ。最悪、魔力で動力を代替させて、港まで戻ることも可能だろう」

 冷静なその声に、俺は異常な程安堵させられた。
 それから、人混みが落ち着いてから、俺は伯爵に手を引かれて、レストランの外へと出た。船長に話を聞かないのかという愚問を発した俺に、今は囲まれているからなと苦笑していた伯爵は、甲板へ行こうと語った。それに俺が頷いたその時――「っ!」

 船が唐突に傾いた。転びそうになった俺を抱きとめ、伯爵が壁に手を付く。壁に掛かっていた高そうな油絵が落下した。慌てて俺は、風の魔術で足場を確保しようとした。指で術印を汲む。そして、気づいた。

「え」
「――魔術封じの結界が作動しているな」
「な」
「……使えん。俺も魔術を、何一つ」

 伯爵がそう言って指で十字を切った。一番初歩の、火を灯す魔術の術印だ。しかし、何事も起こらない。書類で見た限り、伯爵は膨大な魔力の持ち主だ。その人間が、このような初級の魔術に失敗するとは、いくら動揺していたとしても考えられない。

「結界? どうしてそんなものが?」

 思わず俺が聞くと、スっと伯爵が目を細めた。

「君では無いんだな?」
「え?」
「――このような時に言うべきことではないかもしれないが、いいや、このような時だからこそ言うべきか。君は、宰相閣下の補佐官――……子飼いの殺し屋だろう?」
「っ」
「この船には、多くの古代兵器が積まれている。それは、宰相閣下が忌避している代物だ。彼ならば、船ごと落とすくらいやりかねない」
「……閣下は、そのような方では……――だって、そんな事をしたら、多くの人命が――」
「人命、か。君は、そうか、知らないんだな、古代兵器の正体を」
「え?」
「私のことは、古代兵器の運び屋とでも聞いていたのか?」
「……それは」
「正直に答えて良い。この際だ、真実を知ると良い。いいか? 宰相閣下が言う古代兵器というのは――私から見れば人間だ」
「え?」
「その昔、生体兵器が作られたんだ。それこそ”中世以降”という空白の時代に。それは人間と同じ体を持ち、そして、人間と同じように魔力を埋め込まれていた。一部の貴族以外には使用できなかった魔力を持つ兵士が人為的に生み出され、人の代わりに戦争を行っていたんだ。その人工物――人工的な兵士の末裔が、今で言う『平民』だ。しかしながら、既に兵士としての力はなく、彼らは魔力を持たない」

 伯爵はつらつらと語りながら、傾いた壁に背を預けて、俺をさらに強く抱きしめた。

「だが、時折先祖返りのように、魔力を持つ者――古代兵器と同じ存在が生まれる。そういった人間を、人間ではなく”古代兵器”と宰相閣下は呼ぶんだ。抹殺しなければならない存在だと。そして私は、彼らもまた人間であると考えているから、隣国への亡命を手伝っている。この国で貴族の養子になり、日の当たらない場所で延々と飼われる事よりも、自由な大地を望む平民もいるんだ」

 俺は押し黙った。何を言えばいいのか分からなかった。

「私は君の事を知っていた。君もまた、古代兵器だからだ」
「!」
「君の仕事ぶりを調査させていた。そして――宰相閣下に、解放してはどうだと先日口にした事がある。私は、君のような人間を、良いように使う貴族が好きではない。人権は等しく守られるべきだからだ。例えば、隣国のように。だからといって、この二百年に及ぶ戦争で未だ決着がつかない隣国に、今更屈しろと言っているわけではない。和平という道もある。亡命した平民達には、その架け橋になって貰いたい。そして自由に囚われずに生きて欲しい。ただ、それだけだ」

 何故なのか震えが走り、俺は俯いた。すると、さらに強く伯爵が俺を抱き寄せた。

「一目惚れというのは、嘘だ。私はね、長らく君を調査させていて、君を知っていて、そして――……いつも手を汚す度に苦しそうな顔をする君の優しさに、いつしか惚れていたんだ。気が付くと、話した事もない君のことばかりを考えるようになっていた」
「え……?」
「そして、今回初めて話して、すぐに恋に落ちたんだ」
「あ……」
「私は君が好きだ。だから――安心してくれ。命に代えても君をこの船から生還させる」

 そう言って伯爵は俺の唇に、触れるだけのキスをした。俺は両腕を回して、伯爵の温もりを味わった。

 その後は、船からいかにして”みんなで”生還するかを、俺達は考えることになった。古代兵器が自分や、平民の魔力持ちだと聞いても――俺は、やはり人間だ。人間となれば、話は別だ。仮に全てを消し去る事が、宰相閣下の御心だとしても、俺はそれには従えない。

 だが――どんどん船は傾き、水が忍び込んでくる。
 このままでは、沈没は時間の問題だった。
 そこに来て、救命ボートは全て穴があいている事、救命用具は数が足りない事が明らかになった。どう考えても、自体は作為的だった。けれど、本当に宰相閣下が? 俺にはそれが分からない。いいや、分かりたくなかった。何せだとすれば――宰相閣下は、俺のこともまた葬り去ろうとしたという事だからだ。伯爵は、「私が余計な事を言ったせいだ」と俺を慰めてくれたが、俺はそうは思わない。理由は、見つけたからだ。本来、宰相府からの支給品には入っていない、一つの毒薬を。それは、自決用の硫酸カリだった。

「伯爵……」
「エルと呼んでくれと言っただろう」
「……もう、諦めよう」

 俺は毒薬を手に、ポツリと呟いた。どう足掻いても、船は沈む。救助も来ないかもしれない。

「どうしてだ?」
「俺は、伯爵と会えて、伯爵に恋ができて、今日が人生で一番幸せだった。だから、もう、良い」
「――恋?」

 思わず口にしていた俺は、ハッとして顔を上げた。すると俺をまじまじと見てから、伯爵がこれまでには見たことのない表情で笑った。破顔した彼は、俺をまた抱き寄せると、額に口づけた。

「私に惚れてくれたのか?」
「っ……」
「ありがとう。私もまた、今日が人生で最高に幸せな一日となった――だからこそ、諦めきれない。私は終わりを認めない。ソルトと必ず一緒に帰って、そうだな、白い犬でも飼うか。育ったら、俺が不在時に、君を守ってくれるような、勇敢な犬になるように」
「本当に生きて帰れるなら……俺は、エルがいたらそれで良い」


 ――船が沈没したのは、そんなやりとりをしてから、三時間後の事だった。




 次に気づいた時、俺は病院のベッドに寝ていた。最後の記憶は、暗い海で体温を奪われながら、必死に喘いでいた事だ。あの後、どうなったのだろう? そう考えながら、ぼんやりと体を起こし、俺は周囲を見渡した。特別室らしかった。俺が宮廷関係者だからだろうと判断する。まるで全て夢だったかのような感覚になりながら、何とはなしに、俺は左手を見た。そこには――確かに、伯爵に貰ったアイスグリーンサファイアの指輪が光っていて、緑の薔薇は咲き誇っていた。伯爵は?

 海に落ちた時、俺は伯爵と離れ離れになった。それが、最後に伯爵を見た記憶だ。
 全身が震えた。扉が開いたのは、その直後の事である。

「良かった、目が覚めたのか」
「宰相閣下……あ、あの……」
「結論から言えば、カルヴァレノ伯爵は無事だ。安心しろ」
「!」
「――その表情、恋人になったというのは、奴のデマではなく事実なのか」

 宰相閣下はそう言うと、深々と溜息をつきながら、俺に歩み寄ってきた。

「無事で良かった。それと弁解させてくれ。確かに俺は古代兵器を疎ましいと思っているが、お前を殺そうなどと考えたことは一度もない。今回の任務は、あの恋に浮かれた伯爵が、わざわざ長々と先日、お前への想いを俺に告白していったから、珍しく気を利かせて出会いを演出しようとしただけだ。調査をすれば、暗殺不要という判定が下ると判断していたんだ――が、沈没に関しては、本当に俺は知らん」
「え」
「伯爵が何を吹き込んだかは非常に気になるが――まぁ、なんだ。誤解だ」
「も、申し訳ございません……」
「謝るということは、俺を疑ったんだな。まぁ、真っ当だ。俺がお前でも疑うだろう」

 そう口にしてから、宰相閣下が腕を組んだ。

「沖から、お前と伯爵の恋物語のチェックをしていた俺が、すぐに事故に気づいて、救助船を向かわせたから、現在に至るまで死者はゼロだ」
「!」
「俺にとっても、古代兵器は古代兵器であっても、等しく人間だ。それだけは伝えておく。俺が憎む古代兵器は、もっと機械的な大量殺戮兵器の類であり、それはソルトではない」

 宰相閣下はそう言うと、苦笑するように俺を見た。

「早く元気になって、仕事をしてくれ」

 俺は宰相閣下の優しさに涙した。やはり、宰相閣下は、俺にとっての救世主である。
 疑った自分を恥じた。

 だが――伯爵に惚れた自分の事もまた、俺は恥じない。

 見送ってからすぐに、俺は病室を出て、伯爵を探した。そして、病院の中庭で平民達に食事を振舞っている伯爵を見つけた。伯爵は俺に気づくと微笑して、似合わないギャルソンエプロンを放り投げると歩み寄ってきた。

「――宰相閣下には、借りが二つも出来てしまったな」
「二つ?」
「船の救助、もっともこれは、国民の災難であったから彼の当然の仕事ともいえるがな」
「もう一つは?」
「――出会いを演出してもらった。気付かなかった。てっきり彼は、私殺すつもりだったと信じていた。ソルト、私は自分が情けないが、そんな情けない私でも好きでいてくれるか?」

 伯爵はそう言うと、正面から俺を抱きしめた。嬉しくなって、俺は目を伏せた。
 答えは決まっている。

「大好きです」