兄弟




 僕には、義理の兄がいる。幼少時に両親を亡くした僕は、伯父に引き取られた。伯父も、ファレス伯爵領地を預かっていたのだが、その恩義に忠実に、戦に出て亡くなった。伯母は殉死した。残されたのは、兄上と僕である。ただし兄上も養子だったから、僕達に血縁関係は無い。元々僕の伯父は、兄上が成人するまでの間、この領地を預かっていたらしい。詳しいことは、僕にはよく分からない。分からない――昔はそれで許された。しかし僕も、もう十六歳である。いまだに、戦で剣をふるってばかりで、僕には学識がない。もっとも、兄上は、僕には学識など不要だという。取り柄は剣だけなのだから、と。

 本来、ファレス伯爵家は、魔術師の家柄であるらしい。そして養子とは言え生まれつき貴族の出自である僕も、本来であれば魔術を使えるそうだった。しかしながら、僕は物心ついてから、一度も魔術を使ったことがない。兄上はいつも、そんな僕を、無能と罵る。魔力を持たない僕を監視しておかなければならないといって、ルビーのはまった指輪を僕の薬指にはめたのは、僕が五歳の頃だ。僕はその時、庭に降りてきた鳩と話をしていた気がするが、魔力のない僕にはそのような動物との意思疎通などできるはずもないから、白昼夢なのだろう。

 僕は、兄上の役に立ちたかった。
 だから、精一杯、剣技を磨くことにしたのである。馬の駈り方も学んだ。
 ――兄上は、剣も馬も不得手だ。だから、役に立てると思ったのだ。

 しかし僕がそれらを収めた時の、兄の冷たい眼差しを、僕は忘れられない。
 凍てつく瞳で睨めつけられて、心臓がいっとき鼓動を止めた気がした。
 兄上は、僕を嫌悪していると、最初に気づいた九歳のある日だった。冬だったと思う。
 十歳の頃、僕が書庫の分厚い本の丸い画に刻まれた文字を読んでからは、知識を得てはダメだと兄上は言った。そしてその年の秋には、戦場へと送り出された。以降僕は、剣により力を入れている。ただ、僕にはあまり筋肉が付かない。

 庭で。
 僕は白い薔薇を見ていた。声をかけられたのは、その時のことである。

「美しいですね」

 薔薇のことだと疑わず、僕は振り返った。
 そこに立っていたのは、この国の第二王子殿下で、狼狽えてから僕は膝をついた。
 すると顎を持ち上げられて、唇の中に二本の指を差し込まれた。
 舌を嬲られ、僕は息苦しくなった。
 茂みが揺れたのはその時のことであり、僕は怯えながらそちらを見て、兄上を視界に捉えた。助かったと思った。だが、兄上は僕を一瞥して、そのまま立ち去った。

 殿下の寝室に呼ばれたのは、その日の夜だった。
 急な滞在をして、翌日旅立った殿下を、僕は兄上と共に見送った。

「――伯爵家が男妾を抱えることになるとはな」

 殿下の姿が見えなくなってから、兄上が冷ややかな声でそう口にした。
 驚いて僕は顔を向けた。僕はてっきり、兄上に売られたと思っていたからだ。
 この時から、僕の胸の中には、小さな刺が刺さっている。
 尋常ではなく悲しかったことを覚えている。

 それでも、僕は兄上に言われる通りに戦場へと出た。やはり、兄上の力になりたかったのだ。そして僕には、剣以外は、何もなかった。その後も時折、殿下が訪れては僕を抱いていくようになったが、僕はそれも辛くても耐えた。抵抗すれば、領地は取り上げられる。それくらいは学がなくても知っていた。

 兄上に殴られたのは、昨年のことである。

「二度と殿下を寝台に上げるな。殿下は、御成婚されたんだ。わきまえろ。お前の事など、ただの遊びだ」

 何を言われたのか、はじめは分からなかった。突然やってきて、突然頬を叩かれたのだ。呆然としていると、襟元を持たれた。

「そんなに男の体が欲しいのなら、くれてやる」

 兄上はそう言うと、僕に噛み付くように口づけた。
 そのまま押し倒された時、僕は、いくら血の繋がりがないとはいえ、兄弟でこのようなことはすべきではないと、抵抗しようとした。すると兄上は目を細めた。

「殿下は良くて、俺はダメだというのか? 俺を、見下しているんだな、やはり」

 僕は、抵抗をやめた。そんなはずはなかった。僕は、兄上を見下したことなどない。それは、兄上だ。僕は、シーツを握り締め、それから痛みに喘いだ。そこにあったのは快楽ではなく、紛れもない暴力だった。

 丁寧で優しいだけ、殿下のほうがましだとも思い――続いてすぐに僕は気づいた。殿下には嫌悪しかなかったが、兄上の腕に抱かれた時、確かに僕は満たされていたと。兄上の腕の中にいることが、どうしようもなく幸せだったのだ。そう気づいてからは、もうダメだった。兄上が僕の寝室へと足を運んでくれる度、僕は歓喜に震えた。そんな僕を軽蔑するように、いつも兄上は見ていた。汚らわしいと、快楽に涙する僕の陰茎を撫でながら、兄上は言う。それでも僕は、兄上と繋がれる幸福に、夜毎浸っていた。

 ――また戦争が始まったと聞いたのは一昨日のことである。
 僕は、僅かな間の兄上との別れを辛く思ったが、兄上は何も言わず、いつもどおりの冷たい瞳で僕を見ていた。




 そして。
 僕は、いつかはこんな日も来るだろうとは思っていたのだが、敵の魔術で負傷した。
 足を痛め、歩けなくなった。伯爵家へと戻され、今は寝台の上にいる。
 白いシーツの上に、上半身を起こして座りながら、窓の外を見ている。

 傷が治っても、もう僕は左足が動かないのだという。
 だが、もう戦場には出られないという。
 起きた時、左の足首に見知らぬサファイアがついたリングがはまっていたから何かと思ったら、兄上が「無様だな」と言って、歩けなくなった事について僕に教えてくれた。

 何かが――僕の胸の中で、砕け散った気がした。
 兄上がいなくなってから、僕は気づくと声を押し殺して泣いていた。
 どうして自分が泣いているのかは、わからなかった。
 今も、わからない。窓の外を見ているだけなのに、僕の双眸からは涙が流れる。

 兄上は、その日以来、この部屋には来ない。
 もう一ヶ月になる。体を壊した僕に、兄上は、もう興味がないのだ。
 抱く必要もないということなのだろう。元々そんな必要はないのだが、兄上はおそらく僕には、男の体が必要だと誤解していたのだ。しかしもう二度と外へと出ないのだから、誰かを誘惑することもないと兄上は考えているのだろう。

 世界の全てが色あせて見える気がした。
 もう、もう、もう無理だ。僕は、もう何を目指して抱いて、呼吸し、生きていけばいいのかわからない。気が狂いそうだ、そう思って泣くのかもしれない、けれど同時に心は乾いていて、砂漠のようで、なのに熱くはなく冷たくて、わけがわからなくなる、混乱する、結局僕は、感情の奔流と何もない現実の狭間で身動きがとれなくなっているだけで、あゝ。

 ボロボロと僕が泣いていた時、扉が軋む音がした。
 緩慢に視線を向けると、そこには兄上が立っていた。
 驚いたように、息を飲んでいる。なぜそんな顔をするのだろうか。
 僕のことなど、どうでも良いくせに。もう、憎む価値すらないと思っているくせに。
 僕は思わず兄を睨んだ。その間も涙が止まらない。
 心に刺さった刺は、心が砕けた時に、どこかへ行ってしまった。
 もう兄上を見ても切なく胸は疼かない。
 兄上に愛されない自分に対しての絶望しかない。
 そして、僕を見てくれない、兄上が大嫌いになっていた。これは、憎悪かも知れない。

「――そんなに、その」
「……」
「ショックだったのか? 足の件は」
「……もう、剣を使えませんから」
「あのように危険で野蛮な武器を好む心境がしれない」
「兄上の力になりたかっただけに決まってるじゃないか」
「っ」
「僕だって別に好きじゃない」

 いつものように言葉を抑える事ができなかった。
 僕は泣いたまま、兄を睨みながら、口早に告げていた。

「出て行ってくれ。兄上なんか見たくない」
「お前……――心配してわざわざやってきた兄に対してその言葉は一体何だ?」
「兄上なんか大嫌いだ」

 そう言って僕が泣くと、兄上が少しだけ狼狽えたような顔をした。
 歩み寄ってきた兄上は、しばしの間寝台のそばで僕を見ていた。
 その視線が辛かった。自分が何を言っているのか、僕もよく分からなかった。

「――お前は、歩ける」
「気休めは良いです」
「違う、歩けるんだ。悪かった。お前に危険な目にあって欲しくなくて、歩けなくする呪術の足輪をはめたのは俺だ」
「……え?」
「魔力もそうだ。お前は体が弱いから、筋肉もつかないだろう? だから膨大な魔力に耐え切れずに、いつ心臓が止まるかと恐ろしくて、左手の薬指に、魔力封じの指輪をはめたのも俺だ――もっとも、それは今の話で、はめた当時は、俺よりも何もかもに優れたお前が憎かったというのもある」
「……」
「けどな、俺もまたお前が憎くて大嫌いでならないが――……お前が殿下に抱かれた時、不可思議なことに、俺が憎悪したのはお前ではなく殿下だった。嫉妬だ。兄弟だからと俺は我慢してきたのだと気づいた。だから殿下の縁組の根回しをして、やつを結婚させた」
「……」
「俺のことを憎め。それでいい。俺はお前の指輪も足の輪も外すつもりはない。もう、お前を外へは出さない。泣け、そして俺のことだけを考えろ」

 そう言って、兄上は俺の顎に手を添えた。唇を重ねられ、僕は目を見開いた。
 ――憎む?
 僕は目を伏せて涙をこぼした。そこにあったのは、愛しさだった。