赤ずきんちゃんの孫




 深紅の外套を身に纏い、首元の白いスカーフを締め直す。

 これはフェレス伯爵家の正装だ。

 ――”赤ずきんちゃん”と呼ばれた曾祖母の代より、僕の家では『善良である』と言う証明のために、紅い衣を纏う。

 留め具の鎖の位置を直しながら、僕は溜息を吐いた。
 もう夏だというのに、この服は暑い。
 幸い僕は汗を掻かない体質だから特に問題はないのだが、気分的な問題である。

 立ち止まって夕暮れの空を見上げる。

 そこは荊の森と領地の境界だった。
 祖父の見舞いの帰り道。僕のたった一人の家族だ。

 名ばかりの伯爵家の跡を継いだ僕は、昔は豪華だったのだろうが、今はただの”ぼろ屋敷”と化した家に一人で暮らしている。使用人など一人もいない。友達もいない。

 幼少時には、『仮にも領主なのだから』と民間の学校への入学は断られた。だが王都のギムナジウムに入る資産も家庭教師を雇うお金もないため、日々一人で自宅の蔵書を読んでばかりいた。

 それはほとんど今も変わっていない。

 だから外出するのは、この見舞いの時だけで、その帰りに食べるものや日用品をひっそりと購入する。基本的にはパンだけだ。

 あと数年は、両親の遺産で食いつなぐことが出来るだろうと、僕は漠然と考えている。現在僕は十九歳。貧乏貴族のなれの果てまでは想像したくはなかった。

 祖父譲りの黒髪を指でつまんでから、僕は歩みを再開した。

 今日はまっすぐ帰宅することにする。正確には、今日”も”、だ。
 ただ――早く、古いけれど豪奢なソファに身を埋めて眠りたかった。

 それから歩みを再開した僕は、街に入り、露店街へと向かった。

 そこで固いパンを買い、長い紙袋を腕に抱える。我が家には使用人など一人もいないから、食事の用意も自分でしている。僕が買いに行くと、僕を知る領民達は気まずそうな顔をするのだが、もう慣れた。

 そんなこんなで歩いていると、不意に教会前に人集りをみつけた。

「あの司祭様、素敵ね」
「ちょっと惚れ惚れしちゃうよね」
「あんなにお若いなんて。前のお祖父ちゃん司祭様とは全然違う」
「あ、こっちを見た」
「笑顔も素敵ね」

 ざわざわと街の娘達のそんな声が響いてくる。彼女達の視線の先には、端正な容姿をした司祭が一人立っていた。そういえば今朝の街の新聞に、新任の司祭が来ると書いてあった。

 金色の髪に、海のような色の瞳をした司祭は、形の良い唇で笑みを浮かべている。皆彼に釘付けだから……ではないだろうが、誰も僕に振り返ったりはしない。

 そもそも僕は、露店街の主人達を除いたら、ほとんどの領民に領主だと認識されていないだろう。滅多に外に出ることもないから、顔も覚えられていないはずだ。

 それよりは余程、今後毎週安息日の日曜にミサで会うことになる、若き美貌の司祭様の方が皆に覚えられるに違いない。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、不意に司祭がこちらを見た。

 大きな目で、まっすぐに見据えられたものだから息を飲む。まさか僕が領主だと気づいたわけでもないだろう。直後、射抜かれるような視線だと感じて息を呑む。

 ――不審者だとでも、思われているのだろうか?

 そう考えて僕は自嘲気味に笑ってから、それとなく視線を逸らし、僕は家へと帰ることにした。僕はミサには行かないので、もう会うこともないだろう。こうして今日も一日が終わっていく。




 ――家の呼び鈴が鳴ったのは、夜の九時半を回った頃のことだった。
 幸いまだシャツ姿だった僕は、何事だろうかと慌てて扉に向かう。

「夜分遅くに失礼します。フェレス伯爵」

 するとそこには、帰り際に見かけた司祭が立っていた。黒く巨大なアタッシュケースを持っている。これまでにも幾度か街のちっぽけな教会の司祭が変わることはあったようだが、挨拶に来たことはない。

 イクスフェルド正教会は、この国では一番巨大な宗教だが、全国民が信仰しているわけでもない。勿論僕のフェレス伯爵家も、冠婚葬祭は正教会式で行うが、熱心な信徒というわけではない。

 半ば驚きながら、僕は室内を振り返った。残念ながら、おもてなしを出来るような家ではないのだ。改めて思うが、本当にこの家は――昔は豪華だったのだろうこの洋館は、歴史を感じさせるが、悪く言うと屋敷中が古いためボロボロなのだ。

 それに、フェレスの街には、古い因習が一つある。

 夜の十時を過ぎたら、決して他者を家に招いては行けないのだ。今案内すれば、十時を回るように思える。この街のしきたりを、まだ司祭は知らないのかも知れない。

「ライナ・フェレス伯爵では?」
「え、ええ、はい。僕がそうです」

 沈黙していた僕は、声をかけられて慌てて答えた。

「お通し頂けませんか? 是非ご挨拶をしたくて」
「勿論です」

 気づくと反射的にそう口にしていた。笑顔の司祭を相手に、断りの言葉が浮かんでは来なかったのだ。

 扉を開け、彼を中へと促してから、紅茶の準備に向かう。立派なものは無理だが、なんとか接客の用意をしてから、僕は司祭を通した応接間に戻った。

「改めまして。俺はルイス=ヘンゼルと言います」

 その言葉に僕も名乗り返すと、司祭が長々と着任の挨拶を語り始めた。突然の来訪に驚いていた僕は、いまいち聞いていなかったのだが。それよりも時間が気になっていた。もう十時になる。だが、帰れとも言いづらい。

「――ということで、今後ともよろしくお願いします、領主様」

 ……挨拶に来るのならば、就任初日でなく、日を改めてからでも良かっただろうにと時計を見る。もう十時になろうとしていた。

 ――フェレスの街に伝わる魔の時刻が訪れようとしていた。

 やはり司祭は、それを知らないのだろうと僕は思った。教えておいた方が良いだろうかと少し悩んだ時、パチンと司祭が金色の懐中時計を開いた。

「もうすぐ十時ですね。この街では、夜の十時からは他者の家で過ごしてはならないとか」

 その言葉に、僕は目を瞠った。なんだ知っていたのかと腕を組む。僕が出した安い紅茶に、司祭が口を付けるのを見守る。それから僕もまたカップを取った。

「人狼ライカンスロープ伝承があるからですね?」
「ええ。知っていて……」

 知っていて、何でこんな時間に来たのだろう。秒針の音が嫌に耳につく。そもそも、着任早々来る必要もなかっただろうに。疑問だらけの僕の前で、その時司祭が口角を持ち上げた。

「人狼――狼は、赤ずきんちゃんを食べてしまった」

 この街には、人狼伝説が根付いている。僕の曾祖母を食べた狼が代表例だとされている。

 人語を解する狼男が夜な夜な人々を襲うというものだ。だから、人狼の時間である十時以降の来訪者は、人狼かもしれないと言うことで扉を開けないことになっているのである。

「所詮はお伽噺です」
「ただのお伽噺だったとしたら、この地へわざわざ来たりしないんだよ」

 作り笑いを浮かべた僕の前で、ぼそりと低い声で司祭が呟いた。

「赤ずきんちゃんは食べられてしまったというけれどね、伯爵。実際には――君の曾祖母さんは、狼……即ち人狼に狙われて助かった奇跡の人だとされているね」

 砕けた口調で、司祭が続けた。驚いて僕が改めて彼を見ると、司祭が足を組んでいるのが視界に入った。僕に教養はないが、書籍で読んだ限りだと、イクスフェルド正教会の司祭は、常に足を正しているのではなかっただろうか。

「その時、”猟師”が助けたとされているけど、具体的にはどうやって助けたんだろう?」
「いきなりそんなことを聞かれても……」
「知っているはずだよ。正直に答えるか、あるいは喰われるか」

 よく聞き取れずに僕が顔を上げた時、丁度十時の鐘が鳴った。

 ――屋敷の窓硝子が勢いよく割れたのはその時のことだった。

 パリンという高い音に何事かと視線を向ける。
 そして僕は呆気にとられた。
 そこには……二足歩行している巨大な狼がいたのだ。

 いいや狼は二足歩行などしないので、これは狼ではない。では何だろう? つらつらと考えてから、なるほど狼男かと結論づける。そしてそんな馬鹿なと目を伏せた。よく見ると、狼によく似た大男だった。しかし毛むくじゃらの頭部はどう見ても狼だ。

「毎夜毎夜、俺を狙って人狼がやってくるようになったのは、ひと月前の満月だ」

 僕の家の壁を破壊した狼男(?)は、ゆっくりとした足取りで瓦礫を乗り越え、こちらへとやってくる。僕はソファに座ったまま、ポカンと口を開けた。

「何とか逃げ続けてここまで来たんだよ。この国で唯一人狼伝説のあるこの街まで」
「新任の司祭じゃ――」
「それは本当だよ。ただし前任者を転属させたのは俺だ。それと俺は正確には、司祭じゃない。イクスフェルド正教会の異端審問官だ」
「異端審問官?」

 噂だけは聞いたことがある。教会は、悪魔や魔物といったものへの対抗手段として、特別機関を持っていて、そこには異端審問官がいるという話しだった。それが事実だとしたら……僕は身が竦んだ。

「約百年ぶりに出た吸血鬼退治にかり出されている最中に、その眷属だった”コレ”に目をつけられて、ずっと追いかけられてるんだよ。きっかり夜の十時から、朝の四時まで」

 司祭はそう言うと立ち上がり、アタッシュケースを乱暴に開けた。中には銀の拳銃が並んでいた。その内の一つを手に取った司祭は、銃把を握ると何でもないことのように引き金を引いた。狼男(?)がそれを避けるように飛び、大きく口を開ける。唾液が滴っていて、異様に犬歯が大きい。銃弾が肩を掠めると、その狼の耳が巨大な獣じみたものへと変わった。

「木の杭を心臓に打ち込んでも駄目、銀の銃弾でぶち抜いても駄目、十字架を見せても変化無し、聖水なんて飲み干されたよ」

 銃声が谺する。その度に、狼化が進んでいき、ついに狼男は、二足歩行の狼のような獣姿になった。先程まで存在していた人間らしい四肢も、獣のものに変わっている。呆然とするしかない。やはり、人狼?

「正教会でも徹底的に調べ尽くしたんだ。その結果、人狼に狙われてそれを振り切り生還したのは君の曾祖母――赤ずきんちゃんだけだって事が判明したんだよ」
「……」
「俺がここにいる限り、君も狙われる。今は話の最中だったから応戦したけど、俺はここからは見物するよ。正教会の結界で、一時的に人狼と距離を取れるんだ。人狼は、僕が結界内にはいると、近くにいる人間を襲うことが分かってる」

 その言葉に狼狽えて司祭を見ると、彼はアタッシュケースから一枚の布を取り出し、それを床に敷いていた。星と十字架が描かれている。その上に司祭は座った。

 すると人狼が、緩慢に僕の方を見た。僕はソファの上でのけぞった。そんな馬鹿な、というのが正直な心境だった。なぜならば人狼は――……人間の目には視えないはずだと僕は知っていたからだ。フェレス伯爵家に伝わる古文書に、そう記されていた。

 だが、人狼は僕に飛びかかってくる。

 間一髪の所でソファから飛び降り、僕は床に転がった。視線で何か武器になりそうなものはないかと探すが、ここは応接間、何もない。噛みつかれそうになったので慌てて立ち上がって、僕は逃げた。こんなのはおかしい――



 ――おかしいのだ。



 なぜならば、月に一度祖父の元へと行き、僕は人狼が人間に不可視となる結界をはっているからだ。不可視になれば、人狼は人間には触れなくなる。視えなければ、存在しないと認識されて、何も出来ないらしいのだ。それが僕の領主らしい唯一の仕事だ。伯爵家の当主しか知らない仕事だが。

 しかし――ここに人狼はいる。

 間違いないだろう。僕も実物を見るのは初めてだ。何せ僕は良い子だと思うのだ。紅い装束をきちんと纏い、寄り道も滅多にしない。だから食べられるいわれはない。

「さぁ教えてほしいな。猟師はどうやって撃退したのかを。正教会の記録によれば、おかしな事に赤ずきんちゃんの娘――即ち君の祖母と猟師は結婚したとなってる。随分と年齢差が有る上に、猟師は貴族出身じゃなかったみたいだけど。その代からフェレスを名乗ってるね」

 僕は唇を噛んだ。
 それからちらりと司祭を一瞥する。

「――異端審問官と言ったけど」
「うん、それが?」
「その……人狼を撃退するために祖父から受け継いだ力を……その」

 やっぱり僕は言うのを迷った。ようするに毎月一度会いに行く僕の祖父が、その昔人狼を退治して見せたわけである。祖父は確かに猟師だった。

 しかし狩っていた物に問題があるのだ。祖父は……人間の魂を狩っていたのである。そして曾祖母に、死後魂を寄越すように要求し、代わりに命を助けたそうだ。

 その後、曾祖母が死ぬのを近くで待っている内に、僕の祖母に惚れて結婚したらしい。

 ――僕の祖父は、人間ではないのだ。

 だから僕にも四分の一ほど人間ではない血が流れている。

 この事が露見したら、異端審問官はどう行動に出るのだろうか。
 思案していると、人狼が再び襲いかかってきた。

 まずい。このままだと、どのみち死んでしまう。

 僕は、祖父の力を受け継いでいる――今使わずしていつ使うというのだ。決意して、僕はきつく目を伏せた。脳裏にルアナ文字で構成された魔法陣を描く。

「メフィスト・フェレスの血脈の元に命じる、炎よ爆ぜろ」

 僕の言葉と同時に、人狼は破裂した。肉片がボタボタと俺の頬を汚す。体の内側に生まれた炎が爆発したのだ。

 メフィスト・フェレス……それが、僕の祖父の名前である。悪魔だ。

 おそるおそる僕は司祭へと視線を向けた。すると彼は、唇を片手で覆っていた。

 もう一方の手にはしっかりと銀の銃を持っていて、それはちゃっかりと僕の方を向いている。僕の存在は、異端審問官には果たしてどう判断されるのだろう。震えを押し殺しながら見守っていると、司祭が不意に喉で笑い始めた。

「フェレス、ね。俺はMephistophilusだと思っていたよ。シェークスピアが好きなんだ。ゲーテも嫌いじゃない。ペローやグリム童話だって嫌いじゃない。嫌いじゃないよ。ただね」

 彼が僕を見た。青い瞳が楽しそうに輝いていた。

「好きでもないんだよね。何故か分かる?」
「分からない」
「正教会の聖書を冒涜する場合があるからだ。ようするに、俺の仕事が増えるから。お伽噺の主人公の子孫かつ悪魔の孫だなんて、異端中の異端だね。俺には監視する責務がある」
「……僕はどうなるの?」
「君の出方次第だ。暫く様子を見てから、その後の判断を仰ぐために正教会への報告書を書くよ。悪くすれば斬首かな。悪魔との混血は八割方処刑されてる」
「別に好きで生まれてきたわけじゃないのに……死にたくないけど」

 俯いて僕がポツリと呟くと、司祭が気まずそうに息を飲んだ。
 なんだか泣きそうになりながら僕が顔を上げると、慌てたように司祭が手を振った。

「ごめん、そうだよね、好きこのんで生まれないよね、そんな家系に」
「……そんなって……まぁ、こんな家系だけど……」
「安心して良いよ。俺は仕事柄シンデレラの子孫や白雪姫の子孫、眠り姫の子孫も知ってるけど、みんな元気に生きてる。悪魔は残念ながら知らないけど……」
「あの、司祭様」
「何?」
「黙っていてくれませんか? 僕は何もしないと誓う。赤ずきんちゃんの子孫っていうだけでも肩身が狭いんだ。そこに悪魔の孫だという悪評が加わった上で処刑されるなんて嫌だ。せめて、領民には悪魔だと知らせないでくれませんか? 本当に大人しくしているから。現に今までだって大人しかったし、僕は、だから、その、死にたくないんだけど、それ以上に、なんていうのか……」
「領主として、伯爵として、フェレスの名前を守りたいの?」
「多分」

 自分でもよく分からない感情だったが、そうである気がした。存在感など全くない僕だが、一応これでも領主であり伯爵なのだ。処刑されてしまうにしろ、何とか事故死として公表してくれないものだろうか。難しいか。見せしめにするためには、公表するだろうか。

 しかし祖父が森で生きていることは知られていないから、良かった。僕が死んだら、祖父がこの領地に結界をはってくれるはずだ。そうでなければ、人狼が出てしまう。

「熱心なんだね。まぁいいか。少しの間、正教会への報告書を書かなければならないし、君のことを監視させてもらうから。その間は黙っているよ。”救世主の御名において”。理性があるようだからね。大抵の場合、悪魔の血を引く者は狂うんだけど」

 その言葉に僕は安堵した。こうして、少しだけ新しい僕の日々は始まった。



 ――翌朝僕は、熱を出した。

 恐らく理由は二つある。

 一つ目は、ほとんど人間である僕が、悪魔の魔力を行使した副作用のようなものだ。強すぎる力は、人体に害を与えるらしい。昨日司祭も、大抵の場合狂うと言っていた。精神的・肉体的に憔悴してしまうのだ。

 二つ目は、人狼が盛大に壁に穴を開けたせいで、夏に近づいているとはいえ、寒い夜風に襲われたからである。夜遅くまで僕は、一人で瓦礫を始末した。本日は朝一番で大工さんに連絡を取ろうと思っていたのだが、体が気怠くて寝台から起きあがるのが辛い。

 肩がずっしりと重い。何もしたくない。頭が痛い。

 僕は双眸を伏せて、一度は起きあがったものの、よろよろと近くのソファに沈んだ。

 とりあえず着替えなければならない。だが駄目かも知れない。今日は休もうか。毎日がお休みのようなものなのだが。そう考えながらも、再度気合いを入れ直して、僕はキッチンへと向かった。食欲なんて全くないが、薬湯を飲まないと死んでしまうかも知れない。

 呼び鈴が鳴ったのはその時のことだった。

 カップを持ったままで俺は、緩慢に顔を向ける。すると扉が開く音、靴を脱ぐ音がして――……続いて声がした。

「おはよう」

 堂々と勝手に入ってきたのは司祭だった。確か、ルイスという名前だったはずだ。

「司祭様、僕は具合が悪いみたいなんです。今は何も出せないんだ。本当に悪いんです」
「お構いなく――……昨日の今日だからもしかしてと思ってきてみたんだけど、やっぱり症状は出ているんだ」

 客人に何も出さないなんて悪いではないか。僕は辛い体を叱咤して、何とか紅茶を入れることに成功した。しかしカップを盆にのせようとした所で限界が来た。重いのだ。カップがすごく重いのだ。いいや違う、僕の体に力が入らないのだ。そこまで考えた時――僕の意識は途絶した。




 目を開けると、頭がずきずきと痛んでいた。

 手を添えると包帯が巻いてあった。どうやら僕は倒れて頭を打って、切ってしまったのだろう。冷静に思い出しながら、僕は自分がソファに横たわっていたことを理解した。テーブルを挟んだ向こうのソファでは、やはり足を組んでいる司祭がペラペラと紙をめくっていた。司祭服を着た人間が足を組む姿にはやはり慣れない。

「あ、目が覚めた? 突然倒れるから吃驚したよ」
「……僕は、どのくらい寝ていましたた?」
「三十分くらいかな。寝ていたというか、意識を失っていたみたいだけど、大丈夫?」
「うん。大分良くなりました」

 薬湯を飲んでからだったのが功を奏したのだろう。体が大分楽になっている。

「それが本当なら、いくつか質問に答えてもらえるかな?」
「うん。なに?」
「まずは基本情報の確認だな。名前は、ライナ・フェレス。フェレス伯爵領主。十九歳独身男性。恋人婚約者無し。好きな人はいる?」
「……僕みたいな貧乏貴族が、家族を養えると思うの? 結婚なんてとても出来ないから、恋愛なんて無理なんだ」
「現実的な性格、と。まぁでも分からないじゃん? 裕福な商人の娘さんと結婚すれば一発逆転だ。最近は多いらしいよ? 爵位が欲しい商家と貴族の縁組み」

 めくっていた紙にペンを走らせながら、司祭が言った。そう言うものなのだろうか。僕にはそんな話はきたことがない。

「それに恋愛はお金じゃないし。現実を見過ぎてもツマラナイよ」
「……金の問題だけじゃない。実際問題俺は、友達すらいないんだよ。人間関係が綺麗すぎるほど白紙に近いんだ」
「十三歳から伯爵を襲名していて……うわぁ使用人もいなければ、学校にも行っていないって、これ本当?」
「本当だよ。ずっとこの家にいたから、僕の恋人は強いて言うなら書籍だよ」
「人生楽しい?」

 僕は言葉に詰まった。楽しいか楽しくないかで言うならば、あまり楽しい人生ではないかも知れない。

 祖父がいるとはいえ、月に一度会う程度だ。他は露店の人々と会話をするくらい。そんな生活が十六年間続いているのだ。夜会になど一度も行ったことはないし、貴族らしいこともしてこなかった。

 定期的に領主の署名がいる書類が送られてくるから、それにサインをするのが公的な唯一の仕事だ。他は本当に平穏だが何もなく、ただ読書をして過ごしている。

 食事は、食費を切りつめているから質素だし、そちらで贅沢をすることもない。衣類も、紅い外套またはジャケットを纏うことが決まっているから、父のものが残っている。シャツは時折その辺で買っている。僕は食道楽でも着道楽でもないのだ。

「ごめん、悪いことを聞いたね」

 謝られると尚更辛かった。客観的にみても、僕の人生は退屈なのだろう。

「まぁ仕事が忙しすぎる俺からしてみれば、羨ましい限りの生活だけどね。俺なんて朝は三時に起きて、四時から儀式をして、五時から掃除をして、六時から参拝者の相手をして、七時に休憩、八時からは学校で神学の講義をして、十時からは街で布教活動をかねた奉仕作業。十二時に教会に戻ってからは夜の八時までまた参拝客の相手。そして八時から寝るまでは異端審問官の仕事。睡眠時間なんて一日に時間有ればマシな方だよ――大抵どの街でもね。この街ではどうなるのかな。俺、大きい街にしか行ったことがなかったんだよね」
「それは大変そうだけど……今日は良いの?」
「着任一週間は、その後の打ち合わせがあるから比較的自由がきくんだよ。だから今の内に君のことも知っておきたい。後は、もし君が昨日の魔術使用で狂ってたら、銃殺しなきゃならなかったしね。身体症状が出てるだけみたいでホッとしてるよ」

 僕もホッとした。よく見れば、司祭の服は袖のところが不自然に盛り上がっている。恐らく銀の銃が仕込んであるのだろう。しかし今の内によく言っておかなければならない。

「僕はこれでも、一応魔術の正式な勉強をしているから、狂ったりしないと思う」
「だけど特別魔術師資格を持ってないよね。魔術師は国家資格だよ」
「学校に行けなかったから……」
「ああ、卒業が条件だもんね。だったら正式な勉強をしているとは言えないと思うけど。第二条件は師匠がいることだけど、師匠がいるということ?」

 そうだ。その通りだ。僕は祖父に魔術を習ったのだ。悪魔に直接魔術を教わったわけだ。
しかしそれを公言したら、祖父の生存が司祭にばれてしまう。僕は口をつぐむしかなかった。視線を逸らすと、司祭が紙をテーブルの上に置いた。

「ご両親は魔術師だったみたいだけど、どちらかに師事していたんなら、それを証明すれば今からでも資格が取れるんじゃないの?」
「え?」

 僕は驚いた。両親が魔術師だったなどというのは初耳だ。両親はいつも王都にいて滅多に帰ってこなかったからだ。僕は両親のことをほとんど知らないのだ。それに両親のことを知っていた使用人も亡くなった。

 元々領地のこの館には、執事と乳母の二人しかいなかったのだが、二人とも流行病で死んでしまったのだ。王都の家にいた使用人の人々は皆辞めてしまったようだった。当時のことは、僕も今ではあまり思い出せないが。

「どうかした?」
「……いえ」
「家族構成は、ええと、天涯孤独で良いのかな?」

 祖父のことは隠し通さなければならないので、僕は頷いた。

「双子の弟さんは、消息不明のままなの?」
「へ?」

 僕は何を言われたのか分からず、目を見開いてから、何度か瞬きをした。
 双子の弟? 僕は、ずっと自分は一人っ子だと思っていた。

「王都でご両親と一緒に強盗に襲われたんだよね?」
「僕の、弟が?」
「へ? いや、ご両親と、君と、君の弟の四人」

 沈黙するしかなかった。僕の記憶だと、僕はある日この屋敷の寝台で目を覚まし、執事から両親の訃報を聞いたからだ。だが良く思いだしてみると、僕はあの時も、頭に今と似た感触を覚えていた気がする。

 ――そうだ、包帯を巻いていたではないか。頬も痛んでいた。ガーゼをはっていたのだ。

 では、僕も襲われたのか? しかし改めて考えてみると、記憶がない。あの日ベッドの上で知らせを聞き、それからひと月も経たない内に執事と乳母が亡くなって以降、この屋敷に引きこもり、月に一度だけ祖父の元へと行くようになった、その記憶しかないのだ。

 僕はそれ以前はどうしていたのだろう。ずっとこの領地にいたような気がするのだが、もしかすると王都にもいっていたのだろうか?

「伯爵?」
「え、ええと……ごめんなさい、思い出せないみたいで……昔のことだから」
「忘れちゃったって事? 思い出したくないって事?」
「忘れたみたいです」
「嫌な記憶に蓋をしたのかな、心が」

 分からないが、そうかもしれない。ただ少しだけ心が騒いだ。もしかしたら祖父ならば何かを知っているかも知れないから、後で聞いてみよう。だが僕に双子の弟がいたという覚えがないのは不思議だ。

「それじゃあ質問はこのくらいにしようか。そうだ、お腹空かない?」

 言われてみれば、少し食欲が戻っていた。

「キッチンを貸してくれるなら、何か用意するよ」
「お客様にそんなことをさせるわけには――」
「いいから、いいから。もう少し横になってなよ」

 返す言葉に迷っている内に、司祭はキッチンへと消えた。すぐに良い匂いが漂い始める。
僕は誰かに食事を作ってもらうなんて十五年ぶりだから緊張した。

 しばらくしてリゾットを持って戻ってきた司祭は、微笑するとそれをテーブルに置いた。

「味の保証は出来ないけど」
「ありがとう」

 受け取り食べる。隣にはレモン入りの水が置かれた。正直言って、美味しかった。

 僕はいつもパンを切って、チーズを塗るだけの食生活を送っているから、ライスを食べたこと自体久方ぶりだった。果たして僕の家に、米などあっただろうか?

 それにこれはトマトリゾットだ。確実にトマトなど僕の家には無かった。僕はいつもパンしか食べないのだ。

「材料はどうしたの?」
「主の奇跡さ。細かいことは気にしないで」

 なんだか誤魔化されてしまったが、美味しいので良いと思うことにした。きっと司祭が持参していたのだろう。街娘にもらっただとかで。羨ましいなと少し思った。



 以来――時折、ルイス司祭は、僕の家へと顔を出すようになった。

 そして、いつも温かい料理を用意してくれる。

 大抵は、僕が祖父のお見舞いへと出かけた帰り道に、教会前にいて、僕を見かけると一緒に洋館まで歩いてくるのだ。彼の隣を歩くと、僕にも領民の視線が集中する。僕を僕だと気づいているのかは不明だが、美貌の司祭の隣を歩くのは、非常に緊張してしまう。

「しかしまぁ、本当に女っ気がゼロだね」

 トマトと蟹のパスタを食べ終えた時、苦笑するように、司祭に言われた。

 顔を上げると、皿を下げるためか、僕の横に立っていたルイスが、ソっと手を伸ばしてきた。そして、僕の唇の端を指で拭う。他者にこのように触れられた事が無かったから、ゾクリとしてしまった。

「クリームが付いてる」

 その言葉に赤面して、僕は俯いた。気恥ずかしくなって、慌てて手の甲で唇を拭おうとする。すると、手首を優しく掴まれた。

「伯爵って、結構可愛いよね」
「な……また馬鹿にして……」
「そういうつもりじゃないんだけどね」

 ルイス司祭はそう言うと、静かに顔を背けた。そして、そのまま僕の手を引いた。

「こんなに食べさせているのに、どうして伯爵は太らないんだろうね」
「え?」

 僕が首をかしげた時、改めて僕を見たルイスが、今度は両手で僕の右手を握った。それから、何かを確かめるように、僕の指を一本ずつ、人差し指と親指でなぞった。

「伯爵は、いつも良い匂いがするね。お菓子みたいに」
「どういう意味?」
「甘い香りがする」
「?」

 普段からパンしか食べず、時折ルイスに振舞って貰うばかりの僕は、お菓子を食べた記憶もない。だから困惑していると、司祭が苦笑した。

「――異端審問官の仕事内容を知っている?」
「え、ええと……このノースイングリッド列島南部、聖都ハッピーモルゲン――西極海に面し、ハーバード山脈の東西に跨る、ガリア王国の聖地特有の聖職者の職務……?」
「模範解答だね。具体的には知ってる?」

 ルイスはそう言うと、喉で笑った。

「魔術・魔女術・降霊術などなど――基本的に、正教会は認めない。だから俺のような異端審問官は、『このつくしの葉っぱから作った飴は風邪に効くんだよ』と耄碌したことを言う認知症とおぼしき自称魔女を相手に、『それは気のせいです』と根気よく言い聞かせ続けたりしなきゃならない。これが現実だよ」

 その声に、僕は目を丸くした。もっと禍々しい仕事を想像していたからだ。

「自称魔女は、「魔女狩りじゃ」と叫びながら逃げまどう。本当、介護をしている気分になって溜息しか出てこない。それでも俺に与えられた大切な仕事なんだけどね。でも、大抵の場合、『本物の』魔の力を使う人間の相手をするのではなく、『昼夜逆転中の妄想癖のある人間の説得もしくは捕縛』が、異端審問官の仕事なんだ。近所迷惑な人物を排除しているって形だね」

 この街には、あまりそう言った人はいないように思うから、僕には実感がわかない。

「ただね――実際に魔術などを全て排除しているわけではない。なにせ、このガリア王国には、公的に魔術師資格が存在している。別段魔術師と聖職者の仲が悪いわけでもないからね。けれど――それでも異端審問官は、時折魔術師と対峙する」

 ルイスはそう言うと、短く吐息した。

「要するに、基本的にそれは、資格を持たない魔術師の取り締まりだ。半端な知識で魔術を使うことは危険きわまりないため、異端者として扱うわけだね。魔術師のことなのだから魔術協会が取り締まればいいのだろうけど、歴史的に異端審問官が取り締まることになっている。では、資格を持つ正規の魔術師は? ……学校さえ出ていればいいわけじゃない、というのが、学校を出なければ知りえない”知識”だ」

 学校を卒業していない僕は、首を傾げるしかない。

「大抵の場合、魔術師は、祖先に高名な魔女や魔術師、あるいは人ならざる存在を持つ」
「え?」
「当時はまだ、区別がなされていなかったから、今のように異端審問官の範囲と正規の能力を持つ者が混在していたんだ。そうして――その違いを区別できる人間もまた、その方面の血を受け継いでいる事が多い」
「……?」
「俺の名前、覚えてる?」
「ルイス司祭です」
「ルイス=ヘンゼル。ヘンゼルという名に聞き覚えは?」
「……?」

 僕は必死で考えた。しかし何も思いつかない。

「その昔、俺の曽祖父はお菓子の家にいたらしい。そこで、魔女と燃えるような恋に落ちたそうだ。俺の曾祖母は魔女で、惹かれる魔力の持ち主を前にすると、甘い香りを感じて、食べてしまいたくなったらしい」
「あ! ヘンゼルとグレーテル……え? ヘンゼルは魔女に食べられようとして……?」
「御伽噺のその後は、君の場合も俺の場合も違ったということだね。ちなみに俺の曾祖母は非常に積極的で、肉食だったんだ」
「……人肉を……?」

 そういえば、釜で茹でて食べようとしたのだったかもしれない。

「ううん。性的に」
「え? 静的? ええと、つまり、殺害してこと切れてから……?」
「そういうことじゃなくて」

 僕の言葉に脱力したように肩を落としてから――不意にルイスが僕の腰に腕を回して抱き寄せた。そして、僕の耳元で囁いた。

「――体を繋いで魔力を食べたそうだよ」
「?」
「俺も、恋をするとその相手が欲しくなる」

 それからルイスが僕の耳の後ろをなぞった。その感触に、体が疼いた気がして、僕は硬直した。するとそんな僕の頬に手を添えて、まじまじとルイスが覗き込んできた。

「もう一度言うけど――伯爵って、結構可愛いよね。俺の好みだ。まずは唇が欲しいかな」

 思わず僕は息を呑んだ。真正面にある端正なルイスの顔を見る。
 視線が離せなくなる。ドクンドクンと鼓動がうるさい。

「考えておいて」

 そう言うと、一度僕を抱きしめてから、司祭は帰っていった。
 残された僕は、ただひとりきりの洋館で、しばらくの間呆然としているしかなかった。




 ――何度も何度もルイスの言葉を僕は考えた。

「どうした? 心ここにあらずだな」

 その日も祖父の見舞いに向かった僕は、寝台に横になって書籍を見ている祖父の横で、りんごの皮をむいていた。すると声をかけられた。僕よりも若く見える祖父は、僕によく似た顔をしている。十三歳当時なんて、瓜二つだったと思う。

 瓜二つ――つまり、似ていたということだ。
 双子というのも、似ているのだと漠然と考えてから、僕は思い出した。

「おじいちゃん、僕には――双子の弟がいたの?」

 いつかルイスから聞いたことを、僕は伝えた。すると祖父がニヤリと笑った。

「いいや。それはわしだ。双子の弟と偽って、一緒にいただけだ」
「そうだったんだ……」
「盗賊――強い魔力を警戒し、魔術師の魂を奪う異端審問官が、ライナの父母、つまりはわしの子供達を屠った時、あの日のことをわしは忘れないだろうな」
「え?」
「最も、警戒というのは公式発表のでたらめだ。あれは、正確には事故だった。お前の両親があんまりにも甘い香りがする魔力を持っていたとして――理性を飛ばした異端審問官が、喰ってしまったんだ」
「……」
「その者は処刑された。ただな、その一人息子が、今は異端審問官の職にあると聞いた。それもこのフェレスの領地にいるという。怖気が走る。ライナも気をつけるんだぞ」

 祖父の言葉に呆然としながら、僕は帰路に着いた。
 するといつもと同じように、ルイスが教会の前に佇んでいた。

「こんばんは、伯爵」

 まだ夕方だから、こんばんはという挨拶には早いかもしれない。

「今夜は、ラザニアを作ろうと思うんだけど」
「……うん。ありがとう」

 自然と隣を歩き始めたルイスを――僕は拒絶できなかった。

 あるいは、彼は僕の両親を殺めた人物の息子かもしれないし、僕を食べるつもりなのかもしれないが……最近の僕は、隣にルイスがいると心が躍って仕方がないのだ。多分とっくに僕は、この麗しい司祭のことが好きだった。

 それでも、今までより警戒しないというのは、無理だった。

 何度か食事中、チラリとルイスを見た。彼はいつもと同じように、笑顔で他愛もない話をしている。その眼差しを見ると、確かに胸が疼く。しかし同時に恐怖も募る。

「――どうかした?」
「う、ううん」

 不意に聞かれて、僕は慌てて首を振った。
 この日は、ルイスはそれ以上は追求してこなかった。

 その後も、彼は変わらず僕に食事を作りに来てくれた。しかしその度に、僕の緊張は強まっていく。理由は――分からない。好きだと自覚して緊張しているというのもあったし、いつか食べられるのかもしれないという恐怖もある。見舞いに出かけるたびに、祖父に半ば脅すように、『警戒しろ』と繰り返されていることも間違いなく理由の一つだ。

 さて、本日も、帰ろうとする司祭を、僕は扉の所まで見送ることにした。
 玄関の前に立ったルイスは、しかしなぜなのか、動きを止めた。
 そして振り返った時、冷ややかな眼差しで僕を見据えた。

「――俺を警戒してるね」
「え……っ……」
「否定は無しか。俺が、告白をしたからか? 拒絶ということでいい?」
「……あの」
「それとも、双子の弟を語っていた君の祖父の悪魔の戯言を信じて、俺を怖がっているのかな?」
「っ」
「俺はプロだから、とっくに調査は完了してるんだよ、フェレス伯爵」

 その言葉に、思わず僕は後ずさった。ルイスの瞳が冷たい。
 最初に顔を合わせた日のように、僕を射抜くように見ている。

「いくら身内であっても、人である異端審問官よりも、悪魔の言葉を信じた場合、それは処罰の対象だ」
「……で、でも……じゃあ……ルイスの家族が僕の両親を殺したわけじゃないの?」
「――やっぱり、信じていたんだ」
「あ……」
「伯爵を、俺は処罰しないとならなくなったね」
「……」

 一歩、ルイスが僕に歩み寄った。蛇に睨まれたカエルのように、僕は動けないで立っていた。それから司祭はため息をついた。

「悪魔というのは意地悪な生き物だから、自分が可愛がっているものを奪われそうになると、平気で嘘をつくんだよ」
「……」
「ただ――今回に限っては、悪いのは俺だけどね」
「?」
「君が欲しいと、君の祖父に先に話に行ったんだ」
「え?」
「そうしたら、賭け好きの君のお祖父さんが、俺に言ったんだよ。『ライナに信用されたなら、君を俺にくれる』と。仮にもライナは伯爵だから、手順を踏んでご家族に挨拶をしようなんて思った俺が馬鹿だった。さらに滑稽なことに、どうしても伯爵が欲しかった俺は、その賭けに乗ってしまった。俺自身も、異端審問の対象になってしまったよ」

 僕は言葉に窮した。僕が欲しいというのは、どういう意味だろう?

「僕を食べたいの?」
「うん。愛しているからね。食べる――抱きたいよ」

 その声に僕は目を瞠った。頬がどんどん熱くなっていく。正直嬉しさが優っていた。

「そんな表情をされたら、俺は誤解しそうになる」
「……僕も、司祭様が好きだよ」
「ルイスでいいのに。何度もそう伝えたと思うけど」
「……ルイス」

 僕が小声で名を呼ぶと、ルイスが小さく吹き出した。

「キスしたいという話は、考えてくれた?」
「僕も……ッ」

 答えようとしたその時には、ルイスに抱きしめられて、唇を奪われていた。
 思わず息を詰めると、そのまま口づけが深くなっていった。
 僕はどうやって酸素を得たら良いのかわからなくなって、ギュッと目を閉じる。

「やっぱり可愛いな」

 ルイスの胸元の服を僕が掴んだ時、耳元で囁かれた。

「それに――すごく、甘い」



 寝室に場所を移すと、性急にルイスが僕の赤い外套を脱がせ、シャツのボタンに手をかけた。気づくと一糸まとわぬ姿になっていた僕は、寝台の上で、ルイスの顔を見上げる。

「好きだよ、ライナ」
「どうして僕を好きになってくれたの?」
「――あんまりにも寂しそうな顔をしているのを見ていたら、気づいたら放っておけなくなっていたからかな」
「魔力が甘いからじゃないの?」
「惹かれる魔力――愛する相手の魔力を甘く感じるんだ。好きになると、甘く感じる」
「!」
「だから自分が恋をしていると、俺は一瞬で気づくことが出来るんだよ。逆に、ライナは? 誰もいなくて寂しかったから? それとも、俺の料理に胃袋を掴まれちゃった? あるいは俺の顔が良いから? 全部?」
「分からないけど……そばにいると、安心するから。もっと一緒にいたいと思って……でも、一緒にいると胸がドキドキして、緊張もして……」

 必死に僕が答えると、ルイスが吐息に笑みを乗せた。

「これから、もっと俺の事を好きになって」
「う、うん……ぁ……」

 ルイスの長い指が、僕の胸の突起を弾いた。

 そのまま動かされて、僕は震える。彼の人差し指と中指が、僕の右胸を擦る内に、ツキンと僕の体に快楽が走った。

「ぁ、ァ」
「もっと声を聞かせて」

 恥ずかしいから嫌だと思ったけれど――直ぐに僕は、声をこらえる余裕を失った。
 ねっとりと陰茎を舐め上げられながら、二本の指で中を解される。
 広げられていく感覚に背をしならせた時、その指先が、僕の奥のある箇所を掠めた。

「ああっ、うあ」
「ここが好き?」
「……っ、ぁ……あ、ああ、そこ、そこ……」
「気持ちいい?」

 多分そうだと思った。刺激されるたびに射精感が募っていく。

 だから小さく頷くと、そのままそこを刺激され、もう一方の手では陰茎を緩やかに撫でられた。そしてじっくりと高められ、気づくと僕は優しい快楽の中で放っていた。手のひらで受け止めた僕の精液を、ルイスが舌で舐める。見ているだけで、羞恥から僕の頬は熱くなった。

「甘い」

 それから――ルイスの陰茎が僕の中へと入ってきた。先程までとは比べ物にもならない熱に、僕は必死で呼吸する。ゆっくりと優しく、しかし容赦なく送まで進んできたルイスの楔に穿たれて、僕は悶えた。

「あ、ああっ、うあ……ン」

 自分のものとは思えないような、鼻を抜ける高い声が出てしまう。

「ああっ、う、ひァ……熱い……ん、ァ」
「っ、ライナの中も熱い」
「ハ、っ、ン」
「動くよ」
「ああア――っ、ん、あああああ!!」

 それから揺さぶるように動かされる内に、僕は理性を飛ばしてしまった。
 太ももを持ち上げられ、角度を変えて貫かれ、次第に僕は快楽に染め上げられた。
 突かれる内に、二度目を放った時――僕の頭は、真っ白に染まっていた。



 ――事後。

 僕は、ルイスに腕枕されながら、天井を見上げた。するとその時、ルイスが僕を抱き寄せて、静かに言った。

「俺の恋人になってくれる? 念のため、聞くけど」
「うん」
「そう。良かった。君のお祖父さんには、怒られる自信があるけど、まぁいいか」

 ルイスはそう言って苦笑すると、穏やかな目をして唇を動かした。

「――We lived happily ever after.」




【終】