ダメ執事の沈黙




 俺が使えるご主人様は、非常に麗しい外見をしている。一見すれば十代後半から二十代前半くらいに見える、黒い髪に紫闇色の眼をした人物で、ナイトメア伯爵家のご当主であり、名前はジェフリー様という。

「まぁ、素敵ね」

 今も貧民街の一角にある孤児院から出てきたジェフリー様を見て、慈善活動に訪れていた他の貴族のご令嬢が頬を染めている。

「執事のかたも、本当に素敵」

 そして小声で続けた彼女の声を、俺はばっちりと聞いていたが、知らんぷりをした。ジェフリー様の執事は、俺だ。実際俺は、格好いいだろう。金髪碧眼で我ながら整った顔をしている自信がある。ただ……ジェフリー様には、ちょっと負けるのだが。ジェフリー様に勝てる美形は、ちょっといない。俺は今年で二十四歳、ジェフリー様より少し年上にみられる事が多い。

「ジェフリー様、参りましょう」

 俺はそう告げ、停車していた馬車を見た。ナイトメア伯爵家の馬車である。

「ああ、そうだな。エドガー、帰るとしようか」

 頷き、ジェフリー様が歩き出したので、俺は付き従った。
 馬車に乗り込んで、御者が扉を閉めたのを確認してから、俺は窓の外を見る。
 沢山の孤児達が見送りに出ている。

 しかし、俺は思う。孤児院に入る事が出来ているだけで、彼らは非常に幸せな方だ。孤児院の裏手から続く貧民街で生まれた者には、そんな自由は無い。走り出した馬車の中で、俺は貧民街へと続く路を眺めていた。

「今夜のメニューは、何が良いかな」

 その時、ジェフリー様が咳ばらいをした。慌てて視線を戻し、俺は答える。

「今宵は旬の魚料理を手配しております」
「飲食物のメニューではないよ」
「……っ、その……」

 笑み交じりに続いて響いたジェフリー様の言葉に、俺は思わず赤面してから俯いた。言葉が見つからない。

「昨日の続きをするとしようか。うん、それが良いね。そう決めた」

 チラリと視線をあげてから、俺は真っ赤のままでジェフリー様を暫し見ていた。



 ――夜。

帰宅し、食事や入浴を終えた後、俺は呼び出されてジェフリー様の寝室へと向かった。
 それが二時間ほど前の事だ。

「ゃ……ぁ、あ……あ、もう、もう止め……ッ」

 俺は両手でギュッとシーツを握りながら、涙ぐんでいる。

 理由は、ずっとジェフリー様が俺の後孔を解しているせいだ。もどかしすぎて、何も考えられなくなりそうなのに、決定的な刺激は与えられない。

「止めろ……止めてくれ……っ、ぁァ――」
「敬語はどうしたのかな? エドガー」
「あ、ぁ……あああ……もう、もうヤだ、ぁア! ああ……っ」

 全身が熱くて、訳が分からなくなってしまった俺は、ついにボロボロと泣きながら、何度も首を振った。

「まだまだ夜は長い。だから、きちんと今夜のメニューも考えないとね」

 笑み交じりのジェフリー様の声音が、室内に響いている。他には、俺の後孔を暴くジェフリー様の指がまとった香油の水音がする。他には――俺の声がする。

「あああ、ジェフリー様ぁ! お願いだ、あ、ァ! もうイきた――」
「まだダメだよ。本当、君はダメな執事だね。堪え性が無さ過ぎる」
「ひっ、く……んン――!」

 声を抑えられなくなった俺は、泣きながら喘いだ。いつ、己が意識を飛ばしたのかは、覚えていない。ただその後、懐かしい夢を見た。



 ◆◇◆



 そう、これは夢だ。
 まだ十三歳だった俺は、幼い妹の手を握っていた。

 貧民街の片隅で、ガクガクと震えている妹の体をなんとか温めようと、片腕で抱き寄せ、もう片方の手では骨のような妹の指先を握っていた。

 俺達は貧民街で生まれ育った兄妹だ。
 父は最初から不在で、母は妹を俺に引き合わせると、再び貧民街を出ていった。

 せめて孤児院の前に捨ててやれば良かったと当時の母には言いたいが、娼婦をしていた母は、貧民街の片隅に、俺を住まわせる小さな家を一応構えていたのでそこに妹を連れてきたのである。母は俺に妹を預けると、富豪の愛人になる事が決まったからとして、二度と会う事は無いだろうと笑って去っていった。

 それが母を見た最後の記憶で、その後俺は、妹と二人で生きてきた。

 食べるものもほとんどなく、痩せた土ではいくら野菜を植えても育たない。週に一度、孤児院や教会の人間が炊き出しに来てくれる事が、俺と妹にとっての命綱でもあった。

 だが、妹のマリアは、昨日から発熱している。満足に食べられない状況では、風邪は十分な死因となる。俺は決意し、破れた薄いボロボロの毛布をマリアの肩にかけてから、笑った。

「待ってろ、すぐに戻る」
「お兄ちゃん、どこへ行くの?」
「ごみを捨てに行くだけだ」

 それは嘘だったが、俺は必死に笑って見せたし、熱に浮かされている様子のマリアは、ぼんやりとしているようで、何も言わなかった。

 外へと出た俺は、空に輝く太陽の白さを忌々しく思いながら、貧民街を抜けた。
 少し進んで孤児院の壁を見る。だがその横も通り過ぎて、裕福そうな商人や貴族が足を運ぶ事が多い飲食店街を目指した。

 俺の身なりでは逆に目立ったから、皆が俺を避けようとした。
 暗黙の了解で、貧民街に生きる俺のような者はいないものとして扱われている。

 でも俺にとっては、きちんと俺もマリアも存在する。生きている。そして、生き続けるためには、薬を買うお金がいる。体力をつけるために食べるパンもいる。俺はその二つを手に入れるべく、ここまで来た。

 俺はそれまでに、盗みを働いた事は一度も無かったが、妹を助けるためだと決意していた。
 しかし手法が分からない。

 そう思っていると、丁度停まった黒い馬車から、黒い外套を纏った貴族が一人、護衛もつけずに降りてきたのが見えた。

 俺は全力で走って、ぶつかった。貴族は財布を外套に入れていると聞いた事があったから、ぶつかった時に、すろうと思った結果だ。

「危ない」

 だが、俺はその青年に抱き留められた。
 ――失敗した。
 そう気づき、目を丸くして、俺は真っ蒼になった。

 そんな俺を両腕で抱きしめている青年は、黒い髪の上に、黒いシルクハットをかぶっている。紫と闇を混ぜ合わせたような、綺麗な瞳をしている。僅かに釣り目だ。俺は過去に、こんなに綺麗な瞳を目にした事は無かったから、一瞬だけ見惚れた。

「大丈夫? 怪我はないかな?」
「……っ」

 そもそも、ボロ布のような汚れた服を着ている俺を、あっさり抱きしめる貴族というのは、後々考えれば非常に珍しいとしか言えなかった。

「名前は?」
「……」
「僕は、ジェフリーというんだよ」

 そう言って俺の体から両腕を外すと、右手でその青年は、俺の頬に触れた。そして親指で、俺の頬の汚れを拭った。

「ふぅん。中々綺麗な顔立ちだね。碧眼がキラキラしている。何歳?」

 それを聞いた時、俺は別の意味で蒼褪めた。娼婦をしていた母似の俺は、母譲りの美貌だと、時に囁かれ、おかしな貴族に押し倒されそうになった事が何度かあったからだ。その都度、殴って逃げてきた。

「ここで、何を?」
「……」
「言葉が分からない?」
「……」
「――僕は、食事に来たんだ。お腹が減ってしまってね」

 青年……ジェフリー様は、そう言うと、今度は俺の唇を人差し指でなぞった。俺が後退ろうとすると、もう一方の手を俺の腰に回した。そして目を伏せる。長い睫毛、端正な顔、それが俺の正面に迫り、驚いて硬直している内に、俺は唇にキスをされた。触れるだけの優しいキスだった。

「ごちそうさま。ああ、もしかして、君もお腹がすいているのかな? 僕の趣味は、孤児院への寄付で、ね。どうぞ、良かったら」

 ジェフリー様はそう言うと、あっさりと再び俺を腕から解放し、懐から取り出した財布から、紙幣を二枚手にして、俺に差し出した。俺はそれを奪うように右手でとり、すぐに走った。すりには失敗したが、気が変わられては困るし、あれ以上何かされるわけにもいかないと思っていた。

 その金で無事にパンと薬を買った俺は、数日後、マリアが回復した時は、本当に嬉しくなった。同時に――やはりスリをしてでも、生きていかなければならないと決意し、残った金で、平民に見える服を買った。街にまぎれこめる身なりをし、そしてその日、初めてすりに成功した。罪悪感はあったが、生きる事に必死だった。



 そうして俺は十五歳となり……盗みをはじめて二年が経過した頃、俺は転機となったあの日に見たものと同じ、黒い馬車を見つけた。

 降りてきた青年は、全然姿が変わらっていなかった。
 ジェフリー様、だと、すぐに分かった。
 以前は大人に見えたけれど、今は俺よりも少し年上くらいだと考える。

 ――十八歳くらいだろうか?

 子供には見えないが、二年前に抱いた印象よりは、ずっと身近に思えた。

「おや?」
「……」

 俺の方は二次性徴が始まったばかりだったが、背が少し伸びていたから、気づかれない自信があったし、たった一回会っただけなのだからと、素通りしようとした。一度助けてもらったから、カモにはしないと決めながら。だが、横を通り抜けようとした俺の左手首を、ギュッとジェフリー様が握った。焦って俺は息を呑む。

「久しぶりだね。会いたかったんだ、孤児院を何軒も探したんだけど、結局見つけられなくてね」
「……」
「今度こそ、名前を教えて? 僕のことは、覚えてる?」

 視線を向けると、ジェフリー様が柔らかな笑顔を浮かべていた。相変わらず綺麗な顔立ちをしているなと思いつつ、俺は軽く首を振った。

「人違いじゃ? 俺には、お貴族様の知り合いなんていないんだ」
「そう? 僕は一度食べたものの味は決して忘れない自信があるけれど、まぁ、いいよ。じゃあ、君は? 君の名前は教えてもらえるかな?」
「……エドガー」
「いい名前だね。少し一緒に、話をしよう」
「急いでいるんで。俺、暇じゃないんだ」
「じゃあ、手早く済ませるよ。もう少し味見がしたいだけだからね」
「? っ……」

 笑み交じりのジェフリー様の声を聞いた直後、俺の意識が曖昧になった。

 まるで夢を見ているような感覚になり、俺は立っていられなくなって、気づくとジェフリー様の腕の中にいた。ジェフリー様が長い指先で、俺の右耳の後ろをなぞったのが分かった。すると俺の背筋を、熱が駆け抜けた。

「ぁ……」
「少し大人びて、より僕好みに成長したね。将来が楽しみだよ、エドガー」

 ジェフリー様はそう言うと、深々と俺の唇を貪った。舌を絡めとられ、甘く噛まれる。俺はいつの間にかキスに夢中になり、口に与えられる快楽を必死になって追いかけていた。何が起きているのか、よく分からなかった。

「うん。困ったな、実に美味だ。しかし、このままこの辺りに置いておいたのでは、誰に散らされるかも分からない。それも惜しいな、連れていこうかな。うん、それが良いね」
「……」
「ねぇ、エドガー? 君、家族はいる?」
「ぁ……っ、ぁ……」

 ジェフリー様が俺の服を開けながら、そう言った。それから左手で、俺の陰茎を握りこむ。目を潤ませた俺は、なぜなのか素直に答えていた。

「妹がいる」
「そう。じゃあ、妹さんと一緒に僕のところへ来ない?」
「お前のところ……? っ、ぁァ……」
「ナイトメア伯爵家。きちんと、君と妹さんの生活を保障するよ、エドガーさえ、いい子にしてくれたらね」
「あ、あ、出る……ぁ、ア、ああ!」

 ジェフリー様の手の動きが激しくなり、俺はそのまま初めて、他者の手で果てさせられた。その後もジェフリー様の腕の中でぐったりしていると、優しく頭を撫でられた。もう一方の手では、俺の放った白液を指に絡め、そちらをぺろりとジェフリー様が舐めていた。その瞳が、どこか獰猛に見えた。俺はそれを見たのを最後に、眠るように意識を落としてしまったようだった。



 次に目を覚ますと、俺は小屋にいて、そのボロボロな室内には不似合いなジェフリー様と、その正面に座っているマリアが見えた。ハッとして、どこからが夢だったのだろうかと瞬きをした俺に向かい、マリアが満面の笑みを浮かべた。

「お兄ちゃん、目が覚めて良かった。貧血で倒れたと聞いてびっくりしたの!」
「貧血……」
「まぁ、貧民街の私達には、仕方のない事だけどもね。それより、ジェフリー様のように素敵な方に助けて頂くなんて! 本当に運が良かったのね、お兄ちゃん」
「……」

 俺は窺うようにジェフリー様を見た。こちらは柔和な笑みを浮かべている。最後に目にしたと思ったような獰猛さは何処にもない。人の良さそうな貴族にしか見えない。

「その上、お仕事まで頂ける事になるなんて、本当に私達は幸運ね」
「え?」

 妹の声に、俺は素直に首を傾げた。

 マリアは病弱だから、今は家にいる。俺は外で働いているふりをしながら、盗みをしている。それが実情だ。

「ナイトメア伯爵家のメイドにしてくださるそうなの。それも、体調が良い時だけ働けばいいって仰って頂いて! これで私もお兄ちゃんの役に、少しはたてるはず!」
「マリア……」

 俺は気にしなくて良いと言おうとしたし、ジェフリー様が下心無しにそんな都合の良い提案をするとは思わなかった。

「エドガーの目もさめた事だし、早速行こうか」

 しかし俺の前で、立ち上がったジェフリー様が話を進めた。妹も嬉しそうに入口へと向かう。先に外へと出た妹を引き留めなければと考えて、俺もまた立ち上がった。そして手を伸ばして一歩前へと出た時、ジェフリー様が俺の耳元に唇を寄せて囁いた。

「妹さんの病気が治る薬も用意できるよ」
「!」
「君の働き次第だけどね、エドガー」
「な」
「実際、マリアにも、メイドの仕事はお願いするつもりだよ。寝てばかりいるよりは、少し動いた方が、体にも良いだろうからね。安心して良い、ナイトメア伯爵家の侍女長に、よく頼んでおくからね。だからエドガー。君は、君の仕事をするだけでいい」

 愕然としながら、俺はジェフリー様を見た。すると唇の両端を持ち上げて、綺麗に笑っているジェフリー様が視界に入った。

 ――本当に、マリアは治るのだろうか?
 ――それが、事実ならば?
 と、一瞬の間俺は思案したが、ギュッと拳を握り、小さく頷いた。

「俺は何をすれば? 俺の仕事というのは? マリアには、本当に、メイドとして以外の――夜のような仕事はお命じにならないと、誓って下さいますか?」

 俺自身は構わない、もう、ここまで来たら、仕方がない。
 たとえばそれが、男娼の真似事でも構わないと俺は思う。
 だがマリアはまだ幼い。それに、体に障らないはずがない。

「ああ、誓おう。マリアの体を僕が味わう事は無い。他の誰かが、彼女に無理矢理手を出そうとしたら、主人としてきちんとその相手を罰する約束もしよう。それよりも、エドガーの仕事について。主に二つ」
「なんですか?」
「一つは、僕に食事を提供してほしい」
「……料理なんてしたことが無くて」
「シェフはいるんだよね。さて、そこで二つ目となる。ナイトメア伯爵家の者として、君にも働いてもらいたいと考えていて、そういえば丁度執事が空席だと思い出してね。家令に今は任せっきりだから、エドガーが僕の執事となってくれるならば最高だと考えているんだ」
「執事……?」
「うん、そう。執事学校への入学手続きも任せてくれていいよ。それに、学費も、今後の生活費も、衣食住も、すべてを僕が保証する。だから君は、執事として働きながら、僕に食事をお願いね。どうかな?」
「分かりました、俺に出来る事なら」

 必死に敬語を思い出しながら、俺はそう告げた。シェフがいるのに食事というのが良く分からなかったが、執事としてテーブルに並べるなどの行いをするのだろうかと、漠然と考えていた。この時の俺にとって、執事のイメージとは、孤児院に貴族が連れてやってくる、お茶を出す係という認識でしかなかった。

 その後馬車に乗せられた俺とマリアは、ナイトメア伯爵家へと向かった。

 道中でマリアとジェフリー様はとても楽しそうに話しをしていたが、俺は不安もあったから、おそらく硬い表情をしていたと思う。




 しかし到着後――その後の一年と少しの間、全ては杞憂だったと俺は思った。身なりを整えられ、温かい食事を与えられ、文字や礼儀作法をナイトメア伯爵家の使用人達に教わり、何かできるようになればジェフリー様が褒めてくれるという生活が始まったからだ。

 マリアの体も順調に良くなっていく。

 そして入学時期が迫ってから、俺は改めて妹の事を皆とジェフリー様にお願いし、そうして三年間の、全寮制の執事養成学校へと進学した。

 知らない事ばかりで戸惑いもあったが、俺は決して気弱では無かったし、貧民街育ちでどちらかと言えば気性も荒かったので、特に虐められる事もなく、また、ジェフリー様にご恩を返したいという思いもあったから、優秀な執事になるべく、勉学に励んだ。

 そうしていると三年間などあっという間で、十九歳になったその年、俺はナイトメア伯爵家へと就職する事になった。きちんと卒業し、執事としての資格を得た。

 俺はだいぶ背が伸びていた。
 己の金色の髪を指先でつまみ、姿見の前で真新しい執事服を確認する。
 なんだか誇らしい気持ちで、俺はジェフリー様と再会する事になった。

「おかえり、エドガー」

 出迎えてくれたジェフリー様は、俺よりも僅かに背が低く見えた。

 なにより驚いたのは、三年間一度もお会いしていなかった事もあるのだろうが、ジェフリー様が一切歳を取っておられないように見えた事でもある。俺と同じ歳くらいにしか見えない。

 幼少時の出会いから思い起こせば、もう二十代半ば以降のご年齢だと思うのだが、ジェフリー様は非常に若々しい。だが俺は些末な年齢について考える事はすぐにやめた。優しい言葉に嬉しくなって、笑顔を浮かべてしまった。

「今夜はゆっくり話が聞きたい。僕の部屋へ」
「畏まりました」

 こうしてその日の夜、俺はジェフリー様の執務室へと招かれた。紅茶の用意をして壁際に立った俺を見ると、ジェフリー様が優しい眼をした。

「君も座って」
「ですが――」
「主人の命令が聞けないかな?」
「優秀な執事は、主人が罪を犯すことがあれば、聞かずに止める者だと俺は学びました」
「エドガーが俺の正面に座る事は、罪となるのかな?」
「そ、それは……」
「いいじゃないか。座るように」

 押しきられて腰を下ろした俺は、この夜、沢山の学園生活の記憶を語った。
 こうしてはじまった新たな日々、俺は執事として充実した日々を送っていった。

 特に料理には、こだわった。

 ジェフリー様は、俺を執事に、というだけでなく、食事をお願いしたいと話していた。俺はそれを忘れた事が無かったからだ。

 約二年、そうして経過し、俺は二十一歳になっていた。

 そこで、その夜ジェフリー様に聞いてみた。ジェフリー様は、度々俺を執務室に招いて会話をする事をお好みになっていたから、機会はいくらでもあった。

「ジェフリー様、僭越ながら」
「うん?」
「その――お食事の件なのですが、ご満足いただけておりますか?」
「ああ、正直空腹で大変でね」
「っ、では、量を増やす事に致しましょうか?」
「シェフの料理には、十分満足している。変更の必要は無いかな」
「? では、茶会時の菓子類などでしょうか?」
「そちらも十分足りている」

 吹き出すように笑ったジェフリー様を見て、俺は意図が掴めなくなった。
 分からない事は、率直に聞くに限る。

「ジェフリー様は、何をお望みなのですか?」
「何だと思う? 僕の食欲を満たしてくれるものなんだけど」
「お望みのものを、必ずご用意させて頂きます。お申し付け下さい」
「本当に用意してくれるのかな?」
「勿論です!」

 俺が少し強い声で言うと、ジェフリー様が両頬を持ち上げた。それから羽ペンを置くと立ち上がり、傍らに控えていた俺の前に立った。俺よりもやはりわずかに背が低い。

 しかし不思議な威圧感がある。俺はそれを、貴族特有の身のこなしが生む、洗練された空気なのだろうと判断していた。

 一歩、ジェフリー様が俺に詰め寄る。距離が近い。
 思わず俺は仰け反った。すると背中が壁に当たった。

 だが、ジェフリー様はそのまま俺に顔を近づけ、そして綺麗な唇を舌で舐めてから、俺をじっとのぞき込んできた。

「僕は最初に会って味見をし、次に会ってもう少し味見をして、その後も一貫して――ずーっと、エドガーを食べたかったんだけど?」
「……え?」
「僕の姿かたちが変わらない事……老化しない事を、君は不思議には思わなかったの?」
「そ、それは……」
「僕はね、夢魔という種族なんだよ。人間ではない」
「夢魔……?」
「ヒトの体液を糧にして生きる、具体的に言えば精液を食すなどして、飢えを満たす存在なんだよ。そして僕は、味見をしてエドガーの事が非常に気に入った。以来ずっと、エドガーの事が食べたくて仕方がなかったんだ。いつも飢えている」

 呆気にとられて、俺は目を見開いた。

「ご、ご冗談は――……」
「まぁ、信じられないのは分かるよ。では、君が受け入れられる言葉で話そう。エドガーは非常に魅力的で、僕は君を抱きたいと思っている。そう言う意味で、君に飢えている。これなら理解できるかな?」
「っ」

 ジェフリー様が、長い指先で、俺の顎を持ち上げた。

「僕が望んでいるのは、君だよ。エドガー、本当に僕の望むものを用意してくれるのならば、今後は毎夜、僕の寝室へ来てくれるかな?」
「……」
「返事は?」
「……っ、そ、その……そんなのは、執事の仕事じゃな――」
「そうだねぇ、その通りだ。別に君が嫌だと断ったからと言って、今更追い出したりもしないし、マリアの事も保証するよ」
「!」
「ただ、僕は最初に伝えた通り、エドガーには食べるものをきちんと提供してもらいたいと考えている」
「……その……考えさせて下さい」
「いいよ。入浴してくるといい。僕は寝室にいるから、そこで答えを待っている。嫌ならば、明日の夜、それも無理ならば、明後日の夜にでも。僕は常に、寝室で君を待つよ」


 そう言って笑ってから、ジェフリー様は俺から体を離した。俺はへたり込みそうになる体を制して、気づくと足早に、その執務室を後にしていた。

 地下にある自室へと戻り、俺はへたりこんだ。両手で唇を覆う。
 頭の中がごちゃごちゃで、考えがまとまらない。

 最初は――裏切られた、というような思いがした。ずっと俺をそういう目で見ていたのだろうか、だとか、泣きたくなりながら息をするのに必死になった。結局その夜、俺はジェフリー様の寝室にはいかなかったが、眠れぬ夜を過ごした。



「おはよう」

 翌朝、アイロンをかけた新聞をお持ちすれば、昨日の事など無かったかのように、華麗に笑みを湛えているジェフリー様がいた。俺は夢を見ていたのかと思ったが、違うとすぐにかぶりを振り、努めて無表情を保ち、この日から距離を置き、観察する事にした。日中の仕事以外では、決して二人きりにならないようにも注意した。それに気づいているのだろうに、ジェフリー様は何も言わない。

 そうして三ヶ月、半年、一年と経過した頃。
 俺は、ジェフリー様には老化が見られない事を確信した。
 今日も銀器を拭きながら考える。

同時に、体を求められたのが、本当に夢魔という存在だからなのかと考え始めた。
 そうであるならば――それは、本当に食事がしたいという趣旨なのだろうか?

 何故なのかそう考えた時、俺の胸が疼いた。結果、俺は残酷な現実に気が付いた。
 好きか嫌いかでいうならば、俺はジェフリー様が勿論好きだ。恩も感じている。

 だが……肉欲ならまだしも、本当にただ純粋に、俺の精気というものを食べたいというだけならば、ジェフリー様には、俺に対する愛情など無いのだろう。俺は、己の中に存在する好意に気づいた瞬間、失恋を悟った。

「……」

 その夜、俺は決意して、ジェフリー様の寝室を訪ねた。まだ、待っていてもらえるのかは分からなかったが。ノックをするとすぐに声がかかり、俺は静かに中へと入った。するとジェフリー様が微笑した。

「食事を提供する気になったのかな?」
「……」
「君は無言が好きだね。初めて会った日もそうだった」
「……」
「エドガー、おいで」

 穏やかな声でそう言われた時、俺は抗いがたい衝動に駆られた。そして寝台に座っているジェフリー様の正面に立った。すると軽く腕を引かれた。

「いい子だね。そう、君はいい子にしていれば良いんだよ。全部僕に任せれば良い」
「っ」

 それからすぐに、俺は寝台の上へと押し倒された。

「ずっとこの夜を、僕は待っていたんだ。君を味わう夜が来る事を、ね」

 俺の服を開けたジェフリー様は、そう言うと寝台脇から香油の瓶を手繰り寄せた。俺は覚悟しながら、体を硬くする。萎えきっていた俺の陰茎にぬめる手で触れたジェフリー様は、それから鈴口をぺろりと舌で舐めた後、唇に含んだ。

 そうして咥えたままで、俺の反応を窺いながら口淫を始めた。これが本当に食事になるのだろうかと考えながらも、俺の体はすぐに反応し、そして射精した。

 肩で息をしていると、ジェフリー様が飲み込んだのが分かった。上下した喉仏を見て、気恥ずかしくなって、俺は顔を背けた。

「うん、美味しい」
「……そうですか」
「明日も、待っているよ」

 この夜から、俺は毎晩ジェフリー様の寝室へと向かった。

 最初は口淫されるだけだったのだが、その内に全身を愛撫されるようになり、そして後孔を解されるように変わった。

 そうしてさらに一年を経て、現在俺は二十四歳だ。



 ◆◇◆



 ――目を覚ますと、まだ体が熱かった。

「もう嫌だ、止めてくれ、あああああ」

 俺は泣きながら喘ぐ事しか出来ない。

 ジェフリー様が俺に挿入する事は無い。だが俺の体は、もっと奥深くに刺激が欲しいと訴えている。俺はすすり泣きながら腰を揺らし、哀願する。

「ジェフリー様、あ、ああっ、イきたい、イきた――」
「いいよ? 好きにイっていいんだよ?」
「これじゃ、イけな――……やぁ!」

 俺の後孔にも快楽を抑え込んだくせに、浅い場所を一本の指で抜き差しするだけで、前立腺すら刺激せず、その上今日は前にも触れてくれないジェフリー様を、俺は快楽で蕩けてしまった顔で見る。

「どうして欲しい?」
「もっと、もっと欲しい」
「うん?」
「挿れて、頼むから、ああ、あア」
「そうだね。エドガーは、僕があげた玩具をとっても気に入ってしまったみたいだものな。奥深くを貫かれないとイけなくなっちゃったんだもんね?」
「っ、ふ、ぁ……ァ……っッ」

 羞恥に駆られたが、その通りだ。全身が熱い。

「でもね、今日のメニューには、玩具は入ってないんだよ」
「っひ、く……あ、あ、ジェフリー様、ジェフリー様、ぁ! あ、あ、あ」

 やっとジェフリー様が、指先をそろえて、俺の前立腺を刺激した。その瞬間に、俺は放った。だが、快楽が止まってくれない。

「今日は、随分と寂しそうな顔をして、馬車の窓から外を見ていたね」
「あ……あ……っ、ぅ……」
「僕達が出会った通りを走っている時も」
「……ァ、っ」
「ずるいよねぇ、エドガーは。僕は一目見た時から、君の事が好きになって、愛おしくなって、だから食べたくなって、探しまわって、大切に保護して、きちんと育ててきたっていうのに。僕を好きになってくれないんだから」

 ジェフリー様が呆れたように苦笑した。俺はとっくにジェフリー様が好きだ。好きだと思ったから、抱かれに来たわけである。今では俺よりも若く見えるジェフリー様、変わらないジェフリー様、きっと人間では無いのだろうが、それでも良い。俺は好きだ。

 だが、それを伝えて、執事と主人という関係性が変わってしまうのも怖いし、自分がただの食糧だったと思い知らされるのも怖いし、仮にそうではなく、本当にジェフリー様もまた、今しがた口にしたように俺を好きであったとしても、それもまた恐ろしい。

 恋人同士になったならば、きっと愛が消えたら捨てられる、好きでは無く嫌いになられたら、それで終わりだ。だから俺は、決して伝えないと決めている、自分の気持ちを。

「エドガー、本当は僕の事が好きなんじゃないの?」
「好きじゃな――あ、ああああ!」

 グリっと前立腺を指で嬲られ、俺の体がビクンと跳ねた。

「僕をきちんと好きだって、言えるようになるまでは、エドガーを抱いてあげないからね。それまでは僕の機嫌が良い場合は玩具、悪い場合は、ずっと指だ。これは分かる?」
「分からない、あ、あ、ヤだ、嫌だ、俺は、だ、だから、違う――」
「本当に予想以上に物分かりが悪い、ダメな執事だな。いい子に、って何度も教えてると思うけどね?」
「待って、あ、待ってくれ、あ、あ、あ、体熱い――んぅ」
「そりゃあそうでしょ? 僕は夢魔だ。今日もギリギリまで焦らしてあげるよ。その後いっぱいいっぱい食べさせてもらおうかな。あー、早く挿れたいなぁ、きっと美味だ」

 この夜も、俺は散々泣かされた。

 翌朝、俺はいつもとは異なり、ジェフリー様の寝室で目を覚ました。体が気怠い。だが、新聞にアイロンをかけなければと考える。そんな俺を横から抱き寄せているジェフリー様は、何処か不機嫌そうに見えた。緩慢に俺はそちらを見た。すると唇にチュッと音を立ててキスをされた。最初、何が起こったのか分からず、次に状況に気づいて、俺は真っ赤になって唇に力を込めた。

「エドガー」
「……」
「言って。きちんと、ね。僕をどう思ってるのかな?」
「……」
「――というよりね、その真っ赤な顔を見たら、言われなくても、とっくに君の気持ちは分かってるんだけどね」

 それを聞いて、俺は思わず目を丸くした。頬に熱が集まっていく。
「それでもやっぱりねぇ、君の口からきちんと聞きたいんだよ」
 俺は沈黙した。そんな俺を抱き寄せると、俺の額にジェフリー様が口づける。

「夜は煩いくらいに喘ぐのに、肝心な事は沈黙するんだもんなぁ」

 俺はギュッと目を閉じた。恥ずかしくて聞いていられない。

「僕もそろそろ限界なんだけどな?」
「……新聞を取りに――」
「だーめ。今日はお休みにするように。代わりに別のものを貰うから、もう、我慢が出来ない」
「え?」

 俺が目を開けると、ジェフリー様が俺にのしかかってきた。そしてまだドロドロに蕩けていた香油まみれの俺の後孔に――熱く硬いものを挿入した。俺は思わず息を詰める。

「あああああ」
「大好きだよ、愛してる。エドガー、君をいっぱい食べさせてもらうよ。いいよね?」
「あ、あ、っ……あ! あ、あ……待っ、息が出来な――」
「ちゃんと自分の気持ちを言ってごらん? そうしたら、少しだけ待ってあげるから」
「や、ぁ、アあ! 気持ち良っ、う、うあ」
「そう言う感想じゃなく。僕の事をどう思ってるのか聞いてるんだけどな? ダメ執事はまた沈黙するのかな? 沈黙、出来るかな? 夢魔の本気を相手にして」

 激しくガンガン打ち付けられて、俺の頭が真っ白に染まる。ブツンと俺の理性は途切れ、気づくと俺は口走っていた。

「大好きだ。俺も好き、愛してる」
「うん、いい子。じゃあ、良いよね? 僕達は両想いなんだから――今日は一日エドガーの体を貪らせてもらおうかな。色っぽすぎて、我慢するのが本当に大変だったよ。はぁ、本当に可愛いなぁ、ナイトメア伯爵家の執事は。僕だけの恋人は」

 この日、俺は宣言通り、完全に抱き潰された。

 初めて挿入されたジェフリー様の巨大な陰茎に、これまで知らなかった最奥を何度も突き上げられ、俺は初めてきちんと、他者と体を重ねた。

 そして、SEXとは、体も思考もドロドロになってしまう気持ちが良いものだと教え込まれた。ジェフリー様に突き上げられる度、俺の胸には幸福感がこみあげてきて大変だった。

 一度口に出してしまうとタガが外れ、その日俺は、何度も愛の言葉を告げた。
 ジェフリー様はそんな俺を優しい眼で見ると、同じように言葉を返してくれた。

「好きだよ、エドガー」

 俺の胸は、満たされた。

 そして一日仕事を休み、翌日なんとか顔を出した俺を見ると、家令や侍女長、何より妹のマリアが複雑そうな顔をした。その後溜息をついてから妹が言った。

「やっと恋人同士になったのね。お兄ちゃんって、本当に分かってないんだから。そういうところが、ダメ執事」

 俺が仕事を休んだ理由など誰も聞かず、周囲はデレデレな顔で、嬉しそうに俺に抱きついているジェフリー様をお祝いしていた。俺は真っ赤になって俯きつつ、沈黙を通した。

 以後、毎夜俺は、ジェフリー様に食べられた。

 なお、現在までに嫌われている様子はなく、毎日俺は執事の仕事も並行しながら――こんな日々が大切だなと思っている。




    ―― 了 ――