一欠片の愛は
「お願いです……一欠片でいいんです……」
物乞い、と、人は僕のことを呼ぶ。孤児院街から大通りへと出て、道行く人に食べ物をせびる僕のことを、この街の人々は卑しいと嗤っているが、食べる物がない以上、他にやりようもない。季節は、冬。これが春から秋までであれば、山に入って自生するキノコを食べることだって出来るし、貧しい土地ではあるが畑で痩せた作物が採れないこともない。
けれど、冬だけはダメだ。
餓死するよりはマシだからと、つぎはぎだらけの服を着て、僕は大通りへと出る。灰色の石畳は冷たく固く、赤煉瓦で景観を統一している街はよそよそしい。パン屋の角を曲がった裏路地から、僕は顔を出す。僕の手は冬の冷気で震えている。
「お願いです! お願いだから……」
ひもじさから涙が浮かぶ。息苦しい。もう三日もなにも食べていない。貧血からなのか目眩がする。だが、ここで倒れれば、餓死か病死か分からない遺体が、ここで発見されるだけだ。きっと鴉が僕を餌にするのだろう。
「おや」
声をかけられたのはその時のことだった。涙が滲む目をゆっくりと動かしてみれば、馬車から降りてきた黒い祭服姿の牧師様が、僕をしげしげと見ていた。銀色の髪をした初老の牧師様は、歩み寄ってくると、僕の肩にポンと手を置く。優しい温度をしていた。
「教会へ、おいでなさい」
僕はその言葉に目を丸くした。たらりと一筋、涙が零れた。
教会には、年に二度、選ばれた孤児だけが招かれると聞いていたが、僕のように孤児の中でも最下層の子供は、そもそも神という概念すらほとんど知らなかった。
――これを契機に、僕は孤児院街を出て、僕を拾ってくれたマルド牧師の暮らす聖ルネッサ教会で暮らすことになった。牧師見習いとして聖典から様々なことを学び、清貧な生活ではあったけれど、毎日パンを食べられる生活になった。パンは固かったけれど、トウモロコシを使ったクリームスープはいつも温かく、僕はクルトンが好きになった。食卓には他にピクルスやチーズが並ぶこともあった。それらは街の人々の差し入れだ。
孤児でなく牧師見習いとなってからは、街の人々も僕に優しくなった。たとえば窓を拭き掃除していて礼拝客が訪れた時には、彼らはにっこりと笑ってくれる。日曜日のミサの時には、僕に『頑張っているみたいだね』と、飴やチョコレートをくれる人までいた。
「あとは……頼んだよ……」
マルド牧師がそう言って天に召された時、僕は二十三歳になっていた。それが昨年の話であり、今年僕は二十四歳。教会の正式な牧師となった。今ではミサは僕が行っている。そう多くが来るわけではないが、僕には仕事が出来た。
そして。
聖ルネッサ教会の、本当の仕事を今はもう知っている。それは、この土地の枢機卿であるエンドール猊下の命令に従い、教会の邪魔者を手にかけて排除するという仕事だ。聖ルネッサ教会の属するカドワーズレ教が異教徒と認定している者や――教会内部でエンドール猊下が敵視している者を屠る、ようは、聖ルネッサ教会の仕事というのは教会の暗部を担うものであり、人を手にかけるというものだった。
聖典は人を殺してはならないと説いている。
けれど、僕は生きるために、人の命を奪うことを覚えた。覚えてしまった。結局の所僕は聖職者など名ばかりで、ただの殺人犯だ。今のところ僕が犯したことのない罪なんて、姦淫くらいだろう。体だけは、誰とも重ねたことがない。
「ふぅ。明日は慈善事業かぁ」
僕は厨房で小麦粉を前にしながら呟いた。
年に二度、貴族が教会に施しにくる。そこには孤児院街の孤児や街の人も招かれる。主催するこの聖ルネッサ教会において、僕が取り仕切ることとなる。菓子類の多くは慈善事業として貴族や街の者が持ってくるが、いくつかのクッキーやマフィンなどは僕が用意する担当だ。この日は夜遅くまで、僕は菓子類の準備をした。
こうして慈善事業の日が訪れた。赤薔薇の祝祭日である本日、庭の色とりどりの薔薇を見ながら、僕は晴れたことに安堵した。教会への扉は開け放たれており、振り返ればステンドグラスから光が溢れている。
ぞくぞくと集まってきた人々に紅茶を振る舞い、孤児達に笑顔を投げかける。
僕も昔は孤児だったが、僕という人手が増えたから、枢機卿猊下が孤児に目をかける機会を増やしてくれたので、過去ほど孤児達の生活は辛くはない様子だ。冬には日に一度は炊き出しの手配もしている。
「少しお湯のおかわりを取りに行きますね」
僕はそう断って、庭から教会の内部へと入った。すると、祭壇前に一人の青い片マントを纏った青年が立っていた。これは、王国騎士団の正装だ。片手を巨大な聖典の上に触れ、ステンドグラスを仰いでいる。青い光が、青い装束を照らし出しているようで、どこか神々しく見えた。
「どうかなさいましたか?」
慈善事業に騎士が訪れるのは珍しい。客の中に、身分を偽った相当な貴人でもいるのだろうか?
「ああ、いや」
振り返った焦げ茶色の髪の青年は、僕を見ると綺麗な唇の両端を持ち上げた。瞳の色も、青だ。空のように澄んでいる青だった。
「綺麗なステンドグラスだな」
「ええ。この教会の名物と言われています」
一瞬見惚れかけていた僕は、我に返って笑みを取り繕う。
「だが、牧師様の方がよほど綺麗だ。アルス牧師だったな?」
「……ええ、僕はアルスと言います」
綺麗、と言われて僕は戸惑った。一つは殺し屋まがいの僕には、そういった言葉は似合わないと咄嗟に思ったこと、もう一つは――僕には騎士らしき彼の方が綺麗に見えたことが理由だ。何故なのか惹きつけられてしまい、心臓がドクンとした。なにかを掴まれたような心地だった。
「俺はヴァーグ。宜しくな」
「宜しくお願いします」
「弱ったな」
「え?」
「俺は牧師様に一目惚れしてしまったらしい。アルスから目が離せない」
あまりにも真っ直ぐに言われて虚を突かれた僕は、直後顔を背けて赤面した。
「っ、揶揄しないでください。僕は聖職者です」
「生涯独身、か」
「ええ。御遣いの配偶者ですので」
「御遣いが羨ましいものだな。また、ここへ来てもいいか?」
「礼拝ならば、歓迎しますよ」
これが、僕とヴァーグの出会いだった。
以後、ヴァーグは毎週水曜日の午後三時に、聖ルネッサ教会へと訪れるようになった。僕が聖典を開いて祝詞を読む間、手を組んで祈りを捧げていく。それが終わると懺悔室へと入る。二人しかいないのだから、対面するのがヴァーグであるのは声を聞くまでもなく分かる。
「牧師様、懺悔します」
「どうなさいましたか?」
「姦淫の禁がある牧師様に懸想をしています」
「……神の赦しは得られないでしょう」
「神に赦されたいとは思わない。でも俺は、自分の愛情には誠実でいたいんだ」
熱烈な告白が繰り返される内、僕の中で日増しにヴァーグの存在感が大きくなっていった。気づいたら僕もまた、ヴァーグに恋をするようになっていた。眼差しも、声も、表情も――なによりも、温かな性格に魅了されてしまった。どこか機微に富んでいて、彼は時に意地悪なこともあるけれど、そこまで好きになってしまった。
次の水曜日は、生憎の雨だった。
僕が礼拝堂の窓を閉めていると、傘を差したヴァーグの姿が見えた。慌てて僕がドアまで迎えに出ると、傘を占めて肩から雨雫を払ったヴァーグが僕を見て苦笑した。
「嵐が来そうだな」
「うん。だから今日は来ないかと思っていたよ」
「アルスに会いたくて、嵐のことなど気にならなかった。ならば、今日は俺のために、お茶や菓子は用意してくれていないのか?」
「……来てくれるかもしれないと思って、パンケーキの準備をしておいたんだ。丁度、甘い蜂蜜を貰ったから」
僕はそう告げ、厨房へと向かう。歩いて着いてきたヴァーグが傍らの椅子に座った。それを確認してから、僕はパンケーキを焼く。三枚重ねて、蜂蜜をかけて、一番上にバターを載せた。甘いいい匂いが、周囲に広がっていく。
「どうぞ」
皿を差し出してから、僕は沸騰したお湯の入る薬缶を見た。
そして紅茶を淹れていると、パンケーキをナイフとフォークで切り分けたヴァーグが嬉しそうに笑った。
「うん、美味しい」
「よかった」
「君も一口」
そう言ってヴァーグが僕の前に、パンケーキを刺したフォークを差し出した。
「っ、じ、自分で食べられる」
「俺に食べさせられるのは嫌か?」
「……その」
「分かった。恥ずかしいんだな?」
「ち、違……」
「違わない。俺を意識し始めたから、照れている。そうだろう?」
「違うよ!」
勢いで否定し、僕は口を開けた。そうして食べさせられたパンケーキは、これまでの人生で食べたどのお菓子よりも甘く感じた。目の前に、大好きな笑顔があったからなのかもしれない。二人でいる一時が、僕には特別すぎた。
「次の対象だが、ね?」
この日僕は、エンドール枢機卿猊下に呼び出された。俯きがちに僕が命令を待っていると、一枚の羊皮紙を差し出された。受け取り、そこに記されているプロフィールを見て、僕は目を瞠る。
「第二王子殿下を……」
「ああ、そうだよ。彼は背徳者だ。なにせ教会の権威を削ごうとしているのだからね」
「……」
さすがの僕も、背筋が寒くなった。王族を殺めれば、極刑だ。勿論過去の罪が露見してもそれは変わらないだろうが、罰の重みが随分と違う。それに、それにだ。
「……警備が厳重なのでは?」
「そうだな。殺してしまえば、あとはそれだけでいい。神のために、死んでくれるな?」
極刑以前の問題だった。僕は、死にに行けとこの日命令された。
だが、断るという選択肢は無かった。
翌、水曜日。
僕は朝から、ヴァーグが来るのを待っていた。来週の建国祭で僕は第二王子殿下を暗殺する。きっとその場でよくて拘束されるか、手打ちにされるだろう。だから、ヴァーグに会えるのは今日で最後だ。
「アルス」
微笑しながら姿を現したヴァーグを見て、僕はぎこちなく笑った。
すると正面に立ったヴァーグが不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたのか? いつもと雰囲気が――」
そう言ったヴァーグに、僕は抱きついた。厚い胸板に額を押しつけた僕は、ギュッと両腕を彼に回して、涙を堪えながら告げる。
「僕もずっとヴァーグが好きだったんだよ」
するとヴァーグが驚いたように息を呑んでから、おずおずと僕の体に腕を回し返した。
「アルス……本当か?」
「うん、うん……」
「ああ、そうか。嬉しいな。天にも昇る心地というのは、今の俺の心境なんだろうな。なぁ、アルス。君の唇をくれないか?」
そう言ってヴァーグが僕の顎に触れ、軽く持ち上げた。僕は涙が滲む目でヴァーグを見てから、ゆっくりと瞼を伏せる。眦から涙がたれた時、ほぼ同時に唇を奪われた。はじめは触れるだけのキスで、次第にそれは深くなった。
そのまま僕は、教会の長椅子の上に押し倒された。開けられた黒い祭服。ああ、衣擦れの音がする。僕の手を優しく握るヴァーグ。指と指を絡め合い、何度も口づけを交わしながら、僕の体は昂められていった。
ヴァーグが唾液で濡らした指を二本、僕の後孔へと挿入する。未知の経験にビクリとした僕を微苦笑しながら優しい目で見て、ヴァーグはじっくりと僕の体を解し始めた。
「ぁ……っ」
僕の体は、すぐにトロトロになった。快楽というよりも、交われる悦びが強くて、これまで自制していた気持ちが溢れ出す。僕は、ヴァーグが好きだ。
「あ、ああっ」
前立腺を刺激され、くちゅりと内部をかき混ぜるように指を動かされ、それが抜き差しされる内、僕の息は上がり始める。それから指を引き抜き、ヴァーグが僕の中へと押し入ってきた。
「ああっ――ンあぁ」
挿入の衝撃は切なく甘い痛みを僕にもたらした。押し広げられる感覚に、僕は思わずヴァーグにしがみつく。すると僕の肌に優しく口づけてから、ヴァーグがゆっくりと抽送を始めた。
まるで、夢のような情交だった。
僕が放った直後、僕から引き抜き、僕の腹部にヴァーグもまた射精した。二人の出した白が、お互いの腹部を垂れて、混じり合った。
「来週も、その次の週も、可能な限り俺は、アルスに会いにくるよ。来たいんだ」
「……僕も、会えたらいいなと思うよ」
しかしそれは叶わないと、僕は知っている。僕は来週の月曜日に、第二王子殿下を殺害して捉えられるはずなのだから。だから今日は特別だ。自分に許した特別な、最期だ。帰り際、ヴァーグは僕にまたキスをした。それが僕にとっては、どうしようもない倖福だった。
こうして建国記念日が訪れた。
僕は民草に紛れ、普段は王国騎士団で働いているという第二王子・ヴェルグレード殿下が現れるのを待った。予定では、噴水前で殿下は馬から降り、直接民草と対話をすることになっている。その際、僕は懐から短剣を取り出して、殿下の首を割く予定だ。公衆の面前での堂々たる犯行を予想していないだろうという、警備を逆手に取った計画だった。
殿下が人混みの向こうに降りてきたらしい。僕は自分の順番が来るのを待った。
そして。
「っ」
自分の順番がきて顔を上げた僕は、思わず硬直した。
そこにはヴァーグの姿があったからだ。あちらは僕を見ると、悠然と笑った。
「どうする?」
「――え?」
「全て知っている。俺は、それでも、君に会いたかった。だから、どうする?」
「それ、は……」
僕の手が震えた。懐に、布地の上から触れ、短剣の感触を確かめる。
今、殺らなければ。
それが僕の宿命なのだから。だが、知っている……? どういう意味だ?
「俺は好きな相手のことは調べさせるたちなんだ。だから全て知っている。その上で、アルスを待っていたんだ。君の手にかかるのならば、それも悪くはない」
――嗚呼。
僕は俯いた。僕の中では先週の水曜日に、とっくに幸せな日々は終わっていたけれど、そもそもそれを享受する資格が、本来僕には無かったのだと思う。僕は短剣を取り出した。周囲の護衛騎士達が緊張した気配を放つ。剣が抜かれる音がする。正面にいるヴァーグ――第二王子殿下だけが、僕が知る普段と変わらない微笑だ。
短剣を振りかぶった僕は、その側面で、己の首の右側を切り裂くことにした。
僕に相応しい終わりは、どうせ死だ。それも、寿命にはほど遠い末路。
だが。
「アルス!」
僕の短剣が阻まれた。狼狽えて右手を見れば、ヴァーグが刀身をギュッと握っていて、ポタポタと鮮血が血へと垂れていく。
「それは許さない。神が赦しても、俺が許さない」
「なっ」
「さぁ、行くとしようか」
「……、……っ、どこへ?」
「まずは、牢獄となる。君には、話を聞かなければならないからな。俺が直接連れていく」
ヴァーグは僕から奪った短剣を血に投げ捨てると、強引に僕の腕を引いた。
それから僕は尋問を受けた。
驚くべき事に、僕に犯行を命じた枢機卿猊下は既に捕らえられていた。そして僕同様、彼の指示で手を汚していた聖職者も皆、集められていた。そこで下された僕たちへの罰は、驚くべきものだった。
「――恩赦……?」
狼狽えて知らせを聞いた牢獄にいた僕に、戸を開けながらヴァーグが笑った。
「死ぬよりも辛い罰だろう? 生涯、人を殺めた罪を背負って――聖職者をするのだからな。今後は、きちんと信仰に背かないことだ」
「……」
「ただ、教会は力を持ちすぎているから、いくつか国で制限をかける。ああ、でも、教義を少し緩める部分もあるんだ」
「どんな部分ですか?」
「聖職者にも妻帯を許可する。男女の性別を問わず、婚姻を許可する。子をなすことも、それは同様だ。つまり――どういう意味か分かるか?」
ヴァーグは僕の元へと来て、僕の手枷を外すと、屈んで微笑した。
「アルスと俺は結婚できるということだ」
「……犯罪者と王族が?」
「君は教会で、俺は城で、別居婚とはなるが――毎週水曜日に、これからも会いにいく。約束通りに」
僕はこの時はまだ、ヴァーグの言葉を疑っていた。
だが、ヴァーグの言葉に嘘は無かった。以後、毎週ヴァーグは、僕の旦那様となったヴァーグは、教会を訪れる。その度に僕は、涙ぐんでしまう。裁かれる未来以外を想定していなかったのに、僕にはやり直す機会が与えられた。けれど、本当に赦されるのだろうか? でも、僕は思う。神が赦してくれなくても、いい、と。ヴァーグが赦してくれたら、それでいい、と。でも、自分だけが幸福でいること――そこに罪の意識を感じる。そんな時に僕は、いやでもヴァーグの言った言葉を思い知らされる。生きることの方が、罪を背負うことになるのだと。
「アルス、この一週間はどうだった?」
「――孤児院街で炊き出しをしていたよ」
「他には?」
「ヴァーグに会いたいと思っていたよ」
「そうか。同じ気持ちで嬉しいな」
僕たちはその後、唇を重ねた。僕は背に回るヴァーグの掌の感触に、静かに目を伏せる。僕は、もう物乞いではないけれど、また一欠片、手に入れてしまった。ヴァーグが与えてくれる、一欠片の愛を。いいや、本当はそれはまるで蜂蜜がかかったパンケーキみたいにまんまるな、完全無欠のものなのかもしれない、少なくとも僕にとっては。
「ただ俺としては、もっと我が儘を言ってもらってもいいんだからな? あまり負い目を感じないで欲しい。俺達はもう、伴侶なんだから」
「だったら」
「うん?」
「もっともっと、キスをして」
僕がねだると、目を丸くしてからヴァーグが破顔した。
その後のキスは、蜂蜜よりも甘かった。
―― 終 ――