それでも、スマホを見てしまう。
僕は劉生(りゅうせい)が大好きだ。
裸で向かい合いベッドの上で、出した舌を絡めて、僕達はキスをしている。
膝を立て、僕は劉生の陰茎を受け入れている。僕の太股に手をかけて、劉生はゆっくりと突き上げながら、僕の舌を甘く噛んだ。
「ぁァ……っッ……ん」
僕の口からは、鼻を抜けるような甘い声が零れる。体がぽかぽかとしていて、じっとりと汗をかいている僕は、必死で息継ぎをしながら、仰け反るようにして髪を揺らした。僕の髪の毛は、薄茶色。劉生が好きな色だ。『似合うよ』って言ってくれて以来、僕はずっとこの色に染めている。
無職の僕は、髪色も当然自由だ……。今は、劉生の家で同棲している。無一文になった僕に劉生は、『同棲しよう』って言ってくれた。劉生は、僕を少しは愛してくれていると思う。
「可愛いな、夏海(なつみ)は」
僕を見て、情欲に溢れた色を瞳に宿し、劉生が口角を持ち上げた。僕は、『は』という言葉がすごく気になった。劉生は、一体誰と僕を比較しているんだろう。そう考えると一気に悲しくなって、思わず僕は瞳を揺らした。
「考え事か? 余裕そうだな」
「ち、違――っ、あ、ああ!」
劉生の動きが激しくなり、より深くまで貫かれる。僕は泣くように喘いだ。気持ちの良い場所ばかりを突き上げられて、頭が真っ白に染まる。
「あぁ、ァ……あっ、ッ! ンん――! んァ!」
そのまま正面から押し倒され、より激しく抽挿された。僕は快楽に涙をこぼしながら、絶頂を促され、中だけで果てた。僕の体にドライを教え込んだのも劉生だ。そもそも僕は、劉生としか性行為をした経験が無いし、他の誰かと体を繋ごうと思った事も無い。
僕達の出会いは三年前。大学二年生の時だった。
その日は必修の英語のクラスの、学期末の飲み会があって、僕も参加した。同じクラスだった劉生は、僕の隣に座ると、僕に優しく青りんごサワーを注文してくれた。それが美味しくてジョッキを三回ほど空けた時、二十歳になって人生で初めてアルコールを飲んだ僕は、すっかり酔っぱらっていた。そうして気づいたら、僕は劉生のマンションにいた。
キスをされていて、ぼんやりとしながら、僕は押し倒されて――そして、今と同じ獰猛な眼を見た。あんまりにもそのキスが気持ち良かったから、続けて左乳首を指先で愛撫された時も嫌悪感なんて全然なくて、どころか僕の体はすぐに反応した。
『なぁ、挿れていい?』
劉生のそんな言葉を聞く頃には、僕の後孔は既にローションでドロドロに解されていた。僕は未知の快楽の虜になっていて、酔いの勢いもあり、夢中で頷いた。
『同意だぞ?』
笑み交じりの劉生の声に、僕は何度も頷いた。そして、初めて性行為をした。
翌朝我に返って呆然とした僕は、慌てて帰った。
以降、英語のクラスで劉生を見る度に、僕は意識するようになってしまい、体を重ねた一ヶ月半後の講義が終わった時に、劉生を呼び止めた。そしてその場で告白した。
「ああ、いいよ。今俺フリーだから」
そう言って笑顔で劉生は頷いた。先日聞きそびれた連絡先をその場で教えてもらい、この日も二人で劉生のマンションに行って、当然のように二度目のSEXをした。こうして僕達は恋人同士になった。
以後、僕達はずっと付き合っている。同棲を始めたのは、就職して三ヶ月目に、僕が上司のパワハラに耐えかねて病んでいた時、劉生が『仕事はやめて、俺の家にくればいいだろ』と言ってくれたからだ。当時の僕の上司は、何かあればすぐに僕を怒鳴ったし、そうでない時は、ベタベタと僕に触ってきた。腰を抱かれるだけならまだマシな方で、うなじを舐められたり、酷い時には陰茎をスーツの上から撫でられたり、逆に上司の勃起したものを、背中に押し付けられたりしていた。セクハラもあったわけだ。それらを涙ぐみながら劉生に相談した結果、劉生が僕に提案してくれた結果だ。
そうして退職し、現在僕は劉生と同棲している。転職活動はお世辞にもうまくいっていない。失業保険も終わってしまった現在、僕は劉生に食べさせてもらっていると言える。申し訳なさが募るから、その分家事をしている。劉生は優しいから、それで十分だと言ってくれる。僕は劉生に甘えっぱなしだ。僕みたいに不甲斐なくて取り柄もない人間に、どうしてこんなに優しくしてくれるのかは、分からない。でも――優しいけど、劉生は、多分あんまり僕の事を好きではないと思う。
こう思う事にはネガティブな僕の空想ではなく、きちんと根拠がある。
「ちょっと出かけてくる」
行為後、僕がシャワーから出てくると、先に入っていた劉生が、着替えを済ませていた。今日は土曜日だ。証券会社に勤めている劉生は、基本的には土日がお休みだ。
「何処に行くの?」
「ちょっと買い物だ。いい子で待ってろよ?」
「う、うん!」
僕が頷くと、二ッと笑ってから、革靴を履いて劉生が出かけていった。
見送ってから、僕は時計を見る。現在、午後の四時だ。夕食を作って待っていよう。そう考えて、僕はキッチンに立った。今日のメニューは何がいいかな? 劉生の好きな蟹クリームコロッケを作ろうかな? 帰ってきたらすぐに揚げられるようにしておいて……と、考えながら準備をした。それらが終わり一段落してから、僕はダイニングのテーブルに座っていた。そして――八時、十一時、日付が変わる、二時……時計の針がぐるぐるとまわっていくが、劉生は帰ってこない。僕は、両手の指を組んで、俯いた。唇を噛む。
「ただいま」
劉生が帰ってきたのは、日曜日のお昼の十一時過ぎの事だった。
僕は唇を噛みながら、その声を聞いた。一睡も出来なかった。
「おかえり」
ダイニングに顔を出した劉生に対し、僕が小声で言った。そして窺うように劉生を見る。
「買い物じゃなかったの?」
「あー……」
「何処に行ってたの……?」
「別に。ちょっとな」
「……ねぇ、教えてよ。何処に行ってたの?」
「しつこい。シャワー浴びてくる」
劉生はそう言うと、コートを椅子に放り投げてから、浴室に消えた。僕はコートを壁に掛けようと思い、そちらへ向かう。そして息を呑んだ。香水の匂いに泣きそうになった。劉生の愛用しているものとは全然違う香りだ。震える指先で、ポケットの中を確認すると、香りの発生源であるハンドタオルが入っていて、その間から名刺が床に落ちた。拾ってみると、裏面にはトークアプリのIDが手書きで記されていて、表面にはアパレルショップの社員である事を示す名前と肩書があった。劉生がよく行くメンズ服のお店の名前だ。実際に買い物には行ったのかもしれないが、買い物袋も無い。きっと、この店長を劉生はお持ち帰りしたのだろう。なにせ、ポケットからは、ほかにラブホの名前が入ったライターが出てきた。劉生は普段煙草を吸わない。吸うのは情事後だけだ。
呆然と僕は、名刺とライターを掌に載せ、もう一方の手ではハンドタオルをテーブルに置いていた。そこへ、劉生が出てきた。
「あー、また勝手に人のものを見る」
「……ご、ごめん」
「本当だよ。勝手にいじるな」
「だけど……劉生、これ、どういう事?」
僕は泣きたい心地で、劉生を見た。まだ濡れた髪をしている劉生は、片目だけを細くすると、僕の横に立った。
「何って?」
「これ……ホテルのライターだよね?」
「だから?」
「だから、って……ねぇ、なんで? 誰と行ったの?」
「――名刺もあるし、見ればわかるだろ」
「っ」
劉生は否定しなかった。今度こそ、僕は涙ぐんだ。
「また浮気したの?」
「だから、見れば分かるだろ?」
「なんで? ねぇ、なんで?」
「別に?」
「やめてって言った。先週も、先々週も、やめてって僕は言った!」
僕達は、確かに同棲している恋人同士だ。でも、劉生の朝帰りは止まらない。
劉生が浮気をするようになったのは、社会人になってすぐだ。僕が上司の相談をするようになったら、時々冷たい顔をするようになって、それが始まりだった。最初は、『付き合いの飲み会で遅くなる』と言って、待ち合わせに遅れるようになった。それが三度ほど続いて、僕は劉生の体を心配した。すると劉生が、心配するなって言って僕の頭を撫でてくれて、それから暫くは、そういう事は無くなった。その後僕がパワハラとセクハラで本格的に疲弊し、精神的に脆くなっていた頃は、どうだったのかは知らない。僕にも余裕がなくて、把握しきれていない。次に気が付いたのは、同棲開始後だった。この時も最初は、『今週は飲み会がある』として、劉生は朝帰りをした。終電を逃したと話していた。でもその頻度があまりにも多すぎて、そうしてある日、僕は今日と同じように、違う香水の匂いに気が付いた。そして思わず、劉生のスマホを勝手に見た。そこにはいくつかのメッセージがきていて、いずれも『次はいつ会える?』と書かれていた。僕が目を見開いた瞬間で、この時僕は、劉生に多数のセフレがいる事を、初めて知った。顔面蒼白で、僕は劉生に尋ねた。
「浮気してるの?」
「お前勝手に人のスマホを見るってどうなんだよ? 恋人だからってそんな権利は無いだろ」
「ごめん。で、でも、これって……」
「浮気じゃねーよ。ただの性欲の解消だ。夏海が病んでて、かつブラックにいたから、ヤれる機会が減ってただろ? 俺はそれじゃあ足りなかったんだよ」
「……でも、僕は今は、仕事を辞めたし……じゃあ、もう……浮気しない?」
「あー、そうだなぁ」
劉生が呆れたような顔で僕を見て、そして頷いた。
だがその翌週も、劉生は朝帰りをした。
「ただいま」
「ねぇ、スマホ見せてよ」
「『おかえり』より先に、第一声がそれか?」
「見せて」
「――好きにしろよ」
そう言って劉生が、僕にスマホを手渡した。見れば、昨日の夕方、ホテル前に現地集合とあった。ラブホはなんと予約済み。前々から計画して待ち合わせをしていたらのが分かるやりとりもあった。前回とは違う相手だ。
「これもセフレ?」
「そうだよ」
「……僕も、セフレの一人って事?」
「は? なんでセフレと同棲するんだよ。お前は俺の恋人だろ?」
「……っ、だったら、二度としないで。二度としないでね? 浮気なんて、二度と」
この時、僕は号泣しながら懇願した。劉生は、そんな僕を、何も言わずに見ていた。
それが半年前の事だ。
以後、劉生は月に三度は朝帰りをする。週に三回は僕を抱くが、土曜日か日曜日、あるいは金曜の夜は、四週に三回は外泊する。当初、欲求不満が原因ならばと考えて、僕が悪いのかもしれないと思って、僕は積極的に劉生をベッドに誘った。劉生が好きだからだ。別れたくなかったし、何よりも愛しているからだ。すると、結果としてSEXの頻度は、学生時代よりも増えた。けれど――劉生の浮気は、止まらない。
僕はコートを握りしめ、改めて劉生を見た。
瞬きをしたら、僕の眼窩から涙が筋を作って零れ始めた。胸が締め付けられるように痛い。その内に、息苦しくなって、僕は嗚咽を堪えられなくなった。
「なんで浮気なんかするんだよ!」
「なんでだと思う?」
「僕じゃ欲求不満なんでしょ? でも、だからって、だからといって――……」
僕はボロボロと泣くしか出来ない。怒りよりも悲しみの方が強い。
「教えてやろうか?」
「僕の体じゃ満足できないから?」
「――違うよ」
泣いている僕の頬に、劉生が触れた。そして親指で、僕の頬を流れる涙を拭った。
「夏海。お前今、嫉妬してるだろ?」
「当然だろ!」
「傷ついてるだろ?」
「当たり前だよ!」
笑いながらそんな事を言う劉生を、僕は睨んだ。しかし劉生の瞳は、まるで僕を抱く時のように、どこか獰猛に煌めいているし、口元には笑みが浮かんでいる。
――?
表情の意味が分からない。
「泣いてるお前を見ると、俺への愛を感じるんだよ」
「……は?」
「愛されてるんだなぁ、俺って思う」
「な、何を言って……?」
「どんなに浮気しても、傷つけられても、お前、俺の事大好きだもんな?」
「っ、そ、それは……そうだけど……」
「嫉妬して泣くお前を見てると、キュンとするんだよな。それに俺、夏海の泣き顔も好きだしな、これは元から」
唖然として、僕は目を見開いた。
何を言われたのか、当初意味が分からなかった。じっくりと、脳裏で劉生の言葉を反芻してみる。そして、結果として、さらに号泣した。
「そんなの僕にはどうしようもない。ねぇ、そんな事言わないで、もう浮気はやめてよ!」
「普段の夏海、俺への愛が足りないんだよ。夏海の愛が足りないのが悪い」
「っ」
「俺に浮気をやめさせたいんなら、もっと俺を愛せよ」
「な……ぼ、僕は劉生が好きだよ! 僕は浮気なんかしないし……劉生を愛してる!」
「そうだよな? 夏海は一途だし、浮気なんかしないもんな?」
「当然だよ。だから、劉生も――」
「お前がしないからって、俺もしないという話になるわけが無いだろ? 俺とお前は別だ。夏海は浮気したら許さないからな? でも、俺は約束なんかしない」
劉生はそう言うと僕を抱きしめた。その温もりは優しい。
僕の耳の後ろを擽りながら、劉生が笑み交じりの声で続けた。
「夏海の愛が足りないのが悪い」
「……劉生。僕は、どうしたらいいの? 僕にどうしろっていうの? 僕は何をすればいいの?」
「俺の事が好きか? 好きだよな。知ってる」
「大好き」
「じゃ、とりあえずベッド行くか」
こうしてその後、僕は劉生に抱かれた。浮気をした後、必ずと言っていいほど、それが露見すると劉生は僕を抱く。そして有耶無耶にしてしまう。優しく抱かれると、僕は何も言えなくなってしまう。ベッドの上で、好きだと言ってもらった時、僕は劉生が少しは僕を好きらしいと確かに感じるし、それだけでも胸が満たされてしまうからだ。
そうなると、事後になっても、僕はもう糾弾できなくなる。
この日もそうで、ひと眠りしてから日曜の夜、僕は昨日予定していた蟹クリームコロッケを作った。
「すごい、美味い。夏海、ますます料理が上手くなったな」
「ありがとう」
笑顔の劉生に褒められて、僕もまた微笑んだ。
劉生はお気に入りの茶碗を片手に、僕を見る。なんでも黒猫の模様が入った洒落たそのお茶碗は、劉生の亡くなったお姉さんの形見らしい。劉生は三人姉弟だったそうだが、今はお姉さんは一人きりで、二番目だったお姉さんは交通事故で亡くなったそうだ。劉生が大学進学にあわせて一人暮らしを始める事になった際、その亡くなった方のお姉さんが、このお茶碗をくれたのだという。とても大切にしているのを、僕は知っている。事故で亡くなった事は本当に悲しい。時折思い出話を聞くと、僕も挨拶出来たら良かったのにと感じてしまう。ちなみにもう一人のお姉さんには、紹介をしてもらった。きちんと『恋人だ』と話してもらった。三人でご飯を食べたのだ。劉生の実家は、あまり性別にはこだわらないらしい。ちなみに僕の両親は、離婚していて、僕は母に引き取られた。そしてその母は僕が大学四年生の時に病気で亡くなったので、僕は天涯孤独に近い。だから家族がいる劉生がちょっとだけ羨ましくもある。
僕には、劉生しかいない。でも、劉生にはきちんと家族がいる。家族だけじゃない。僕は劉生のほかには、本当に誰もいない。今は会社の関係は全て縁が切れているし、大学時代もほとんど劉生と一緒だったから友達がいなかった。なお、劉生にはいっぱいいた。そして高校までの友達は、離婚前の父の実家付近に住んでいるから、非常に遠方でほとんど会えない。連絡も取っていない。だから、僕には、誰もいない。劉生しかいない。
――その後も、劉生の浮気は続いた。その度に、気づくと僕は号泣した。僕は泣きながら劉生の服を掴み、何度も懇願した。
「ねぇお願いだから、頼むから、もう浮気しないで」
「やだね」
「なんでだよ、頼んでるだろ、お願いだから!」
「前に理由は教えてやっただろ?」
「っ」
何度も泣き明かした。それでも劉生は、朝帰りを繰り返す。僕は眠れなくなった。劉生がいない夜は、一睡も出来ない。
それでも、毎週水曜日には、少しだけ気分が浮上する。
水曜日は決まって、劉生が早めに帰ってきて、僕を抱くからだ。本日も、劉生は早く帰ってきた。今もリビングにいる。僕は食後の洗い物をしながら、テレビを見ている劉生に振り返った。劉生はサッカーが好きだ。僕も好きだ。僕は観戦専門だが、劉生は高校時代まではサッカー部だったらしい。何度か二人で、試合を見にスタジアムへと足を運んだこともある。数少ないデートの記憶だ。劉生は、僕が一人で外に出ると、あまりいい顔をしない。だから僕は、買い物もネットのスーパーで済ませる事が多い。僕が出かけるのは、劉生と二人の時だ。でも二人でじっくりと出かけられる週末は、劉生は浮気ばっかりしているのが現実だ。僕はこのマンションに一人取り残されている。でも、劉生がいてくれれば、本当にそれでいい。僕は劉生に嫌われたくない。だから劉生の好みのように生きていくつもりだ。
――パリン、と。
考え事をしていたせいで、僕の泡まみれの手から、食器が落下して、流しで割れた。慌てて視線を向け、僕は息を呑む。
「あ」
冷や汗が浮かんできた。慌てて手を伸ばす。それは、劉生が亡くなったお姉さんから貰った茶碗だったからだ。
「っく」
結果、右手の掌を破片が抉った。どくどくと血が流れ始め、泡が赤く染まっていく。傷にしみて痛んだが、そんな事よりも、僕は大切な茶碗がまっぷたつになっている現実に、足元が崩れ落ちたような感覚を味わった。
「夏海? 今の音は?」
劉生が立ち上がった気配がした。僕はどうしていいのか分からなくなった。涙ぐんで、オロオロとするしかない。キッチンへとやってきた劉生が、僕へと歩み寄る。
「っ」
そして硬直している僕の後ろから流しを覗き込み、あからさまに息を呑んだ。茶碗を見たのだろう。僕は震えながら、涙を浮かべて振り返った。そして長身の劉生を見上げる。
「ごめん……ご、ごめんなさい……」
「なにしてんだよ」
地を這うような低い声音。僕は委縮し、涙をポロリと零した。嫌われてしまったのだろうと確信し、胸が締め付けられるようになった。なにより、大切な思い出を壊してしまった自分が不甲斐ない。
「ごめん、ごめん……謝っても、その……」
「何に対して謝ってんだよ? さっさと手を流して、こっちに来い」
僕の手首を強引に掴んだ劉生は、泡と血にまみれた僕の手を、流れっぱなしの水道水で流した。そして水を止めると、僕を連れてリビングへと向かった。チェストの上から救急箱を手にし、僕の手に手際よく消毒液をかけ、ガーゼを当ててから、包帯を巻いていく。
「コート、取ってこい」
「え?」
「救急行くぞ」
「……」
僕は何度か瞬きをした。すると浮かんでいた涙が頬を伝った。
「怒ってないの?」
「怒ってる」
「っ、ごめん。お茶碗、本当にごめんなさい」
「あ? お前、何に俺が怒ってると思ってんだよ?」
「大切な茶碗を、僕が――」
「そんなものはまた買えばいいだろうが」
「え?」
「迂闊なお前にキレてんだよ。泣くほど痛いんだろ? 深そうだったし、そうでなくとも破片が残ってたら困る」
劉生は、やっぱり優しい。僕はその優しさに、今度は泣いた。
その後コートを着た僕は、劉生に連れられて病院へと行った。少し縫って、帰宅する。僕は劉生を見た。そして一緒にベッドに入った。この日、劉生は僕を抱きしめて眠ったが、SEXはしなかった。体を重ねない水曜日は、久しぶりだった。
――そして、その週は、金土日のいずれも、劉生は朝帰りをしなかった。僕は嬉しくて、歓喜の涙を零しながら、三日間の全てを劉生と過ごし、夜は抱かれた。傷の痛みも消えていて、その次の週の水曜日の昼間に、抜糸してもらった。愛を感じたし、もう劉生は浮気をしないかもしれないと期待もした。
だが……その週の金曜日には、劉生は再び朝帰りしたし、以後も浮気は止まらなかった。
――浮気は許せない。
――でも、別れたくない。
――劉生は優しい。
――だけど僕の泣き顔が好きらしい。
――だが、怪我をして泣くのはダメだそうだ。
それらの現実は、僕を確実に苛んでいった。僕は日がな一日、日中は劉生の帰りを待ちながら、一人きりで、劉生の事ばかり考えている。転職活動にも身が入らず、劉生がいても眠りが浅くなってきた。深く眠れるのは、体を繋いだ後、意識を飛ばすように眠る時、即ち週に三日ほどと決まっている。
「ごめん、全然仕事が決まらなくて」
「別にいいだろ。俺、金には困ってないし、お前一人くらい養える」
「でも……バイトくらい、しようかなって思ってる」
「やめとけ。俺、前にも言ったけどな、夏海が外に出るの嫌なんだよ」
「そういえば、どうしてなの?」
「またセクハラするような奴が出たらどうすんだよ?」
「え? そ、それは、僕だって怖いけど、僕は男だし、普通は――」
「お前な、俺が一目惚れするほどの美人なんだから、もっと自覚を持て。大学時代だって、俺は何度もお前によってきた害虫を追い払っただろ」
「一目惚れ? 害虫?」
「なんでもない。それより、寝るぞ」
こうしてその日も押し倒された。本日は水曜日だ。それ以外の曜日は、金曜は浮気か僕、月と火と木はランダムだから、週に三回の行為で絶対なのは、相変わらず水曜日だけだった。僕はキスを重ねながら、毎日が水曜日だったら良いのにと、漠然と思った。
その内に、春が近づいてきた。
最近は、寒暖差が激しい。くしゃみと咳が出るようになったのは、その頃だった。花粉症になった事は無いが、ついに今年はデビューしてしまったのだろうかと考えながら、僕はマンションの掃除をしていた。金曜日の夕方の事だ。なお、その週は、金曜の夜から月曜の朝方まで、劉生は帰ってこなかった。最近では、連日の外泊もある。浮気癖は悪化の一途をたどっていて、朝帰りだけではなくなっていた。
月曜の朝も、帰ってきた気配に僕がエントランスへ向かうと、『出張だから荷物を取りに来た』と言って、劉生は真っ直ぐ自室へと向かい、スーツに着替えて荷物を持ち、そのまま出ていった。僕は見送る事しか出来なかった。
「っく」
出張が三日間だというのは聞いていた。
月曜から水曜日まで。水曜の午前中にこの街に帰ってくるそうで、午後は半日休暇だと聞いていた。トークアプリで『頑張ってね』と送りながら、僕は咳き込んだ。救急箱から取り出した市販の風邪薬を飲んではいるのだが、いっこうに咳が止まらない。鼻水も、頭痛も。眩暈まで始まった。花粉症でなく風邪だと分かったのは、月曜の夜、熱が上がった時だ。寒気がしたから体温をはかったら、三十八度も熱があった。
横になったまま、僕はぼんやりしていた。劉生がいないから、眠れていない。先週の金曜日から、水曜日の朝四時になった現在まで、僕は時折微睡むだけで、ほとんど起きている。薬を飲むのだし何か食べなければと思うのだが、食欲がない。ガクガクと体が震えるから熱を測れば、三十九度もあった。熱が下がる気配もない。全身が熱いのに、寒い。解熱剤を無理に飲んでから、僕は再び微睡んだ。
「夏海?」
声をかけられて、僕は目を開けた。少し眠る事が出来たみたいだ。時計を見ると、午前十時になっていた。
「早かったね」
「ああ。お前は、珍しいな。この時間に寝てるなんて」
「……うん」
「土産にバウムクーヘンを買ってきたから、食おうと誘いに来た……んだけどな、なんか今日のお前、色っぽいな。目が潤んでる。溜まってんのか? 顔も赤い」
「その……」
いずれも熱のせいだろう。現在は熱が上がりきっているのか、寒気の代わりに、全身が熱い。
「……ごめん、劉生。今日はデキない」
「ん?」
「せっかくの水曜日だけど……ヤりたいなら、セフレに連絡して」
こんな事は言いたくなかった。でも、僕が出来ないのでは仕方がない。上手く働かない頭で、僕はそう結論付けた。泣きそうだった。熱のせいか、関節痛がして、全身が痛む。この状態で抱かれるのは無理だ。それ以前に、風邪が劉生に移ってしまう。
「出てって」
「どういう意味だよ? ここは俺とお前の寝室だろ?」
「セフレのとこに泊ってきて」
「は?」
「お願い。今日はダメ」
「――浮気でもしたのか?」
「違うよ……僕、風邪を引いてるから、劉生に移っちゃうから……」
「え?」
僕の言葉に、チラリと劉生がベッドサイドを見た。そして体温計を手に取り、それから風邪薬の瓶を見たのが分かった。僕はその時咳き込んでしまった。慌てて口を手で押さえる。
「お願い、劉生。移っちゃうから」
「何言ってんだよ。今、何度だ?」
「わかんない」
「はかれ」
劉生がそう言って、僕に体温計を渡した。頷いて、僕は素直に体温をはかる。
暫くして体温計が音を立てた。見ると、四十度もあった。
「何度だった? よこせ、見せてみろ」
僕の手から、劉生が体温計を奪った。そして息を呑んで目を見開いた。
「お前、なんだよこの熱は? いつからだ?」
「っ……月曜日くらい。咳とかは先週だけど、劉生はいなかったから、まだ移ってないと思う。とにかく、出ていって」
「なんで言わなかったんだよ?」
「……浮気してるところに連絡なんて、辛くて出来ないよ……それに、出張の時は、仕事の邪魔になると思って……」
「あのな? 熱があるのに、そんな事を言ってる場合じゃないだろ? 何を考えてるんだよ?」
「劉生の事しか考えてないよ。とにかく、劉生に移ったら辛いから。出ていって」
半分泣きながら、僕はお願いした。
僕は、僕自身の事よりも、劉生が大切だ。僕は、自分の事は好きになれないけど、劉生の事は大好きだ。僕は自分よりも劉生の事が好きで、劉生に移したくない。
「……」
暫しの間、劉生は睨むように僕を見下ろしていた。それから冷たい眼をして、舌打ちした。
「お前って、本当そうだよな。いつもギリギリまで我慢して、限界まで何も言わなくて、俺を頼ってこない。やっと俺が発見した頃には、いつも手遅れに近い。例の上司の時だってそうだっただろ。お前の様子がおかしいから、俺が聞いたんだ。そうじゃなかったら、お前言わなかっただろ。だから俺は、お前を外に出すのが嫌なんだよ。なんで夏海は、自分を大切にしないんだ? 俺は、お前のそう言うとこがイラつく」
冷たい声音で吐き捨てるようにそう言うと、劉生が出ていった。
その後玄関の扉の開閉音が聞こえてきたから、セフレのところにいったのかなって考えた。それは辛いけど、劉生に風邪がうつるよりはずっと良いから、初めてセフレという存在に、僕は感謝した。そしてギュッとシーツを手で握り、横向きになって静かに泣いた。
それから――少しすると、再びエントランスのドアの開閉音がした。
「なんで……」
戻ってきた劉生を見て、僕は思わず呟いた。袋から、熱さましようのシートや、液体状の強力な風邪薬、胸に貼る咳止めを取り出した劉生は、それらを僕に与えると、溜息をついて、目を据わらせた。
「それで様子を見て、午後には熱が去っても下がらなくても病院に行くからな」
「……」
「お前は体を、自分を、もっと大切にしろ」
劉生は、優しい。僕は涙ぐみながら頷いた。すると劉生が、怒ったような顔のままで、僕の頭を撫でた。そして再度、大きく吐息した。
「ありがとう劉生、大好き……」
「その好きは、ただの依存だろ?」
「え?」
「お前の好きは、俺への依存だろ。俺しかいないと思ってるんだろ? だから俺は、浮気するんだよ。その後だけは、お前が俺を本当に好きだって思うから。普段の夏海は、俺に依存しているだけだ」
「違うよ、そんな事ない! 確かに僕は、仕事もないし、養ってもらってるけど、でも――」
必死で僕は否定しようとした。
「そういう事じゃねぇよ。もっとずっと昔からだ」
「確かに僕には、劉生しかいないけど、でもそれは――」
「当然だろ。俺がお前の周囲を排除してるんだからな。友達にすら嫉妬する。あのな? 俺がどれほど夏海を愛してるか、お前は気づかなさすぎ。頼むから、とにかく自分を大切にしろ」
その言葉は嬉しかったが、僕は首を振る。
「……僕の頼みは、劉生、聞いてくれないよね? 僕のお願いは聞いてくれないよね? 僕は浮気しないけど、劉生がするのは、違う人間だからで、片っぽが約束しても、もう片方が守る義務はないんでしょう? だったら、僕はその頼みは聞けないよ。だから出ていって。僕は僕より劉生が大切だから、劉生に移したくないんだよ!」
「そういうところが、依存してるようにしか見えないんだよ。俺を好きなら、俺の好きなものを尊重しろよ」
「劉生の好きなもの……?」
「お前に決まってんだろ」
そう言うと、劉生が僕の額にキスをした。その温もりに、僕は目を閉じる。涙が零れ落ちていった。
午後になってから、僕は劉生に連れられて病院へと行った。風邪をこじらせていたらしく、僕は肺炎だと診断された。その日は病院で長い間点滴を受け、帰宅した。劉生は翌日も仕事を休み、ずっと僕の看病をしてくれた。その甲斐あって、僕は金曜日には、熱が下がり、胸が少し楽になった。劉生は、僕に卵がゆを作ってくれた。
「ちゃんと食って、早く治せ」
そしてその週は、朝帰りをせず、ずっと僕のそばにいた。
泣きそうなくらい、僕は嬉しかったが、笑う事にした。
頷いてから食べた、劉生の作ってくれた料理はとっても美味しかった。
翌週には、僕は全快した。本日は、土曜日だ。先週は何処にも出かけなかったから、きっと今週は、劉生は浮気をするのだろうと、僕は漠然と思った。勿論嫌だ。
「買い物に行ってくる」
劉生がそう言った時、僕は玄関に見送りに出て、思わずその袖の服を掴んだ。
「どうした?」
「……ねぇ、劉生」
行かないで、と。僕は言おうとした。でも、出来なかった。劉生に嫌われたくなかったというのもあるが、僕は劉生にここのところ存分に優しくしてもらったから、これ以上の幸せを求めたら悪いと思ったからだ。
「……ううん、なんでもない。いってらっしゃい」
僕は無理に笑顔を浮かべた。すると劉生もまた頷いて出ていった。
きっと帰ってこないだろうと思ったが、それでも僕は、食事の用意をする。本日のメニューは、シチューだ。僕は完成してから、ダイニングの椅子に座った。現在、午後の六時だ。僕はオブジェでもある時計の文字盤を、何気なく見上げた。すると――十分後に、エントランスの扉が開く音がした。驚いて、僕は目を丸くした。
「ただいま」
「っ、劉生……?」
「ワインを買ってきた。快気祝いに一杯どうだ?」
「う、うん!」
まさか帰ってくるとは思わず、僕は現実なのか疑ったままで、頷いてからシチューを温めなおした。そして準備を終えてから、二人で席につく。
「治って良かったな」
「あ、ありがとう。劉生のおかげだよ……」
「これで思う存分デキるな」
二ッと笑って劉生が言ったものだから、僕は赤面した。
食後、入浴を終えてから、僕達は寝室に向かった。僕の服を乱した劉生は、静かに僕の鎖骨の上に口づける。その後、僕の背後にまわった劉生は、僕を下から貫いた。
「あ、あ、あ」
久しぶりの行為に、僕の体が熱を帯びる。僕の両方の太股を劉生が持ち上げたから、僕は不安定な体勢で、最奥までを貫かれる形となった。その状態で激しく腰を揺さぶり突き上げられて、強い快楽に僕は涙をボロボロと零した。かき混ぜるように腰を動かしたり、グッとうがったままで動きを止めたりする劉生に翻弄され、僕は舌を出して必死で息をする。
「んン――ぁあ! アああ! ぁ……ひぁ!」
「本当に可愛いな」
「ぅ、ぁ……ああ! っッ、も、もう――あああ!」
劉生に一際強く突き上げられた瞬間、僕は放った。
しかし劉生の動きは止まらない。そのまま激しく抽挿されて、僕の頭は真っ白に染まった。この夜、僕達は、ずっと繋がっていた。
翌朝目を覚ますと、僕は横から劉生に抱きしめられていた。
今日は日曜日だ。そう思って時計を見ると、もう昼下がりだった。
「おはよう、夏海」
「お、おはよう……これから、お出かけ?」
昨日行かなかったのだからと、僕は微苦笑しながら尋ねた。すると片目だけを細くして、劉生が呆れたような顔をした。
「何処にもいく予定は無いぞ?」
「ほ、本当?」
「ああ。俺、いつも言ってるよな?」
「え?」
「『いい子で待ってろ』って。どうやら、夏海はそれが守れないらしいからな、これからはきちんと見張っておく事に決めた」
「――? どういう意味?」
「自分の体を大切にできない悪い子だろ、お前は。二度と体調を崩さないように、しっかり俺が見ててやるよ」
そう言うと劉生は吹き出すように笑ってから、僕を改めて抱きしめた。
このようにして、劉生の浮気癖はなりをひそめた。代わりに週末は、僕を抱き潰すか、そうでなければ僕をデートに連れ出してくれるようになった。二人でならば、僕も外出していいらしい。すっかり僕は、劉生に囲われている。
「お前は俺だけを見ていればいいんだよ。ちゃんと、いい子で、な?」
劉生はそう言うと、ギュッと僕の手を握った。現在僕達は、一緒に買い物に来ている。僕は頷き、劉生の手を握り返した。いつか劉生が浮気をした店長のいるお店だったから、僕は浮気相手の姿を探してみた。すると、僕と同じくらいの身長で、僕と同じような髪の色の青年がいた。
「……劉生って、一目惚れしたっていうけど、僕みたいな髪色と背丈が好きなだけでしょ?」
「は? なんだよ急に」
「違うの?」
「違う。なんでいきなりそんな事を――……ああ、あいつか。違うよ、本当に」
僕の視線に気づいた劉生が苦笑してから、続いて楽しそうに笑った。
「俺が好きなのは夏海だ。俺の浮気相手は、基本的にお前に似てる相手だ。お前に似てる相手を選んで浮気してたんだよ」
「え?」
「俺には、お前だけだ。浮気相手には常に、お前を重ねてた」
「っ」
「特にお前が具合悪そうな時は、抱いて無理をさせたら悪いと思ったから浮気した。勿論、お前が俺に嫉妬するところを見たいっていうのも本心だけどな」
劉生はそう言うと、改めて僕の手を握った。
「でもこれからは、俺がきっちり体調管理もしてやるし、お前が俺の相手、してくれるよな?」
「う、うん!」
以後――劉生の浮気は本当に止まったのである。
浮気癖が無くなった劉生の、僕をちょっと溺愛しすぎる愛の重さに、僕は日々驚いている。しかし決して嫌ではない。それがすごく、嬉しい。
―― 了 ――