性接待の椅子




 白衣を纏い、顕微鏡を覗き込む毎日。僕は、それが好きだった。それもあって、中学校の理科の免許、高校の生物の免許など、教職課程を一通り修めた。教育実習にも行き、無事に教員免許は取得したが、僕は大学卒業後、就職はせず、そのまま大学院に進学した。

 僕は基礎研究に元々興味があったから、それを論文にし提出する毎日が、楽しくてならなかったのだと思う。僕は元々、あまり表情が豊かな方でもなく、口数が多いわけでもない。だが、大学院の研究室において、討論を出来るような友も得た。

 修士課程を終えた後、僕は迷わず博士課程にも進学した。この頃、明確に己の将来像など描いてはいなかった。ただ、ひたすらに、顕微鏡を覗いていたかっただけなのだ。

「――い。おい、海里(かいり)」

 不意に声を掛けられて、僕はビクリとした。その瞬間、集中力が途切れる。最近伸びてきて鬱陶しい髪を揺らし、俺は振り返る。するとそこには、僕と同じく大学から博士課程まで進んだ、箕輪(みのわ)が立っていた。同じ分野を専攻している貴重な同年代だ。

 二十七歳になる来年には、僕達は同じ学び舎からは離れる事になるだろうが、箕輪とはその後も友人でいられるのではないかと、僕は漠然と考えている。

「飯、行くぞ? 高崎(たかさき)教授からのお呼び出しだ」
「……ああ」

 僕達の所属している研究室の長が、高崎教授である。実際には、その片腕である長野准教授に、僕と箕輪は師事していると言えるのだが、紛れもなく大学の『序列』において、僕達の一番上にいるのは、高崎教授だ。機嫌を損ねてはならない、最初にそう覚えさせられた存在である。顕微鏡だけ覗いていたい僕にとっては、鬱陶しい事極まり無い存在であるとも言える。

 箕輪に連れられて、僕は大学の敷地から、バスで一本の隣町の駅前へと向かった。そこに、高崎教授がお気に入りの居酒屋がある。到着すると、学部のゼミの女子学生を侍らせて、高崎教授が既に出来上がっている様子で、赤い顔をしていた。

「やぁ、よく来たね」

 ねっとりとした、舐るような視線が、僕と箕輪に向いた。長野先生の姿は無い。僕らが過ごす氷雨大学の学長の子息である長野先生は、まだ三十代半ばなのだが、異例の人事で准教授だ。七光りだと、名指しされているが、僕はそうは思わない。目の前の高崎教授よりはずっとマシだ。

「酒の席の繋がりは、何よりも大切だからねぇ」

 高崎教授がそう述べると、箕輪が愛想笑いをした。高崎教授は、大学も大学院もその後の就職に関しても、全ては『コネ』だと、度々口にする。学生に、酒の席での接待を求める高崎教授を見ていると、僕は陰鬱な気分になる。

 そして僕には、作り笑いをするような度量は無い。だから笑顔を浮かべた箕輪の隣に立っているだけでも精一杯だった。一杯くらい付き合って飲んだら、帰宅しても構わないだろう。そう判断し、高崎教授が呼んだ店員に、「弱めのジントニックを」と告げる。

 午後六時、本日は雨が降っている。奥の個室席で、僕らは高崎教授を囲み、その後、一時間程度過ごした。ゆっくりと酒を飲んだ僕は、グラスが空になった時、チラリと高崎教授を見た。

「そろそろ失礼致します」
「おや、海里君。私はまだ、飲み足りないのだが、ね?」
「……」

 高崎教授が僕を引き留めるのは、いつもの事だ。しかしその理由がよく分からない。特に話すわけでもなく、酒を望んで飲むわけでもない、無表情の僕をそばに置いてくれるのは、一応は、研究室の学生に目を掛けてくれているという意味なのだろうか? 有難い配慮なのかもしれないが、僕はでっぶりと肥えている脂ぎった高崎教授の禿げた頭を見る度に、人は外見では無いとは思うものの、どうしても嫌悪感を抱いてしまうのである。もう少し酒を節制して、体調管理に努めた方が良いのでは無いのかと、進言しそうになる。

「た、高崎教授! 俺は残りますから! 海里の奴、ええと、論文が佳境みたいで」

 その時、箕輪が助け船を出してくれた。それに安堵している自分に気づいて、僕は不甲斐なく思う。僕はいつも、箕輪に助けられている。

「なるほど。そうかい。熱心なのだねぇ」
「……恐縮です」
「だが、ねぇ。優秀な論文の提出は、『当たり前』の事だ。ポスドクの道に進むのであれば、研究よりも、私との会話に、もう少し熱心になるべきだと教えておこう」
「……」
「研究室に――大学に残る道、そう簡単ではないからねぇ」

 高崎教授が卑しい笑みを浮かべた。唇を歪めそうになった僕は、一度視線を下げてから、必死で頷く。本意では無かった為、ごく小さく頷くだけの結果となってしまった。



 店から外へと出て、僕は自分のマンションを目指す事にした。タクシーを拾うまで、傘に打ち付ける雨音を聞いていた。ボトムスの裾を、水溜まりから跳ねた雨雫が濡らす。

 着替えた僕は、入浴した後、ミネラルウォーターのペットボトルを傾けてから、ベッドに転がった。特にバイトをするでも奨学金を貰うでもなく、それなりのマンションで暮らしていられるのは、開業医をしている実家の父からの仕送りのおかげだ。僕は随分と自由にさせてもらっていると思う。

 寝転がりながら、僕は父について考えた。父は、僕が大学に残る事を疑ってはいない。だが、僕個人としては、教員免許を生かして、どこかの学校で教鞭を執るのも良いのではないかと考えている。確かに顕微鏡を覗く日々を過ごしはしたいが、高崎教授が言うように、大学に残りポスドクの道を進みたいというわけではないのだ。

「勿論、研究だけして生きていけたら、最高だろうけどな……」

 その日は、黒い枕を抱えるようにして、僕は眠った。

 翌日、普段の通りに研究室へと向かうと、いつもとは異なり、箕輪の姿が無かった。無断で休んだ事など、記憶に無い。結果として、僕は長野先生と二人で、並んで座る形となった。実験室には、僕達だけだ。

「箕輪は一体どうしたんだ?」

 長野先生に声を掛けられたのは、実験準備を整えた時の事だった。後に前髪を流している長野先生の切れ長の黒い眼を見て、僕もまた首を傾げる。

「分かりません。先ほど、連絡をしてみたんですが、返事も無くて」
「そうか。では、仕方が無いな。先に始めていようか」
「はい」

 頷いた僕は、しっかりと実験用具を確認する。薄手のゴム手袋をはめた手で、慎重にサンプルの用意を行う。

 僕は長野先生を尊敬している。大学でなんと言われていようとも、長野先生は立派だと僕は思うのだ。何より研究姿勢が優れている。人間同士を比較するべきでは無いのかもしれないが、高崎教授とは異なり、『実力』を重要視してくれるように見えるのだ。

 世間の評価は真逆であり、長野先生こそが七光り、高崎教授こそが実力者とされている。だが、高崎教授の研究成果は、長野先生が与えた功績ばかりであるというのが、共に研究を進める内にすぐに理解出来てしまった。

 長身の長野先生を一瞥する。いつでも実験は進められる。長野先生の準備も整ったようで、大きな手が繊細な仕草で器具に触れたのを、僕は確認した。

 ――この日、箕輪からは連絡が無いままだった。

 僕は長野先生が出て行った後も、顕微鏡を覗いていたのだが、箕輪が顔を出す事は無かった。高崎教授に知られたら怒られてしまうはずだ。そう考えながら、僕だってたまには箕輪を助けたいと考える。何か、上手い言い訳は無いものだろうか。

 しかし何も思いつかないままで、気づけば夜の十時になっていた。

「まだ残っていたのか」

 長野先生のテノールの声がした時、僕は慌てて顔を上げた。いつも帰宅を促してくれる箕輪がいないものだから、すっかり時間の経過を忘れていた。普段の白衣とは異なり、スーツの上に薄手のコートを纏っている長野先生を見る。

「海里は、真面目だな」
「……有難うございます」
「だが熱心すぎるのも困りものだぞ。食事はとったのか?」
「いえ……こ、これからです」

 実を言えば、昼も食べるのを失念していた。そんな僕を見ると、長野先生が柔和な笑みを浮かべた。僅かに呆れたような目をしてから、すぐに明るい色を瞳に宿す。

「体を壊すぞ? きちんと食べないと、な。とはいえ、俺も今日はまだこれからなんだ。たまには一緒にどうだ?」
「え?」
「強制じゃない。早く帰る事を勧めている――が、俺は一度ゆっくりと海里と話してみたかったんだ。いつも喋るのは専ら箕輪だからな」

 クスクスと長野先生が喉で笑う。それを見て、僕は柄でもなく緊張した。僕も、一度ゆっくりと長野先生と話がしてみたいと、ずっと感じていたからだ。同じ研究室になってもう何年も経つが、僕は常に箕輪や先輩あるいは後輩と共にしか、長野先生と話をした事が無い。一対一で長野先生と話すのは、論文指導の時くらいのものであり、本日のように実験室が二人きりという事態ですら珍しいものだったのだ。

「嫌か?」
「いえ……」
「それは良かった。じゃ、行こうか」

 長野先生が、僕を手招きした。僕は慌てて顕微鏡をしまうと、ゴム手袋を外して捨て、手を洗った。その間、長野先生が戸締まりの確認をし、ティサーバーの電源を落としてくれた。本来であれば、それらもまた僕が行うべき仕事だったのだが……長野先生は、優しい。

「何が食べたい?」
「何でも――」
「一番困る回答が来たな。覚えておくと良い。こういう場面では、きちんと申告してもらった方が、誘ったがわは楽なんだぞ?」
「す、すみません」
「謝るな、冗談だ。海里は素直だな」

 二人で研究室を出て、廊下を歩きながら、そんなやりとりをした。長野先生には、気を悪くしたような様子は無い。向かった先は駐車場で、ドアに触れて鍵を開けた長野先生は、僕でも名を知る高級車の運転席へと乗り込んだ。暫く横に立ち瞬きをしていると、助手席の窓が開いた。

「乗ってくれ」
「あ……え、ええと……良いんですか?」
「ああ。誓って、海里を誘拐したりはしない」

 楽しそうな目をして笑っている長野先生を見ていると、なんだか子供扱いされたようで気恥ずかしくなりつつ、僕は静かに頷いてから助手席に乗り込んだ。車の内部は新車のように綺麗で、ただ精悍な香りがした。骨張った長い指をハンドルに乗せた長野先生は、発進させながら僕を見る。

「本当に、俺のお任せで良いんだな?」
「は、はい」
「じゃあ馴染みの店に連れて行く。車を置かせてくれる店なんだ。俺の家からも近い」
「……」
「安心しろ。タクシー代くらい、きちんと出すからな。そう遠い場所でもない」

 僕を安心させるように微笑しながら、長野先生が続けた。僕は瞬きをしてから頷く。
 その後長野先生が僕を連れて行ってくれた店は、和食の小料理店だった。
 カウンター席しかない狭い店内で、その奥には短髪の店主がいた。

「いらっしゃい。おお、先生、珍しいな。連れかい?」
「ああ、俺と同じ研究室の学生だ」
「へぇ。初めてじゃないか? 誰かを連れてくるなんて。毎日ここで飯を食っていく割に」
「こいつは特別でな。この穴場を教えても良いかという気分になったんですよ」

 長野先生の言葉に、僕は照れそうになった。
 ――特別? 初めて? 僕が?

「俺はいつも一番奥に座るんだ。その隣は、基本的に空いている。海里は、今日はそこに座ると良い」
「はい……」
「俺も久しぶりに今日は飲むか。海里はどうする?」
「……」
「無理にとは言わないが、この店の酒は美味い。よければ、一杯どうだ? おごるぞ」
「有難うございます」

 上手く言葉が出てこない。憧れの長野先生のプライベートに踏み込んでいる感覚が、僕の胸を騒がせる。尊敬している相手が、僕を気に掛けてくれたという事実が、無性に嬉しい。いつも高崎教授の誘いを鬱陶しいと思うのに、どうして長野先生に対しては、そうは感じないのだろう。

「今日のおすすめは?」
「ナスだな。揚げ浸し。あとは良いカツオが手に入ってる」
「じゃあそれを」

 手慣れた様子で注文した長野先生は、それから僕にメニューを差し出した。

「何か他に食べたいものはあるか? どれもおすすめだぞ。それと、飲み物はどうする? 俺はとりあえず――ビールだな」
「僕もビールを」
「お。飲める口か?」
「……その」

 僕はアルコールを自分で好んでは飲まないだけで、弱いわけではない。いいや、実際には、嫌いじゃないと思う。単純に、呼び出されるといった事が煩わしいだけなのだ。

「考えてみると、俺は海里の事を、ほとんど知らないな。ちょっと目を惹く顔立ちだというのは、入学した頃から噂になっているのを知っていたけどな」

 長野先生の声に、僕は赤面しそうになった。モデルをしていた母に似たそうで、僕は容姿を褒められる事がたまにある。けれど母とは違って口下手なので、何と返せば良いのか分からない。それもあって、僕はあまり外界が好きではなくなった。箕輪のように一部の友達がいれば満足だと思うようになったし、顕微鏡の向こうの世界の方が落ち着くのだ。

「長野先生でも、そう言った事を仰るんですね」

 それよりも僕は、意外だった。長野先生は研究一筋に見えるから、まさか外見について持ち出されるとは思わなかったのだ。その上、僕から見ると、長野先生の方が、ずっと整った容姿をしているように思える。切れ長の目、通った鼻梁、整った形の良い唇。皺一つ無いスーツ、質の良さそうなネクタイ、傍らに置かれたコートと鞄、靴。どこを切り取っても、先生こそモデルのように、完成された一枚絵のような外見をしている。

「滅多に言わないな、確かに。ただ、海里は特別だ」
「特別……」
「そもそも俺は、学生を食事に誘わないからな。だが、誘ったからには、雑談の一つや二つはしたいと思う。外見の他に糸口が無かった」

 冗談めかして、長野先生が笑った。そこへビールのジョッキが二つ差し出される。店主がこちらを見て、楽しそうな顔をしていた。

「こらこら先生。学生さんを口説いたらダメなんじゃねぇのかい?」
「美人は口説いてみないとな。損だろう?」

 二人のやりとりに揶揄われているのだと悟り、思わず僕は目を細める。

「美人って……僕は男ですけど」

 すると店主と先生が吹き出した。そこへ、お通しの小鉢が続いて置かれる。山菜の漬物のようだったが、僕には種類が分からない。上品に割り箸を手に取った先生が、早速手をつける。僕は両手を合わせた。

「いただきます」
「育ちが良さそうだな、海里は」
「普通です」
「そうか? いただきます」

 そう言うと先生が、山菜を口に運んだ。僕はジョッキに手を伸ばす。すると慌てたように先生が箸を置いて、ジョッキを持った。そして急いだ様子でお通しを飲み込んでから、僕を見た。

「乾杯」
「か、乾杯」

 少し下げてジョッキを合わせ、僕は答えた。すると満足そうに一口飲んでから、先生が再び箸を持った。

「海里は、普段はどういう店に行くんだ?」
「普段、ですか……あまり外食はしないです」
「そうか。好物は?」
「好物……豆腐が好きです」
「若いのに、また渋いな。細い事にも納得だ。すみません、冷や奴も追加で」
「あいよ」

 僕は頼んで欲しかったわけでは無かったのだが、言葉を挟む前に、そんなやりとりがなされていた。

「その……」
「ん?」
「……長野先生は、何が好きですか?」
「この店のメニューは大体好きだ。ただしキュウリだけは、この世界から消滅しても許す」
「子供みたいですね」
「海里には、嫌いな食べ物は無いのか?」
「サツマイモとカボチャがあまり好きじゃないです」
「お前も子供みたいだという事で良いか?」
「食べられないわけではないです」
「そうか。覚えておく」

 そう言って笑う先生の横顔が、普段よりも表情豊かに見えて、僕は擽ったくなった。先生と話していると、心地が良い。箕輪ともまた違うのだが、落ち着く。グイグイとジョッキを傾けながら、長野先生は続いて届いたナスの揚げ浸しを見た。

「好きな相手と美味しい料理を食べる事ほど、幸せな事は無いと俺は思うんだ」
「僕も同感です」
「それは、俺が好きって事か?」
「え、え? え、ええと……はい。先生は、その……凄いと思っています」
「世辞か?」
「違います。僕はそう言った無駄な事を口にするのは、好きじゃないです」
「無駄、か。本当に海里は素直だな」

 長野先生が吹き出した。僕は気恥ずかしくなって、ビールを飲み込んで誤魔化す。研究室でいつも触れる先生の人柄も尊敬していたが、こうして人間味がある姿を見ていると――より憧憬が強くなる。

 この夜、僕は長野先生とずっと話をしていた。箕輪以外と飲みに出て、二杯以上飲んだのは、久方ぶりの事だった。



 週末を挟んで、月曜日。

 研究室に行くと、箕輪が立っていた。コートを脱いでいた箕輪を見て、僕は目を瞠る。結局箕輪からは、これまで連絡は無かったのだ。

「箕輪、おはよう。何かあったのか?」
「海里……俺、さ……」
「うん?」
「来年も……ここに残れる事になった……」
「え?」
「……助手になる。高崎教授の所の」
「本当か? 良かったじゃないか」

 俺は目を丸くしたまま、ロッカーの前にいる箕輪に歩み寄った。すると箕輪の首元に絆創膏が見えた。鎖骨の少し上だ。虫にでも刺されたのだろうかと考えてから、両頬を持ち上げる。

「君は、ずっと残りたいって言っていたもんな。おめでとう」
「……」
「箕輪?」

 まだ試験などのある時期では無いから、どのように内定したのかは不明だったが、兎に角めでたい。そう思って箕輪を見たのだが、箕輪は蒼白で、立ち尽くしている。その瞳は、どこか遠くを見ていて、こちらを捉えてはいない。

「海里……俺……」
「どうしたんだ?」
「……寝たんだ」
「え?」
「高崎教授に抱かれた」

 最初、僕は何を聞いたのか、意味が分からなかった。目を見開き、それからゆっくりと二度瞬きをした。寝た? 抱かれた? どういう意味だ? そう考えて――それからあからさまに息を呑んでしまった。男同士だ、という点がまず浮かんだが、そういう問題を超えている。

「な」
「どうしても……どうしても。何をしてでも、俺は、大学に残りたかったんだよ」

 箕輪が歪な笑みを浮かべた。しかしその瞳には、涙が浮かんでいる。

「性接待って奴だ」
「……」
「海里。高崎教授は、あと一つ枠があると話していた」
「……」
「お前の事を、狙っているっても、言ってた」
「僕は、絶対にそんな事はしない」
「――そんな事、か。軽蔑したよな?」
「み、箕輪。そういう意味じゃない。でもな……そんな……実力以外で大学に残る事に、僕は意味を見いだせない」
「お前は本当、綺麗で良いよな」

 箕輪は、どこか暗い目をして僕を見てから、コートをしまって白衣を纏った。僕も己のロッカーを開け、白衣を取り出しつつ……言葉を探した。しかし僕は何と声を掛ければ良いのか分からず、結局箕輪に、何も言えなかった。その日、僕達の間には、事務的な事柄以外の会話は無かった。

 午後五時を過ぎた頃、研究室に高崎教授が入ってきた。高崎教授は僕を見て笑った後、箕輪に歩み寄ってその肩を抱いた。

「箕輪君。今夜も二人で飲みに行かないかね?」
「……お供させて頂きます」
「ああ、そうだ。海里君も誘わないと可哀想だねぇ」

 いつもであれば、不要な気遣いだと僕は考える。だが、今日は分からない。僕が一緒に行けば、箕輪は嫌な目に遭わなくて済むのだろうか? それとも、僕が行った所で状況は何も変わらないか、あるいは僕まで誘われるという結果になるのか。いずれにしろ、高崎教授に対して憎悪と嫌悪が浮かんでくる。気づくと僕は、下ろした手をきつく握りしめていた。

「高崎先生、海里には少し資料整理を頼みたいので、箕輪と先に楽しんでいらして下さい」

 その時、僕の背後に、長野先生が立った。驚いて振り返ると、長野先生は笑顔だった。何も知らないのだろうから、当然だろう。しかし僕の脳裏で、全てを長野先生に打ち明けて相談するという案が浮かぶ。学長の子息である長野先生には、高崎教授も強くは出られないようなのだ。

「そうかね? では、行こうか、箕輪君」
「はい……」

 箕輪が笑顔になった。強ばっているその表情を見て、思わず僕は唇を噛む。本当に、行かせて良いのだろうか? 出て行く二人を見た時、僕は思わず追いかけそうになった。すると、軽く手首を後から握られた。

「海里。資料整理を頼む」
「っ、は、はい……」

 我に返って振り返り、そうして先ほど浮かんだ考えを、口にしようか悩んだ。箕輪が内定した事、体を差し出した事を、もし伝えたら長野先生はどうするのだろう。

「……」

 もしも、助手への内定が取り消しなどという事になれば、それは最悪なのかもしれない、箕輪にとって。けれど辛そうな箕輪を見ているのも嫌で、しかしそれは僕の問題かもしれず――上手く判断が出来ない。結局何も出来ないまま、その日僕は長野先生の指示で、資料を整理した。パソコンの画面を見ながら、何度も溜息を押し殺すだけだった。

「なんだか、今日の海里は怖い顔をしているな」

 資料整理が終わり、パソコンの電源を落とした時、長野先生が僕の横にコーヒーの入ったカップを置いた。受け取って礼を述べてから、僕は軽く首を振る。

「何でもありません」

 相談するにしろ、僕の一存ではなく、箕輪の判断を聞いてからの方が良いと、この時には考えていた。

 翌朝、少し遅刻してやってきた箕輪の首には、絆創膏がまた一つ増えていた。なんと声を掛けようか思案している内に、その日の実験も始まった。箕輪は僕には何も言わない。

 以降、そんな日が続いた。箕輪は僕と事務的な会話以外しなくなった。僕もまた言葉を探すばかりで、上手く話が出来ない。ある日、箕輪の肌から絆創膏が剥がれ掛けていて、その下にあった生々しい情事の痕、キスマークを確認した日には、僕は怖気を覚えた。

 箕輪は、苦しんでいるのでは無いのか? そう考えて、ある日、勇気を出した。

「箕輪、その……」
「何だよ?」
「……長野先生が、いつも行くという小料理店があるんだ。一緒に行ってみないか?」
「そうして、どうしろって? 長野先生にも抱かれろと言う話か?」
「ち、違う。そうじゃない! 相談したら――」
「良いんだよ、俺はこれで。余計な事をして、邪魔をしないでくれ」

 明確な拒絶だった。立ち去る箕輪を、僕は為す術もなく、見送るしかなかった。



 ――一ヶ月後。

 正式に、来年度の大学における採用に関する案内が、各研究室へと配布された。僕もそれを手に取る。助手が二名募集されるとあって、いずれも高崎教授の研究室や講座の関連だった。箕輪は、どちらに内定しているのだろう?

 漠然と手にした紙を見ていると、不意に肩を後から叩かれた。

「海里も大学に残るんだろう?」

 振り返れば、そこには長野先生が立っていた。

「いえ、僕は――……」

 残りたいが、まだ、教員採用試験にも間に合う。そう言いかけようとした時、研究室の扉が開き、箕輪と、その肩を抱いた高崎教授が入ってきた。

「やぁ。見たかね? 募集要項を」

 僕を真っ直ぐに見て、にたりと高崎教授が笑った。箕輪の肩を、僕の前で、何の躊躇いも無い様子で、高崎教授が抱き寄せた。箕輪が息を呑んでいる。その光景に、気づいてくれるのではないかと、僕は思わず長野先生をチラリと見た。すると長野先生は、スッと目を細めて、腕を組んでいた。

「ええ、今、海里と見ていた所です」
「そうか、そうか。それで、海里君はどうするんだね? いやぁ、私の研究室の学生は優秀な者ばかりで困ってしまうねぇ。そうは思わないかね? 長野君」
「同感です。俺個人としては、海里と箕輪には、是非この大学に残って欲しいと感じています」
「私も同じ気持ちだよ。その為には――ただしやはり、コネが必要だ。分かるかい?」

 その声に、箕輪が小さく震えながら頷いた。僕は顔面蒼白になっている箕輪を見てから、再び長野先生へと視線を向ける。長野先生は小首を傾げ、唇の肩端を持ち上げた。

「コネは努力で作り出せますが、有益な研究はその限りではありませんからね。俺にはなんとも言えません」

 長野先生の返答に、高崎教授が小さく吹き出した。それから、僕を見た。

「海里君。もし大学へと残る道に興味があるのならば、今夜。ここへ来るように。私自ら、指導してあげよう。箕輪君は、今日は休んで構わないからねぇ」
「!」

 箕輪が目を見開いた横から、一歩前へと出て、高崎教授が僕に封筒を差し出した。反射的に受け取ると、ホテルの透かしが入った封筒で、おずおずと中を確認すれば、そこには地図がついたパンフレットと、高崎教授の名刺が入っていた。

「た、高崎先生。こ、今夜も俺と――」
「箕輪君。君はもう、何も心配しなくて良いんだよ。私は約束は守る男だ。ただし機会は平等に与えるべきだと考えていてねぇ。今夜は海里君のために、時間を作ってあげようと考えているんだよ」
「で、ですが――」
「嫉妬かね?」
「っ……」
「箕輪君。君は、可愛いな」

 箕輪の横へと戻った高崎教授が、箕輪の腰を抱き寄せた。僕と長野先生がいるにも関わらずだ。

「箕輪君も、友人を想うのならば、今夜来るように、海里君に伝えてくれたまえ」
「……それ、は……」

 箕輪の声が震えている。僕が愕然としていると、不意に僕の後方から、吹き出す気配がした。

「良いんじゃないか、海里」
「っ」
「折角の高崎先生からのお誘いだ」
「……」
「大学に残りたいのならば、行って損は無い」

 僕の指先までもが冷え切った気がした。振り返り、僕は長野先生を見る。気がついていないのだろうか? いつもと変わらない笑顔の長野先生の姿に、僕は唇を震わせる。すると――長野先生が、僕の耳元に唇を近づけた。

「そうすれば、少なくとも今夜、箕輪は救われるようだぞ?」

 笑みを含んだ声音だったが、その囁き声に僕は目を見開いた。狼狽えて長野先生を見ると、その目がどこか冷酷に見えた。嫌な動悸が浮かび始める。僕は長野先生と高崎教授を交互に見た。

「長野君は、さすがによく分かっているようだね」
「高崎先生の片腕ですから」
「適切な接待をしてもらわないと、推すに推せないからねぇ。片方にばかりでは、もう片方を依怙贔屓している事になってしまう」
「先生の博愛主義には感服するばかりです」

 長野先生と高崎教授が、にこやかに話しているのを、僕はどこか乖離したような意識で見守っていた。

 そのまま、どのようにして、その日を過ごしたのか、上手く覚えていない。

 気づけば午後の四時になっていて、研究室には僕一人しかいなかった。高崎教授から渡された封筒には、他に紙片が入っていて、午後七時という走り書きがあった。

 僕は、大学に残りたいわけでは無いのだ。だから、性接待など、する必要は無い。
 けれど。

 ――『そうすれば、少なくとも今夜、箕輪は救われるようだぞ?』という、長野先生の残酷な言葉が蘇る。僕は両腕で自分の体を抱いた。長野先生は、知っていたのか? その上で、僕にも行くようにと……?

 全身が冷たくなる。同時に、箕輪を守りたいとも感じる。それには、どうするのが最適なのだろう? 直接、高崎教授と話をしてみたら、どうだろうか?

「それが、一番……」

 良いかもしれない。長野先生が頼れないと分かった今、直談判以外に、僕に出来る事など無い気がした。僕は長く目を伏せた後、研究室を出る事にした。

 バスに乗り駅まで向かい、その後、指定された高級ホテルがある場所まで向かった。初めて降りる駅で、僕は空を見上げた。群青色と黒が混じり合い始めた空には、忌々しいほど明るい満月が輝いている。今日は晴れだったというのに、僕の心には暗雲が立ちこめているが。

 フロントで名前を告げると、最上階の一室に行くようにと、指示された。エレベーターホールで一人佇みながら、僕はギュッと手を握る。箕輪は望まぬ性接待に耐えてきたはずだ。僕は、箕輪を助けたい。

 その後到着したエレベーターに乗り込み、僕は指定された部屋へと向かった。
 階数表示が変わる度、心拍数が上がっていく。

 そうして、目的の部屋の前に立ち、僕は深呼吸をした。フロントで、カードキーを一つ手渡されていて、自分で中に入るようにという伝言も受け取っていた。既に室内に高崎教授はいるのだろうか? それとも、僕は一人で待つ事になるのだろうか?

 緊張しながら、鍵を開ける。そして伏し目がちに扉を開けて、中へと入る。背後でドアが閉まる音を聞きながら、緩慢に顔を上げ――そして僕は目を見開いた。

「長野先生……? どうしてここに……?」

 呆然として、僕は立ち尽くす。すると長野先生は、一人がけソファに座ったまま、長い足を組んだ。片手には、ロックグラスを持っていて、正面にはウィスキーの瓶がある。

「時間通りだな。こんな時まで真面目なんだな」
「……なんで、先生が……」
「俺も来年から、まだ内々なんだが、自分の研究室を改めて持つ事に決まっているんだ。自分で助手を選ぶつもりだから、募集はかけなかった」
「……」
「が、海里が高崎先生に『接待』をするようだと知って、気が変わった。お前が来ないならばそれで良かったんだが――来たか。大学に残りたいという事で良いのか?」
「ち、違――……ぼ、僕は、箕輪の事を解放するように、高崎教授に話をしようと――」
「箕輪は自分で望んで、体を差し出しているのに、か?」
「っ、それは――」
「海里。そもそもお前は、この状況下で、他者の心配をしている場合なのか?」
「――え?」

 僕を見ると、長野先生が苦笑した。その後、僕が初めて見る酷薄な笑みを浮かべた。

「このフロアは、人払いが済んでいる。誰も来ない。そこにお前は、下心がある相手と二人でいるんだぞ?」
「な……」
「ここへ来たという時点で、もうお前の体は危機的状況にある。何を想って来ようが、二人きりになったらそれはもう、終わりと同じ事だ。高崎先生がここにいたとして、海里をただで返すと思うか?」
「……」
「それは俺に代わった所で、全く変わらない。この部屋は特別室だ。明日の昼間、外から従業員がカードキーを使って開けるまで、鍵は開かない。料理は既に運ばせてあるし、トイレも浴室もある――が、密室というわけだ。泣いても叫んでも、助けは来ない。内鍵が無いんだ」

 ロックグラスを置いた長野先生は、それから僕をじっと見た。

「座れ。それで? どういう意図でここへ来たって?」
「……、……」

 僕は恐怖に凍り付いていて、ただ震えるしか出来ない。チラリと扉へと振り返るが、確かに何処にも、鍵をさせる場所が見えない。ドアノブに触れてみるが、動かない。

「俺は座れと言ったんだぞ?」
「……っ」

 急に長野先生が恐ろしい人物に思え始めた。僕は動揺しつつ、テーブルを挟んで、長野先生の正面にあるソファへと座る。こちらは横長だ。

「箕輪を助けたい、か?」
「……はい」
「高崎先生は言っていたぞ。本当は、海里を喰べたくて仕方が無かった、と。俺は高崎先生と話をしたんだ。俺が、海里から接待を受けたいから、譲って欲しいとな」
「……」
「海里は高崎先生に体を差し出す事になっていた。きっとあの古狸は、こんな風に言うだろうな。『箕輪君を助けたければ、代わりに自分を接待するように』――目に浮かぶようだ」

 僕は何を告げれば良いのか、何一つ分からなくなった。

「そうなれば、今日から、高崎先生への性接待のお役目は、海里となっていただろう――が、どちらにしろ海里の本意でないのならば、相手が俺でも構わないだろう?」
「長野先生まで、どうしてそんな……先生は……性接待なんて、そんな事……長野先生まで、いつもこんな事を?」
「相手が海里となれば、話は別だ。何せ――『好きな相手』だからな」
「え?」
「ずっと海里が欲しかった。こう言えば、分かるか?」

 テーブルの上のロックグラスを一つひっくり返すと、長野先生が氷を入れた。そしてウイスキーを注ぐと、僕の前にそれを置く。

「お前に嫌われたとしても、高崎先生に海里を渡すくらいならば、俺が貰ってしまおうと思った。本心だ。ただ、そうか。海里の目的が、箕輪の救出ならば――俺をきちんと『接待』してくれたならば、高崎先生に進言してやろうか」
「!」
「高崎先生は、俺の言葉を無碍にはしない。それに、俺の研究室の助手だが、これは性接待なんてなくとも、始めから海里に頼みたいと考えていたけどな、そちらも約束する」

 それを聞いて、僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 長野先生のそばで、研究が続けられるとするならば、それは僕にとって、とても嬉しい事である――はずだった。だが、接待? その一言が、重くのし掛かってくる。けれど同時に、混乱してもいた。

「長野先生、好きな相手というのは……一体どういう意味ですか?」
「俺は海里が好きなんだ。ひたむきに研究に取り組む姿も、そして外見も。そうでなければ、個人的に話してみたいなんて思わなかっただろうな。第一、食事に誘ったりはしない。あんまりにも無防備で、笑ってしまいそうになった」
「……」
「その上、無自覚に俺を好きだとまで言う。こちらの理性が焼き切れる所だった。なぁ、海里。少しは自惚れても良いか? お前も、俺といて楽しんでくれていたと」
「……楽しかったです。だけど、だからこそこんな……こんなのは」
「そういう潔癖な所も、たまらなく魅力的だな」

 長野先生はそう言ってから立ち上がると、僕の隣に座り直した。そして、僕の肩に触れた。あからさまに僕が身を固くし、ビクリとすると、長野先生が苦笑した。

「俺が怖いか?」
「……はい」
「だが俺はもう、お前を逃がしてやるつもりはない。海里、お前は甘い。俺が、箕輪の事を、高崎先生の普段の行いを、知らないと思っていたんだろう?」

 正直先生を、僕は信じていた。だから今、打ちのめされたような気分になっているのだと思う。

「大学という場所は、暗い。研究という分野の側面は、陰湿でもある。お前は、綺麗な世界しか知らないようだが、学閥も根強い。俺は、海里には、あまりそういうものを見せたくないとも、確かにこれまで思っていた。けれどな、俺以外の手にかかりそうになる姿、見ていられなかったんだよ。どうせいつか散らされるならば、俺が、この手で」

 長野先生の手に力がこもる。僕の好きな手だ。骨張った長い指の温度に、僕は胸が痛んだ。あるいは、と、考える。接待などで無かったならば――実際一緒にいて、ここまで憧れているのだから、僕の側には、睦言以上の恋情があるのかもしれないとも感じる。先生が本気で話しているのかは兎も角、僕は恐らく長野先生の事が嫌いじゃない。好きだ。

「海里、俺を受け入れてくれないか? 決して、悪いようにはしない」
「嫌です。僕は、性接待なんてしません」
「強情だな。この状況下にあって。そうだな……お前が望む事、俺に出来る事であれば、なんでも叶えるという条件ならばどうだ?」
「どう、というのは……」

 ――肉体関係を持つという意味、なのだろうか。口に出して確認をする事が怖い。

「酷くはしたくないんだ」
「長野先生……」
「好きだ。接待でも構わないくらいに。お前が抱けるならば、俺は罪人になっても構わない。道を踏み外させたのは、海里だ」

 長野先生が不意に僕を抱き寄せた。先生の胸板に額を押しつけられ、僕は息を呑む。不思議と力強い回された腕に不快感は無い。

「高崎先生の性接待なんて馬鹿げているとしか、過去には思わなかった。でもな、今ならば浅ましい事に、少し気持ちが理解出来る。手に入らないと思っていた対象の体温を、こんな風に確かめられる。俺はずっと、こうやって海里を抱きしめたかったんだ」
「……っ、だ、だったら、性接待なんかじゃなく、普通に言ってくれたら――」
「断られた自信しかないが、念のため聞く。普通に気持ちを伝えていたら、どうなっていたんだ?」

 ……。

 冷静に考えれば、僕は断っただろう。確かに、長野先生の言う通りで、このような機会で無かったならば、僕が先生の腕の中にいる事は無いはずだ。そもそも男同士だ。だが……嫌じゃない。僕は、先生の温度が嫌いじゃない。

「先生は、男が好きなんですか?」
「いいや? 同性を美しいと思ったのは、海里が初めてだ」
「僕でその気になるんですか?」
「その気にさせる所からが接待のようだぞ? とはいえ、こちらには下心がある。とっくに俺はその気だ」

 顔を上げると、先生が獰猛な瞳をして笑っていた。その眼差しに、ゾクリとしながら、僕は唾液を嚥下する。

「長野先生」
「なんだ?」
「本当に……箕輪を助けてくれますか? 箕輪の内定を取り消さずに」
「――約束する」

 それを聞いて、僕は目を伏せた。箕輪のため――そう念じる。だが既にそれは、口実かもしれなかった。僕はどこかで、長野先生を拒めないという心境にあった。

 何せ、相手は長野先生なのだ。ずっと憧れていた人物だ。様々な表情を見る度に、嬉しくなってしまう、そんな相手。歪な形で関係を持つ事になると理性は言うが、感情が嫌ではないと僕に訴えかけてくる。どころか……長野先生に好かれていると思うと、嬉しいという気持ちまで浮かび上がってくる。

「ン」

 その時、唇に柔らかな感触がしたから、驚いて目を開けた。

「目を伏せてこちらを見上げているから、キスのお誘いかと思ったんだが、違ったか?」
「ち、違います!」

 瞬間的に恥ずかしくなって、僕は赤面した。するとそんな僕の顎に手を添えて、そっと長野先生が持ち上げる。

「では、改めて」
「待――……ッ」

 長野先生の舌が、僕の口腔へと入ってくる。目を白黒させた僕は、歯列をなぞられて、ビクリとした。息継ぎの仕方が分からない。深々と貪られる内に、体がフワフワとしてくる。漸く唇が離れた時、僕は涙ぐんでいた。先生のシャツの胸元をギュッと掴む。

「初々しいな」
「……」
「それで接待が出来るのか? 俺をその気にさせるのは、既に俺がその気とはいえ、お前の仕事なんだぞ? 海里」

 顔から火が出そうになった。幼い頃から、あまり他者と関わりを持ってこなくて、顕微鏡の向こうの世界の方が好きだった僕には、これといった経験も無い。自分から率先して、相手を煽る事が、上手く想像出来ない。

 それでも――これは、箕輪を助ける為だ。僕は内心で自分にそう言い訳し、じっと先生を見る。先生は片手でネクタイを緩めていた。僕は震える指先を、己のシャツのボタンにかける。

「脱がせても良いんだぞ?」
「じ、自分で……接待だから……」
「そうか」

 長野先生は頷くと、立ち上がった。そして寝台へと移動し、ベッドサイドにあったローションのボトルを片手で取った。それを視線で追いかけながら、僕は必死に服を脱いだ。先生は巨大な寝台に座ると、そんな僕をじっと見ている。先生もまた服を脱ぎ、ベルトに手を掛けた。

「来い」

 一糸まとわぬ姿になった僕を、先生が手招きする。床に置いた下着をチラリと見てから、僕は恐る恐る歩み寄った。ここにきて、恐怖が再びこみ上げてくる。

 こうして――『性接待』が、始まった。

 寝台の上に僕を押し倒した先生は、片手にローションをまぶすと、僕の後孔へと指を一本差し込んできた。非常にゆっくりと進んできた指が、くるりと弧を描く。

「きついな。少し力を抜けないか」
「む、無理です……ぁ……ぁ、ァ……」

 ぬちゃりと音がし、最初は冷たかったローションの温度が、僕の体温と同化していく。先生はもう一方の左手で、不意に僕の陰茎を撫でた。そうされた瞬間、少しだけ、僕の体から力が抜けた。

「あ、ッ……っ」
「ゆっくりと息を吐くんだ」

 先生の声は、まるで指導してくれる時のように冷静なのだが、どこか苦笑が読み取れる。第一関節、第二関節と、長野先生の右手の人差し指が進んできて、僕の中を押し広げていく。体を小さく震わせながら、僕は陰茎を撫でられつつ、指を受け入れた。

「海里のこんな姿を見られるとは、な……性接待、か。なるほどな」

「っ、ん……」
「が、俺としても、自分自身の事は棚に上げるが、逆に考えれば高崎の奴は、俺の海里を手込めにしようとしたという事だから殺意すら沸く。必ず潰しておく」
「え? ああ!」

 その時、指が二本に増えた。一気に根元まで二本の指が入ってきて、僕は思わず声を上げた。先生は指先を開くようにしてから、笑み混じりの吐息をする。

「あ、ああ……っ、ん」

 指が規則正しく動き始めた。抜き差しされる度、ローションの立てる水音が響く。

「ン、ん……っ、ぁ……」

 次第に僕の体が熱を帯び始める。体から力が抜けそうになる。刺激されている陰茎が、緩やかに反応を見せ始めた。

「せ、先生」
「ん?」
「接待……だから……僕も、先生のを……」
「――魅力的なお誘いだが、俺は一刻も早く海里が欲しいから、良い。もう既に勃ってる」
「!」

 露骨な言葉に、僕は思わず真っ赤になった。先生は……本気で、僕の事が好きなのだろうか? そうだったら、嬉しい。確かにこの時、僕はそう思った。

「あ、ぁ……っ」

 指が、三本に増える。ローションが更に追加され、ぐちゃぐちゃと音を立て始める。

「っ、ッ、ぁ……ああ、ぁ……ん、ぅ……」

 指をバラバラに動かされ、かき混ぜるようにされ、僕は涙ぐむ。

「そろそろ良いか」
「っ、ぁ……」
「挿れるぞ」

 先生が、屹立した陰茎を、僕の菊門へとあてがった。そして巨大な先端を、ゆっくりと挿入した。

「ああ、あ!」

 触れ合った箇所が、酷く熱い。実直に進んでくる長野先生の肉茎は、指とは異なる灼熱を、僕の体に齎した。圧倒的な質量に、僕の内部が押し広げられていく。丹念に解されていたから、痛みは無い。グッと腰を進められ、僕は目をきつく閉じた。全身が熱い。

「あ、あ……あ……」
「大丈夫か? まだ先しか挿っていないぞ?」
「っ、ひ……ァ……ぁ、ァ……ああ、あ!」

 先生が更に深くまで、陰茎を進めた。僕はポロポロと泣きながら震える。
 ――気持ち良い。
 気づくと僕の陰茎は、完全に反り返っていた。

「やっと根元まで挿った」
「ああ、ぁ……長野先生、っ……」

 先生は、僕の中に形が馴染むのを待つように、僕の呼吸が落ち着くまでの間、動きを止めていた。じっとりと汗ばんだ僕の肌に、髪が張り付いてくる。僕は必死で呼吸をしながら、薄らと目を開けた。涙で滲んでいるのが、自分でも理解出来る。

「壮絶な色気だな」
「……っ、ぁ……」
「動くぞ」
「ひ、ぁ……ん――!」

 長野先生が僕の腰を掴むと、ゆっくりと腰を揺らした。慌てて僕は、シーツを握りしめ、その衝撃に何とか耐えようとする。抽挿する度に、先生の陰茎は深度を増していく。その内、ギリギリまで引き抜いては、最奥までをも貫くような動作に変わった。

「あ、あ、あ……あ、ア――ッ!」

 激しく打ち付けられ始め、僕は喉を震わせる。嬌声が溢れてくる。怖くなって、僕は先生の体に腕を回してしがみついた。すると先生が息を詰めて、そうして苦笑した。

「好きだぞ、海里」
「あ、あ……先生、長野先生……っ、僕……僕も……」
「――海里?」
「あああ! そこ、や、ぁ」

 僕の感じる場所を擦りあげるような体勢で、長野先生が動きを止めた。

「『僕も』、なんだ?」
「え、あ……あ、あ、待って、嫌、嫌だ……動いて……っく」
「聞かせてくれたら、いくらでも」
「ああ……僕も、僕も先生の事が……っ、う、あ……体が熱い」
「結論は、はっきりと導出するように。いつも教えているだろう?」
「好きです――……ああああ!」

 思わず僕が口走ると、先生が息を呑んでから、満面の笑みを浮かべた。そして激しく動き始める。肌と肌がぶつかる音が響く中、僕は泣きじゃくった。あんまりにも気持ちが良くて、何も考えられなくなっていく。

「あ、ああア……ぁ、あ……あ! うあ、ぁァ……!」
「なるほど。確かにお前が言う通り、普通に告白しておくべきだったらしい」
「ンん、っ、ひ、ぁァ……ダメだ、僕もう――ああああ!」
「俺も限界だ。出すぞ」
「あ……あああ!」

 一際強く突き上げて、先生が僕の中に放った。同時に陰茎を撫でられて、僕もまた果てた。先生がずるりと肉茎を引き抜くと、僕の足の間から、白液とローションが垂れた感覚がした。ぐったりとシーツに沈み、荒い呼吸をしながら、僕はそれを感じていた。

 ――事後。

 先生は僕を抱き寄せながら、隣に寝転んだ。腕枕をされる形となった僕は、気怠い体で先生を見る。

「海里。もう一度言ってくれないか?」
「……」
「本当に、俺の事を好きか? そうなら、俺は嬉しくてならないぞ?」

 僕は気恥ずかしくなって、シーツを被った。ただ、小さく頷いた。

「海里。どうなんだ?」

 先生には見えていなかったらしい。僕は思案した末、小声で述べた。

「……好きです」
「そうか。有難う。だったらもう、性接待は不要だな」
「え?」
「俺は恋人の望みは、何だって叶えたいと思う人間だ。相思相愛なんだから、今後は恋人という事で良いだろう?」
「っ、せ、先生こそ、本気で僕を……?」
「ああ。ずっと好きだった。今は、好きという言葉だけでは言い表せないくらいに、愛している」

 そう言うと、先生が僕からシーツを奪い、優しく笑ってから、僕の額にキスをした。



 こうして、僕は長野先生と恋人同士になった。

 たった一回の性接待の後、それ以後は、体を重ねても、別段何の条件が交わされるわけでもなかったし、僕はいつしか、一番始めに『接待』だと自分に対して言い訳していた事を失念しかかっていたのだが――半年後。

「え?」

 僕は、急遽大学から伝えられた辞令を聞いて驚いた。なんでも、高崎教授が、別の大学へと引き抜かれたらしいのだ。この氷雨大学の系列ではあるのだが、随分と遠方である。

「代わりに、これまでの高崎先生の講座やゼミ、研究室の内のいくつかは俺が、残りのいくつかは新任の先生にお願いする事になる。もう――性接待なんてさせない」

 その日僕は、長野先生のいる准教授室で、観葉植物に水をあげながら、目を丸くした。

「栄転の形で追い払った。将来的には、この大学の系列自体からも追い払ってやるつもりだ。俺が学長になる頃には、な」
「長野先生……」
「箕輪の事も心配いらない。後任で来る新しい教授にも、よく伝えてある」

 柔和に笑った長野先生を見て、僕は何度も頷いた。先生は、僕との接待時の約束を守ってくれるらしい。そう考えていたら、片目だけを細められた。

「勘違いしていそうだな」
「え?」
「別に性接待の対価としてじゃないからな? 好きな相手を毒牙に掛けようとした相手が許せないだけだ。そして性接待なんかなくとも、海里の望みであれば、俺は何でも叶える」
「……」
「ただどうしても、海里が欲しくて――その為であれば、手段は選ばなかったというだけだ。我ながら、そこに後悔は無い」

 それを聞いて、僕は思わず苦笑した。

 その日の午後は、箕輪と久しぶりに食事をする約束をしていた。箕輪から呼び出されたのだ。待ち合わせをしていたファミレスに行くと、箕輪が少し困ったように僕を見てから、口元に笑みを浮かべた。

「――ごめんな、海里」
「なんだよ、急に」
「長野先生から聞いた。俺の事、助けてくれただろ?」
「っ、え? なんて聞いたんだ? そ、その……実際には、僕は何も出来なかったし……」
「長野先生に、海里から頼んでくれたんだろ? 高崎先生に、変態行為を止めるように言って欲しいって」
「……ま、まぁな」

 大枠は、それで合っているだろう。僕は、それよりも、己と長野先生の関係を知られているのかが気になった。箕輪は友達だから、恋人同士となった事は、出来れば自分から伝えたいと願っていたのだ。

「本当ごめん。俺、ずっと嫌だったけど、これも大学に残るためだって自分に言い聞かせてたんだ。けどな、解放されて、やっぱり嫌だったって理解した。後任の先生とも先に会わせてもらったけど、これからは上手くやれそうだ。コネとか、気にしない人みたいでさ」
「そっか。良かったな」
「海里も、長野先生の助手に内定して良かったな」
「そうだな。僕に出来る事は、全力を尽くすつもりだよ」

 そうは答えつつ、先生の人事に私情が無かったのが、正直気になってはいる。先生は、僕の研究姿勢が好ましかったと言ってくれるが、性接待の事実は確かにあるのだ。まぁ、もしもダメになったならば、また今後、教員採用試験を受けて、実家に住んで、この土地から離れて、顕微鏡の外を見て暮らせば良いだろう――と、僕は思っているのだが、それを何気なく長野先生に話したら、怖い顔をされたものである。

「お互い、これからも頑張ろうな。悪かった、本当。一時期、八つ当たりみたいに、冷たい態度を取って。心配してくれてるって分かってたのになぁ、俺」
「いいよ。箕輪は箕輪で、必死だったの分かってる。僕こそ、何も出来なくて、本当に悪かったって思ってる」
「いやいや、お前がいなかったら、俺は今でも地獄だったはず。感謝しかない」

 そんなやりとりをして、この日は二人それぞれボンゴレを食べた。

 その後別れてから、僕は、長野先生の家へと――『帰った』。現在僕と先生は、半同棲状態にある。僕がマンションを引き払っていないだけで、ほぼ同棲としても良いだろう。まだ住民票などは移していないのだが、先生は、その内それも処理をして、僕の家族に挨拶をしたいと言って聞いてくれない。

「おかえり、海里」

 長野先生は僕を出迎えると抱きしめて、それから僕の唇を奪った。僕に待ち受けていた結末は、ハッピーエンドだったらしい。現在僕は、非常に幸せな毎日を送っている。





        【了】