灰色時計と風鈴




――嗚呼、風鈴の音がする。

「湊(みなと)、出かけんのか?」
「うん、ちょっと」

祖父の声に僕は、スニーカーを履きながら答えた。祖父の経営する旅館から外に出て、愛犬の”しぃ”のリードを手に取る。向かう先は海だ。この旅館は、海を見下ろせる、言い方は悪いが崖の上に立っている。この夏の二日間だけ、僕は祖父の家に遊びに来た。遊び――……正確には休暇か。一人旅だ。いや、しぃとの二人旅。
嘗ては隣に、もう一つ温もりがあったのだけれど、それはもう過去の話だ。

海に出て、砂を踏みながら空を見上げる。
雲が空に透けていて、今日も暑い。波打ち際を歩きながら、サンダルの底で水を踏んだ。少ししぃと一緒に走り、海の音を聞く。貝が落ちていた。

僕は、これでも俳優なんて言う仕事をしている。
渋谷でスカウトされたときは、完全に詐欺だと思った。ただその日も暑かったから、ちょっと休憩しに行って帰ってこようと思って事務所へと行ったら、その場で契約が成立した。
そこまでは良かった。
別にすぐに売れた訳じゃなくて、勿論世間的に見れば、一年なんて言う期間はすぐだったのかも知れないが、僕は高校を卒業してから一年間ほど、俳優志望の”友人”と一緒に暮らしていた。ルームシェアという奴だ。相手は、川迫一紀(こうせかずき)。それが一昨年の話しだ。

今では、別々に暮らしている。

お互いに売れ始めたという理由もある。だが一番大きいのは、僕と川迫が今では、好敵手という立ち位置にあることだ。何かと僕たちは比較され、主役争いをしていたりする。事務所は同じだ。マネージャーは違うけど。

しゃがんで水面に手を伸ばしながら、静かに瞬きをする。
思い出されるのは、この海に来る前に受けた、オーディションのことだ。
僕と川迫のどちらが主演をするか。
それを決めるために、演技した。僕と川迫が競演することは既に決まっていた。
結果が出るのは、三日後だ。
結果が出るまでの間だけ、僕は、夏休みを貰ったのだ。無理を言って。なんだか何もかもに嫌気がさしてしまったから、そう、疲れたから僕は休みを欲したのだ。

オーディションの日、川迫は僕に言った。

「絶対にお前には負けないから」

真剣な切れ長の瞳。明るい髪の色は、昔から変わらない。地毛が明るいのだ。それを僕は知っている。誕生日も血液型も好きな食べ物も嫌いな食べ物も何もかも、僕は知っている。きっとその辺のファンよりは詳しい。何せ僕自身が川迫の大ファンだからだ。大ファンというか――僕は、川迫のことが好きなのだ。
だから、そんなことを言われるまでもなく、僕はとっくに川迫に負けていた。
だけど僕の口は、それを認めない。素直になれない。

「結果は見えているよね。勝負にすらならない」
「湊……」
「気安く名前を呼ばないでもらえないかな、川迫君」

本当は、ずっとずっと名前を呼んでもらって、それを聞いていたかった。だけど、これ以上、この恋心を抱えて一人で生きるのは辛い。忘れられていくのも辛い。だったら思いっきり嫌われてしまって、せめて心の中に少しでも、居場所を作ってもらえたら良いな、だなんても思う。

「――高瀬、オーディションが終わった後時間を作ってくれ。話しがあるんだ」
「悪いけど、スケジュールが詰まってるんだ。川迫と違ってね」
「じゃあ結果が出る日に」
「それも無理――」
「必ずあけろ」

僕の言葉が終わる前に、吐き捨てるようにそう言って、川迫は歩いていってしまった。
時折川迫は強引だ。
それは、ルームシェアをしていた時から変わらない。売れても売れなくても変わらない。
何も言えないまま、僕は背の高い川迫を見送った。



一緒に暮らしていたとき、僕らの間には、多分”友人”じゃない関係があった。
少なくとも僕は、”友人”だとは思っていなかった。

「んッ……ぁ……」

川迫が僕の陰茎を握り、擦る。それは二人で酒を飲んだある日のことだった。
気づくと僕は、寝台に座って、ボトムスを脱いでいた。足下に、黒いスキニーのデニムと下着が落ちていたのを覚えている。僕の隣に座った川迫が、身を乗り出すようにして僕を見ながら、片手を動かしていた。優しいその手つきを、良く覚えている。

「待って、こんなの、おかしいよ」
「別に抜き合うくらい、大したことじゃないだろう?」
「それは、その、だけど」
「誰だって溜まる。お前今までどうしてたの?」

ルームシェアをしてから僕は、正直に言えば、一人で出来ないでいた。
事務所は不祥事を嫌うから、同時に別に僕自身に好きな相手もいなかったから、誰かと体を重ねると言うこともなかった。だけど男同士で、抜き合うなんていう事が、大したことじゃなく普通のことなのかどうか、僕には分からなかった。僕の周りには、これまでの人生で、圧倒的に男友達は少なく女友達が多かったからだ。今思い返しても人生でもっとも深く関わった同性は、現在でも川迫で間違いがない。

「ゃ、あ、出るから……っ……」
「早いな」

その言葉に真っ赤になってしまった時、気がついた。まだ触っていないのに、川迫の体が反応していた。驚いて息を飲んだとき、手の動きを止められた。
もどかしさに、僕は唇を噛む。

「俺は今まで我慢してた。もう、限界だ」
「我慢って……川迫なら、いくらでも……ン……っ」
「なぁ、高瀬。ヤらせて」
「え?」
「悪ぃ、止まらねぇわ」
「ッ」

その日そのまま、きっと酔いの勢いもあったのだろうが、僕は川迫と繋がった。
以来、ずっとだ。
一緒に暮らしている間、毎夜のように僕たちは、互いの体を求め合ったような気がする。少なくとも僕は、川迫の体を求めていた。はじめこそ痛みがあったけれど、慣れてしまえば、もう川迫がいないと駄目なくらい、僕の体は熱を覚えてしまった。

「あ、あっ、川迫」
「何だ? 辛いか?」
「も、っと、うう……アあっ」

川迫はいつも酷くゆっくりと腰を動かして、僕の体を熱くしていった。弱火でじっくりと沸騰させられていくような感覚、蝋燭の炎に近いかも知れない、そんな強さで。そして僕の体が熔けきった所を見計らうかのようにして、激しく抽挿するのだ。焦らされている内が辛くて、僕はいつも泣いていた気がする。わざと感じる場所を外されて突かれたときには、腰を揺らして、懇願して。

「ん、ぁ、ああッ、や、やだぁ、あ、川迫、川迫」

中を揺さぶるように動かれて、僕は川迫にしがみついた。肩に爪を立てそうになって、明日撮影があったなと思って堪えたりもした。川迫に迷惑をかけたくなかった。


ただそんな生活は、お互いに売れ出してあっさりと終了した。
思えば、”恋人”だと口約束したことすらない、曖昧な関係だった。きっとそこにいたのが僕でなければ、川迫は違う誰かと体を重ねていたのだろうと思う。僕だってそうなのかも知れない。だけど、もうルームシェアを解消する頃には、僕の中では川迫は特別になっていた。実にあっさりと、本当にあっさりと、川迫は出て行った。一緒に飼っていた、しぃの事も置いて。だから僕は――今は、しぃが隣にいてくれるだけになった。



しぃと二人で海を眺める。日に焼けてしまうかも知れない。勿論日焼け止めを塗って、帽子はかぶっているけれど。何とはなしに砂浜に座った僕は、膝を立てて、組んだ指をその上に乗せた。しぃは、一人で走っていく。豆柴だ。眺めていると、しぃが不意に吠えた。滅多に吠えたりしないからなんだろうと思いながら僕は立ち上がった。歩み寄ってみると、砂を掘っていたしぃが、鼻を何かに押しつけていた。

「どうしたの?」

声をかけて頭を撫でてから、僕は砂の中をのぞき込んだ。そこには、小さな柱時計のような物があった。変わった色をしている。灰色だった。しぃが掘り出したその時計を、僕は手に取ってみた。文字盤があり、振り子がある。振り子が入っている扉を開けてみたのは、そこに紙がしまわれているのが見えたからだ。
黄ばんだ羊皮紙で、開いてみると、たった一言書いてあった。

――『螺旋を巻くと、三日後の未来を視ることが出来ます』

なんだそれはと、思わず苦笑してしまった。妙な手紙を書いて、時計に入れて、砂浜に埋める。その行為は果たして楽しかったのだろうか。きっと楽しかっただろうななんて、何となく思った。
三日後と言えば、オーディションの結果が分かる。僕か川迫のどちらかが主役、一方が準主役になる。そういえば川迫は――話しがあると言っていた。なんなのだろう。きっと僕は、時間なんて作らない。だけど聞かなかった未来を視たら、聞く勇気が出るかも知れない。そんな馬鹿なことを思った。
再びしゃがんで、僕は螺旋を巻くことにした。



「主演は高瀬湊さん、準主演は川迫一紀さん」

聞き慣れた監督の声がした。もうこの監督と組むのは三度目だ。

「――っ」

息を飲んだ俺は、びっしりと背筋に汗が浮かんできたのを実感した。空調が効いた部屋だというのに、無性に暑く思えた。なのに全身を悪寒が走り抜けていく。
周囲の光景は海ではなく、オーディションの結果発表会場に変化していた。
その他のキャストが発表されていくのを、僕は静かに聞いていた。呼吸があがりそうになり、酸素が胸で凍り付いたようになり苦しい。どうして?
どうして僕は今ここにいるんだろう?
まさか本当にあの灰色の時計が、僕に未来を視せているのだろうか? そんな馬鹿な。
動揺を顔に出さないように気をつけている内に、発表の場は終幕した。
手が震える。事態が飲み込めない。

「高瀬くん」

静かに声をかけられたのは、人気が少なくなってからだった。人目を気遣っての呼び方、よく知っている川迫の声。視線を向けると、そこには真剣な瞳をした川迫が立っていた。

「ちょっと良いか?」
「……悪いけど時間がないんだ」

反射的に僕はそう口にしていた。本当は時間がないわけではない。だが今この時、僕は動揺していて、話しどころではなかった。本当にここは三日後なのか?

「取ってくれ」
「それは」
「歩きながら話そう」

強引に川迫に促されて、僕は気づくと立ち上がっていた。僕は川迫の声に弱いのだ。そうしてすぐ上の屋上まで連れ出される。フェンスにギシリと体を預けて、僕は川迫を見上げた。

「用件は?」
「――またお前に負けたな。主演、頑張れよ」
「所詮、川迫は主役の器じゃなかった、川迫はその程度なんだよ」

僕は、主演になったら言おうと準備していた言葉を紡いだ。本当は、こんな事が言いたい訳じゃないのだ。けれど、そうして忘れられないようにすることくらいしか、もう僕は自分自身の感情を抑えるすべを知らない。我ながら酷い暴言、最低だと思う。

「湊、お前な」
「だから名前を――」
「いいかげんにしろよ」

ギシリとフェンスに手を突いた川迫に、俺は詰め寄られた。距離が近い。のぞき込まれる。場違いなことに僕は、川迫の唇に視線が引きつけられた。昔は、そう昔は、ここに距離が無くなることがあったのに。

「……そんな顔するなよ」
「え?」
「あのな、お前さ……」

川迫が溜息をついた。それから失笑するように吹き出すと、何故なのか目を伏せた。睫が長いなと思ってみていた時――……

「ッ、ん」

唇を重ねられて驚いた。噛みつくようにキスをされ、驚いて開けた唇の間から舌が入り込んでくる。歯列をなぞられ、強く舌を吸われた。それだけで川迫の体温を覚えている僕の体が、ドクンと鼓動を高鳴らせる。

「な、何するんだよ」

手で強く川迫の体を押し返し、僕は振り払った。精一杯川迫のことを睨め付ける。こんな事をされたら、僕は、必死で保っている、僕という形の外郭を保てなくなりそうだ。それが怖い。

「二度とプライベートで話しかけるな」

それだけ言って僕は走った。
走って帰った先は、マンションだった。しぃだけが待っているマンションだ。ゾクゾクと体に今も、熱が燻っている。なんで、どうして、川迫はいきなりあんな事をしたんだろう。
気づけば携帯電話ががなり立てていて、視線を降ろせばマネージャーからの連絡だった。夏休みを取ったから、これから数日間はスケジュールが立て込んでいるのだ。嗚呼、勝手に帰ってきてしまった。そう思いながら、僕はテレビをつけ、無音の空間から逃げようとした。そして――そこに流れた速報に目を疑った。

『新進気鋭の人気俳優、川迫一紀さん死亡』

眉間に皺を寄せ、テレビを凝視する。――オーディションの帰り道、高速道路で玉突き事故。車が大破。そんな情報がテレビから流れてきた。
呆然としたまま、僕は携帯に出た。
するとマネージャーが、やはり、川迫が亡くなったと僕に教えてくれたのだった。



「……あ」

気づいたときまた僕は、海にいた。反射的に腕時計を見れば、元の通りの日付に戻っていて、側にはしぃがいて、灰色の時計は目の前に転がっていた。今のは何だ? 白昼夢?
それよりも、それよりもだ。
川迫が亡くなってしまったという、その現実感を伴う生々しい偽りの記憶に、僕は怯えた。絶望感が、足下の砂を底なしに変えていくような、そんな感覚がした。
川迫がいなくなる?
この世界から、川迫がいなくなる?
そんなの、認めたくはないし、認められなかった。
反射的に僕は携帯を取りだして、もう登録してあるだけと化している、連絡など取ることはなくなった川迫のメールアドレスを選択した。

『オーディションの結果が出る日、車には乗るな』

そう僕は打っていた。嗚呼、馬鹿げてる。単なる白昼夢のはずだというのに、それが生々しすぎて、何もせずにはいられなかった。僕は、今度は砂の上に、力がガクンと抜けて座り込んでしまった。

――その日、川迫からの返信は無かった。



結局僕の夏休みは終わり、オーディションの結果が発表される日が訪れた。
だけど僕は、今もまだ海にいる。
体調が悪いとマネージャーには嘘をついてしまった。以来、携帯の電源は入れていない。
怖い、怖かった。
だから僕は、その日、ニュースも何も見ずに、ただ海で過ごした。
それはオーディションが終わって二日目になる今日も変わらない。
川迫の訃報なんて絶対に目にしたくはなかった。
それでも朝食の時に、うっかり新聞が目に入り、高速道路で玉突き事故があったというニュースは見てしまった。その中に川迫がいたか否かと言うところを知る前に、僕はその新聞をゴミ箱に放り投げた。後で祖父に怒られたけれど、どうしても見たくなかったのだ。

潮騒を耳にしながら、僕はしぃのリードを握ったまま水平線を眺めている。
結局、川迫の話しとは、何だったのだろう。視た未来の中でもそれは分からなかったし、川迫が亡くなっているのだろう今となっては聞けるはずもない。亡くなっているのだろう、か。僕はどこかでそう考えている。最悪な未来を想定しておかなければ、知ったときにもう崩れ落ちて、立ち上がれなくなりそうだった。嗚呼、どうして僕は、オーディションの結果発表の場に行かなかったのだろう。せめて一目、川迫の姿を見ることが出来たら良かった。話を聞くことが出来たら良かった。何より――強く引き留めて助けることが出来たら良かった。どうして助けに行かなかった。そんなのただ、自分が自分勝手に怖がっていたからじゃないか。川迫を失う以上に怖い事なんて無いはずなのに。どうして折角未来を視たというのに、僕にはそれが分からなかったのだろう。喪失感に、目眩がした。

「湊?」

その時だった。愛おしい声がしたのは。

「っ、川迫……」

背後からかけられた声に、僕はおそるおそる振り返った。そこには、失ったと思っていた好きな相手の姿があった。信じられない思いで、二度瞬きをする。

「どうしてオーディションの発表の日、来なかったんだよ?」
「別に」

川迫の開口一番の声に、反射的に返す。それよりも何よりも、聞きたいことが有りすぎて、どれから聞けばいいのか分からない。

「――どうして、ここにいるの?」
「どうしてって……お前の具合が悪いって聞いたから、会いに来たんだよ。夏バテか? 体力は俺達の命だろ」
「会いに来たって……忙しいんじゃ」
「俺にだって夏休みを取る権利はある。後はお前が来なかったから、結局話しが出来なかったからだな」
「話し……」

僕は、呟きながらも、何よりも川迫が生きていてくれたというその事実に泣き出しそうになった。瞳が潤んでくるのが止められない。良かった、川迫が生きていた。良かった。

「所であのメールは何だったんだ?」
「あれは……」
「久しぶりに連絡が着たと思ったら、たった一言だしな。それも謎の文面」

川迫は苦笑するように言うと、僕の隣まで歩み寄った。
それから僕の隣を通り過ぎて、海に入っていく。眺めていると――水をかけられた。

「ちょっと」
「夏だしな、海。海良いよな」
「水をかけるな」
「やりかえす体力もないのか?」
「っ」

しぃのリードを手放し、僕も海に入った。こちらがどれほど心配したかなんて、そんなの川迫には関係がないことはよく分かっている。だけど朗らかに笑いながら、こちらに水をかけてくる川迫に無性に腹が立った。我ながら自分勝手だとは思うけど。だから僕は、泣きそうになるのを誤魔化すように、川迫に水をかけかえした。バシャバシャと水音が響く。お互いずぶぬれになりながら水をかけた。

「湊、お前、やりすぎ」
「避ければいいのに」
「無理言うなって」

髪まで濡れて、服が皮膚に張り付いて透けた。その内に楽しくなってきて、思わず僕は破顔した。こうして川迫と遊ぶなんて言うのは、一体いつ以来なんだろう。
それから両手を組んで張り付かせて、水鉄砲にする。激しく川迫の顔に水をかけてやると、川迫が咽せた。そんな姿が愛おしかった。

「あーあーあー降参。なぁ湊、あっちでかき氷でも食べよう」
「別に良いけど、川迫、本当なにをしに来たの?」
「だからお前に会いに来たんだよ」

二人で並んで歩き、間にはしぃがいる。嘗ては、これは、ごく普通のことだった。
そのせいなのか、今でもしっくり来る。しっくり来るのは、僕が恋をしているからなのか、ただの慣れなのか。ただ、懐かしかった。

「俺はイチゴ。湊は?」
「ヤクルト」
「そんなのあるのか?」
「あるよ。ここの海には毎年来てるから知ってる」
「美味しいのかそれ」
「僕は好きだよ」

そんなやりとりをしてから、人気のない海岸に、たった一軒だけ有る海の家で二人かき氷を頼む。店の店員はおじさんただ一人で、きっと僕らのことを芸能人だとは知らないだろうし、仮に知っていても何も言わないタイプの人だ。小さい頃から知っている。この海は、今日みたいな日の午後は、極端に人気が少ない。だから時折いる僕は兎も角、川迫が隣を歩いていても、声をかけられることはなかった。昔は二人でそろって遊びに行くとなれば、結構これでも気を遣った物である。行く場所の選択からして大変だった。思えば、長時間きちんと遊びに出かけたなんて言うことはないかも知れない。
かき氷を食べると暑さが少し和らいだ。

そうして逢魔が時が訪れるまで、僕らは海を謳歌した。夕暮れになり、僕が旅館に帰ろうとすると、相変わらず隣で川迫が笑った。

「帰るのか。短かったなー、一日」
「そうだね……川迫はどこに泊まってるの?」
「お前と一緒だろうな」
「え?」
「お前の祖父の家だって謳ってる旅館」

驚きながらも一緒に帰り、結局そのまま二人で食事をすることになった。
僕は小さな部屋に泊まっていたけれど、川迫は旅館で一番広い部屋にいた。そちらに連れて行かれて、食べたのだ。不思議と、川迫が生きていると思ったからなのかも知れないけれど、いつもだったら断るのに、自然体で誘いを受け入れられた。
だけどこの幸せが怖い。
この休みが終われば、結局は脆くも崩れ去る。それが分かっているから、余計に寂しくなりそうで、いやだった。

「なぁ湊」
「……何?」

今日だけは、名前を呼ばれると嬉しいと思う、この気持ちのままに生きていてもいい気がした。もう今後一生二度とこんな機会はないかも知れない。二人で一緒にいられる機会なんて。

「話しがあるって言っただろ」
「うん」
「悪い。忘れられないんだ」
「何を?」
「お前のこと」
「え?」
「悪い。本当悪い。ただ俺は、お前が側にいない生活に耐えられない」

響いた川迫の言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
そもそも、僕の方こそ、しぃと二人の生活には耐えられないのに。出て行ったのは川迫なのに。なのに何でこんな事を言うんだろう。

「それに俺はお前に嫉妬してる。お前が主演を取るたびに」
「嫉妬……」
「自分が取れなかったからじゃない。お前のことを、それだけ好きになる奴が増えると思うと、気が狂いそうになるんだよ」
「川迫?」
「俺はもう前みたいな同居人みたいな関係でも辛いしキツい。お前の隣にいるのは俺だって思いたい。だから――今度はちゃんと、これからはちゃんと、”恋人”として付き合ってもらえないか」

川迫が麦茶を傾けながら、淡々とそんなことを言った。――恋人?
信じられなかった。言葉が出てこない。

「それ、本気で……」
「本気じゃなかったら、ここまで来ない」
「だけど」
「お前だって俺のこと好きだろ?」
「は?」
「見てれば分かる。お前態度と言葉と、表情が違いすぎるんだよ。全部顔に出てる」
「なッ」
「演技力じゃ俺の圧勝だな」
「そんなこと無いッ、僕は、川迫の事なんて――川迫の事なんて……」
「俺の事なんて?」
「……その」

大嫌いだと言おうとした。だけどその一言は、喉に張り付いて出てこない。もしこの言葉を最後に川迫がいなくなってしまったらと思うと怖かった。同時に、川迫が僕をからかっているんじゃないんだとしたら、本当に恋人になれるんだとしたら、なんて思ったら、体が震えた。演技力なんて、演技力なんて、そんな物なんて、こういうときに役に立たないんだから、本当に僕は大根だよ。

「好き、だろ?」

俯いた僕は、思わず小さく頷いていた。もう自分の気持ちに嘘は受けなかった。
――川迫に押し倒されたのは、その後すぐのことだった。

「ひ、ァ……っ……ン」

久しぶりに受け入れたせいで、体が硬くなってしまった。
川迫の肩に両手を乗せて、ゆっくりと腰を落とす。腰を支えられ、ゆっくりとゆっくりと体を沈められる。押し広げられていく感覚がして、深々と奥深くまで川迫を感じた。

「ぁ……っ……」
「きついな、辛いか?」
「……平気だけど……」
「へぇ」
「うああっ、あ、ああ、待、待って……――!!」

唐突に激しく、川迫に体を揺さぶられた。感じる箇所を川迫の陰茎で突き上げられて、僕の背が撓る。怖くなってそれから川迫の首に抱きついた。風鈴の音が響いてくる。その中で、川迫の吐息をごく近い場所で感じた。
突き上げられるたびに、水音が響く。体に染み入るように、快楽が広がっていく。

「あ、ああっ、や、ぁ、川迫」
「なぁ湊。お前、ずっと俺のこと好きだっただろ」
「な、に、うあッ、そんな……っ、もっと動いて」
「俺はずっとお前のこと好きだった。最初から好きだった」
「ひァ、ああン、うあ……ぁあッ」

好きと耳元で言われた瞬間激しく突き上げられて、僕は中の感触だけで果てた。
一気に脱力感が襲ってきて、僕は弛緩した体を川迫の胸に預ける。
川迫は僕の頭を撫でてくれた。しかし中には固い肉茎が入ったままだ。

「動くからな」
「ま、待って」
「もう年単位で待った。家を出てったくらいで、関係切られそうになるとは思わなかった。まぁ周りに対立するように煽られたのはあるけど」
「うあ、ああっ、や、まだ、無理」
「無理じゃないだろ、お前こういう状態で動かれるのが好きだろ」
「ん、ァ、ああっ、ャ……ひッ、ぅ……あああああ!! 待って、や、違う、や」
「またイきそうになるから、いやなんだろ? いくらでも出せよ」
「あ、あ、あ」
「それで答えは? 俺の恋人になるんだよな?」
「ンあ――っ、あ、んア――!!」

僕は二度目の精を放ち、そこから理性を失った。どんどん訳が分からなくなっていく。ただ、何度も何度も川迫とキスをして、そして、川迫に好きだと伝えたことは朧気に覚えている。川迫は何度も僕に、好きだと言わせた。言わせられたけれど、実際に僕は川迫のことが好きだから、結局それは自分の意志でもある。付き合うと、恋人になると、もう恋人だと、何度も何度も僕は口にさせられた。
それは、二人で布団に横になっても続いた。僕を横から抱きしめながら川迫が言う。

「俺のことが好きだろ?」
「好きだよ」
「俺と付き合うんだよな?」
「うん」
「俺の恋人になる――なったんだよな?」
「うん」

こうして僕たちは付き合うことになった。

翌日、僕らは一緒に帰ることになった。その前に、僕は灰色の時計のことが気になって、一度だけ海に行くと言って出てきた。川迫は旅館で、しぃと一緒に待っている。
海岸にはまだ灰色時計があった。
中から羊皮紙を取りだし、もう一度文字を確認しようとする。
しかし手に取った瞬間、それは塵になって消えてしまった。残った時計を手に取り、僕は螺旋を巻く。
――僕は、川迫と付き合ってからのことが知りたかったのだ。
だが、灰色の時計は、もう動かなかった。

ただ、それでもいい気がした。
これから僕たちがどうなるのかは分からないけど、今ここに、川迫の温もりがあるだけで十分だと思ったから。