悪いけど、それはすぐに消去してください。
――白衣は、良い……。
フキノトウの天麩羅を揚げながら、僕はうっとりした。暦ではもう五月なのだが、雪深いこの地においては、今が山菜の旬の時期である。ついでに頂き物のエビも料理しながら、僕は妄想に耽った。決して、エビ×フキノトウ妄想ではない。それはもう終わった。今、僕の頭の中でそれこそ旬なのは――白衣である。
「まさか高杉が作家先生とはなぁ」
というのも、今、僕の後ろのダイニングテーブルでお茶を飲んでいる同級生が、久しぶりに再会したら医者になっていたのである。高杉というのは、僕の名前だ。苗字ではない。俺は、春川高杉(ハルカワタカスギ)という名前なのだ。一応、二年前に推理小説で新人賞を獲ってから、決して売れっ子ではないが、文筆業を生業としている。なんとか小説だけで食べることが可能になったが、家賃負担が辛かったため、僕は昨年、実家がある雪国に戻った。そして現在は、両親と暮らしている。
そこへゴールデンウィークの帰省で戻ってきて、顔を出したのが、今後ろで煎茶を飲んでいる巧都である。幸田巧都(コウダタクト)と僕は、保育所・小中学校と、同じ所へ通った。幼馴染と言えるかもしれないが、僻地のためこの地区では、全クラスで十人前後であり、大概の場合は、保育所から義務教育期間は、同じメンバーである。転校がたまにある程度だ。そして、頭の良し悪しで高校だけが分かれる。俺と巧都もそこで別れた。言うまでもなく、俺がバカの方である。
「大学病院で働いてるって聴いてる。巧都の方が驚きだ」
僕はそう口にしたが、巧都の頭脳ならば、何の不思議もないとどこかで思っていた。嘗ての理科係、金魚の餌やりをしていた彼の勇姿を、僕は忘れたことがない。
その巧都が俺にもたらしたもの――それが、白衣萌である。
なんという事だ……腐男子歴十五年、今年で三十一歳の僕は、ここに来て、萌えのデフォルトスタイルが一つ、白衣の破壊力に木っ端微塵にされたのである。巧都の実家は、この地区唯一の小さな診療所である。なんでもそのカルテ整理の手伝いをしていたらしく、こいつは白衣姿で隣家の俺の前に現れた。そして、「久しぶりだな」と、煌く笑顔で俺に微笑みかけた。犯罪だ! 瞬時に俺の脳裏から、エビ×フキノトウは消え去った。以降、白衣単体萌えが俺の頭の中を席巻している。良い……良い……。
誰かにこの気持ちを力説したかった。滔々と語りたかった。
だが……腐とは悲しきかな秘めるもの……特に田舎では、俺が腐男子だなんて露見したら冗談ではなく村八分のため、一人胸の中で盛り上がるしかない。
「サインをくれるか?」
「恥ずかしいな。僕で良かったら、いくらでも」
俺は、尋常ではないイケメンの巧都の顔を見て、スパダリだと確信しながら愛想笑いを返した。巧都は、高い鼻梁を僅かに傾げると、薄い唇を持ち上げて、形の良い瞳をパッと明るくした。良い……今夜、趣味で書いているBL小説に、こいつをモデルにした当て馬を出そう……! こう、いかにも総攻め風だからこそ、だからこその当て馬!! フラれてズタボロにしてやろう。いいや……いっそ、受け? 受けにする? 受けにしてしまうか? 俺様受け? 僕は、滾る妄想に耐えきれそうにない。
「和服で庭にいたから、てっきり書道塾を継いだのかと思っていたんだ。帰っているとしか聞いていなかったからな。高杉は、昔から達筆だった。それに――着物がよく似合う」
「ははは、人間ひとつくらいは取り柄があるからな」
「ひとつ? 何を言うんだ。腐るほど高杉には取り柄があるだろう」
「そうか?」
「ああ――昔からその烏の濡れ羽色の髪にも、白磁の肌にも、俺は惹きつけられていた」
「?」
僕はそこで、ちょっと固まった。
――烏の濡れ羽色、だと?
――白磁の肌、だと?
こんな厨二ワードな褒め言葉、果たして一般人が使うだろうか?
「俺はな、昔から高杉に憧れていたんだ」
「お前、まさか……」
同士……? 腐男子とまでは行かなくても、物書きか?
「……やはりバレたか」
「そうだったのか……」
通りで僕が作家だと話したら、食い付きが良いはずだ。納得しながら、僕は巧都の様子を伺った。
「自分でもどうしてこれほどまでに狂おしい想いに駆られるのかは、分からない」
「……ああ、分かる」
僕は小さく頷いた。書きたくて書きたくて書きたくて仕方がない気持ちは、誰にも負けないくらい分かる気がするからだ。
「俺にとってこればかりは、人生と切っても切り離せないというか――何なんだろうな、まぁ性癖としか言い様がないが」
「性癖……」
僕はそこまでは言い切れないかもしれない。あまりにも切なそうな顔をする巧都に、僕はちょっと気圧された。
「ずっと、何故自分がこんなにも、必死になってしまうのか考えていた」
「いつからだ?」
いつからお前は作家志望者なのかと僕は聞いた。もう僕は確信していた。絶対、こいつは、ワナビだ!
「中学の頃からだ」
「僕と同じだな」
僕はBL二次創作から物書きの道へ入った。それがどう転んでなのか、今では推理小説家である。うんうんと僕が頷くと、小さく息を飲んだ巧都が、目を見開いた。
「同じ?」
「ああ。僕も中学の頃からだからな」
「――そうだったのか?」
「そうだ。だからな、巧都。何も恥じることはない。自分の気持ちの赴くままに、素直になるんだ」
「!」
僕が断言して微笑すると、巧都が呆然としたような顔をした。それから、ちょっとグッとくる笑みを浮かべると立ち上がった。丁度天麩羅を上げ終わった所だった僕が、後始末をして振り返った時、背の高い巧都がじっと僕を覗き込んできた。
「自分の気持ちの赴くまま、か……」
「ああ。自分に素直になるんだ」
「――好きだ」
「僕も好きだよ」
どうしてこんなにも物を書くという作業は愛おしいのだろう。僕がそう思いながら微笑んだ、その瞬間――……!? 僕は正面から抱きすくめられた。
「え?」
「好きだ高杉、ずっと好きだった。忘れられなかった。お前が戻っていると聞いて、仕事を全て投げ打って、俺はこの地に帰省したんだ」
「へ!?」
「やっと素直になれた。俺は、中二のあの夏、お前が校庭で派手に転んで擦りむいて、かすり傷なのに号泣しながら俺に抱きついて治療を求めたあの表情に惚れた。そして今後一生何があっても、お前を治療してやると誓って医者になった!」
「は!?」
「愛してる」
「!!」
そのまま僕は唇を奪われた。そしてやっと、自分のミスに気がついた。
――……作家志望者、ではない、だと……?
「え、ええと、お、おい……っ、ン」
唇が一度離れた時、「性癖って同性愛者って事か?」と聞こうとしたが、すぐにまた口を口で塞がれた。丹念に口腔を貪られ、次第に息が上がる。不思議と嫌悪感は無い。俺は腐男子ではあるが、別に同性愛者ではない。他人が同性愛者である場合には許せるが、自分は違うのである。だ、だから、というか、自分で言うのもなんだが奥手な俺には、キスの経験など皆無だ。え、ちょっと、本当に待って……待ってくれ……ここで焦らずに一体どこで焦ればいいのか、僕は完全に翻弄されていた。
「まさか高杉も俺を好きだと思っていてくれるだなんて……」
「い、いや、ちょ、ちょぉっと待ってくれ、ねぇ、待って! お願いだ、待って!」
「もう待てない」
「うわあっ、ちょ、やめ、着物をはだけさせるな!」
動揺した僕の手首を掴み、巧都が抱き寄せた。胸に激突した僕は、その時、フワリと良い匂いがすることに気がついた。香水の匂いだ。洗練された男がつけていそうな香水の匂いである。何これ格好いい、僕も欲しい。一瞬そんなことを思ったのが、僕の運の尽きだった。
「あ」
伸びてきた手が、僕の着物の合わせ目から陰茎を握った。僕は最悪なことに下着を着けていなかった。それが和服の正式な規則だからとかではなく、洗濯中で一個も無かったのである。巧都も少し驚いた顔をしたが、だが、だが、だがである――すぐにニヤっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「え」
膝を折って、彼が口淫を始めた。パクリと咥えられて、僕はポカンとした。
「う……」
ねっとりと舐められて、僕は震えた。こんな事を人にされたことはない。そもそも触られた事がない。実は僕は男同士のエロ小説は大好きだが、自分で自分を触ったりするのも苦手だ。妄想の世界で僕は生きているのである。見ているだけで、読んでいるだけで満足なのだ。だから、こういう、生々しい事柄は不得手なのである。
「や、やっ……ぁ……」
けれど直ぐに体が熱を持った。溜まっていたのかもしれない。何せ最後に抜いたのは……記憶に無いくらい前だ。立っていられなくなった僕を、優しく支えて巧都が床に下ろしてくれた。
「ああっ……ン……あ、あ」
そして口の動きの激しさを増した。まずいこれ僕、出る。そう直感して、なんとか巧都の頭を押し返そうとしたのだが、髪をかき混ぜるだけの結果に終わった。そうなってくると、逆にもう一刻も早く出して、終わらせるべきだと感じ始める。
「た、巧都、もう……」
「――良いか?」
「あ、早く」
早くイかせてくれと、俺は言ったつもりだった。
だが、巧都の捉え方は違ったらしい。
「――え!?」
その時、俺はあっさりと挿入された。再びポカンとなった。最初、何が起きたのかわからなかった。それから気づいて息を飲んだ。
「あ、あ、あ、あああ」
入ってきた……! 押し広げられる感覚に、俺は喉を震わせる。不思議と痛みはなかった。どちらかというと、熱かった。そして切ないひきつるような感覚は、すぐに甘い疼きに変換されて、体に染み入る快楽となった。
「ああっ……ん、ン……ああっ、ハっ、んぅ……」
甘ったるい、鼻を抜けるような声が出てしまう。ゆっくりと巧都は動く。それに合わせるように声が自然と漏れるのだ。いつしか俺は震えながら、快楽から涙を浮かべていた。
「あ……ああ!」
中の感じる場所を巧都の先端が突いたのは、その時だった。ビクッと背を反らせた僕の腰を掴み、荒く吐息しながら、巧都が何度も確認するように律動する。僕の全身がカッと熱くなった。あ、これはもうだめだ。染み込んでくる快楽の白に、思考を埋めつくされていく。気持ち良いという事以外、何一つ考えられなくなっていく。
「ああっ、ん、あ、ああ!」
「ずっとこうしたかった。綺麗だ」
「あっ、はっ、もうだめだ、出る」
「俺も限界だ、悪い、余裕がない」
「うあああああああああ」
巧都が勢いを増し、激しく僕を突き上げた。その瞬間、僕は完全に理性を失った。
事後、僕は床に頬を預けてぐったりとした。汗で髪の毛が肌に張り付いてくる。
――ヤってしまった。
その事実に呆然となった。初体験だ。僕は、酒を飲んだ時ですら、一夜限りの過ちなどしたことはない。そもそもまだ昼間だ。昼間の過ち? なんだかそれはそれで卑猥だな。今夜書く小説の時間帯、昼下がりにしようかな。僕はそんなことを考えて現実逃避を試みた。そうしていたら、巧都が僕に腕を回した。そして後ろから抱き抱えるようにした。
「幸せだ」
「……幸せ……?」
「ああ。俺はずっとお前が好きだったんだ――……何人と付き合っても、男と付き合ってみても、いつでも心の中にはお前がいた。我ながら最低だが、心から愛しているのは、お前だけだった。だからこうして腕の中にいるお前を見ていると、夢のようで怖い」
「ごめん巧都、盛り上がってるところ悪いんだけどな、俺はお前のその臭い台詞回しのせいで、怒涛の勘違いをして、だからつまりその、あの……」
「ああ、だろうと思った」
「え?」
「途中から何か勘違いしているとは思っていたんだ。どう勘違いしていたのかは知らんが」
「は?」
「が、勢いで押し切ることを俺は選んだ。それくらい、俺はお前が好きなんだ」
巧都はギュッと腕に力を込め、俺の頭の上に顎を乗せた。
「な、え、じゃ、じゃあそれは、つまりこれは、ええと、無理矢理だ! 強姦だ!」
「その通りだろうな。訴えられれば俺が負ける」
「い、いや、訴えたりはしないけど……」
「なぁ、高杉。嫌だったか?」
「え?」
彼の問いに、僕は我ながら疑問になるほど、真っ赤になった自信がある。
すると僕の顎の下に手を置き、巧都が自分の方へと僕を向かせた。
「――そんな風に、色っぽい顔をしないでくれ」
「自分じゃ分からないけど、僕に色気を感じるのなんて、巧都くらいだと思う」
「そうとも限らないぞ。二丁目の田中さんとか」
「ああ、あのおばあちゃんな。僕に良くしてくれるよ。御年九十七歳だったか」
「知らん――……その顔を見る限り、嫌ではなかったと自惚れても良いか?」
「えっ……あ、あの……」
さらに僕は赤面した。何を言えば良いのか分からなくなる。
そんな僕をじっと見据え、そして巧都は目を伏せると、額にキスしてきた。
触れるだけの柔らかな唇は、一瞬で離れた。
「高杉、どうしても無理だと思うまでで良い。俺の恋人になってくれないか?」
「……恋人……」
「絶対に後悔はさせない」
「けど、恋人って……ほ、ほら、僕は地元だし、お前は市内だ」
「最終的には、俺はこの診療所に戻る。一緒に暮らそう」
「え……」
「だが、お前が俺の顔も見たくないと思う可能性もある。その場合は、医師免許を活用して、俺はどこか遠いところに行く。国境なき医師団とか」
「いやそれ動悸が微妙だろ……」
「何が言いたいかというと、俺は本気だということだ」
「待って、今のその台詞で、お前の本気度が図れるのか?」
「図れないか?」
僕にはちょっとよく分からなかった。
ただ一つ分かることとして――何故なのか、巧都が遠くに行ってしまう事が嫌だった。僕の脳裏に浮かんだサバンナ、夕陽に染まる白衣……聴診器を下げた巧都――僕は、巧都にずっとそばにいて欲しいと、直感的に思っていた。
「行かないでくれ」
「まだ行っていない。高杉は、昔から想像が逞しいな。そんなところも俺は好きだ。俺が書道で、雲海と書いただけで、何故なのか雨の日に捨てられた子犬を連想して号泣しながら教室から飛び出したお前の姿は、今でも脳裏に焼き付いている」
「悪いけど、それはすぐに消去してください」
「お前のことは、全て記憶している。狂おしいほどに、一つ一つに愛が宿っているんだ」
「なにその付喪神的な博愛」
「それで答えは?」
「……っ……」
「お前は昔から、嬉しすぎて動揺している時、ど下手くそで、クソつまらんツッコミをするからすぐに分かる。お前、思ったより俺の告白に喜んでるな」
「な!」
僕は図星を刺されて硬直した。た、確かにそれはその通りなのかもしれない。僕は緊張するとハイテンションにペラペラペラペラ喋りまくる癖があり、その中で、下手なツッコミを入れてしまうという無様なものがあるのだ。
――更に悪いことに。
事実だった。言われて気づいたが、俺は喜んでいた。
ドキドキドキドキ鼓動もうるさい。
「俺と付き合ってくれるか?」
「え、えっと……――あ、ああ、その、ちょっと、ちょっとだけ、後悔するまでの間なら……ちょっとだけなら……うん」
「有難う。一生後悔はさせない。つまり、ここに、永久の関係が保証された」
「馬鹿」
そんなやりとりをし――その後俺達は、覚めてしまった天麩羅を食べた。
なお、俺は以来、巧都の恋人になったわけだが、頻繁に後悔している。けれど――もう俺は、巧都を好きになってしまったから、別れようとは思わない。ちなみに後悔している一例を上げるならば、こんな感じだ。
「なるほど、尿道責めか。今夜はこれにチャレンジしてみるか? まさかお前が世に言う腐男子だったとはな――……」
「だから読むなって言ってるだろうが!」
……僕が滾る萌えを抑えきれずに、一度熱く巧都にBL妄想を語って小説を見せて以来、時に傍らで自分の小説を実況されるようになり、絶望的なほど後悔したりしている、という話である。
「僕は自分の願望を小説にしてるわけじゃない! そこに萌えがあるのが悪いんだ!」
このようにして、僕は巧都に叫び、そして最終的には巧都にキスをして黙らせられる。
毎日が幸せだ。