鬱陶しい二人。
妖狐――そう呼ばれる存在がいる。彼らは、人間に混じってこの社会に息づいている。
今、不味そうなナポリタンを食べている青年、白夜もまたその一人だ。彼は狐色の髪に緑色の瞳をしていて、どこからどう見ても生粋の日本人には見えない。無論、国籍的な意味合いではない。だが彼は、「染めましたぁ」と間延びした声で適当に回答する事で、周囲に馴染んでいる。現に高校生活において、彼はこれまで学校では誰にも妖狐であるとは気づかれないできた。
端的に言えば、妖狐とは狐の妖怪である。
中でも白夜は、その系譜を辿ると玉藻の前に行き着く、由緒正しい妖狐である。
本当の姿は、巨大な白い狐の耳と尻尾を持つ妖怪だ。だが、普段は、耳と尻尾を隠して、人型を取り、誰を誘惑するでもなく過ごしている。
そもそもの話、”誘惑”というのも、白夜からすれば的外れである。
美貌に寄ってくるのは人間の側である。己から人を酔わせた事は無い。
この十七年間一度も無い。身長が172cmになった現在まで、一度もない。なお、まだ二次性徴は終わらない。妖狐もまた人間と同じで、二度大きくなる時期があるのだ。
だが――最近、誘惑したいと思う相手がいる。
それは、妖怪退治屋の虎吉である。
遠藤虎吉は、この街の丘の上にある、古びた寺に一人で暮らしている。一応、名誉のために行っておけば、ほぼほぼ無収入なだけで、きちんとした僧籍の持ち主だ。家庭菜園で生き延びている貧乏寺の息子は、常時は無償で――……妖怪退治をしているのである。一応妖狐もまた妖怪だから、虎吉から見れば、白夜も討伐対象らしい。
「はぁ……」
白夜は虎吉の事を思って溜息を吐いた。彼がため息をつくのも無理はないだろう。白夜は、幼い頃、つまり一次性徴時期である五歳頃、まだ上手く変化ができず子狐姿になってしまった時に、自転車に轢かれそうになった事がある。その時助けてくれたのが虎吉で、以来ずっと白夜は、虎吉の事が好きなのだ。当時は、純粋な淡い憧憬だった。今では多少は邪な思いも孕んでいる。妖狐は、好きになったら、相手の性別は問わないのだ。その相手が――……自分を討伐対象だと思っている。その事実が、どうしようもなく白夜にとっては辛かったのである。
その時殺気がした。飛んできた呪符を、妖力で生み出した風の刃で、慌てて白夜は相殺する。シャランと腕にはめた輪が啼いた。ちゃぶ台の前で立ち上がり、呪符が襲ってきた庭側の窓へと白夜は視線を向ける。そこには、錫杖を構えている虎吉が立っていた。
「今日という今日こそ、覚悟してもらう」
そう言うと、虎吉が新たな呪符を投げた。それらは宙で火の玉に変わる。いきなりこんなふうに襲われたら、泣きたくもなるだろう。少なくとも白夜は、涙ぐんだ。
「あの、俺、何かしましたか? 毎回聞いてますけど」
「非常にひどいことをしている!」
「具体的には?」
「――……俺の気持ちに気づかない」
「俺のことが大嫌いだってよく分かってます」
「……っ、お前は、俺の大切なものを奪った!」
全く心当たりがなくて、白夜は溜息をこぼした。
そんな白夜の姿を見て、虎吉は内心で呻いていた。
呆れられていると確信していた。
――白夜に心当たりがないのも無理はない。虎吉が奪われた大切なもの、それは、虎吉の心だ。恋心だ。純情だ。虎吉は、恋などせずに清廉潔白な僧侶として生涯を終える予定だったというのに、白夜に惚れてしまったせいで人生設計が狂った。白夜のふわふわの耳と尻尾を一目見た瞬間から、もう虜である。誘惑されたに等しかった。あのように美しい獣の姿を見せられたら、魅了されるなという方が無理だった。
つまり――虎吉の言い分は、ただの言いがかりである。しかし白夜には、そんな事は分からない。同様に、何かと虎吉がやってくる理由も、ナポリタンを食していた時と等しく一切理解できないでいる。虎吉からすれば、一目会って話がしたくてついつい絡みに来てしまうだけなのだが、白夜は虎吉が自分を退治に来たとしか考えていない。
「大切なもの……そういう事なら、俺的には、別の大切なものを頂きたいんですけど」
「なんだ? これ以上俺から何を奪うつもりだ?」
「――貞操とか」
「っ、げほ」
ボソリと呟いた白夜の声に、虎吉が咽せた。彼は耳を疑い、白夜を二度見した。
「さすがは妖狐だな……」
「……妖狐関係ないです……」
「俺は誘惑には乗らん!」
「……」
虎吉の威勢の良い声に、白夜はあからさまに肩を落とした。やはり虎吉が誘惑されてくれることはないのだろうと考えると、胸が非常に痛い。虎吉はその表情を見て、息を呑んだ。白夜はあんまりにも美しいため、その痛ましい表情を見た人間というのは、十中八九、自分が悪いことをした気分になるのだ。虎吉もその例に漏れず、慰めの言葉を探した。
「ほ、ほら、まだ若いんだし、な?」
男虎吉、三十七歳。白夜よりぴったり二十歳年上である。
彼は、白夜の悩む理由を誤解していた。
「童貞なんていつでも捨てられる!」
白夜は別段、童貞であることに悩んだ記憶は無かった。確かに虎吉一筋で思春期を送ってきているから、このままいくと魔法使いまっしぐらではあるが、それが悪いことだとは思わない。
なお、慰めるためにそう口にしたものの、虎吉は自分の言葉に自分で大打撃を被った。
童貞――それは、他人事ではなかった。昔、幼い子狐にケモナーの血を覚醒させられて以来、人間に興味がなくなったというべきか、白夜にしか興味が無くなってしまった彼もまた、賢者だったのだ。全ては十二年前の悲劇――五歳だった白夜を自転車が轢きかけた事が悪いのである。
「……そ、そうだな。いつでも……は、難しいかも知れない。が、いつか愛しい相手と結ばれると良いな」
虎吉はそう口にしながら泣きそうになった。愛しい相手に愛しい相手が出現することを祈ったのは、ちっぽけなプライドからである。ちらりと一瞥すれば、白夜が俯いて何かをあざ笑うように笑っていた。
無論、それを聞いた白夜が嘲笑したのは、己自身である。白夜は白夜を嘲笑ったのだ。好きな相手に恋を勧められていると確信し、張り裂けんばかりに胸が痛んだ。
「……虎吉さんには、いるんですか?」
「え?」
「好きな人、いるんですか……?」
「えっ」
聞きたくなかったが、意を決して白夜は聞いた。聞かれた虎吉は、まさか当人に告白できるはずもなく、硬直している。そもそも告白できるほど余裕があったならば、虎吉は呪符を適当に投げて退治に来た振りなどしない。好きだから会いに来たのだと、本心を口にできただろう。それができないからおかしな理由をつけて、”毎日””退治に”やってくるのだ。そんな虎吉の反応を見て、白夜は「ああ、好きな人いるんだ……」と判断した。
「もう良いです、俺のこと、倒しちゃってください」
「――ん? 何?」
「俺もう消えたい……」
「ちょっと、どうした!? 青少年! 何があった!?」
「失恋しました……砕け散りました、俺の心……」
「え!?」
白夜の言葉を聞いて、思わず虎吉は喜んだ。なにせ失恋だ。『付け入るチャンスだ!!!!!!!』と、一人最低なことに盛り上がった。その喜んでいる姿を見て、白夜は絶望的な気分になった。虎吉は決して人の不幸を喜ぶような性格ではない。なのに、事自分に限っては、失恋まで喜ばれるほど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い理論そのままに全方向で嫌われているらしいと思ってしまったのである。ポロリと白夜の目から涙がこぼれた。
「!」
それを見て焦ったのは虎吉だ。喜んでしまうなんて最低なことをしたと、ようやく彼は冷静になった。だが、いくら冷静になっても、あんまりにも白夜の泣き顔が綺麗だったものだから、煩悩は消えてくれなかった。
「そ、その……――新しい恋がある!」
白夜は、愛しい相手のこの言葉により、トドメを刺された気分になった。
もうダメそうだった……手の甲で涙を拭う。
「そうですね……」
「ああ、前向きに生きることが大切だ」
「……はい」
「そ、そこで――よ、良かったら、俺と、その、しょ、お食事でも……どう、だ?」
「――え?」
虎吉が舌を噛みっかみで、頑張ってデートに誘った。
それを聞いた白夜は、首を傾げた。これまでに虎吉と食事に出かけたことなど無かった。だから是非とも行ってみたかったが、そうではない。何故虎吉と食事に行くことが前向きにつながるのかと考えたのだ。たった今失恋した相手との食事など、寧ろ逆方向だと彼は思ったのである。
「俺はおっさんだけど、甥っ子がお前の一つ年下だから、若い子の喜ぶ店、知らんでもないから、ほら……」
「知ってます。部活一緒です」
「あ、そ、そうなの? じゃあ今度遊びに来いよ。俺、毎日暇だからな、いつでも歓迎だ――そ、そうやってちょっとずつ毎日、俺と親睦を深めるのはどうだ?」
「望んで殺されに行くわけないでしょう?」
「う」
「虎吉さん、毎日俺のこと殺しに来るし……」
「ち、違うんだ! それはお前が失恋したなんて知らなかったからだ! 他に会う理由が何も無かったからなんだ! あっ、いや、あの、え、っと、悪い今のリテイク。3,2,1――ええと、俺は妖怪退治屋としてお前を倒さなければならないが、そこに殺意は無い」
「リテイクした意味が分からないんですけど」
「俺ほらダメなんだよ、なんていうか、ほら、アレ! アレなんだよ!」
「アレ?」
「好きな子は虐めてしまうタイプなんだ――!! あ、言っちゃった」
「はぁ?」
「うあ俺もうダメだ。今日は帰ります」
「はぁ……お気をつけて」
こうして虎吉は帰っていった。それを見送りながら、白夜は腕を組んだ。
――前向きに生きる?
――無理だ!
白夜は走った。もう気持ちを抑えきれなかった。これまでに一度も追いかけたことはないが、走った。そして後ろから、虎吉に抱きついた。背の大きい虎吉が、よろめいた。しかしなんとか踏みとどまると、慌てたように振り返った。
「なんだよ!?」
「――俺、全速力で後ろ向きに行きます」
「は?」
「俺、虎吉さんが好きです……!」
「え?」
突然の告白に虎吉が固まった。二度素早く瞬きをする。
「お前、失恋したんじゃ……? 嬉しいけど、切り替え早いな。嬉しいけど」
「――してません。まだ。今からするかもしれませんけど。俺、虎吉さんの事がずっと好きでした」
「!」
「俺の恋人になって下さい。俺に大切なもの、下さい」
「――喜んで!」
反射的に虎吉は、本心から答えてしまっていた。いくらでも童貞を差し出す気持ちでいっぱいだった。
「!!」
逆に驚いたのは、白夜である。虎吉の気持ちになどさっぱり気づいていなかった白夜からすれば、まさかのこのOKは、青天の霹靂だった。だから思わず腕を緩めた。すると向き直った虎吉に正面から抱きしめられた。その優しい温もりに――涙がこみ上げてきた。
「本当ですか? 俺と付き合ってくれます? 俺の恋人になってくれます?」
「ああ! ああ! 寧ろ俺のほうこそお願いします!」
ギュッと白夜を抱きしめた虎吉は、腕の中の愛しい温度に幸せを噛みしめる。
こうして――この日、両片想いをしていた二人は、無事恋人同士になった。直ぐにその知らせは、街中を駆け巡った。なにせこの二人の長い両片想いは、多くが知るところだったからである。妖狐勢にも町民にも祝福された二人が、その後『凶悪妖怪限定』という注意書きをした、妖怪退治屋をコンビで始めるのは、また別のお話である。