俺の無駄な正義感。
俺は自室の扉を開けた。
そしてネクタイを緩めながら、Yシャツのボタンを外す。仕事着はスーツだ。
残念ながら俺の職場に、クールビズは存在しない。涙が出てくるほど暑い。汗なのか涙なのか区別がつかないというのは、こういう外気のことを言うのだろうと思いながら、やっと俺は仕事から帰宅したのだ。
俺はいつも通りの動作で、ほぼ無意識に冷蔵庫を開ける。
麦酒を取り出し、キャップを捻った。昔は缶に入っていた物だが、現在では冷蔵効果付きペットボトルが主流になった。見た目はただのペットボトルだが。何より冷たいし、キャップのおかげで炭酸もアルコールも抜けないので、俺は愛飲している。キャップを締め直してダイニングテーブルの上に置いてから、俺はその上にあったレトルトカレーを手に取り封を開けた。そして同じくテーブルの上に置いてあった皿の上にのせる。ご飯とカレーが出てきた。皿は勝手に大きくなる。収縮皿は便利だ。レンジにそれを放り込み、時間を設定する。それから冷蔵庫を再び開けて福神漬けを取り出した。袋の中身を皿に取り出すと、皿は今度は小さくなった。俺が子供の頃から変わらないのは、レンジだけだな。
そうしてテーブルの前に座り、首から取って名札を投げた。自分の名前が視界に入る。
――仲神雷舞、そう書いてある。
俺は、キラキラ(DQN)ネーム全盛期に生まれた。
だから下の名前で呼ばれるのは嫌いだ。親のつけてくれた大切な名前だから個人的には愛着もあるが。まぁ周囲もキラキラしているので良い。親友の山崎大地とかな。アイツの顔は少し坂本龍馬に似ているかも知れない。俺は、壁に掛けてある龍馬の絵を見据えた。俺は坂本龍馬のようになりたいが、柔軟性などはない。我ながら平々凡々な人間だと思う。
それからテレビの電源を入れた。俺は、夜はテレビを見る。結局テレビ文化も残っている。だが、俺はニュースしか見ない。まぁニュースも、同じ話題ばかりだけど局によって内容違うものだ。俺は気づくと前屈みになっていた。身を乗り出す癖があるのだ。足は若干開き気味。あんまり姿勢が良いとは言えない気がするが、立てばこれでも完璧にまっすぐだ。
『――次のニュースです。同性婚法整備から三年――……』
その言葉に、俺は大地の事を思い出した。
あいつの配偶者は、同性だ。養子もいる。それぞれの精子で二人。
大地と俺は、同じ高校出身で、自衛官まで一緒で、”VSNNDF”に派遣されて再会した。
そして俺は、彼らの結婚式にも出た。
俺が子供の頃とは、色々と世の中は変わった。
例えば今のニュース。晩婚化が進み、同性婚が認められることになった。四十代独身は普通だ。少子化は意外と進んでいない。養子縁組の規則や精子卵子提供の規制が緩くなったからだ。その代わりに結婚前に、DNA検査で血縁関係を明らかにする法整備がなされた。異性婚の場合だけだが。同性同士の場合は、性交渉前に、服薬と座薬して性交渉を即座に行える薬が開発されている。俺は、一生使う事が無いだろうが。
俺は煙草を銜えながら、チャネルを変た。
今度の番組は、女性のアナウンサーだ。俺の心の恋人だ。
『次のニュースです――煙草税がこの夏から上がります。今後、煙草の平均価格は、五千円となります』
では、これからは一日五本(予備一本)じゃなく、三本だな(寝起き、帰宅、寝る前)……。最早煙草は、高級嗜好品と化した。吸える場所も、喫煙専門店しかない。灰皿を全く見かけなくなって、喫煙室がある施設は滅多にない。俺のように最初の職場で覚えてしまった人間は、皆禁煙を心がけてはいる。全く辛い話だ。
『――ここで速報が入ってきました。現在NEET国で――……』
画面の映像が中継に変わり、そこには俺の上司の姿が映し出された。
俺がおっさんだとすると、ダンディな紳士だと、俺の母親は上司を評する。その違いは何だ。どちらも中年カテゴリだろうが。失礼な話である。ただ確かに俺の上司は、顔は良い。性格は悪いが。悪い噂が絶えないしな。新人を性的な意味で喰うとかな。
これでも、俺は自分がそんなに格好悪いおっさんだとは思わない。頑張れば切れ長の目と言えるだろう。また、たまに抱いてくれと言われる。男ばかりだが。ちなみに俺は、男は無理だ。
――それにしても、またこの話しか。
NEETが社会問題になったのは、俺達よりも少し上の世代だ。
NEET国は、国民が皆ニートだ。一部だけ違うが。国を一応まとめている人々だ、そういう人間は、”管理人”と呼ばれている。
――NEET国は、俺がまだ幼かった頃、日本海に突如として出現した。
島が浮上してきたらしい。隆起だったか。忘れた。そしてその島を――世界中の”ニート”と当時呼ばれていた人々が占拠し、暫定国家を樹立したのだ。
NEET国の通貨は円。日本人ニートが多いためなのか、日本が一番近いからなのかは分からない。ただしそのくらい近距離にあるので、”VSNNDF”という対応組織が日本には現在ある。俺の職場だ。
テレビのニュースは続いている。
今度は、国会での議論の光景が映し出された。
日本とNEET国は、別に戦争をしているわけではない。
ただ、襲ってきた場合に備える組織として”VSNNDF”は存在するのだが、微妙な存在なので、よく議論されているのだ。勿論、どのようにNEET国に対応していくかを含めてだ。まずは、対話による解決を目指している。しかしその中でも意見は割れていて、外交成立=国家として承認派と、日本国に併合派、放置層がいるのだと、今もニュースで言っている。
ちなみに”VSNNDF”とは、色々と緩い組織だ。
日本に特別に組織された”VSNNDF”こと【対ニート日本ディフェンスフォース(VERSUS NEET NIPPON DIFFENCE FORCE)】は、今では一応NEET特別防衛庁の管理下にある。
俺は、そこの副管理官だ。日々、上司にペコペコした日々を送っている。
――実のところ、ニート達が攻撃してくる恐怖も今では存在しないに等しい。ニート達はただ暮らしているだけで何もしない。NEET国を組織しただけだ。しかし”VSNNDF”はきちんと存在する。存在し続けている。今では出世争いが激化している組織として。
戦争など絶対に起きないだろうと俺は思っている。起きたら逃げようと思う。
なにせ、ニートの支援者である保護者、親などは全世界にいるため、戦争反対派が多いのだ。皆、ネット銀行で支援しているらしく、規模が多すぎて規制は出来ないらしい。よく知らないが。
さて、どんな風に”VSNNDF”は緩いのかというと、はじめは『NEET国限定で、防衛のためならば何をしても良い』という規則(ハニートラップなども許可されているとの噂)だったのが、歪みに歪んで、完全なる縦社会であることを除けば、『これもNEET対策です』と言っておけば、仕事中に好き放題にエロ動画を見られるくらいの緩さになっているのである。それでも当初は真面目な組織だった。俺が派遣されて、この組織に組み込まれたのはそのころ、創設期である。
俺は元々は高卒の自衛官で、その後警視庁に派遣され、さらに続いて”VSNNDF”へと派遣された。そして、組織化される事になり、そのまま残った。だから今の上層部は皆、警察官か自衛官のキャリア組だ。今後は、”VSNNDF大学校”を卒業した学生達に変わっていくのだろうが、現在はまだ、大卒の新人が多い(大学全入時代だ。無償化されたのだ)。
ちなみに、その他の、創設初期から残っている俺のようなたたき上げの人間は、ノンキャリエリートと呼ばれている。ノンキャリアだが、NEET国に上陸経験があったりするために、一応エリート扱いされているのだ。俺の少し下の代からは、キャリアとノンキャリアに完全に別れた。俺は四十代前半(44!)で、三十代から大体が別れている。
なので俺は中間管理職。上司に頭を下げつつ、新人教育をする毎日だ。はっきり言うが仕事に誇りなど無い。ノンキャリエリート組は、どこまで出世できるかを考えている人間がほとんどだと思う(俺のように)。本当は出世も面倒で嫌なのだが、そう言う組織なのだ。偉くならないと、いつ上から何をされるか分からない。現在は、第一防衛部に所属しているが、上司の機嫌を損ねたら、即左遷されるだろう。
レンジが音を立てたので、俺は視線を向けた。チンと音がした。本当、レンジだけは変わらないな。他には変わっていないというか、退化した物もある。流行曲だ。過去の唄を見直すのが流行らしく、現在は90年代のJ-POPが、どこに行ってもかかっている。俺的には、俺よりも二世代は上の古い歌だから分からない。新しくても古くても、分かる奴には分かるようだが、結局俺には分からないのだ。
勿論、収縮皿のように便利になった物もある。
他に便利になったのはトイレットペーパーが代表だろう。
無くならないトイレットペーパーが開発されたのだ。原理は知らないが。紙ではなく、紙によく見えるナントカ細胞製になったのだ。
『続いてのニュースです。上半期の流行語大賞は、”ワニピララ”に決まりました』
なんだよそれは。確かに最近よく聞くが、俺は意味すら知らない。「それってワニピララですよね」と、うどんを食べていたら言われたことがある。どういう事だ。あの時聞けば良かった。だが俺は聞かぬは一生の恥だとは思わない。沈黙こそが正義だ。
レンジへ向かうべく、俺は立ち上がった。
そして何気なく姿見を眺めて、痩せたかもなと感じた。恐らく筋肉だろうな……。身長はとりあえず182cmから減らないので良い。だが俺も44歳だ。いつ背骨が……いいや、考えるのは止めよう。それにしても、四の連続。”死”っぽくて憂鬱な一年になるかと最初は思った。だが現在は、何事もなく平穏だ。
これでカノジョがいればもう俺はそれで文句はない。残念ながらいないのだが。心の中の恋人が、だからアナウンサーさんなのだ。
まぁ女っ気はないが、男っ気はもっと無い。なおカノジョは過去に三人いた。三人と付き合ったことがある。どれも比較的長く続いたが、”VSNNDF”の暇だという実態を知ると皆、「私のあこがれていた、”VSNNDF”は、貴方みたいな暇な人なんていない組織なの!」と言って去っていった。定時に帰ってきて何が悪いというのだろう。皆、残業して手当を受け取るべきだと言っていたが、俺は嫌だ。
それにしても思うのは、とりあえず一人暮らしは寂しいと言うことだ。ノンキャリエリート組は一応、エリート組と同じく一人暮らしを許可されているから、俺は2LDKのマンションに住んでいる(買った)。
カレーを取り出してから、次に俺は冷蔵庫から、楽しみにしていたショートケーキを取り出した。麦酒は体型維持のために、飲み会以外では、一日一本と決めている。同時に珈琲も淹れた。面倒なので全て、煙草を銜えたまま、テーブルの上に並べた。
まずは珈琲を飲む。俺はブラック派だ。甘いものに合うからだ。俺は甘党なのである。甘いものと煙草も結構合うと俺は思うのだが、どうなのだろう。
思案しながら、俺は煙草の火を消した(一本一本が細くなり、長くなっている)。
翌朝俺は、朝の十一時に出社した。一応中間管理職なので、上司よりも早く、そしてなんだか悪いので部下よりは遅く出向いているのだ。本来は、十時開始だ。だから、一時間ほど俺は、施設内を散策してから、第一防衛部の本部室に顔を出す。
今日もそうすると、美人の新人に挨拶された(男だけどな)。
「おはようございます」
「おはよう」
じっと見据えた。色素の薄い茶色の髪が揺れている。瞳も茶色い。天然のものだそうだ。
俺には、人の目をじっと見る癖がある。だから茶色いのがすぐに分かった。
この新人は、鷹田直と言う。
23歳の大卒組で、この春”VSNNDF”に入隊した。
繰り返すが、ものすごい美人である。睫が長い。大学時代は演劇をしていて、俳優の道を志していたらしい。線が細くて腰なんか折れそうだ。配属される前の一年間、本当に専門教育を受けて筋トレをしてきたのか少し疑問である。
一切俺は性的な目で見たことはないが、現在この第一防衛部は、鷹田に恋するもので溢れかえっている。だからその変な空気が嫌なのもあって、俺の十一時出勤かつ定時帰りは続いている。ごく稀に昔は定時後も十分くらいは残ることがあったのだが、現在は、十分前には本部を後にし、ゆっくりと十分かけて玄関まで向かっている。
そこへ、俺の上司が入ってきた。昨日もテレビに出ていた上司だ。新人喰いで噂の。
青芝東管理官だ。
本当、こちらは”管理官”だし、NEET国は”管理人”だし、紛らわしくて嫌になる。
しかし完全な縦社会だから、青芝管理官の機嫌を損ねれば、その時点で俺の経歴は崩れ去る。腰を低く九十度に折った。顔は上げなかったが、笑顔を無理矢理浮かべる。
「おはようございます!」
「ああ」
無表情で頷くと、青芝管理官は気だるい瞳で俺を一瞥し、すぐに歩いていった。
その姿を見送るだけで緊張した。これでも、向こうは俺の一歳年上なだけだから、ほとんど年齢は同じだと言っていいのだが。青芝管理官は、自衛隊元大尉の45歳だ。エリートである。身長は179cm(以前に珍しく、あと1cmあればなと、呟いていた)、やせ気味だが筋肉はある。体格では俺が勝るが、恐らく、俺より強い。
創設期の上陸作戦(NWα)で、一度同じ班になったことがあるのだが、半端無い実力をしていた。その点は、素直に尊敬できる。
ただすごく、男っ気がある。男気ではない。男性との性的関係が派手なのだ。昔からだ。新人喰いだと評判の噂も事実なのかも知れないと思える。それほど、信憑性があるように思えるくらい、男の恋人との話が絶えない。噂に疎い俺にすら聞こえてくる。さらにはこの三年間で、同性婚×7だ。ちょっと数が多いだろう。一年持っている結婚生活が一つもない。カノジョとは十年くらいずつ付き合ってきた俺からすると信じられない。
後は、俺とは合わない点がある。青芝管理官は辛党なのだ。常に一味唐辛子を持参していて、何にでもかける。亜鉛酸欠乏症なのだろうか?
それから室内を一巡した青芝管理官が、中央窓際にある管理官デスクの前に立った。
これから朝礼が始まるのだ。
業務報告とスパイ注意喚起である。
これはいつもの事で、ただ『本日もNEET対策に全力を尽くしてほしい』と『NEET国からはスパイが侵入している可能性があるため全員注意をするように』という言葉だ。毎日毎日同じだ。だが、要約すれば一言で済むのに、十五分ずつ使って管理官は喋る。皆は、流石は青芝管理官、話しが面白くて飽きない、と言うが俺はもう聞きすぎて飽きた。もう二十年近く同じ言葉を聞いているのだから。これが面白いなんて、どうせお世辞だろう――とは、けれど思えない。何せ、鷹田に恋する者と同じくらい、青芝管理官は、おモテになる。俺は性別関係なく、どちらかと言えばあまりこの上司は好きではないがな。どこが良いのだろう。
そんなことを考えている内に、朝礼は終わった。俺には、「解散!」と告げる仕事があった。それを無事にこなし、さて今日は何の動画を見ようかなと考えていた時、不意に青芝管理官が俺に歩み寄ってきた。何事だ。そんな心境とは裏腹に、俺は満面の笑みを浮かべる。非常に光栄だという顔を取り繕ったのだ。管理官はすれ違いざまに、俺の耳元で呟いた。
「NWβが計画されている。これは機密事項だ」
二度瞬きをしてから、俺は目を細めた。
作戦名NWαは、唯一死者が出た、NEET国との戦闘行為だった。過去に一度だけあったのだ。そこから生還したものが、ノンキャリエリートと呼ばれているに等しい。これが、恐らく”VSNNDF”が現存している一番の理由だろう。
「私には、関係ありませんので」
「そうか」
俺は笑顔を浮かべたままだった。
青芝管理官はつまらなそうに呟くと歩き去った。一応俺も、生還組なのだ。青芝管理官と同じ班だった時だ。あの時の班の生還者は、俺と青芝管理官の二人だけだ。だから俺は、青芝管理官の部下にされたのかも知れない。もう長いこと一緒だ。いい加減移動させて欲しい。出来れば出世する形でな。そのためには、青芝管理官の鶴の一声を期待するしかない。ああ……希望が持てないな。ちなみに当時その班に俺が選ばれた理由は、俺が人の目を見るからだった。俺は人のつく嘘はさっぱり分からないが、本気度がちょっと分かる気がするのだ。こいつは真剣だな、だとか。唯一の特技と言っていいが、要するにただのカンなので、出世の役には立たない。
「仲神さぁ、もっとシャキッとしなよ。ペコペコしてないでさぁ」
ぼんやりとそのまま立っていると、声をかけられた。
ポンと肩を叩かれる。やってきたのは、俺の大親友である大地だった。
「うるさい」
俺は表情を不機嫌なものへと戻し(デフォルトだ)、睨んでやった。
それから先ほどまでとは異なる笑みを俺は浮かべた。気が楽だ。
「で、何か用か?」
「ああ。今日もね、青音とお昼ご飯食べるんだけどさぁ」
青音というのは、大地の配偶者で、やはり”VSDNNF”に勤めている。俺と同じくノンキャリエリートの大地の、元副官だった相手だから、俺も顔見知りだった。まさか結婚するとは思わなかったが、同性婚が認められた翌日には籍を入れていた。
大地は行動が早い。上司の”新人喰い”の噂を俺に話してきたのも大地だ。
「そうすると、午後の仕事に必要な資料を取りに行く時間がないんだよね。昼休みにさ、代わりにとって来てくれない?」
「おぅ。珈琲でもおごってくれ」
「はい」
既に購入済みだったらしくて渡された。まぁ長い付き合いなので、先読みもこうしてされたりする。了承した俺は、資料のリストが書かれたメモを受け取った。
――昼休みは、すぐに訪れた。何せ出社の一時間後だ。
俺は地下二階にある書庫へと向かった。ここに保管されている資料は、全てが懐かしき紙で出来ている。紙の匂いが俺は好きだ。匂いというか、雰囲気か。現在では紙は大変貴重なものなので、全てナントカ細胞性の、紙によく似たものになってしまっている。ちなみに紙で保管されている理由は、機密保持のためだ。NEET国は、情報技術に優れているため、情報漏洩を危惧しているのである。果たして漏れて困る情報がこの組織に存在するのだろうか。ああ、さっき機密事項を聞いたな。機密なら、俺に話すなと思ってしまった。
メモを片手に奥の資料室の扉の前に立つ。
どうせ誰もいないだろうと思ったが、俺は癖で、扉についた窓から中を素早く一瞥してしまった。そして壁を背に預けた。――アレ?
人影が二つあった上に、俺は今見た光景が信じられなくて、何度か瞬きをした。動揺すると瞬きの回数が多くなるのも癖だ。
中には資料を広げるための机がある。その上に、鷹田(新人)が押し倒されていた。押し倒していたのは、青芝管理官だった。唖然とした。いや、気のせいかも知れない。しかしその時、声が聞こえてきた。
「嫌です止めて下さい、僕こんな――」
「ここまでダラダラにしておいて、何を言っているんだ、今更」
「それは無理矢理、管理官が……んッ、ああっ」
明らかに嬌声が響いてきた。しかも、『無理矢理』と聞こえた。
「こんなの犯罪です……嫌だ、それだけは、あ、挿れるのだけは……!」
「初めてか? 悦くしてやるから安心しろ」
「嫌だ!! 誰かッ」
もう一度素早く中を一瞥する。青芝管理官が、鷹田の太股を持ち上げようとしているところだった。これは……新人喰い? どころか……強姦!? 鷹田が、明らかに拒否していて、泣いている姿が中に見えた。管理官はと言えばうっすらと笑っていて、大変残忍そうな顔をしていた。
俺は気づくと息を殺していた。
――そして、考える。
俺は今、レイプされそうになっている鷹田を見てしまったのだ。現状把握が重要だ。そうだろう。さてこの場は、ひと気のない部屋だ。その第十四資料室の机の上に押し倒されていたのだ。恐らくこれから、今日が終わるまで、自分の他には誰も部屋の外にすら来ないだろう。寧ろどうしてここに二人がいるのか。まぁそれこそ、ひと気ないからだろうな。
青芝管理官に限ったことではないが、ここでは強姦があったという噂をたまに聞く。ほとんどが男同士なのは不思議だが、確かに聞く。では、女同士の場所や、異性同士の場所もあるのだろうか? なんて考えている場合ではない。
――俺は、助けに入るべきか?
入ったら相手は上司だしクビが跳ぶ。ここは完全な縦社会なのだ。仮に同意が無い行為であったとしても、事が露見しても青芝管理官ではなく鷹田が左遷されるのは既に決定事項だ。最悪退職させられるだろう。だが助ければ、俺もそうなる。だけれども……
「何をしているんですか」
あああ、気づけば勢いよく俺は、扉を開け放っていた。
そもそも何をしているかなど、見ればすぐに分かる。愚問というものだ。しかし俺は、笑顔を浮かべることもなく、青芝管理官を気づけば睨め付けていた。
「すぐに俺の部下から手を離せ」
口調まで、通常のものになってしまった。
「出て行け、仲神」
「断る。鷹田は嫌がっているだろ」
「助けて下さい、仲神副管理官!!」
泣きながら鷹田が叫んだ。すると大きく溜息をつき、青芝管理官が、俺へと近づいてきた。
「覚えていろよ」
底冷えのする声で、ゾッとした。直後、鷹田には柔和な微笑みを貰う。
「本当に、本当に、有難うございます……!」
そして、翌日俺には辞令がおりた。その日は一日休暇となり、翌々日から、暇な第十七資料室の管理官にされた。管理官は管理官だから、出世と言えば出世だが、場所は第十七資料室だ。一日中誰も来ない資料室で、部下も副官もなく俺は一人で、ひたすら座っていることが決まったのだ。最悪の左遷先である。まぁクビにならなくて良かったのか。しかしこれでも資料室勤務なので、インターネットに接続できるような機器は全て持ち込み禁止となり(情報漏洩防止対策)、動画も見ることは出来ない。これまでは、背後からはのぞき込んでも何も見えないモニターとヘッドフォンで見放題だったのに……! 静かにすべき場所なので、テレビもラジオも何もない。ここの資料と混じらないように、紙類や、ナントカ細胞製品も持ち込めない。内線電話も来ない。携帯している電話の電波はかろうじて入るが、それが鳴ることも、もう二度とないだろう。溜息が止まらない。大地には、何をしたのか散々聞かれたが、俺は口を閉ざした。二人に悪いと思ったからだ。少なくとも俺なら、強姦加害者や被害者の噂を、未遂でもたてられたくはない。噂を聞く度に思い出して辛くなるだろうからな。それにしても俺の馬鹿。これでもそれなりに順調で平穏だったというのに全て崩れ去ってしまった。鷹田の方には何も処分がなかったのは、不幸中の幸いか。それともまだ後ろの穴を狙われていると考えるべきなのか。尤も、もう俺には関係なくなってしまった事柄ではあるが。それよりもだ。本当、妙な正義感を出さなきゃ良かったかな……いや、後悔してるのも最低だな。鷹田が助かったのは喜ぶべき事だろう。
やはり俺は、男同士というのは、そもそも例え強姦でなくとも拒否感がある。最近の文化だからなのだからだろうか。少なくとも俺が子供の頃には、あまり無かった。そして俺の無駄な正義感。いつか誰かに言われたことがある。大人になれば、変わる、と。言った奴は誰だ! ――いや変わったのだろうか。逆に、価値観が凝り固まっているのかも知れない。男同士など考えも出来ないしな。そう思う点では、確実に固まっている。若い頃だったら、最近(三年前なんて昨日みたいなものだ)法律でも変わったし、同性愛も温かく見守れたのだろうか。
それにしても、男同士の性交渉は、今では汚いものは一切無くなったのだという。体内の汚物を一瞬で処理する座薬と、体を弛緩させる飲み薬のおかげらしい。さらには事後、体の筋肉を元に戻すためのクリームが存在するのだという。スカトロ趣味の人や、スカルファック趣味だった人々が嘆いているというニュースをこの前見た。俺には、本当に同じ世界のニュースなのか不安に思えたものである。
それから数日が経った。一日座っているだけなのは苦痛すぎて、何度も煙草が吸いたくなった。忙しいと我慢できるのだが、暇だとつい取り出したくなる(勿論そんな金はない)。思考している事しかする事が無かったので、俺は筋トレをしようかと思い立った。どうせ誰も来ないのだからと上を脱ぎ、その場で腹筋してみる。やっぱり体力が落ちている気がした。これが老化か……。今朝は白髪を見つけてしまった。そちらは心労からなのかも知れないが。
――その時、ノックの音が響いた。
「え」
ここに誰かが来るなどとは思わなかったため、腹筋の体勢のまま視線を向ける。すると扉が開いた。俺の汗が、床に垂れた。それは、多分、緊張のせいもあった。全身の汗が一瞬で冷え切ったのだ。立っていたのは……青芝管理官だったのだから。
「なにをやっているんだ?」
「は、はい、その……これもNEET対策です……資料室の管理官として、筋肉の衰えを放っておいては行けないと……」
我ながら苦しいとは思うが、俺はこういった類の部下の言い訳は全て顎を縦に振って聞いていた。しかし青芝管理官は違うようだった。
「資料室の管理官は前戦に出ることはない。不要だと判断するが?」
「価値観の相違です」
「私の価値観が間違っていると?」
「いえそんなまさかありえません」
俺は気づくと満面の笑みを浮かべていた。おそるおそる立ち上がり、シャツを拾う。それを羽織りながら、長年の習性とは恐ろしいなと思った。
「率直に言う。私に抱かれたら、お前を元の部署に戻してやるぞ」
俺はボタンをしめていたので、最初は青芝管理官の言葉の意味が理解できなかった。しかし、理解し、手が止まった。震えてきた。上手くボタンが留められない。
「え?」
聞き間違いであることを俺は祈った。だが管理官は繰り返す。
「私に抱かれるのと、一生ここに一人でいるのと、どちらが良い?」
そんなことは決まっているではないか。
「一生ここにいます。お断りします。全力でお断りいたします」
俺は小刻みに頷きながら告げた。すると青芝管理官の目が鋭く厳しいものへと変わった。
何で俺は睨まれなければならないというのか。頬が引きつってきた。というか、考えてみたら、全部コイツが悪いんじゃないか。鷹田を強姦しようとしたのも管理官だし、俺を左遷したのも管理官だ。俺は次第に苛立ちが募ってくるのを感じた。中に入ってきて、俺の椅子に座る青芝管理官を見据える。――逆に押し倒してみたら、どんな反応をするのだろうか? 無論俺に男を抱くのは無理だが、ねじり上げて押し倒すくらいならば可能だ。俺はその案をすぐに実行した。床に青芝管理官の体を引き倒し、馬乗りになる。
すると青芝管理官が目を見開いた。
俺が満足して体をすぐに離そうとすると、不意に喉で青芝管理官が笑った。
「……私は下もいけるが良いのか?」
「え」
本気の目には見えなかった。しかしその言葉に反射的に狼狽えて、逃げようとした俺の手を、がっしりと管理官が掴んだ。もう一方の手では、手慣れた仕草で下衣を降ろされた。呆然としている内に、俺は脱がされ、陰茎を握られた。ポカンとしている内に、俺は肉茎を青芝管理官の口に含まれた。え。
絶対に萎えきったままだろうと俺は思った。しかし――すぐに息を詰めた。やはり噂は真実なのかも知れない。手慣れた青芝管理官の唇と舌の動きに、俺の陰茎はすぐに張りつめた。確実に経験豊かなのだろう事が伝わってくる。完全に勃起したのはすぐのことだった。すると浮き上がった筋を舌で何度もなぞられる。そのしめった感触に、俺は奥歯を噛んだ。息が上がったことを気づかれたくなかった。それから唇に力を込めて、雁首を何度も刺激されては、舌先で鈴口を嬲られる。青芝管理官の唾液だけではなく、俺の先走りの液も漏れ始めて、陰茎全体が濡れていた。
「止めろ」
俺は敬語という概念を捨て去ることに決めた。
「すぐに止めてくれ」
だが何も言わずに咥えたまま笑って、管理官は口の動きを早めた。本気で止めて欲しい。そうでないともう俺は、出してしまいそうだった。必死で管理官の髪を掴み引っ張った。丸禿げにしてやる覚悟があった。管理官の毛はふさふさしていて、大変厚い。俺はどちらかと言えば髪は細い方だから羨ましい。家系的に禿げるタイプではないが、つい気に――している場合ではない……!! これは一体どういう状況だ。何故俺は青芝管理官にフェラされているのだ。結局どっちが上でどっちが下なのだ。というか、お断りだ! 俺は視線で素早く、掴むものを探した。そして積んである辞書を見つけたので手を伸ばして引き寄せて、全力で青芝管理官の頭に叩き降ろした。殴りつけたのだ。結果、俺のものを咥えたまま、青芝管理官は気絶した(こんな状況だったが、怪我は一応しないように俺が避けた)。
翌日――俺はクビになった。
全く本当に俺は何をやっているのだろうか……。
自宅で一人、俺は凹んでいた。今でも凹むという言葉は使用されるのだろうか。俺の時代はまだよく使われていた。溜息が何度も何度も漏れてしまう。足を開いて座り、俺は両手で顔を覆った。前屈みになって、肘を机につく。一体俺は、何か悪いことをしたのだろうか? こんな生き地獄ごめんだ。今更再雇用してくれる会社など、年齢も退職理由を考えても、想像がつかない。気が遠くなってきた。貯金はそこそこあるし、一応自主的な退職扱いになったから、退職金は出る。しかしそれでは、残りの人生を歩めない。老後はどうすればいい? 老人ホームに入る費用は? あるいは介護士さんに来て貰う費用は? そもそも、食費は? 生活費はどうすればいいのだ? 年金か。”VSNNDF”の年金制度は、残念ながら七十五歳からだ。いくら平均寿命が延びたとはいえ、貰えるまでの期間より貰ってからその後の期間の方が短い気がする。俺は44歳。今年はどうにかなる。では、45歳から75歳までの間も、貯金でどうにかなるかと聞かれたら否としか言えない。まずもって結婚願望には早々に諦めてもらうことが決定した。奥さんが可哀想すぎる。無職の夫じゃ。ああ、実家に戻るという手もあるが、それだとニートになる。ニートになれば、NEET国のスパイ容疑で必ず尋問を一度は受けるし、登録証を現在日本では申請しなければならない。その上、ニート疑惑者は盗聴されることまである。
果たして貯金を切り崩し限界まで頑張る無職と、実家に戻り色々と援助して貰いながらニート生活をするのはどちらがマシなのだろう。兎に角先が見えない。この年になって今更何かを新しく始める気力もない。
それから悩みに悩み抜き、数日後には無気力になってきた。これが世に言う無気力状態か。
俺は心を病みそうだ。
そんなある日、呼び鈴が鳴った。
午後の七時のことだった。こんな時間に一体誰だろうか。この家に来る者など大地くらいしか想像がつかないが、大地は大体夜の九時までは残業をしていることが多い。第一来るならば、先に連絡を入れるはずだ。
気だるい体を引きずって、俺は応対する。
「はい」
『あの――……鷹田です』
カメラに写っている鷹田の顔を見て俺は息を飲んだ。まずい、現在の俺は、無精ひげかつ下はジャージ、上はYシャツという謎の服装をしている。洗濯をここ数日していないので、他に着る選択肢が無かったのだ。現在洗濯機を回しているところである。非常に扉を開けたくない。部下にこんな姿を見られたくない。現在は部屋も荒れている。
『僕のせいでこんな事になってしまって、その……謝りたくて。それにお礼もちゃんと言いたくて。まだ言ってないです、僕。一回、あの場でしか』
「……今開ける」
しかし涙ぐんでいる鷹田を放ってはおけないだろう。それも心配してやってきてくれたようなのだから。俺は深く吐息してから玄関へと向かった。
扉を開けるとそこには、フライドチキンの箱を持った鷹田がいた。
「どうぞ。入ってくれ」
「有難うございます……!」
中へと促してから、俺はキッチンへと向かいながら言う。
「適当に、座っていてくれ。今、珈琲淹れるから」
確か鷹田は砂糖を入れて飲んでいたなと思い出し、上白糖でも良いのだろうかと思案した。ブラック派の俺の家に、砂糖やクリームは無い。基本的に、来客も無いしな。
「そんな風に、気を遣わないで下さい!」
「良いから」
俺は客に茶を出すのは礼儀だとする家で育った。俺の両親も祖父母も曾祖父母もそうだったと聞く。最近では、ペットボトルを持参して好きなものを飲むという文化もあるそうだが、俺に流行など分かるはずもない。珈琲が嫌なら飲まないだろう。出すという形式が大切なだけだから、別に飲んでもらう必要はない。
珈琲を運び、俺は鷹田の正面のソファへと座った。そうしてしばしの間、雑談をした。それから本題を切り出してきたのは、鷹田の方だった。
「――今回は、本当に申し訳ありません……僕に隙がなければ……」
「いいって、気にするな。悪いのは青芝管理官だ」
「有難うございます……本当に、有難うございます……!」
すると鷹田が、立ち上がって俺の隣に座り直した。何故席の移動をしたのだろう?
首を捻りかけた時、手を握るように掴まれた。指、細いな。
「助けて頂いて、本当に嬉しかったです。僕、あれ以来怖くて……だけどそれでも、この気持ちは変わらなくて……僕、僕、春からずっと仲神副管理官のことが好きだったんです。愛しています」
そして話しは変な方向へと進んだ。
俺は自分の体が硬直していくのを自覚し、思わず悟りを開きたくなって目を伏せた。
久しぶりに笑みの形に動かした表情筋が、筋肉痛を引き起こしている。
「愛しているんです。もう抑えられないです。仲神副管理官に会えなくなるだなんて考えられない……!」
抱きつかれたので、流石に目を開いた。即座に反転させて押さえ込みそうになったが、そうしたら押し倒すみたいな形になってしまうと判断して止めた。確かに鷹田は美人だ。しかし、しかしだ。俺にとって、男はあり得ないのだ。本当に端整な顔立ちをしているから、青芝管理官の心が揺れ動いたのが分からないでもない。いや、あの変態は俺にすら要求してくるのだから別か? だけどまた何で鷹田は、平凡な俺に迫ってきたんだよ……。俺と青芝管理官の二択なら、多くの者は、管理官を選ぶと思う。性格か? 俺は良い上司だったのか? だとすれば嬉しいな。いやしかし、鷹田が同性も平気だとすると、本当に強姦だったのか、合意だったのか(そう言うプレイだったのか)、分からなくなってくる。何せ鷹田は左遷されていないのだから。普通は、被害者の方も左遷される。まて、今はそれは良い。鷹田は、本当に男が好きなのか? しかも俺のことが好きなのか?
俺はじっと鷹田の目を見た。澄んだ瞳が、潤んでいた。熱を孕んだ眼差しが俺を捉えている。だが――……俺には、とても本気には見えなかった。勿論これは、ただのカンなのだが。やはりこれでも俺には、何故なのか、本気度が分かるのだ。
「鷹田、お前の意図は分からないが、好きでもない相手に、そういう事は言うな」
もしかしたら、体で謝罪をしようとでも考えているのではないかと思い、俺は鷹田の体を押し返した。するとあっさりと腕が離れた。鷹田は俯いている。泣いているようだった。え、俺は泣かせてしまったのだろうか。仮に俺のカンが外れていれば、酷いことを言ってしまった形だ。所詮はカンだ。鷹田が震え始める。どうしよう。慌てていると、声が漏れてきた。
「ははっ、よく分かりましたね。流石は副管理官だっただけはある」
続いた声に俺は息を飲んだ。しかし気づかれないように、冷静であるフリをした。何故鷹田は笑い出したのだ。俺をからかって楽しんでいたのか。クビになった俺を嘲笑しに来たのだろうか?
「ニート、おめでとうございます」
「ッ、俺は――」
「NEET国にご招待いたしますよ」
「……は?」
「僕はNEET国からのスパイなんです。仲神副管理官、貴方は”NWα”の生き残りでしょう? あの事件の詳細は、日本にしかない。それも当時の第一班、要するに貴方と青芝管理官の二人しか知らないんだ。そこまでは調べがついています。その情報をこちらに渡して下さるのであれば、NEET国での地位を保証いたします。勿論仕事も何もかも。防衛の責任者として、ずっと引き抜きたかったくらいです。仕事の腕が確かなのもずっと春から見てきましたし。もしも”NWβ”の事も何か知っているのであれば、話して下さい」
俺は一気に言われ、まず理解することに努めた。鷹田が……スパイ? 絶対そんなもの、存在しないだろうと俺は思っていたのだが。いたのか。これは、冗談ではないのか? だが、”NWβ”の名称まで出てきた。あの青芝管理官が機密情報を、簡単に口にするだろうか?
まぁ俺の前で、簡単に口にしてはいたが、あの部屋はアレでも完全なる盗聴機対策が施された部屋だし、あの時俺達の周囲には誰もいなかった。一定距離を保つと、あの部屋の会話は、その場以外には聞こえなくなる仕様だから、偶然耳に入る事はあり得ない。
「これから絶望的な無職生活を送るよりも、最高のニートになりましょう。老後も安心ですよ。NEET国も高齢化は進んでいますが、その分対策も豊富です」
鷹田が高笑いしていた。俺は冷静になろうと思い、カップを手に取った。一口飲んだ珈琲は美味しい。我ながら上手く淹れられた。老後も安心、か。俺は、歳をとっても珈琲を飲み続けたいな。煙草はきっとさらに値上がりするから無理になるだろうが。
「鷹田……」
「はい」
俺が手を差し出すと、ちょんと鷹田が手を乗せようとした。早く楽になろう。
瞬間、鷹田の手首を掴み、俺はソファの上に押さえ込んだ。顔をソファに向かせ、背中に両手を回させて、片手で鷹田の両手を押さえる。後は足で動きを封じた。やっぱり、スパイは良くないと思うのだ。俺は確かに老後は不安だ。仕事だって、正直面倒だと思っていた。だが、それでも俺は、自分の正義感だけは変えられないのだ。それは約束された老後よりも大切なモノなのだ。そのまま、ジャージのポケットに入れていた支給品の電話(引き継ぎのためにこればかりは持たせられていたが、一度もかかってきたことはない)のボタンを押し、記憶していた青芝管理官の番号を押した。大地に連絡するのと迷った。しかし、”作戦:NW”がらみならば、確実に管理官に知らせなければならない。管理官は、鷹田に誘惑されている可能性があるが。
『青芝だ』
「ご無沙汰いたしております。鷹田がNEET国のスパイでした。現在自宅で拘束しています。狙いは、N……青芝管理官と私です」
”NWα”の名は出さない方が良いだろうと判断して、それにこう言えば伝わるだろう言葉を選んで、俺は告げた。
『分かっている。盗聴していた』
「ッ」
『今突入する』
電話越しと玄関から、同時に俺は扉が開く音を聞いた。
視線で完全に玄関が封鎖されたのを確認し、周囲を嘗ての部下達が包囲していくのを見守る。ああ、俺もひげくらい剃っておけば良かった。後悔先に立たずだな。そして鷹田が確保された。こちらを見据え、鷹田が眉間に皺を刻んでいた。
「……何故ですか? 今後一生惨めな生活を送ることになるのに」
無駄な正義感があるからだとは言えなかったので、俺は沈黙した。沈黙もまた俺の正義だ。そして代わりに鷹田に聞くことにした。
「どうしてNEET国のスパイになんてなったんだ?」
「っ、それは……俳優を志して、だけど、なれなくて、ニートになりかけた時に……救ってもらったから。僕、演技だけは得意だし、その時は大学にまだ籍があったから、スパイに志願したんです」
まぁ、そう簡単に夢は叶わないだろうなと思った。俺の夢など……正義の味方だったな。案外叶っているのかも知れない。いや、叶っていた、か。既に過去形だ。そこへ青芝管理官の笑い声が響いた。
「その程度の挫折で、救われた? 馬鹿な奴だなお前は――この世界には、本当に救って欲しいのに、それが叶わない人間が、いたんだよ……!」
「青芝管理官、止めて下さい。誰にだって挫折も闇もあります」
笑っているが、激怒している管理官の声に、俺は思わず上司の腕を引いた。
作戦”NWα”で、同僚が亡くなった時のことを俺は思い出した。あの時の青芝管理官は、笑いながら泣いていたのだったか。普段は無表情のくせに。
すると俺を見て、青芝管理官は、その普段の表情に戻った。
「連行しろ」
静かにそう告げる。部下達は皆、それに従った。残った数人は、俺の部屋から盗聴器を外している。俺のニート疑惑で設置されていたのだろうか? 首を捻っていると、深々と息を吐き、青芝管理官が、真新しい煙草を一箱俺に投げた。受け取る。
「疑って悪かった」
「まぁ……ニートだと疑われても仕方のない状況ですので」
「違う。仲神のことも、スパイかもしれないと考えていたんだ」
「――え?」
純粋に驚いて、俺は表情を変えてしまった。目を瞠る。
「鷹田がスパイだと言うことは分かっていたんだ。ただ証拠が無かった。それであの日、籠絡して口をわらせようとした時に、お前が来たんだ。助けに入ったものだから、疑念が沸いた。まさかお前に限ってそれはないだろうと思って、今度はお前に直接聞くことにしたんだ。体に。そうしたら殴られたからな、疑惑が強まった」
いや、いやいやいや、色々とおかしい。普通あの状況なら、助けに入るし、殴るだろう。大体なんだよ……
「……体に聞くって……」
「既にお前が鷹田に陥落させられている可能性もあったからな。これでも、ハニートラップには長けているんだ、私は。それに経験年数も回数もある。あっちの方には自信があるんだよ。私は上手い」
そう言えばあったらしいな、そんな制度。使っている人間がいるとは思わなかった。
しかしすごいな。何がって、その自信がだ。自分で上手い自信があるのか。
だが確かに、上手かったしな……。きっと、おっさんテクで天国を見せられるタイプなのだろう。いや、おっさんではなく、ダンディな紳士(母親談)だったな。
「後、一つ言っておくが、私は下は無理だ。アレはお前を動揺させるために言った」
「分かっています」
目が本気ではなかったからな。
「それにしても、鷹田の側の証拠が無くて困っていたんだ。今回は、本当に助かった。お前の側に悪い点は無かったから、電話が無ければ違法盗聴で、突入できなかった。本来であれば、お前はまだニート疑惑すら出ていない失業規定日数範囲内なのに、無理を通して設置していたんだ。電話をもらって嬉しかった」
規定日数の存在などすっかり忘れていた俺は、苦笑いしそうになった。しかし真剣そうな顔を保った。表情を引き締める。
「何故私に電話をくれたんだ?」
「管理官なら、既に理由をご存じでしょう?」
勿論、”NWα”及び”NWβ”がらみだからだ。作戦:ニート・ホワイト関連だからだ。
「長年の信頼関係と――……愛か」
「……はい?」
「私も仲神のことを愛している。お前は絶対に裏切らないと、どこかで信じていた。取り押さえてくれることも……信じていた」
いや、さっきまで疑っていたと言っていただろうが。第一信頼関係は、こういう時、場を取り繕うために使うだろうから良いとして……愛だと……? どういう意味だそれは。
俺が何か言おうとした時、じっと青芝管理官が俺を見た。なので、何も俺は言わないことにした。確かにその瞳は、本気だった。とりあえず、鷹田の件は嘘じゃないと思う。だが、愛? 愛とはなんだ? 意味が分からない。分かりたくもない。
そのまま踵を返すと、青芝管理官は帰っていった。俺は、煙草に火をつける。美味かった。
それから俺は、ノンキャリエリートとして再び、第一防衛部に戻してもらえた。全てはおとり捜査として片づけられたのだ。何でもありだからな……”VSNNDF”は。兎に角無事に復帰できて、俺は安堵した。これで老後の心配も大分減ったしな。本当に良かった。
――けれど、良くないことが一つある。
「……おはようございます、青芝管理官」
「おはよう、仲神。愛しているぞ」
俺は朝の挨拶のため腰を九十度に折ったまま、顔を引きつらせた。
あの日以来、青芝管理官は、俺に愛していると言い続けているのだ。困ってしまった。何の嫌がらせだ。まだ、俺は疑われているのだろうか。何度もそう思って直接聞いたが、本気の瞳で、「ただ本心を告げているだけだ。愛している」と言われるのだ。俺は心臓が痛い。勿論、嬉しいからなどではない。対応に困っているのだ。その上、俺の帰宅に合わせて、定時であがるようになってしまった。
「あの、誠に恐縮なのですが、俺は自宅に入りますので、お帰り願えますか?」
「中に入れてくれ」
「お断りします」
「どうして? これは、上司命令だ」
「ッ」
ここ連日繰り返されているやりとりだ。三回に一回くらいは、それでも青芝管理官は頷いて、職場へと戻っていく。しかし今日は、『上司命令』を出してきたから、中に入ると言うことだ。最悪だ。中に入ると、最近の定位置と化したソファに背を預けて、管理官が膝を組んだ。俺は無言で珈琲を淹れる。それを差し出すと、微笑まれた。最近無表情を見ない。大地いわく、溢れる愛ゆえだろうとの事だった……嘘だろう?
だが青芝管理官は、ここに来ると大抵同じ話をする。
「作戦で同じ班になった時に、一目惚れしていたんだ、今思えば。お前の強さと、そのまっすぐな瞳に。だからすぐに部下として引き抜いた。二人で生き残ったからじゃない、お前が良かったんだよ、仲神。だがな、何度も私は失望させられた。お前、仕事は的確で予想通りだったのに、私に大して腰が低すぎた。作戦の時の鋭さの欠片も無かった。帰宅すると少しはあるが――それも見たくて、私はここに来ているのかもしれない」
「……飲んだらお引き取り下さい」
「いいや。今日こそ、答えてくれ。恋人になって欲しい」
「いえあの、毎日お断りしていると思うんですが」
「――こうしても、まだ言うのか……?」
俺は、あっさりとこの日も下衣を降ろされた。目眩がした。そうして咥えられる。ああ、もう……俺は泣きたい。この部屋へとやってくると、あの手この手で、青芝管理官は口でしてくるのだ。最近では、俺はこの感覚が若干気持ちいい。それもあって、部屋に入れるのが嫌なのだ。職場ですら、青芝管理官を見ると、時折体が熱くなってしまう。そもそも俺にはもう、連日出すような体力は無いというのに。いや、出しているのだから、あるか。あるよな? あった方が良いよな? そんな事を考えていると、舌先が蠢いて、俺の先端をチロチロと嬲った。声を飲み込み、きつく目を閉じる。まずい、腰が震えそうだ。
しかしこの快感は、ただの生理現象だと思う。
確かに青芝管理官は格好いいし、思い返してみれば長年一緒だったので様々な表情や仕事ぶりを見てきたし(ハニートラップ以外)、何より同じ班にいた時は、憧れだった。だがそれはあくまでも、憧憬や尊敬であり、愛があるとすれば敬愛だ。そうだよな?
そういくら念じても、部屋にこうして帰ると、俺は考えてしまう。俺は好きな相手でなければ、あまり反応しないタイプなのだ。だから、カノジョ達とも長く続いた気がする。浮気もせず一筋だった。だが今現在、俺は咥えられて、先走りの液を吸われている。言いしれぬ快楽がはい上がってきて、俺は悩んだ。この気持ちの良さは、本当に生理的なものなのか? 俺はどこかで、嫌いだと思っていたが実は、青芝管理官のことが好きだったのだろうか。勿論嫌いだったと言うことは、意識はしていたと言うことだ。だが、好きだったのかと聞かれると回答は出ない。好きだった部分、好きな部分もあるというのが正解だろう。そして現在好きかと聞かれたら、全く分からない。職場にいるとあり得ないなと実感するのだが、こうして二人になると、昼間とは違った意味で、胸が疼くのだ。
熱心に青芝管理官に、俺が作戦時にどんな行動を取っていたか、これまでの仕事で何をしてきたかを語られた時は、純粋に照れた。ただ、どの表情が可愛いだの、煙草を吸う仕草が好きだの、目に惹き付けられるだの、その……愛しているだのと言われると、非常に心臓が騒ぎたてるのだ。俺は、こんなに心臓に悪い人を他には知らない。
「ッ」
考え事をしていたら、口の動きが速くなって、現実へと引き戻された。
それから果てそうという時になって、いつもと同じように唇が離れる。
「俺の恋人になってくれ。そうしたら、気持ち良くしてやるから」
「……」
これもハニートラップの手口なのだろうな。けれど青芝管理官の瞳が真剣なのが困る。本気度が強くて、見据えられると、気圧され飲み込まれそうになる。しかし俺は好きでもない相手の手で果てることなどしたくはない。なのでいつも一人で、トイレへと行く。だが今日は悩んでしまった。俺は確かに、果てそうだった。そして、それは肉体的な問題ではなく、青芝管理官が相手ならば、そうしても良いような気がしてしまったからだ。
ただ仮に、本気で青芝管理官が俺のことを好きで、それが昔からだったとする。そうすると疑問がわき上がってくるので、俺は聞いてみることを本日は決意した。
「青芝管理官、お尋ねしても宜しいですか?」
「なんだ?」
「これまでの間に、恋人が何人もいたり、ご結婚されたりしておられますよね」
「全て、ハニートラップ作戦でな」
本当か。あり得るのか、そんなこと。
「最初の恋人だけは、仲神にどこか似ていたから、告白されて付き合ってみたんだ。けどな、結局お前を忘れられなかった上に――そいつは、スパイだった。捕まえて強制退去させた。左遷という扱いにしてな。以来だ、私と寝ると被害者が左遷されるという噂が立ち始めたのは。お前もそう思われてるぞ」
「え」
俺はその噂は知らなかった。単純に、被害者の方が左遷させられているのだと思っていたのだ。しかも、俺もそう思われているだと? 確かに、俺は左遷されたが。なんだって?
だとすると周囲は、俺と青芝管理官が既に寝たと思っていると言うことか……?
「私が毎日あれだけ愛していると言っているのだから、もう施設全体に私とお前が恋人だという話は広まっただろうな。しかも呼び戻した上に、直接人前で私がそんなことを言うなどとは、本命以外だとは誰も考えていないだろう。お前を狙っていた人間達も、私が相手だ。流石に諦めただろうな」
俺を狙っている人間がいたのか……ハニートラップか?
「それだけ私は、お前のことが好きなんだ。皆にそう思わせたいくらいに、な。今回お前が巻き込まれて、実感した。もう、諦めることも離れることも出来ない。ただ職場で顔を見られるだけでも良いと思っていたはずだったんだが……無理だ。愛している」
俺は流されることはない。自分の気持ちに正直に生きる。真剣な眼差しで告白され、俺も真剣に答えを探した。だが、答えは出ている気もした。
なぜならば、自然と口の方が先に動いていたからだ。
「俺も好きだ」
「!」
「と、思います」
デフォルトの方の口調で告げていたので、慌てて敬語を足した。青芝管理官の瞳が本気だという事は、もう確信していた。俺のカンはやっぱり当たると思うことにする。すると喉で笑われた。
「良かった。ずっと、断られるのが嫌だったんだ」
「毎日断っていましたが」
「だからそれが嫌だったんだ。本音を言えば、辛かった」
悪いことをしてしまったなと思う。そう考えていた時、掌を差し出された。
飲み薬が乗っていた。
「飲んでくれ。座薬は私が入れるから」
いや、それは流石に急展開過ぎると思う。
「俺は序々に進展するタイプなので、それはちょっと……」
「もうお前が欲しくて仕方がないんだ、仲神」
「本当に好きなら、待って下さい。待てるよな?」
「……っ」
「今、今すぐ待って退かなければ、俺は好きじゃなくなる」
俺は動揺して、ついつい普段の口調が出た。気づけば眉間に皺を刻み、青芝管理官を見据えていた。すると苦笑された。
「そう言う口調のお前の方が、私は好きだ」
「……そうか」
「なぁ、私の配偶者になってはもらえないか?」
「……八人目の?」
「今度こそは、本物の結婚を私はしたい。人生最後に。最後まで共に生を歩みたい」
「だったら、薬の前に指輪と結婚届を渡すべき何じゃないのか」
「どちらも鞄に入っている。今すぐ渡そう」
「いや……いいけど」
用意が良すぎると思った。
「何故だ? 順を追うのならば、今愛の言葉を交換したのだから、次に指輪を渡して、結婚届を書いて、体を重ねればいい」
「……え、ええと」
確かにそう言う順序なのかもしれない。結婚したことがないので俺には分からないが。何か他に、兎に角今断る方法は無いだろうか? まだ怖いのだ。男同士なのだから。恋心にだって今気づいたばかりなのだし。
「け、結婚式をしていない! 結婚届も提出して受理されていない!」
「ならば明日提出するから今すぐ書け。式場の予約はすぐに取る。いつが良い? 私はこれでも多忙だから、明後日か一週間後か、どちらかにしてくれ。そのどちらかしか、丸一日時間がとれる日はない」
「いやあの一年後とかで……ほ、ほら! ゆ、結納!」
「いつの時代の話だ」
「俺の実家は格式を重んじるんだ。お茶を出したり! いつも、珈琲を出しているだろう!? そうだよな!? そ、そうだ、両親に挨拶も!!」
「ならば、一年後の今日、結婚式だ。いいな? そしてご両親に挨拶し、婚約。結納も済ませた後に、結婚しよう」
「ああ」
「――案外あっさり、言質が取れたな。同意がこんなに簡単にとれるとは思わなかった」
「え?」
上司はそう言うと、レコーダーを取り出した。
青芝管理官の声が響く『結婚しよう』……俺の声が再生される――『ああ』。
何度も再生される。聞きたくなくて、耳を両手で塞いだ。何をしているんだ、この人は。
「最初からプロポーズして、同意をもらうことを目的としていた」
「待て、待ってくれ、これは言葉のあやというか……」
「何も聞こえんな。明日これを公表させてもらう。招待状も手配する。私のことが好きなんだろう? 何も問題ないだろう。少なくとも今日からは恋人同士だ。それだけでも嬉しい」
本当に青芝管理官は、横暴で、嫌な奴だと改めて思った。
恋人で満足しておけよと思ってしまう。
だが……それでもやはり、俺は一緒にいるのが自然な気がした。ここまできて、ハニートラップだったらと思うとちょっと怖いが。
体を重ねたのは、それから三ヶ月後のことだった。
青芝管理官いわく、付き合って三ヶ月なら十分、進展を見せる段階に来ているだろうとのことで、俺は断りきれなかった。その上、何度も口でその頃には果てさせられていたので、良いかなと思ってしまったのだ。
なので俺は素直に服薬した。甘い薬で、舌の上で溶けた。
全裸になって、俺は寝台に横になった。
すると、ゆっくりと青芝管理官が、俺の後孔に座薬を押し込んできた。
「キツイか?」
「……っ……ん、平気だ」
そうして俺は、男同士での初体験をしてしまった。俺の方が体格が良いのに受け身だった。そして大層、青芝管理官は上手だった。ちょっと衝撃的なくらい、上手かった、のだろう。他と比較できないので分からないが。声を出さないように、必死で堪えたが、それでも時折漏れた。
「ッ」
詰めた息が苦しくなって、俺は荒く呼気した。
「全部入ったぞ」
すると青芝管理官が実況する。言わなくて良いのだ、そんなことは。
「ン」
しかし何か言おうと思ったが、そうするのは無理なほど、ギチギチと広げられている感覚がした。痛みはないが、辛い。
「動くからな」
「……んっ、ッ――――!!」
結局、俺はその日の後も何度か体を重ねる内に、後ろでの快感というものも知った。青芝管理官に開発されてしまったのだ。
その後俺達は結婚した。
五年経ったが、俺が逮捕される気配はない(当然だが)。
ハニートラップでは少なくとも無いのだろう。
これからも俺達は二人で生きていくのかと思うと、とても不思議な気持ちになってくる。
ただこの関係が俺にとっての、新しく始めた最後のことだった気がする。
どこまでも一緒に歩んでいきたいと思った。そんなことを考えながら、俺は煙草の火を消す。煙草の煙が、天井へと伸びて、消えていったのだった。