僕達は恋人ですらなかった。



 ――光る、フラッシュ。
 新しい研究論文が、国際的に認められた。その授賞式から戻った僕を、飛行船が着陸した空港で待ち構えていたメディア関係者が、撮影し、マイクを向けてくる。僕の一歩前を歩く海藤が、その全てをシャットアウトしてくれる。

「会見は後ほど行いますので」

 僕は海藤の後ろに隠れていれば良い。
 時は、十九世紀。
 このハポネス帝国において、多元時空物理学の研究を行っている僕は、現在二十四歳だ。元々、僕の両親も多元時空物理学の研究者だった。ただ、母は招爵された大名華族の令嬢で、父は舞台俳優もしていた。そんな二人は大学で出会い、駆け落ちした。そうして生まれたのが僕だ。既にその両親も亡いが、二人は自宅に研究室を残してくれた。

 両親が没した時、僕は十三歳だった。
 以後、義務課程のギムナジウムに通いながら、僕は孤独に帰宅しては両親の研究を世に出すべく引き継ぎ続け、卒業後には専門の帝都大学に進学した。そして多元時空物理学研究のゼミに所属していた大学二年時に、論文を最初に認められた。以後、大学院の修士・博士過程まで、半年ずつスキップしながら進み、二十二歳の時、博士号を取得して、帝都大学大学院を卒業した。その後、同じ研究室だった海藤の生家が経営する、時空物理学研究所に引き抜かれる形で就職し、二年間の集大成として、両親の基礎研究を土台にした上で己の理論をしたためた所、この度評価されたという次第である。

 海藤湊は、僕とギムナジウムの頃も一時期一緒だったらしい。だが、僕が海藤の存在を認識したのは、帝都大学に入学した後だ。僕は研究に必死だったから、同級生の顔なんて一つも覚えてはいなかった。ただ、悔しいという一心で、両親の研究成果を守る事に打ち込んでいた。

 僕の両親は暗殺されたのだ。
 今でも鮮明に覚えている。
 葬儀の場に咲き誇る白い百合、遺体の入っていない棺が二つ。父母の体は損壊が酷かったそうだ。あの日から、僕は独りだと自分自身に対して考えていた。

 そんな僕が海藤の存在を知ったのは、入学式後の学部全体のオリエンテーションの後で、たまたま体がぶつかった時だった。帰宅し、その日も研究をしようとしていた僕は、その時急いでいた。その結果、角を曲がってきた海藤とぶつかった。体勢を崩しかけた僕を、海藤が抱きとめて、そこで僕は顔を覚えた。多分、「久しぶりだな、これからも同じ学校で嬉しいぞ、水波」と声をかけられたから、驚いたのだったと思う。見知らぬ人物が、僕を知っているというのが、意外だった。

 以降、同じ講義がいくつかあって顔を合わせると、海藤は僕に笑顔で挨拶してくれた。しかしその時点では、僕にとっては海藤はその他大勢の一人だった。海藤の事を再認識した次の機会は、スキップした僕が、上級生だらけのゼミに入った時、そこに海藤がいたからで、呼ばれるようになっていた院の研究室に、海藤もまた呼ばれていたからだ。

 海藤の両親は、研究者ではない。代わりに、資産家だった。
 落ちぶれていく華族が多い中にあって、商売に成功し、この帝国内でも存在感がある家柄だった。海藤家の名を知らない者は少ない。最近始まった歯車式中継紙芝居においても、CMを見ない日がないほどだ。

 歯車式中継紙芝居は、一昔前の白黒テレビを一掃し、今では薄型のモニターを空中展開する形でリアルタイムで見たい時に視聴可能な、量子物理学分野の最先端の品だ。この分野にも、海藤家は力を入れていた。寧ろそちらが主要かと思っていたのだが、『これからは多元空間物理学だ』と、海藤財閥の会長と孫である湊の見解が一致し、そちらに力を入れようとしていて、海藤本人も国内の最高学府でそれを学んでいた所、僕と一緒になったらしい。

 僕はスキップし、海藤は逆に家の仕事で少し休学などをした結果、海藤が修士を取って卒業するタイミングと、僕が博士号を取って卒業するタイミングがかぶった。その間ずっと研究室自体は同じだったので、気づくと、僕と海藤は一緒にいるようになっていた。海藤は僕より三歳年上だ。

 現在二十七歳になった海藤は、僕が所属する事になった研究所の若き所長をしている。あっさりと研究職からは退き、経営側に回った。それでも、常に僕が迷った時は、理論や実験について耳を傾け、場合によっては意見をくれる。そしてホムンクルスに頼りっきりで家事など出来ない僕の為に、たまに料理までしてくれる。所長なのに、普段は僕の秘書の真似事までしてくれるほどだ。

 海藤は、僕のそばに、気づいたらいたというわけだ。
 それがいつからだったのか――あの日肩がぶつからなければ、あるいはその後、同じゼミにならなければ、いいや、研究所に就職を決めなければ……多元時空物理学において、『歴史の分岐点』という概念は、既に一般化されている。そうである以上、どこが明確な契機だったのかだなんて、論じる方が愚問なのかもしれない。結果は、現在だ。今は、今だ。

 その後、海藤に先導されて、僕は黒い外車に乗り込んだ。
 まだハポネス帝国内に、自動車は数が少ない。多くは馬車だ。その少ない自動車を何台も所有する海藤家の資産力は、本当に恐ろしい。

「ふぅ」

 車が走り出してすぐ、海藤が首元のネクタイを緩めた。そして黒い前髪を撫で上げるようにした。僕はそれを一瞥してから、腕と膝を組んだ。

「嫌になるな、こうも騒がれると」
「それだけ水波の事が認められていると思うと、俺は嬉しいけどな」
「……そう? そっか。それなら、良かったよ」

 僕は視線を下げて、火照りそうになる頬に困ってしまった。
 孤独だった僕のそばに、いつの間にかいた海藤。
 現在僕は、海藤に褒められると胸が疼くようになってしまった。

 端緒こそ、両親の研究が認められるように、あそこで潰えてほしくない一心で、研究に励んでいたのに、今では動機が変わってしまった。僕は、海藤に褒められたくて、日々頑張っているのかもしれない。

 記者会見は、明日行う事になっている為、僕達はそのまま、旋回住宅型の海藤の家へと向かった。セキュリティ上の関係として――実際には、ホムンクルスがいないと何もできない僕を心配して、海藤が、僕の就職以後、海藤家の一室を僕に貸してくれたのだ。僕は、海藤と一緒に暮らしている。両親が残してくれた家には、定期的に戻るし、今もホムンクルス達がいるが、普段の僕の家は、既にこちらだ。

 海藤の家も、使用人はホムンクルスのみだ。
 だから生きている人間は、僕と海藤だけ――研究所所長と、その研究所で一番成果を残している僕の同居生活は、特に不思議がられる事もない。エド時代という古の頃より、ハポネスというこの国では、結婚とは切り離された場所で同性愛が多いため、男同士の二人暮らしを疑問視される事もない。ホムンクルス達は、皆、海藤家では人形じみたのっぺらぼうをしている。口だけが存在する。ぬいぐるみみたいな容姿の彼らに出迎えられて、僕と海藤は、部屋に入った。

 そして玄関の自動鍵が閉じてすぐ、海藤が僕を抱きしめた。
 例に漏れず、僕と海藤も同性愛関係だ。最初に僕を押し倒したのは海藤だったが、僕は拒まなかった。その頃には、衣食住仕事研究その全てにおいて、僕は海藤に依存していた。海藤がいなければ何も出来ない人間に成り下がっていた。だから、僕の細いだけの貧相な体で満足するならばと、素直に押し倒されてキスを受け入れた。

「ん」

 玄関先で何度も何度も唇を貪られた。僕は海藤の体温が好きだ。
 舌を追い詰められて絡めとられ、甘く噛まれた時には、僕の腰から力が抜けた。

「寝室に行きたい」
「ぁ……」

 耳元で囁かれ、耳朶を甘く噛まれた頃には、僕はもうその気だった。


 ――寝室に移動してすぐ、僕の着ていた上質なスーツを、乱暴に海藤が乱した。背が高く肩幅が広い海藤は、巨大なベッドに僕を押し倒すと、ネクタイを投げ捨ててから、背広を脱ぎ捨てた。そして荒々しく僕の首に噛みつくようなキスをした。

「んン」

 ツキンと疼いて、キスマークをつけられた事が分かる。
 半ば引き裂くようにシャツを開けられ、その後は両方の胸の突起を愛撫された。
 既に僕の体は、それだけで感じる。
 何度海藤と寝たかなんて記憶すらしていないし、それは夜毎、毎夜、繰り返しだ。

「ぁ……」

 海藤が香油の瓶をたぐりよせ、手にオイルを垂らす。そして僕の後孔を指で解し始めた。

「水波は、本当に美人だな」

 僕の上にのしかかりながら、海藤が言った。海藤は、いつも僕の顔を褒める。確かに、メディアにおいても僕は、『若き天才』だの『美貌の研究者』だのともてはやされている。だがそんなのは世辞だと思う。僕の中で価値があるのは、海藤の言葉だけだ。

 いつの間にかそばにいた海藤に、僕は依存している。
 あるいはそれは、『恋』という名前をつけても良いのかもしれない。

「っ……ぁ……ァァ」

 解す指の動きが焦らす手つきに変わった時、ついに僕は声を堪えられなくなった。
 無性にそれが恥ずかしくて、片手で唇を覆う。

「挿れるぞ」
「んン――ぁア」

 巨大で硬い熱が、僕の中へと挿ってくる。僕は必死で息をした。海藤の事しかしらない僕の内壁が、押し広げられていく。いつまで経っても、挿入の衝撃には慣れない。

「あ、あ、あ」

 今日の海藤はいつも以上に荒々しくて、一気に根元まで突き入れると、腰を激しく揺さぶった。その度に僕は嬌声を零す。

「締めすぎだ」
「あぁ、待っ――あああ」

 制止しようと試みたが、僕の前立腺をこすり上げるように貫いてから、その後最奥をえぐるようにされ、僕の体はぐずぐずに蕩けた。必死で海藤の体に両腕をまわす。そしてギュッと目を閉じた。

「あ、ハ……っ、ぅ……あ、あ、ア!」
「綺麗だ、水波」
「や、ぁ……ダメだ、もう出る」
「いくらでも、な。ただ、俺はまだだぞ?」
「あ、あああ!」

 そのまま激しく抽挿されて、呆気なく僕は果てた。中を刺激されるだけで絶頂に達するように僕の体を作り変えたのは、紛れもなく海藤だ。僕はぐったりしながら、こめかみに張り付いてくる黒い自分の髪の感覚に泣きたくなった。気持ち良すぎる。こんなSexは卑怯だ。僕の呼吸が落ち着くのを待ってから、再び海藤が動き始める。

 この夜僕達は、散々交わった。


 ――翌朝、気怠い体を引きずって、僕はシャワーを浴びた。体の処理自体は、海藤がしていてくれたから、僕はただ、キスマークだらけの自分の体に赤面しながら、頭から温水をかぶっていただけなのだけれど。

 さて、本日は記者会見がある。
 二人で海藤家の自動車に乗り込み、僕らは研究所へと向かった。
 そして会見予定時刻を待つ。

 僕は車内で、何度か海藤の横顔を見た。海藤は異国の新聞を、歯車モニターで見ている。僕の視線に気づいた様子は無い。

 別段、僕と海藤は、恋人同士ではない。
 世間でよくある同性愛――双方いつかは女性と結婚するのだろうが、それとは別枠にある、古来衆道と呼ばれたような関係に過ぎない。つまりは、肉体関係のみという事だ。僕は己の好きだという想いを海藤に告げた事は無いし、海藤からも言われた事は無い。

 世の中には、男同士の愛を貫き通す者達もいると聞くが、大財閥の次男の海藤に、それを強制するのは無理だろう。政略結婚は、必ずある。ただ僕は、僕には、海藤しかいないから、いつか海藤が結婚して、僕が用済みになった後も、出来るならばたまに会いに来てほしいなと感じている。

 自動車が停まり、研究所へと着いた。そこにもメディア関係者が大勢いた。
 先に車から降りたのはいつもの通り、海藤だ。
 その後に僕も従う。

「会見は、予定時刻に」

 そう繰り返しながら、警備員に指示を出して、海藤が僕を先導する。
 螺旋状の動く機械階段に乗りながら、海藤が僕に手を差し出した。おずおずと、僕は手を載せる。

 ――ダン、と。
 音がしたのは、そんな時の事だった。最初、僕は何が起きたのか分からなかった。次の瞬間、僕は抱きすくめられている事に気が付いた。僕を抱きしめ……いいや、正確には庇った海藤は、そのまま僕を無理に押し倒した。

 その後、二発続いた音で、僕はそれが銃声だと理解した。
 恐る恐る右手を見れば、血で濡れていた。僕の体にかかる重みは、目を伏せている海藤のものだった。海藤の背中が、いいや、胸が、鮮血で濡れている。

「あ……」


 ――その後の記憶が、僕には無い。
 海藤が救急車に載せられて、僕は警備員に避難させられて、それで?
 気づくと夕暮れになっていた。記者会見は中止となったのだったか?

 僕は、一人きりで、研究室にいた。
 窓から差し込んでくる西日を背に、僕は電子レンジに似た次元時空物理学の理論を応用した試作機を見ていた。足音がしたのはそんな時だった。研究室の外を誰かが歩いていく。

『ま、海藤所長も残念だよな。あの傷じゃ助からないだろ』
『え? まだ生きてるのか? 心臓掠ったんじゃないのか? 二発目は頭』
『らしい。無理に蒸気機関臓器で延命しながら、意識の回復を待つとはいえ、さすがに無理だろ』
『残念だなぁ。いい人だったのに。っていうか、狙いはあれだろ? 水波博士』
『みたいだな。海藤所長としか話さない、なんていうか麗人とはいえ冷たーくお堅ーい感じの。世界の発展的には庇われて良い人かもしれないが、俺は個人的には海藤所長が惜しくて仕方ないね』
『言ってやるなって。多元時空物理学は、ほらさ? タイムリープ理論で、倫理的問題が常に話し合われてるわけでさぁ』
『今回の狙撃自体が、その論文が国際的な評価を得たからだろ、何せ水波博士のご両親だって、その草案で同じ目に』
『歴史の改変ではなく、世界は多数存在するって理屈は、証明するには中々なぁ』

 外を歩く二人組は、そんなやりとりをした後、階段を下りていったようだった。
 多分、僕の顔面は蒼白だっただろう。

 ――実を言えば、まだ論文を公開してはいないが、僕の目の前の電子レンジみたいな箱は、タイムリープを可能にさせる機械だ。既に、僕と海藤しか知らないが、実験には成功している。ただし、二つ問題がある。

 一つ目は、タイムリープ先の時空を選べない事だ。
 対象の指定は可能だが、何時何分何秒という指定が出来ない。これは、地軸の関係だと推察されるから、近い将来、解消可能かもしれないが。

 二つ目は、タイムリープした人間は、タイムリープ後の世界しか歩めない。
 最初の現代――タイムリープ後の未来には、戻る事が出来ない。
 これは歴史が多数存在し得る証拠でもある。

 現在は三つ目の、二者が同時にタイムリープした場合の意識状態の研究中だった。

「……」

 僕は座りこんだ。
 怖くて、海藤の状態を確認するために、病院に連絡する事も出来ない。
 だが、外を歩いていた二人の話が本当であり、僕の手を濡らしたあの血の量が僕の錯覚でない限り、海藤は助からないはずだ。

 海藤がいない世界で、果たして僕は呼吸が可能なのだろうか?
 いいや、無理だ。
 僕に思いつく方策は、一つきり。

「タイムリープ……」

 海藤が狙撃される前に戻れば良い。僕が、海藤を庇えば良い。ただ、それだけだ。
 元々、狙われたのは僕だ。そして目の前には、装置がある。
 そして僕は、今の世界に未練は無い。海藤が死んでしまう世界になんて、興味は無い。

 両親が没した時ですら、これだけは、僕は考えなかったのに。
 今、僕の両頬を温水が濡らしているのは――やっぱり、僕が海藤を好きだからだ。

「絶対に、海藤を助ける」

 僕は、一人きりの研究室で、ぽつりと呟いた。
 タイムリープに必要なものは、『時間にかかわる思い出の品』となる。
 腕にはめていた時計を、僕は外した。これは、僕の父が誕生日に与えてくれた品だ。
 十歳から二十四歳の今にいたるまで、この十四年間、ずっと僕が身に着けていた。これを電子レンジに似た装置に放り込んで、多元時空物理学を用いたスイッチを押せば、僕は過去に戻れる。任意にとはいかないが、今日の半日よりもそれ以前の十三年以上の期間の方がタイムリープ先に選ばれる確率は高い。

 迷わず装置に、僕は時計を入れた。



 ――ドン。
 僕は尻もちをつきかけて、誰かに抱きとめられた。
 急に真っ青な空の下に変わった視界、成功したのかと狼狽えた時、正面に――海藤の顔が入った。

「大丈夫か?」

 僕はこの風景を知っている。少し若い海藤の顔も、よく見おぼえがある。

「久しぶりだな」
「……」
「これからも同じ学校で嬉しいぞ、水波」

 この台詞を、僕は知っている。
 そうだ、これは、帝都大学で再会したあの日に聞いた言葉と同じだ。

「立てるか?」
「……」
「顔色が悪いな。念のため、保健室まで送るか?」
「……平気だ……」
「先輩には敬語。怒られるぞ? 俺以外が相手だったらな」

 そう言って冗談めかして笑うと、海藤が僕をきちんと立たせた。
 ――ああ、生きている。

「じゃ、またな」

 海藤はそう言うと歩き去った。
 僕は冷や汗をかきつつも、タイムリープが成功した事を理解した。
 同時に、思案する。どうすれば、銃撃を阻止できるのだろうかと。
 幼少時までは戻らなかったが、就職までは遠い。事件があるあの日まで、これから六年もある。

「……」

 でも。
 絶対に助けて見せる。僕は、そう決意した。


 この頃の僕は実家で暮らしていたはずだからと、この日はまっすぐ帰路についた。どうやって帰ってきたのかを僕はあまり上手く思い出せないままで、両親が残してくれた研究室の扉を開けて中に入ってすぐに座り込んだ。

「狙撃を阻止するんだから、近い場所にいなきゃならないはずで……」

 ぽつりと呟いたのは無意識だった。
 生きている海藤の姿が鮮烈な印象を僕に与え続けているせいで、元々の理由を忘れそうになっていた。

「僕と海藤は、一体どうやって親しくなったんだっけ?」

 僕は右手を見ながら、何度か瞬きをした。気が付いたら、すぐ隣に海藤はいた。それこそ、いつの間にか。僕は自分が、自発的に何かをした記憶を持たない。ごく自然に海藤は、そんな僕の隣に立っていた。

「……いいや。僕と親しくさえならなければ、海藤は狙撃されないのか」

 導出した結論に、僕は俯いて唇を噛んだ。

「……」

 海藤が隣にいない生活。僕はそれを考えてみた事が一度も無かった。僕は、海藤のおかげで、独りではなくなっていたのだと思い知らされる。

「だけど……生きていてくれるなら、それだけで良いじゃないか」

 仮に僕の隣にいないのだとしても、この世界には海藤がいる。それだけで十分ではないのか。そう考え直し、僕は顔を上げて、右手をギュッと握った。


 この日から、意図して僕は、海藤と距離をとった。それは、実に簡単な事だった。元々学年が違う僕達には、そもそも接点など多くはなかった。同じ講義となる事があっても、海藤はいつも後ろに陣取っていたから、僕は前方の席を選べばそれだけで良かった。

 研究自体を止めるという選択肢も考えたが、それは両親の意思を継ぎたいという僕の端緒の願いから乖離するから、選ぶ事がどうしても出来なかった。代わりに僕は、既に知り尽くしている退屈な理論を、頬杖をついて聞く日々だった。同時に実家の研究室では、『未来』に残してきた研究の続きをして過ごしていた。

 そんな僕と海藤の次の接点は、ゼミだ。
 過去と同じように、この現在でも僕は飛び級し、ついに海藤と同じゼミを履修する事になった。席順は自由だ。僕は、海藤がいつも座っていた席を必死に思い出していた。確か、窓際の角。教室の後ろ側。僕はその隣に座る事が多かった。だから早めに教室に入り、その列の逆のはずれに陣取る。僕以外の学生の姿はどこにも無かった。何せ僕は、一時間も前に教室へとやってきたのだから、当然だ。

 扉が開いたのは、ゼミが始まる四十分前だった。
 何気なく顔を上げて、僕は顔色を変えそうになった。そこには、海藤が立っていたからだ。

「水波」
「……おはよう……ございます」

 元々僕は、そう口数が多い方ではない。それでも前回言われた事を思い出し、口下手なりに必死に敬語を頑張ってみる。すると海藤が僕へと歩み寄ってきて、実に何気ない仕草で隣の椅子を引いた。

「噂は聞いてる。同じゼミになれて嬉しいぞ」

 明るい海藤の声に、涙腺が緩みそうになった。この数年間の僕は、時折遠くから見かける海藤を視界にとらえては、胸を締め付けられているだけだったから、直接声をかけられたのが嬉しい。けれど――親しくなるわけにはいかない。

「宜しくお願いします」
「ああ。こちらこそ」

 海藤は、変わらない。長身で、黒い髪、切れ長の瞳。いずれも僕が愛したままだ。勿論僕もそうだが、大学生の年相応の外見年齢となったのは間違いないとは思うけれど、声も眼差しも放つ雰囲気にも変化は無い。

 更に十分ほどすると、ちらほらと学生達が顔を出し始め、僕と海藤の会話はそこで途切れた。きっと席順は、今後変化するのだろう。僕は、来週もこの位置を維持すれば良いはずだ。

 そう考えて望んだゼミは、やはり退屈で、僕は海藤を意識してばかりいた。
 その上、翌週、更にはその次の週も、一番早く来て僕が席を陣取ると、二番目にやって来た海藤が、僕の隣に陣取った。これは、上級生に囲まれて顔見知りも少ない僕に気を遣ってくれているのかもしれない。僕は、そう判断した。海藤の優しさは変わっていないのだと思ったから。即ち、遅れてきて、空席に座る方が良いのか?

 一ヶ月後、四回目の講義において、僕は遅れて教室に入った。
 すると普段の僕の席は埋まっていた。それに安堵して空席を探すと、初日に回避した窓際の角の席に海藤がいて、その横が空いていた。

「ほら、席をとっておいたぞ」
「っ……」

 狼狽えない方が無理だったが、それでもゼミが始まるからと、この日はそこで講義を受けた。今の所はゼミにおいてしか接点は無いが、海藤はまるで僕を友達のように扱い始めた。これではいけない。

 僕はゼミ後に院の研究室へと呼ばれた場合は、断るようにした。海藤との接点を減らすためだ。そしてゼミの時も、時間を見計らい、海藤が教室に入ってから、遅れて入室して別の席に座るようにした。すると、初夏のある日、海藤に呼び止められた。

「俺はお前に何かしたか?」
「……何か?」
「水波は、俺を避けてないか?」

 それは事実だった。だが、気づかれているとは思わなかった。心拍数が酷い事になる。海藤が僕を気にしてくれていたという事実が無性に嬉しい。だが、喜んでいる場合ではない。

「別に、何も」
「俺はもっとお前と話したいよ」
「……海藤先輩」
「もう同級生なんだから、俺は先輩じゃない」
「……僕に関わらないでくれ」
「どうして?」
「それ、は――」

 僕に関われば、海藤が近い将来狙撃されるからだ。僕はそれを回避するために、この時間軸に戻ってきたのだ。それは、決して忘れた事が無い現実だ。

「……」

 だが、誰が信じる? タイムリープの証明は困難を極める。そもそも、話せば未来が大きく変化してしまう可能性もある。

「――君が嫌いだからだよ」

 僕は必死で理由を捻りだした。そして無理に笑って見せた。口角を持ち上げて、じっと海藤を見る。

「嫌いな相手と話がしたいとは思わない」
「だから、何かしたのかと聞いてる」
「嫌う事に理由が必要かな? 僕はそうは思わないよ」

 断言した僕を見ると、海藤が虚を突かれたような顔をした後、息を飲んだ。僕達の間に沈黙が横たわる。本当に必死で僕は笑顔を浮かべ、泣かないように気を付け、嫌いだと告げながらも、内心では好きでならないと感じていた。けれど、これで良いのだと思う。ここまではっきりと伝えれば、海藤が今後僕に関わってくる事も無くなるだろう。

「失礼するよ、予定があるんだ」

 僕はそう口にして、その後は逃げるように立ち去った。怖くて海藤の顔を見ている事が出来なかった。

 実際には予定など無かったから、家へと戻って、研究室の床にへたりこむ。すると、やっと泣く事を許された心地になり、僕は温水で濡れた頬を手の甲で拭った。

「これで、良いんだよね? うん、そのはずだ」

 呟いた僕の声が、溶けていく。


 ――この日を境に、目に見えて海藤の側も、僕に声をかけてくる事は無くなった。それに安堵しつつも、僕は何度も泣いた。独りきりの家に戻ると、涙を零すのが日課になった。僕は海藤の生を、きっと保障できたと思うのだけれど、再び孤独になった。

 けれど、耐えられる。海藤が生きていてくれるのだから、呼吸ができる。

 海藤がそばにいない大学生活は、振り返れば酷く味気なかった。研究は続けているから、僕の存在は、学内でも相変わらず目立つらしい。だが、話し相手はといえば教授陣くらいのものであり、友達など一人もいない。一方の海藤は、多くの友人に囲まれている。昔はあの輪の中に、僕もいた。寂しくないと言えば、それは嘘だ。

 そんな大学の卒業が決まり、修士課程に進む事が決まったある日、教授に言われた。

「たまには同輩と親睦を深める事も大切だよ。卒業時の夜会くらい出てみたらどうだい?」

 僕は断る言葉を持たなかった。
 そこには、同じ代として卒業する海藤が来る事も知っていたが、今では僕らには、院の研究室が同じとなるという以外の接点が無い。だから問題は無いだろう。過去、全ての雑事の盾になってくれた海藤はもういない。僕は今後は、自分で研究成果を披露したりしなければならない。その為には、人脈作りなどが必要だという知識だけはあった。

 結果として僕は、二月半ばのある夜、大学の卒業祝いの夜会に参加する事に決めた。
 会場に入り、壁際に立つと、僕に向かって物珍しそうな視線が多数飛んできた。
 こういった場には、過去である未来においてすら、ほとんど僕は参加しなかったから、とても居心地が悪い。一人で参加している人間も多いが、女性を伴っている者も多かった。

 シャンパングラスを片手に入口を見ていると、海藤が入ってきた。海藤は一人だったが、すぐに多数の女性や男性に囲まれた。そんな時、近くで話す二人組の話し声が耳に入ってきた。

『海藤の奴、公家華族のお嬢様と付き合ってるらしいな』
『ずっと好きな相手がいるって言って、誰とも付き合ってなかったけど、彼女なら納得だ』
『高嶺の花だもんなぁ』
『二人が食事してたのを見たって噂、一昨日の話なのにもう構内を駆け巡っててすごい』

 それを聞いた時、ズキリと僕の胸が痛んだ。
 そもそも別の未来においても、僕と海藤は付き合っていたわけではない。恋人では無かった。ただの体の関係だった。だが、海藤に恋人の女性がいると知った瞬間、僕の足元は崩れそうになった。指先が震えそうになり、もう立っていられないような気分になる。

 思わずグラスを置いて、僕は会場から外に出た。まだ冬の夜風が冷たく吹き付けてくる。暫く歩き、会場の裏手へと僕は進んだ。そして茂みを抜けた所で、立ち止まった。

「あれぇ? 水波じゃん」

 その時、声がした。振り返ると、四人の見覚えのない学生の姿があった。出で立ちからして、夜会の参加者なのだろうとは分かる。

「美人だよなぁ」
「一人? こんな所で何してるのかなぁ?」
「俺達と遊ぶ?」

 ニヤニヤとしている彼らを見て、酒が回っているようだと判断する。
 ――もう、帰ろう。
 僕はそう考えて、首を振る。

「帰るところなので」
「まぁそういうなって」
「!」

 直後僕は、四人組に囲まれた。背後から羽交い絞めにされ、左右からは腕をとられる。何が起きているのか分からないでいる内に、芝の上に引き倒された。そして正面からは乱暴に服を乱された。

「な」
「一回お相手してもらいたいと思ってたんだよなぁ」
「俺も俺も」
「細い腰、たまらないなぁ」
「髪の毛、さっらさらじゃん。柔らかいし」

 唖然としている内に、巨大な手で首の筋を撫でられた。目を見開き、僕は声を上げようとした。すると後ろから、口を手で押さえられる。

「何をしている」

 そこへ凛とした声がかかった。慌てたように、四人組が顔を上げる。
 怯えて潤んだ瞳を僕もまた向ければ、そこには海藤が立っていた。

「――邪魔するなよ」
「そうだそうだ、消えろ」
「水波を離せ」
「やるのか? あ?」

 僕から手を放すと、四人組が立ち上がった。呆然としている僕の前で、一人が海藤に殴りかかる。それをひらりと躱した海藤は、すぐに相手に膝を叩き込んだ。そうして殴り合いが始まったのだが、決着はすぐについた。捨て台詞を残して、四人組が逃げていく。かすり傷一つない様子で服を正した海藤は、それから座り込んでいる僕を見た。

「大丈夫か?」
「……」
「愚問だったな――立てるか?」

 僕の体に上着をかけてくれた海藤。
 急に事態に対する理解が進み、恐怖が全身に襲いかかってくる。

「っ」

 気づくと僕の涙腺が倒壊していた。自分が襲われそうになったのだと認識し、寒気がした。海藤が僕を抱きしめたのは、その時だった。

「!」
「俺は何もしない。ほら、ここにいる。水波を守ってやれる。だから、落ち着け」

 温かいその感覚と、厚い胸板に、僕は気づくとすすり泣きながら、腕を回し返していた。海藤がそばにいる。ごく近い距離にある愛しい顔を見て、僕は先程までの出来事と、現在の幸せが綯い交ぜになった胸中で、どうして良いのか分からなくなる。

「海藤……っ」

 僕が顔を上げた時、海藤が僕の涙を親指でぬぐった。そしてそのまま、不意に僕に、触れるだけのキスをした。

「ん」

 一度離れた唇が再び降ってきて、その後舌を挿入される。僕は嘗ては慣れ親しんでいたその感触に浸る。舌を絡めとられ、甘く吸われ、そうして浸っている内に――僕は気づいた。キスの空気に完全に飲み込まれていた。

「離っ」
「――ああ」

 僕が軽く海藤の胸を押し返すと、唇こそ離れたものの、海藤の両腕は僕に回ったままだ。

「とりあえず、送る」
「……平気だよ」
「まだ俺が嫌いか?」
「……嫌いだよ」
「本当に?」

 親指で僕の唇をなぞりながら、海藤が僕を覗き込んできた。それから、ひょいと僕を抱き上げた。

「兎に角送る」
「下ろし――」
「断る。震えているお前を放ってはおけない」
「恋人を会場に残してきているんじゃないのか?」
「何?」
「そ、その、華族のご令嬢を……」
「俺は昔から一途なんだよ。好きな相手一筋だ。心当たりが無いな」
「大体どうしてここに?」
「水波が出ていくのが見えて、顔色があんまりにも悪かったから気になって出てきたんだ。車は待機させてあるから、すぐそこにいる」

 僕を横抱きにしたままで、海藤が歩き始めた。僕は困惑するしかない。

「一途な人間が、キスなんかするの?」
「好きな相手には、そりゃあする」
「……?」
「相変わらず鈍いな。こちらは、どうすればこれ以上嫌われないのか考える事に必死だったというのに」

 そうして僕は、大学構内の駐車場に停まっていた海藤家の自動車の後部座席にのせられた。隣に座った海藤が指示を出すと、すぐに車が走り出す。

 するとすぐに、海藤が僕の肩を抱き寄せた。狼狽えて、僕は海藤の顔を見る。

「水波は、昔からそうだったな」
「……どういう意味?」
「俺がどれほど独占欲を丸出しにして周囲を遮断しても、俺の気持ちに気づかない」
「? 何の話?」

 ほぼ接点のない現状において、僕には本当に心当たりが無かった。
 胸ポケットに海藤が手を入れたのは、その時の事だった。

「っ」

 そこから出てきた銀色の懐中時計を視界に捉え、僕は目を見開いた。
 それ、は。紛れもなく僕が、未来において、タイムリープのための装置の中に残してきた品だったからだ。

「それ……どうして……」
「見覚えがあるという事は、やはりお前の意識の固着点はこの時間軸という事で良いんだな? 散々俺の下で啼いていた水波の意識の在り処を探すのに、どれだけこちらが苦労したと思ってるんだ」
「え……」
「追いかけてきてみれば、俺を嫌っている。別の時空の意識なのかと疑った」
「海藤……?」

 タイムリープ理論において、誰かの後を追いかけるような事は、僕がいた『未来』では不可能だった。倫理の問題で研究許可を待っていた、僕の次のテーマだった。だが、まさか、と。僕は時計と海藤の顔を交互に見る。

「どうしてタイムリープした?」
「……」
「うぬ惚れて良いか? 俺の死を阻止してくれようとしたんだろう?」
「海藤、その……」

 迂闊に話せば、未来が変わってしまうかもしれない。僕は、それを何よりも恐れていた。

「だが――幸か不幸か、俺は一命をとりとめたし、既に五体に問題も無い」
「!」

 しかし今度こそ息を飲まずにはいられなくて、僕は硬直した。

「俺はお前を迎えに来た。帰ろう、ここではなく、俺達の世界に。そこへ、『送る』」
「研究が成功したの?」
「実用化した。政府の認可はまだ降りていないが、無視して進めた。お前を取り戻すために必死だったよ、目を覚まして事態に気づいてからずっとな」
「海藤……」

 海藤の手に力がこもった。それから海藤は軽く上を見上げると吹き出した。

「明日の朝になれば、こちらの世界の俺達の体は、何故互いが互いの家にいるのか驚く事になるだろうな。かたや、嫌いな相手の家。かたや、好きな相手が部屋にいる俺。あくまでも意識のみのタイムリープであるから、俺達双方から、未来の記憶は消える」

 僕はそれを聞いて、自分が夢を見ているのではないのかと疑った。


 その後、海藤家に行くと、造られたばかりの研究所の外観が目に入った。将来、いいや、過去、僕が勤めていた場所だ。そこには一人の女性が立っていた。

「俺が一昨日食事をしていたのは、こちらの政府の査察官殿だけだが」
「……、そ、そうなんだ」
「ごきげんよう、水波博士。貴方を損失する事は、この国にとっても痛手ですから、今回だけは極秘裏に処理いたしますが――二度は、ございませんからね」

 微笑した女性に言われ、僕は曖昧に頷く。まだ僕の服は乱れたままだったから、胸元を手で押さえた。その後研究所の中へと進むと、僕が知る施設には存在しなかった装置が屋上に設置されていた。中へと促されると、そこには自動車のシートのようなものが、四列並んでいた。

「座ってくれ。意識の移行が完了したら、体は責任をもって海藤家の客間に運んでおく」
「……分かった」

 その後、装置の操作は立ち合いの別の研究者が行ってくれたようだった。
 座っていると暗かった室内に、眩い光が溢れ、僕は目を開けていられなくなった。

「水波!」

 そして次の瞬間、名前を呼ばれて目を開けると、僕は白いベッドの上に横になっていた。手の甲には点滴の針が見える。僕の名前を呼んだのは、聞き間違えるはずもない、海藤だ。慌てて体を起こすと、そこにはやはり海藤の姿があった。

「帰ってきたんだな?」
「海藤……本当に無事で……?」

 僕は、大学時代よりは少し大人びて見える海藤をまじまじと見た。既に頭部に傷は見えないし、服装も見慣れたスーツ姿だ。

「ああ。俺は大丈夫だ。二年前には回復して、今年で三十路だよ」

 二十七歳の時とほとんど見た目に変化は無かったが、僕はどうやらタイムリープした当時よりも少し未来の――きちんと進んだ世界に帰ってきたらしい。

「会いたかった。もう二度と会えないのかと、何度も不安になった。確信はあったんだ、それでも、もしも違ったらと……」
「海藤……」
「もう大丈夫だからな? 二度と妙な真似をしようとは思うな」
「海藤こそ、僕を庇ったりしないでくれ」
「それは約束できない。俺は何度でも水波を守る」
「やめてくれ。僕は、海藤がいないと生きていけないんだから……」
「俺も同じだ。愛してる、水波」
「僕も……」

 僕が呟くように返すと、海藤が力強い腕で僕を抱きしめた。その温もりに、僕はもう涙を堪える事が出来なくなった。

 その後は精密検査などを受け、僕は自分の状況も教えてもらった。
 タイムリープした場合の多くの例に漏れず、身体的に異常は無いものの意識不明の状態で長い事眠っているに等しく、僕は研究所の一室を改修して作られた観察室で入院治療を受けていたらしい。鏡を見てもほとんど老化が見えなかったから最初は現実感がわかなかったが、既に海藤が狙撃されてから三年という歳月が経過していて、僕は二十七歳になっているとの事だった。

 病院でなく研究所の一室で治療を受けていたのは、僕がタイムリープしたという事を、国が公にしないと決めたからであるようだった。確かに、国際的な問題になるだろうし、僕一個人の不在だけならば、研究に没頭しているとして隠し通す事も叶ったのだと思う。人付き合いの希薄さが、ある意味生きた瞬間だった。

 特殊点滴で栄養を得ていた僕の栄養状態がよくなり、海藤と暮らしていた家に帰る事が叶ったのは、それから三週間後の事だった。

 季節は秋。
 九月も終わりが見え始めたその日、僕は海藤と共に、嘗ては慣れ親しんでいた家へと帰ってきた。すると家の中に入ってすぐに、海藤に後ろから抱きしめられた。

「水波」
「海藤……」

 こちらへ戻ってから、僕らはキスはおろか、こうして抱き合った事も無かった。だからいきなりで驚いてしまう。そんな僕の顎を掴み、海藤が僕の唇を深々と貪った。

 その後、海藤は僕の両頬に手で触れると、少し屈んだ。

「明確に伝えておくべきだったと後悔した事がある。まずは、それを聞いてほしい」
「何?」
「俺の恋人になってくれないか?」
「……、……うん」

 これが、僕達の新しい始まりの一言となった。
 僕達はまた、二人で歩き始める。







     (終)