図書室ピエロの噂 ――英雄は普通の人より勇気があるのではなく、ただ五分間ほど勇気が長続きするだけである――





「っ、は……」

 飛び起きた俺は、薄暗い周囲をキョロキョロと見回した。視界が歪んでいたから、そこで初めて、自分が涙ぐんでいるのだと気がついた。

 ああ、またか。

 片手で顔を覆う。黒縁の伊達眼鏡は横に置いて寝たのだったか。

「廣埜(ひろの)。起きたのか?」

 そこへ明るいのにどこか優しい、そんな声がかかった。俺は顔を向ける。そこにいたのは、十焔寺泰我(とおえんじたいが)、俺の幼なじみだ。泰我の顔を見て俺は、こいつの実家である寺の一室に泊めてもらったのだったと思い出す。横のレトロな目覚まし時計を見れば、午前四時。

「お前こそ……起きていたのか」

 俺の声は少し掠れていた。
 寝起きだからだろう。

「ああ、明日のテストの問題を確認してたんだよ。もう、今日か」
「小学校の先生も大変だな」

 泰我とは保育園から大学まで一緒だったが、大学では泰我は教育、俺は民族学科を出た。寺の次男の泰我は、今では俺達の母校である小学校で働いている。二十四歳の俺達。俺は院にいるから、まだ学生だ。

「また歩夢くんの夢を見たのか?」

 相変わらず泰我の声は明るく優しい。過度な同情はない。その距離感が、心地いい。ただ、こいつはいい奴だ。それが時々、きつい。

 歩夢は、俺の二歳年下の弟……だった、とはいわない。今も、そして今後も、弟だ。
 瞬きをして、俺は夢を振り払おうとする。だがそれは逆効果で、鮮明に夢の後継が襲いかかってきた。



 ――あの日。
 小学六年生だった俺は、四年生だった歩夢と手を繋いで、図書室へと向かった。

『図書室の鏡に、4時44分44秒にピエロが映って、鏡に引きずり込むんだって』

 そんな、【図書室ピエロ】の噂が、学校では流行していた。泣いて怯える歩夢は、普段は俺と手なんか繋がない。でも、この日は繋いで――というよりも。

「お兄ちゃん、帰ろうよ……ダメだよ、本当に出てきたらどうするの?」
「馬鹿だな、歩夢。あんな噂はデマだ。ただの、な。いるわけがないだろ。大体、怖がってみんなに馬鹿にされたと話していたのはお前だろ? 俺が確認に付き合ってやると言ってるんだ」
「馬鹿にされてもいいよ、やだよぉ。いかない、いきたくないっ」
「ほら、入るぞ」

 俺は図書室のドアを開けた。鏡は奥にある。本棚と本棚の間を抜けた先の壁に、不自然なことに大きな鏡がある。

 この時の俺は、都市伝説など実在しないと確信していた。怪奇現象を馬鹿にすることに愉悦を覚えるような、少し捻くれた子供だったのかも知れない。

 時刻は、4時40分。俺は、歩夢の手を強く引き、鏡の前に立った。

「お兄ちゃん、やめよう!」
「くだらない」
「お兄ちゃん!」

 歩夢の声に涙が混じった。

「お兄ちゃんに何かあったら、僕、僕、絶対に嫌だ! だから! 帰ろう!」

 俺はその声を無視した。寧ろ、軟弱な歩夢は、優しさを笠に着て、俺を心配するフリをして、帰ろうとしているのだと、内心で滑稽だとすら思っていたように思う。

 俺はそんな歩夢が好きじゃなかった。好きじゃなかったんだ。
 歩夢は、亡くなった祖父によく似ていたから。
 祖父は、幻想文学を書いていた。古今東西の怪異に詳しくて、俺は保育所時代それを自慢げに語り、結果霊感があると噂されて虐められた。以来、逆恨みした俺は祖父が嫌いになったし、心霊現象を信じなくなったし、周囲に虐められないようにと防波堤を築くことを怠らず、勉強も運動も努力をし、クラスのカーストでトップに立った。クラスの三分の二のリーダーは俺だった。その俺の弟が? オカルトを怖がる? 馬鹿馬鹿しい。

 歩夢は、俺の弱点だった。なにをとっても平均点。
 勿論、ネガティブな意味合いだ。

 ……逆に、ポジティブな意味合いならば、俺の弱点は、唯一の弱点は、泰我だった。保育園で虐められていた時、唯一庇ってくれた馬鹿。『え? 俺も視えるけど、だから?』と朗らかに、片隅のブランコ脇で泣いていた俺を慰めてくれた。『……俺は視えない』と素直に言ったら、『ふぅん? ま、世界中の多くは視えない! 俺は寺生まれだからな。寺生まれ舐めんな!』と笑っていた。さすが寺生まれだ。

 その後も、奇遇なことに小六までずっと同じクラスだったのだが、泰我はクラスで不思議な立ち位置だった。俺と違って、視えるといっても嫌われない。俺は、俺だったから虐められたのだと辛くなった。だが悔しいことに、俺も泰我が好きだった。泰我は、性格がいい。誰しもの心を掴むような朗らかさ、裏表の無さ、性格の良さ、明るさ。運動も勉強も、俺は努力してであるが、泰我は少なくとも見えない努力の上で出来た。俺はあからさまだったかもしれないが、泰我には常に余裕があった。俺は、テストで満点なら誇ったが、泰我は、成績表など何点でも適当に丸めてランドセルにつっこんでいるタイプだった。

 気になる事が、一つだけ。
 図書室で、43分という時刻を時計で見た時に、俺は思い出す。
 その、泰我が言ったのだ。

『なぁ、廣埜』
『ん?』
『図書室ピエロなんていないって確かめに行くんだって?』
『ああ』
『――あいつは、寂しがり屋だ。やめとけよ』
『は?』
『俺は廣埜が好きだ。だから、連れていかせたくないんだよ』
『くだらないな』
『後悔しても知らないからな』

 泰我は笑顔だった。ただ、いつもより声に違和感があって、冗談を言っているようには聞こえなかった覚えがある。

 ――4時44分44秒。

 時間になった。

「ほら、歩夢。図書室ピエロなんて――……」
『ばぁ』
「っ」
「お兄ちゃぁああん!!」

 鏡から鎌を持ったピエロが現れた。そのピエロは、片手で俺の首を掴もうとした。
 歩夢が俺を突き飛ばす。するとピエロは、歩夢の手首をとった。俺は歩夢の逆側の手を咄嗟に掴む。

『一緒に鏡の中で遊ぼうネ』

 ピエロが手を引く。歩夢が、ずるずると鏡の方へと引っ張られる。力が強くて、俺は前のめりになる。

「たすけてー!」
「歩夢、俺が――」
「誰か、お兄ちゃんを助けて! うっ、お兄ちゃん、手を離して、これじゃお兄ちゃんまで!」
「な」
「たすけて、はなして、たすけて、はなして、おにいちゃん、にげて!」

 ずるずると鏡に向かって引っ張られる。

「たすけて……おにいちゃん……」

 俺の耳にはそう聞こえた。でも口の動きで分かった。『たすけて、おにいちゃん“を”』だ。自分はどうなってもいいと歩夢は泣いていた。俺はこの時初めて、歩夢が俺にとって無価値な中身の持ち主なんかじゃなく……本当に心優しい、俺を愛してくれる、そんな、大切な――……「歩夢を離せ!」

 だが、俺の抵抗は無力だった。歩夢の腕が、肩が、胴が、足が、鏡の中へと引きずり込まれていく。俺の指先もまた、歪んだ鏡に触れそうになっていた。

 だめだ。このままでは、俺も引きずり込まれる。歩夢はこんなにも俺を思ってくれるのに、俺は――怖かった。ただひたすらに怖かった。このまま、このまま鏡の中へ!? 気づくと俺は、ボロボロと泣いていた。怖い。嫌だ。ピエロが怖い。

「っ」

 歩夢の手が、俺から離れようとしている。そして。

 ――ブツン。

 俺の記憶は、途切れた。断片的に歩夢が泣き叫びながら鏡に引きずり込まれたことは覚えているのだが、鏡の前に座り込んで漏らした俺は、ただ呆然としていた。



『だから言ったのに』



 俺は目を開けた。
 最後に何か、声を思い出した気がしたけれど、すぐに曖昧に変わる。

「泰我。俺は夢なんか見ない」
「それは、」
「ああ」
「、倖せな未来の夢だろ?」

 正面の黒塗りの卓の前から立ち上がった泰我は、上半身を起こしていた俺の両肩に触れると、そのまま押し倒した。

「なぁ、もう一回」
「……テストに遅れるなよ」
「別に学校の先生の私生活が、時間割のように几帳面だなんてかぎらない。お前だってよく知ってるだろ? 俺の恋人なんだからな」
「――幼馴染み、だからな」

 精悍な顔立ちの、笑顔の泰我に俺はそう返した。泰我は俺を恋人だと言うし、もう肉体関係になって長いが、俺はいつも幼馴染みだと返している。弟の手を離した最低な俺に、恋人を得るような幸せな未来は許されない。それも、泰我のような、いい奴のならば、なおさらだ。泰我の人生の汚点になりたくはない。たとえ――俺もまた、泰我のことが好きだとしても。決して、それを認めてはならない。

 俺と泰我の始まりは、中三の修学旅行の時だった。
 小六で弟が失踪――という扱いになり、言葉が消えた俺。周囲も俺を、腫れ物を扱うようにしたのに、この頃以後も、泰我だけが俺に話しかけてくれた。俺は小学校の卒業までも、中学に入ってからも、図書室の鏡の前にはりついてピエロを待つことに必死で、それしか考えていなくて。ただ、泰我だけが、「おはよう」と「またな」と俺に言ってくれた。
他の雑談もあっただろうが、歩夢とピエロについてしか考えていなかった俺は、聞いていなかった。それでも泰我は俺を見捨てなかった。

『ほら、もう45分だぞ』
『ピエロは幻覚なんかじゃないんだ。歩夢を――』
『分かってるよ。分かってる。だから、泣くな。お前を俺は疑ったりしてない』

 そうして続いた日々。イジメが気になった幼少時と違い、寧ろ誰にも近寄られたくなかった俺は、修学旅行の班編制であぶれた――かにみえたが、『俺と廣埜はセットだろ』という一言で、泰我の班に入れてもらえた。その夜だ。

 PTSDで歩夢の夢を見る俺を、泰我が揺り起こした。その日も涙で歪んだ目を、俺は泰我に向けたのだったと思う。すると頬に触れられ、キスをされた。唇に触れるだけのキスだ。それから頭を撫でられた。

『俺が、抱きしめて寝てやるから』

 ぎゅっと、回された腕。俺は号泣した。

『いいか? 廣埜、もっとすると、嫌なことは全部忘れられるらしい。廣埜がいいなら、俺、するよ? 俺でいいなら、廣埜がいいなら。廣埜次第だけど』
『なにをだ?』
『――セックス』

 保健体育の授業の知識すら聞いていなくて覚えていなかったほどの、成績下落者の俺が瞠目していると、再びキスをされた。

 そして、押し倒された。
 そのまま二人部屋の俺達は、お互いの体温を知った。
 俺は、服を剥かれて、陰茎を咥えられた時になっても、まだ何が起きているのか分からなかった記憶がある。その時は、フェラされただけだったが、これが端緒で間違いないだろう。以降、俺は嫌なことがある度に、泰我の家へ行き、寺の泰我の部屋で、高校時代の多くの時、泰我に貫かれた。泰我は優しいから、俺の嫌な記憶を忘れさせるために、行為をしてくれているのだと、俺はずっと思っていた。そうしたら、大学のサークル……コレも俺達は同じ所に入ったのだが、そこで、俺が女子に連絡先を聞かれたら、泰我が俺の肩を抱いたのだ。

『廣埜は俺のだから、俺を通して、な?』

 にっこり笑った泰我にも、女子は連絡先を聞いていた。泰我は笑顔で応じていた。だが、帰ってから、俺は初めて泰我に手ひどく抱かれた。まるで獣のようなSEXだった。

『廣埜、あの女とつきあうの? ん?』
『ぁ、やっ……あ、あ、ああああ、まって、もうイ――』
『お前の恋人誰?』
『あ、あ? あ、やっ、俺は――歩夢を助けるまで、恋とかそういうのは――』
『いつもそう言ってたから信用してたよ? でも、連絡先交換するんだ?』
『まって、あ、あ、あああ、動かないでくれ、もうイっ……ひゃっあああ』
『ダメだからな? いいな? お前の恋人は俺。わかる?』
『あ、あ、あ』

 散々啼かされた俺は、なんと答えたのか覚えていない。ただ、翌朝起きたら、いつも先に起きている泰我が初めて寝たまま俺を腕枕していて、その端正な顔を見たら、俺はカッと照れてしまったことを覚えている。泰我に無性に惹きつけられた。


「なに? 考え事か? 余裕だな」
「……っ、いや、その」
「なに考えてたんだ? 歩夢くんのことか?」
「いや……お前の事だ」
「……その唐突にタラシになるのは、本当よくないぞ、お前。だからお前、モテるんだよ。顔がいいとかそういう以前に」
「?」

 俺が首を傾げていると、深々と唇を貪られた。舌を絡め取られて引きずり出され、甘く噛まれる。息継ぎの仕方は、泰我に習った。というより、行為を重ねるなかで互いに覚えたが正しいのだろうか。

「ぁ……」
「ほら、夢の事なんて忘れさせやるから、嘘。つかなくていいからな?」
「あっ」

 乳首を甘く噛まれる。俺は、自分が服を着ていなかったことを思い出した。右胸の突起を執拗に愛撫されて、昨日の行為でまだ体が敏感になっていた様子の俺は、露骨に喘いでしまう。

「ぁ、あ……泰我、っ」
「こらえ性がないなぁ、いつもだけど」
「ん、ぁ……うるさい。テスト、あるんだろ? 仕事……だから、さっさと」
「――学生さんには分からないことだからか?」
「そうだ。俺には仕事の邪魔は出来ない」

 いつも俺はそう繰り返している。というより、泰我の人生を、これ以上、俺の、『ピエロをもう一度見つけて歩夢を取り返す』という、あるいは無駄かもしれない行為に付き合わせるわけには行かない。恋人だといくらいってくれたとしても、そんなのは優しい嘘だと思うのだ、きっと。俺が悪夢を見るから抱いてくれるのだろうと。

「あ……ああああ!」

 泰我が解れていた俺の中に挿入した。

「逆に言えば、学校に行くまでは時間があるから、焦らしてもいいって事だな」
「や、ぁ……う」

 泰我が俺の前立腺を擦り上げるように動いてから、前立腺を押し上げる。そして動きを止めた。次第に、最初はじわりじわりと、次にびっしりと、俺は汗を掻いた。目がちかちかとする、きっとそれは、情欲で。結腸をずっと押し上げられる内、俺は咽び泣いた。

「やぁあああああああああああああああああああああ」




 ――自分が、いつ記憶を飛ばしたのか、俺は覚えていない。
 ただ、今黒い膳で運ばれてきた朝食を、泰我と向かい合って食べている。現在の俺は、目が虚ろだろう。泰我は絶倫だ。結局ずっと結腸を責められて、俺だけ中だけで何度も果てさせられて、なにも考えられなくなって――そうして訪れたのは、安眠と言うよりは暗転だったが。

 鮭を上品に口に運ぶ泰我に、無性に色気を感じる。
 俺は、やっぱり泰我が好きだ。俺に、恋愛をすることが許されるのならば――……その権利があったのならば、俺からいつか、泰我に好きという言葉を返そうと思っている。




 ***


 あれは――。
 小六の夏だ。が、いいや、始まりはもっと前か。苦笑してしまうくらい昔から。そう、あれはだな、保育園の頃。

 俺には霊感があった。
 だから、霊感があるとして虐められている男の子を見て、俺の仲間なのかと思った。俺は苛められていないけれど、この世ならざるものが、俺と同じように、俺の父さんや兄ちゃんと同じように見えるのかなと期待した。家族は俺に、視えるとはいってはだめだよと離していたから、喋っているそいつが珍しかった。

 だが、違った。
 最初から、端正な子だとは思っていたが、虐められて泣いている姿を見たら、俺は一目で恋に落ちた。もっと泣かせたい。俺は、この頃から歪んでいたのだろうか? 幸いなのは、俺の上辺だ。俺は、明るい。

「なぁ、名前。教えてくれ。一緒にジャングルジム!」

 俺が泣いているそいつに声をかけると、目を丸くした水間廣埜(みずまひろの)。勿論、声をかける前から名前なんか知っていた。

 廣埜は――俺から見ると、馬鹿だった。というより、傷つきやすい子、だった、か。
 どんどん傷つかなくていいようにすむ道を歩んでいく。
 それでも俺は、廣埜の隣を誰にも譲らなかった。クラスのカーストなんて俺にとってはどうでも良かった。理由は、俺の全ては廣埜だからだ。

「なぁ、図書室ピエロって知ってるか? 図書室ピエロの噂」

 その廣埜が、ある日俺に聞いた。
 当然俺は知っていた。何故ならば、図書室の鏡の中に土曜日の4時44分44秒に出る図書室ピエロは、俺の友達(・・)だったからだ。このきさらぎ市の怪異は大体既知だが。

「なんで?」
「……歩夢が、馬鹿にされてるって言うんだよ。その……いるわけないしな。歩夢は俺が虐めるのはいいけど、他が虐めるのはだめなんだよ」

 このブラコンが、と、俺は思った。廣埜は、歩夢くんを嫌っている素振りを見せるのに、実は誰よりも愛でている。何事よりも最優先は歩夢くんで、俺はそれが面白くなかった。実の弟には、流石に親友では勝てないか? いいや、勝ってみせる。どうやって? ああ――……その時、俺の仄暗い理性が呟いた。『歩夢がいなくなればいい』

「知ってるよ。でも、いかないほうがいいんじゃないか?」

 この日はそう返し、俺はその足で、歩夢くんのクラスに兄弟がいる同級生に囁いた。

『歩夢が土曜日に図書室ピエロを確かめるらしいぞ』

 ――一人、で。
 俺は確かにそう言った。だが、浅はかだった。廣埜も行くと言い出した。俺は、前の週の土曜日に、図書室に行った。

「なぁ、図書室ピエロ」
『なぁに?』
「廣埜はダメだからな。廣埜は俺のだ」
『ふぅん。僕は、歩夢ならいいんだ?』
「好きにしろ」

 それだけが全てで、答えだった。



 歩夢くんが行方不明になると、廣埜は顔色を失い、茫然自失となり、魂が抜けてしまったようになった。そうなっても――美しかった。でも? これで? That's all?

 残念ながら、廣埜は俺のものにはならなかった。ピエロは鏡の世界で喜んでいるが、そのピエロを探して土曜日もいいやそれ以外も暇さえあれば、廣埜は図書室の鏡の前にいる。俺を見ない。俺は苛立った。

「なぁ、図書室ピエロ」
「なぁに?」
「お前って、招待されれば、その場所まで行けるようになるんだよな?」
「うん」
「じゃ、俺がきさらぎ記念病院のトイレまで案内してやる。きさらぎ市中を他にも案内してやる。だから、」
「だから?」
「――まだ、歩夢はそこにいるのか?」
「勿論、大切なオモチャだもんネ」
「連れていけ。そしてこの学校には、戻ってくるな。二度と廣埜とは会えないようにな」

 すると吹き出してから、鏡の前のピエロが消えた。あるいは俺が返せと言えば、返すだろうピエロが。

「ああ、馬鹿だな。廣埜。言っただろうが、俺は――だから言ったのに」



 ***


 俺は。
 そう。
 知っていた。
 ――泰我と図書室ピエロが、接触していたことを。

 二人のやりとりを、書架の背にピタリと体を当て、口を両手で覆い、青ざめながら聞いていたあの思春期の夏。夕暮れ。けれど、それを泰我に糾弾できなかった己の弱さ。そう、俺は歩夢の手を離したときと変わっていなかった。どこまでも自分勝手だった。愛している泰我を糾弾し、嫌われることが怖かった。だから――罪人は? そんなの、俺に決まっている。


 ***

「どうしたんだよ?」

 箸を置いた泰我が俺を見て笑った。俺は苦笑する。

「なぁ、泰我」
「ん?」
「――ありがとうな」
「――ん? それこそなんだよ、急に」
「あ、いや……俺は、その」
「うん」
「……」
「言えよ」
「……」
「言え」

 泰我の声が有無を言わせぬものに変わった。俺もまた食事を終えたので、マスクを身につける。そして俺は、じっと泰我を見た。

「次の土曜日も、図書室にお邪魔する」
「おう」
「――そうしたら」
「うん?」
「……話したいことがある」

 なにか。
 起きてからずっと、予感めいたものがあった。俺は、きっと泰我に言うのだろうと。あの夏のことを、記憶を、なにより……それは? その時泰我が頷いた。

「……おう」

 ***

『振られるのか? 許さないぞ? でも――振られるようなことしかしてきてない独占欲の人生だったから、覚悟はしてる。ただ、離してはやらんけどな』

 ***

「5時に、生徒玄関に来てくれ」
「分かった。待ってるよ。その前は図書室か?」
「ああ」
「了解。廣埜、いい話なのを期待してるからな」
「――それは、お前次第だ」

 ***

 そして、ある土曜日。
 ある土曜日の4時44分444秒が訪れる。
 図書室の鏡を、楠谷という少年と二人で偶発的に見た後、彼を見送った廣埜は、生徒玄関でまじまじと泰我を見た。

「話だが」
「ああ」
「――俺はお前を許さない。図書室ピエロを逃したお前を」

 驚愕したように泰我が目を見開く。

「だが、もっと許せないのは、それでもお前を嫌いに慣れない俺自身だ。だから、言わせてくれ。俺は、お前を愛してる」



 ――なおその後、その楠谷という少年が、図書室のピエロの手を掴み、逆に引っ張りだし、歩夢ごと救出するのだが、それはまた別のお話だ。

 そしてあくるひ。
 ピエロは、その時、泰我を見て笑った。泰我は冷徹な目をしていた。

「歩夢は連れていけと言っただろう」
「――新しいオモチャの方が楽しいじゃン」
「これでまた廣埜は歩夢歩夢歩夢と――」
「ばかだなぁ、泰我は」
「あ?」
「なんで泣いてるの? 歩夢くんが帰ってきてよかったって一番泣いてるのは、ずっと泰我だよ? ずっと後悔してたのも君だよ? だから、もう自分を赦してあげたら?」

 最初は何を言われているのか分からなかった泰我だが、右目から頬に一筋の温水が伝う。

「もう悪い子のフリはやめていいよ。ボクに協力することはないヨ。ボクには――もうたくさんのお友達がいるからネ」

 図書室ピエロの声に、暫くの間泰我は瞠目していた。それからふっとピエロが消えたので苦笑してから、天井を向いて涙を乾かす。

「ああ……結局。俺の親友は図書室ピエロかもな。やらせてしまったんだな、俺が。そして」

 公的な親友。我慢できずに押し倒した廣埜は紛れもない恋人なのだから。
 肩を、ポンと叩かれる。

「いいんだ。だから――」

 振り返った泰我は、そこに廣埜の顔を認める。互いに嘘ばかり。だった。それは、過去形。

「愛してる」

 果たして、それはどちらから先に放った言葉だったのか。
 きっとどこかで聞いていた図書室ピエロは、ニヤニヤしていたことだろう。

 ――歩夢の、弟の件では、英雄になれなかった廣埜だが、ことこの恋においてだけは、英雄になれたということは付け加えておく。それこそ、泰我を救うほどに。


 +++

「何書いてるの?」
「ボクが知ってる泰我と廣埜のお話サ。いつか瑛(あきら)にも分かるかもね」
「?」

 楠谷瑛と歩きながら、どこかで図書室ピエロが笑ったのだとか、笑わなかったのだとか。
 ああ――星が瞬いている。





 ―― 終 ――