アニマスブレイク ―― 幸せな夢は覚めない。
それは、ある年の七月、獅子座流星群の夜。
いいや、皆既月蝕の夜だっただろうか。
それはもう果てしなく昔のことで、僕の記憶は定かでは無い。
その夜、僕の妹が死んだ。死んでいた。風邪気味だった妹に、お粥を持っていった僕は、妹の死に直面した時、現実感を欠き、それを穏やかに笑っていた姉に言えなかった。その後、妹の体は腐っていった。
マキナエルライトという科学的な産物で文明を維持していた僕ら。
その始祖は、女神であり、当時の者には視覚がなく、聴覚で、耳で、ある種の超感覚的知覚を用いてコミュニケーションをはかっていたという逸話のある――その後大八島国となる大陸だった。その国、そこで僕の姉は優しい会社員のはずで、僕の父は研究者で、僕はそう聞かされて育っていたのだけれど――全部嘘だった。僕は父の体のスペアとして生み出された存在で、姉が僕を助けてくれた。
その後。
マキナエルライトの暴発事故が生じ、僕がいた国は、核攻撃されて滅亡した。
ドロドロに熔けた皮膚をした者達が押し寄せてくる中で、僕の親友――本当に? そう、でも確かにその時は親友だと思っていた間宮が、僕を避難させてくれた。間宮の妹を、その少し前に、僕は事故で殺してしまったのだけれど、間宮はそれを知らないはずだった。
だが、それらも幻想で。
避難した先は、地上の汚染が届かない天空の大陸だった。
これもマキナエルライトで浮かんでいる。そこで僕と間宮はともに過ごし、間宮は僕に食事を与えた。それは、僕の姉の体だったんだ。僕はそれを知らずにニコニコしながら食べていて、姉の四肢が欠損し、僕が知らずに食べた頃、間宮に姉と再会させられた。間宮は哄笑して僕と姉を閉じ込めた。僕はバケモノじみた姉、奇声を発している姉、それを――ああ、そうか、貴重な体を、僕と間宮を生かすために提供してくれたんだと考えて、姉の肉を削ぎ、間宮に肉団子を作った。間宮は姉が死んでいるだろうと言って、腐った肉なんか食べれないと言って、自分は菜食主義だからずっと肉を食べていなかっただろうと言って――そんなの認めがたい。僕は間宮に姉の体を食べさせた。
それから少しして、間宮が僕と間宮の妹のクローンを創り出した。間宮は僕と同じ年なのに天才的な研究者だ。様々な分野で活躍していたが、一番は、天空の大陸にいる僕らは、地球・地表に新しい文明を生み出すという仕事があり、たとえば大八島国の他にはアトランティス計画やムー計画、レムリア計画と、色々な文明を創ることを課せられており、間宮は僕の叔父と共に、大八島計画に従事していた。僕は相変わらず間宮の家にいたから、二人の妹のクローンの世話をし、過ごしていた。実はクローンが創られたのは二度目だ。一度目のクローンは、シュメール計画に従事していたエンキが考察してしまったから、きっと間宮の妹は間宮の血肉になりたいだろうと思って、僕はビーフシチューにして間宮に食べさせた。ダストボックスを後に見た間宮には、とても怒られたけれど、僕は照れ隠しだと思っている。
その後二度目につくられたクローンの妹。間宮が僕の妹の瞼を縫い合わせて、爆弾を胴に巻き、僕を見た。僕はこんな姿で生きていくのはかわいそうだと思って、爆弾のスイッチを押した。
ただそれから、僕はもう、間宮と関わり、間宮のいいなりになるべきではないと思った。助けてくれたのはエンキだ。けれどエンキは、僕を友だちだと言いながら、僕を騙していたらしい。僕の眼球を取り出したり、僕の脳を見たいと言ったり。マキナエルライトの恩恵で不死の僕。不死なのはこの天空の大陸にいる僕ら全員だったが、さすがに脳は死ぬ可能性がある――と、そう口にして割って入った間宮が、僕を助けてくれた。でもそれでも僕は間宮をもう信用できなくて。だけど僕がその後地上に降りて暮らしていたアトランティスが沈む時、間宮は間宮を信じない僕の足の関節を無理矢理外して引きずって、逃げるための飛行機に僕を乗せて、結果的には僕を助けてくれた。
それからだ。また僕と間宮の二人での生活が始まった。
これが僕と間宮の軌跡の一部だ。
要するに僕と間宮は、親友から始まって互いに憎んでだけどお互いがいないとダメな感じ。そんな感じだ。
僕は今日から日記を書き始めた。だからこうして振り返ってみたけれど、時系列があっているかすら不明だ。ただ、瞼を伏せれば、過る光景が確かにある。たとえば?
***
これは、間宮が僕と姉を再会させてくれた時の記憶だ。
僕の名前は務。姉が沙希香だ。妹は有紗。ちなみに日和ちゃんが間宮の妹だ。
不思議な桃色の肉が並んだ、僕の二十歳の誕生日の夜の記憶。カルミネイトというのはマキナエルライト及び天空の大陸の管理機関で、姉の勤めていた場所だ。
「ああ、とっても。本当に有難う。――これは何?」
僕はそう間宮に告げた。
続いて四角い肉のコンフィの様なものに手を伸ばす。
「リブ。本当はスペアリブを目指したんだけど、ちょっとまだ残しておこうかと思ってな。他にもモツ鍋とか考えたんだけど、それもどうせなら務に作ってもらった方が良いかなって。あんまり俺、得意じゃないんだ、そういうの」
「僕も自信ないけど、頑張ってみるよ。あ、これ美味しい」
「ああそれは頬肉だよ。いつもはパサパサのもも肉ばっかり食べてるからな」
「あ、このカレーも美味しいよ」
「美味しいばっかりだな。まぁでも苦労した甲斐があったな。それ骨付き肉が軟らかくなるまで半日掛けて煮込んだんだよ。正直一番苦労したかも。先の透明な奴を取り除くのに苦労してな。少し混じってたら悪ぃ」
間宮がそう口にした瞬間、まさに当たったようで、横にあったナプキンの上に務は異物をはき出した。半透明のその形にはどことなく見覚えがあったが、何の肉に付着している物だったかは思い出せない。
「そうだ、お前にもちゃんとキッチンのもの説明しないとな。ああ、でもそんな事より先に、務も沙希香さんに会いたいだろ? 会うか?」
「え? もう会えるの?」
「ああ、今下にいる。カルミネイトの転移転送装置があるすぐ脇の部屋。一応下とこの階は、空調から何から違うから、大事を取って下にいてもらってるんだ」
「早く言ってくれよ」
「お楽しみは最後にとって置いた方が良いだろ?」
「そんなことを言ってるから、ケーキのイチゴを食べられるんだよ、妹に」
「え、何で知ってるんだよ。あ、分かったお前も経験者か」
「うるさい」
「今の言い方沙希香さんに似てるよな」
「黙れ」
そんな風に口にしながらも、いてもたってもいられなくなり、僕は性急に立ち上がった。
「焦るなって」
苦笑混じりに間宮もまた立ち上がり、肩を竦める。
「じゃあ慌てずについて来いよ」
これまでは、間宮に言われて入らないようにしていた、地下の地下。それこそ初日に地下通路を抜けてきた時分以来初めて踏みいるそこは、安っぽい鉄製階段を降りながらであっても、重苦しい気配を纏っているようだった。立ち止まった間宮が、ドアノブに手を掛けながら笑みを浮かべた。
「沙希香さん、余程嬉しいのか、さっきから泣きやまないんだ。お前も泣くなよ」
「自信はない。約束できない」
「お前って変な所素直だよな。ま、いいや。じゃあ存分に泣けよ、きっと嫌でも涙が止まらないだろうしな」
揶揄するような明るい声音と共に開いた扉の向こう。
しかしてそこは、嘗て見たことのある、地球の衛星写真のように、青い光に満ちていた。
マキナエルライトの緑とは異なる、よく見知ったLEDの青だ。
その中央に、確かに沙希香はいて、泣きじゃくっていた。
「ギャアアア、ゴナイデェェェェェ」
不協和音が耳に突き刺さる。青白く伸びた右手の指が蠢き、青紫色の舌が宙を目指して踊っている。左足のももから先も何度か跳ねる。その度に、膝から覗く白くくすんだ骨が光を反射する。実に綺麗にそぎ落とされている様だった。右足など、付け根まで骨ごと無い。それは左腕も同様で、二の腕から先に黒いゴムがまかれ、その真下から透明なチューブが伸びていた。
「ビナイデェェェェ」
その物体が人語を発しているのだと、暫しの間理解できずに、ただ僕は立ちつくしていた。
「やっぱりこういう状況だからな、どこもタンパク質不足なんだよ。いや本当、姉の鏡だよな、お前と有紗のためなら喜んで食料になるって言ってくれたよ沙希香さん」
いつもと寸分違わぬ調子の間宮の声音が、ただ虚しく響く。それをただ音としてだけ聞き取りながら、姉の秘所から伸びるカテーテルが黄色い水を吸引するのをただ眺める。
「何」
「何? ああ、食器類? それは上の戸棚。それとも器具か? それはこっちだ」
さも楽しくて仕方がないと言った様子で、間宮が水道下の扉を開く。
間宮の手が、のこぎりを掲げたのを僕はぼんやりと見ていた。
「まずこれで骨を叩ききるわけよ。ほらさ、やっぱり電動だから扱いには注意な。いくらマグネエルライトで強い体になったからって、首を落とされたらそれなりにクるからな」
「何だよこれ」
「いやお前の姉だろ。これとは酷いな。折角お前とお前が見殺した妹のためにこんな姿にまでなって、無様に藻掻いて生きているって言うのに」
「違う。酷いのは誰だ? どうしてこんな、こんな、いつから、腕は? 足は? まさか」
「さっき美味そうに食べてたじゃないか。沙希香さんもあんなに美味しい美味しいって言ってもらえれば本望だろう」
その声音に嘔吐感を覚え、その場で蹲る。喉を、酒とは違う痛みを伴った熱が走った。吐瀉物が広がっていく。温い感触。先に異物がある、嗚呼。アレは爪だった、確かに。これが、これは。先ほど間宮が笑いながら口にしていた単語が過ぎる。いつも食べていたもも肉、リブ、それから――
「お気に召しましたか? 俺からのプレゼントは」
奇声を上げる姉。泣きじゃくる姉。そのよどんだ瞳には、けれど面影がある。けれど、しかし、しかしだ。殺ぎ落ちた右頬の肉から露出する、黒味かかった紫が、人間の皮膚の下に眠っている物だなんて、考えたくはなかった。そこに露出している、規則正しい白が、歯列だなんて言う理解はなおさらしたくない。
「プレゼント?」
「ああ。俺からお前への。最高の。最高に最高で最悪で最低な誕生日の贈り物だ。俺は務、今夜お前に最高の絶望を贈ろうって、ずっと考えていたんだよ。全く本当に馬鹿だよお前は。お前さ、本気でこの俺が、日和を殺したお前のことを、許すような度量を持ち合わせているとでも思ってたのか?」
「違うアレは不慮の」
「なんとでもいえるな。じゃあなんだ? 有紗の葬儀はどうして執り行われなかった?」
「それは、でも、違う。僕は有紗を殺してない」
「怪しいもんだよな。まぁそれは兎も角、俺はお前を許さない。お前にも俺と同じ思いをさせてやるよ。しかも俺よりも最悪な形で、お前は親愛なる姉を食すんだ」
「巫山戯るな。悪かったよ、ああ悪い、僕がしたことは謝る、いくらでも謝るから。沙希香は関係ないだろ、止めろよ、止めてくれ」
「何言ってるんだよ、今更。昨日も一昨日もその前も、ここ二年毎日毎日食べていたくせに。漸く、全体を好きにして良いって言うお許しがカルミネイトから出たんだよ。大体、それじゃあお前は明日から何を食べて生きるって言うんだ? これまで俺に料理させていたくせに、自分の手では無理だって? 冷凍だって本気で信じていたって言うのか。へぇお前の舌もたかがしれてるな。それともお前が食べていた冷凍食品はそんなに高級だったんですか? へぇそうか、おろしたての焼きたて並に美味しい肉。そりゃすごい。流石神野先生のお宅だ。じゃあな、今夜一晩掛けて感動の対面でもしてろ。明日の朝は、豪勢な朝食を期待しているからな。姉を切るのが嫌なら、せいぜい自分の肉でも切るんだな」
おかしくて仕方がないと言った風情の高笑いを残し、間宮はその部屋を出て行った。僕が我に返ったのは、カギの響く音がしての事だった。
「待ってくれ」
階段を上り、立ち去る音が響いてくる。
「止めてくれ、置いていかないでくれ、そんな嘘だろ、こんな化け物と一緒なんて無理だ」
必死にわめき立て、開かないドアノブを揺らし、カギの音を確かめる。
ひとしきりそうした後で、しゃがみ込み再度吐瀉した。
袖で口元を拭い、それから背後でコツコツと響く音に気づく。骨と台が奏でる音だ。我を取り戻せば、間断なく、アーアーと、ああああァァァと、姉の奇声が響いていた。
そうだ、と両掌で僕は顔を覆う。
自分は、姉に向かって何という酷いことを言ってしまったのだろう。自責の念に駆られ、恐る恐る振り返る。恐怖に駆られた自分を呪った。アレは、これは、それでも自分の。
――翌朝。
「美味しい朝食は出来てるかなぁ?」
愉悦混じりの間宮の声が聞こえた時、僕は最後のつみれを作り終えたところだった。
「務? おい、起きてるか? 生きてるか? まさか死んだ?」
五月蠅いなと、ただ思う。
「務、務? 嘘だろ? おい? 務?」
激しいノックの音が響く中、僕は鍋につみれを投下しながら唇を噛んだ。
「返事しろよ、おい。おいって、昨日は、その酔って少し言い過ぎ――」
乱暴にカギが開く音がしたのとほぼ同時に、扉が開け放たれる。
つみれを掬いながら、振り返り、僕は頬を持ち上げた。
ドアノブを握ったままの、間宮のその虚を突かれたような、惚けた顔が面白かったからだ。
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「いや、その……お前」
「何? あ、ちょっと分量が分からなくて沢山作り過ぎちゃったかもしれないから、運ぶの手伝ってもらっても良いかな」
つみれ汁を盆に載せ、僕は無理にそれを間宮に押しつけた。
腑に落ちない様子ながらも、台の上に乗ったままの沙希香一瞥した後、静かに間宮は頷く。
「ああ。上で待っていればいいか?」
「うん。残りは僕が持って行くから」
後は野菜だけだからと僕が微笑むと、何も言わずに間宮はきびすを返した。
その階段が軋む音を耳にしながら、姉のちれぢれになった長い髪に唇を落とす。
「今日も僕たちを生かしてくれて有難う」
心からそう口にして、僕はサラダを手に、間宮の後を追った。
リビングの上には、既に各自用に皿や椀が並べられている。
「なぁ務。死んだんだよな、アレ」
「アレってなんだよ」
対面した位置に僕が腰を下ろすと、訝る様子で間宮がほおづえをついた。
「悪い。その、沙希香さんだよ」
「ああ。生きてるに決まってるだろ? 当たり前じゃないか」
「よく止血できたな」
「見よう見まねで何とかね。僕達のために犠牲に、まだ生きてるけどさ、そのさ、食料になってくれたんだろ? 無駄になんかできるわけがないよ、その気持ちを」
「悪かった」
「それはさっきも聴いたよ」
「違う。俺は昨日酔ってたんだ。それで、お前に」
「良いんだよ、分かってる。飲めないと言えない程辛かったんだよね?」
「何だって?」
「これまでずっと、一人で抱えてきてくれたんだろ? 僕を傷つけないように。そうだね、確かにここへ来た直後にこの件を聴いていたら、僕は今のようにはしていられなかったと思う。有難う」
微笑したまま続けた僕の声に、間宮が唖然とした様子で眉をひそめる。
「もう良いんだよ。おかしいとは思ってたんだ、キッチンに通してくれないこと。ずっと今までずっと、姉さんの意思を尊重して、だけど僕に知らせないように、一人で料理してくれてたんだね。もういいんだよ、これからは僕が全部やるから」
「……いや。沙希香さんはさ、お前と有紗ちゃんのために犠牲になったわけだから。俺が食べるのは悪い」
「でも姉さんは、間宮のためなら喜んでくれると思うよ。実際喜んでたよ」
「よろこんでた? そんなわけないだろ」
「どうして? だって君は僕の大切な友人じゃないか。さ、早く食べてよ、冷めちゃうから」
「いや、俺菜食主義者だから」
「ごめんね、本当に。気づいてあげられなくて。肉、あんなに好きだったのに、ここへ来てから全然食べなかったのにさ。だけど、それもそうだよね。精神的な外傷になるよね。これから、これからは、少しずつでもまた食べられるようになっていけばいいと思うよ。だからさぁ早く。その第一歩が今だ」
「だから良いって言ってるだろ」
「僕の作った料理を残すことは許さない。姉の体を無駄にするな」
「悪かったって言ってるだろ」
「分かってるって言ってるじゃないか」
呆れた僕のその声音に、一度両手で顔を覆ってから、間宮は吐き捨てるように呟いた。
「誰にだって好き嫌いくらいあるだろ」
「許さない。ここでは人命すら犠牲にしなければならない程、食糧が不足してるんだろう?」
「まずく作る奴が悪いんだろ。まずかったら残すから」
そう呟き、一口汁を啜った間宮は、すぐに横にあったナプキンで口を覆った。
「不味い。お前味覚がやられてるんじゃないの?」
「なら君の料理も相当不味いって事だね。僕が美味しいと思って食べられるんだから」
「言うねぇ」
「ほら、一口で良いからさ」
今度は僕がほおづえをついた。両手であごを支え、薄く笑う。中学生の頃、有紗の食事を見守っていた時のことを思い出す。まだ妹は小学生だった。
「一口……」
僕とつみれを交互に眺め、間宮は極限まで目を細めていた。笑顔じゃない。険しい細め方だ。後悔とも憤怒とも言えないその表情の後、暫くして間宮は唇に弧を貼り付けた。
「一口だな。一口噛んだら、今日はもう終わりだ、いいな」
うなずき、微笑のまま僕はそれを眺める。
黒色の箸で僕が、つみれの欠片を確かに口へと運ぶのを、間宮は見ていた。
一方の間宮はと言えば、きつく目を閉じ、何か念じるように静かに唇を開ける。その触れるか触れないかの所で箸は止まったまま。そのまま数分経過した。
「……もういいだろ」
「食べて無いじゃないか」
「ああもう五月蠅いな」
五月蠅いのは間宮の方だと考えながら、勢いよく口蓋へと消えたつみれを目で追う。
瞬間彼の喉と肩が揺れる。嗚咽が聞こえた。噴水のように黄土色の溶解物が食卓を汚した。勢いよくしたたる吐瀉物は、床へと流れ落ち、びちゃびちゃと音を立てる。
「偉いよ間宮。第一歩だ」
僕は笑いながら拍手した。
口元を引き寄せたナプキンで覆いながらこちらを睨め付けてくる間宮の表情が、けれどどうしても理解できなくて、小首を傾げる。
その脇を走り抜けるようにして、彼は自室へと戻ってしまった。
まだ食事は沢山残っているというのに。
「もったいないなぁ」
僕は一人そう呟いた。応える者がいなくなった室内。
実にその状態がしばらく続く。
丸三日、間宮は部屋から出ては来なかった。
その間も、三食毎に、規則正しく料理を作り、僕は間宮の部屋の前に盆を置いた。
ドアノブにぶつかりこぼれてしまわないように、少しだけ距離を作って。
「間宮? せっかく姉さんが君のために力を貸してくれているんだから、少しくらい食べなよ。食べないと体に悪いよ? 毒だよ?」
これまでに何度かノックをしてみても、全く応答がなかった。
そんな調子だから四日目の夜を迎えた時も、僕は何も応答がないのだろうと半ば確信していた。だが。
「……まだ生きてるのか?」
「当たり前じゃないか? そんなことより良かった。僕、間宮が衰弱死しちゃったんじゃないかって、心配で心配で」
僕がそんなことを呟いた正面で、微かに扉が開く。
「何だ、寝てないのか」
自分こそ余程眠れていなそうな間宮の顔に、目の下を指でなぞりながら僕は苦笑した。
「うん、ちょっとね。最近じゃ、いつも姉さんと一緒にいるんだ。沙希香も僕と一緒にいる方が落ち着くみたいでさ」
「それ……ハンバーグか?」
「うん、そう。自信作なんだ。肉汁たっぷり、あ、こっちのミネストローネも中々だと思うんだ」
「しぐれ煮か佃煮の間違いじゃないのか?」
「やだなぁ。確かに隠し味にちょっとだけ血液は入ってるけどさぁ」
「隠し切れてないだろ。この悪臭の根源はこれか。何考えてるんだよ、失血が過ぎたら危ないだろ」
「沙希香の心配してくれてるの? それなら大丈夫だよ。僕がつきっきりで面倒見てるから。もう間宮は何も心配しなくて良いんだ。もう下にも降りてこなくて良いからね」
そう告げ笑った僕の正面で、静かに扉がしまる。けれど、閉じる前にその手が、ハンバーグの皿を手にしたことに、僕は満足感を覚えた。後、もう一歩だ。
それから。
――ああ朝食を作らなければと、僅かに微睡んでいた頭を叱咤して、四時にさしかかろうとしている時計を僕は一瞥した。
「姉さん、ごめんね、痛いよね。だけどね、もうちょっと、もうちょっとなんだ。昨日ね、間宮がハンバーグを食べてくれたんだよ。次はきっと、もっとさ。だから頑張って」
僕が頬を持ち上げ告げると、沙希香もまた頬を微かに持ち上げたような気がした。
黒い目が時折左右に動く姿が、次第に愛らしくすら見えてきた。
ただここの所寝ていないせいか、他にもいもしない虫の姿が見えるような気がして、僕は何度も何度も頭を振らなければならない。
「沙希香、死んじゃ嫌だからね」
立ち上がりながら再度呟き、残った部位を確認しようと背をかがめる。
「またお前は同じ事を繰り返す気か」
「え?」
「やっぱりもう死んでるじゃないか」
背後から首に腕をかけられ、そのまま体勢を立て直される。
ぼんやりとしたまま僕が振り返ると、そこには険しい表情を浮かべた間宮の姿があった。その幾分か痩せた様子の腕が苦しくて、振り払う。
「お前はその腐乱死体に頭からつっこむつもりだったのか?」
「フランシタイ? 何それ?」
「いい加減に正気に戻れ。ああ、やっぱり人間駄目だな。暗闇に閉じこもってるってのは。光も点けないんじゃ、結局意味がない。おい、今が何時か分かる?」
「四時でしょ? 朝食の準備、すぐ始めるから」
「十六時の方だ。これだから文字盤の時計なんて置きたくなかったんだ。何が料理には秒針が必要だ、だよ」
「何の話? どうしちゃったんだよ間宮。お腹すきすぎておかしくなっちゃった?」
「おかしいのはお前だろ。もうそれはお前の姉なんかじゃない。腐った肉の残骸だ。ハンバーグを分解して確信したよ。絶対死んでるってな。腐肉に虫。最悪だ。嫌な予感がすると思ったら、ああもうこんなに虫が沸いて、お前さ、何でこの状況に絶えられるんだよ? ああもう眼球なんて腐りかけじゃないか、うわ、ハエが」
「何を言ってるんだ。今だって瞳が動いただろ。それに頬だってもう両方無いけど、ちゃんと、わら、笑って」
「ハエだっていってるだろ。頬のは羽化する前の蛾だ。うわ、ありえないだろこれ、なんだよこれ、最悪。もういいお前は上にでも行ってろ。どうせ何にも出来ないんだから。掃除の一つも出来やしないくせに」
「待ってよ。待って、沙希香は未だ生きてる」
「お前な……ああそうか、そうやって有紗の事も最後まで誤魔化していたわけだ。自分自身に対して、こいつに対して。最低の奴だよ」
「最低? 僕の何処が? 何処が最低だって言うんだよ? 生きてるんだよ、本当に」
「もう良い止めろ務。分かった、お前は良くやったよ。追い詰めたのは俺かもな。だけどな、俺の前では嘘なんてつかなくて良いんだ。お前がいくら頑張っても、お前の姉がいくら頑張ってもな、俺には人肉食の趣味なんて無い」
「人肉食? 何を言ってるんだ。貴重なタンパク源なんだよ」
「真に受けるなよ馬鹿。だからお前は馬鹿だって言うんだ。それで何か? 自分が食べられるのは怖くて嫌だからお願い助けてお姉ちゃんて、そういうことかよ? 最悪だな。誰がどう見ても考えても分かるだろ。これはお前に対する俺からの復讐だ。日和を殺された俺のな」
「復讐? 何を訳の分からないことを言ってるんだ。だからアレは不慮の事故だって」
「事故だろうがなんだろうが、お前が殺したんだよ、務」
「だけど僕が、一体いつ日和ちゃんを料理してお前に差し出したって言うんだよ」
僕の泣くような叫びに、それまで怒りに駆られていた様子の間宮が、虚を突かれたような顔をした。
「間宮は毎日笑いながら見てたんだ、僕が沙希香を食べるのを。美味しいか、美味しいか、って訊きながらさ。復讐だって? そんな下らないばかげた勘違いで沙希香はこんな目にあったって言うの? そんなの認めない。絶対に許さない。タンパク質だったって言えよ、認めろよ」
「務、お前分かってて……」
「知らない知らない何も分からない、分かりたくなんて無いんだよ僕は、もう全部何もかもないんだよ僕は、僕には。何でそんなこと言うんだよ。友達じゃなかったのかよ。間宮がそんなこと言うから、だから僕にはもう沙希香しかいないんだろ。僕だって君なんか大嫌いだ、顔も見たくない、同じ空気だってすいたくない。でもな、でもさ、此処には僕と君と沙希香しかいないんだ。他に、他に僕にどんな選択肢があるって言うんだよ。考えても見ろよ、得体の知れない、ただ性格だけは最低だって分かるお前なんかと、変わり果てた姿だけど優しかった沙希香だ。明白だろ? これ以上に明瞭な選択なんて無いだろ? お前より姉さんの方が全然ましだ。だから生きてなきゃ駄目なんだよ沙希香は。被害者は僕だ」
捲したてた僕を、初めは唖然とした様子で、それから次第に苛立つように間宮は見ていた。ひとしきりその声が続き、そして止んだ時、間宮は、肩で息をしている僕の体を押した。
勢いで通路へと躍り出た僕の前で扉が閉まる。
「お前の気持ちはよく分かった。務の中では、俺は腐乱死体と同格ってわけだな。悲しいよ、俺の中では、お前と俺は対等な友達になれるんじゃないかと思ってたんだ。本気でさ。でもな、やっぱり無理だったんだ。悪かったな無理させて」
「え、ちょっと待っ」
扉の向こうから漏れてくるかぼそい声に、思わず焦燥感に駆られ、強くノックする。けれどそれが僕に残されていた最後の体力だったようで、そのまま僕の体は床へと頽れた。
床の冷たい心地が、久方ぶりに、まぶたの奥の深い闇をもたらす。
ずっと、ここ数日の所求めていたというのに、自制していた眠りの闇だった。
このまま何も考えずに睡眠をむさぼりたい。
そう思い目を伏せていたのは一瞬のことであったように僕は思う。
気づけば辺りはまばゆい光に覆われていて、何度か瞬きをすると視界がかすんだ。
「あ、気がついたか? お前通路で倒れてたんだよ。やっぱり寝てなかったんだな。丸二日近く寝てたよ。起きないんじゃないかと思った」
「……間宮。運んでくれたの?」
「ああ、まぁな」
どこか照れたように笑った彼のその表情に、安心感を覚えて、僕もまた頬を持ち上げた。久方ぶりの自然な笑みであるような気がする。
「間宮も無事で良かったよ。扉締めてあんな事言うから、心配したんだ」
「あんな事?」
「うん。ああ、覚えてない? ごめん、僕そんなに寝てたんだ。本当にごめん、いいすぎたと思ってさ」
「いや、お前より覚えてると思うよ?」
笑顔で続いた間宮の声に首を傾げて身を起こそうとした時、正面を、間宮の顔と自分の顔の中間を、巨大な肥えた蛾がゆっくりと横切るのを目にした。
「え?」
慌てて何度も体を揺らすのに、身動き一つ出来ない。
「あんな、ってどういう意味かと思っただけだ」
「ちょっと間宮これ」
自分の体が拘束されていることに気づいた直後、何かが腹部で蠢いていることに僕は気づいた。
「全部本心だよ。お前なんか俺の友達たる価値もない、どころかその分際で、この俺を」
恐る恐る視線を向けると、腹部から勢いよく何かが飛び跳ねた。
肥大化した、白い体躯。芋虫だ。
「よくも俺と腐乱死体なんかを同格として扱いやがったな」
「う、っ、あ、あ、あ」
虫の腹部に付着した紅を見て、自分の体が食い破られたことを自覚した。瞬間、ぞわりぞわりと体中を無数の黒白黄金色赤紫と雑多な色合いの虫たちが取り囲んでいる事に気がついた。
「お前なんぞ腐乱死体以下だ」
「や、止め、止めてくれ、頼む」
叫びながら、顔の上に大きな銀ばえが止まったのを右目が理解する。
「大体良くも人肉なんぞ食べさせてくれたな。どうしてくれるんだ、未だに食欲が戻らない」
苛立つように一度強く、間宮が何かを叩いた。その音で、この室内が、白い壁と透明な硝子で仕切られていることに気がついた。
「まぁ良いさ。せいぜいマグネエルライトの恩恵を嘆くんだ。お前はもう簡単には死ねない体だ。生きながら虫に食われ尽くせ。姉の体からはい出た虫たちにな。妹の分も含めてな。勿論お前の妹の方の分だ。有紗ちゃんもさぞかし苦痛だっただろうしな。大丈夫だ、どうせすぐに再生するさ。終わりのない苦しみだ。いやぁ、ここまで運ぶの苦労したんだぞ。よりにもよって転移転送装置の側で何て事をしてくれやがったんだよ本当。とくと後悔しろ、このカスが。俺にたてついたことにも、その間抜けな頭で俺を見下したことにもな」
「嫌だ止めろ止めてくれ、うわ、あ、無理だ、助け、助けて、助けてくれ間宮、嫌だ」
「せいぜいわめけよ。お前が言ったとおり、ここには俺とお前と、お前の腹部で虫に食われ切った姉しかいないんだからな。骨は拾っておいてやったから。ま、飽きたらまた見に来てやるよ。それで気が向いたら助けてやるから。被害者気取りの可愛そうな馬鹿をな」
次第に遠のいていく間宮の声に、僕の意識もまた遠のいていく。
ただ腹の皮膚の上と下、皮膚一枚挟んだ内側も外側も、這いずり回られ、食い破られ、舐め回され、蹂躙され、そんな感覚と恐怖だけが、ただ。
***
僕は瞼を開けた。ああ……あったなぁ、そんなことも。
他には何があっただろう。
たとえばエンキに実験された時、間宮が助けてくれたことだってある。
***
「ねぇ、今日はどんな実験なの?」
瞼越しにもありありと伝わってくる青い光に懐かしさと安堵と、僅かばかりの新たな恐怖を覚える。
「今日はちょっと、脳の表面の研究」
拘束を終えたエンキが、電動鋸を振るわせる。その音に、自然と僕の身体はこわばっていった。
「それは……命には関わらない?」
「はぁ? 何言ってるんだよ。俺たち、不老不死だぜ。今更どうした」
笑いながら応えたエンキが、鋸をおいて、メスを手に取る。その楽しそうな顔を見据えながら、何度も僕は瞬きをした。
「……そうだね」
「ちょっと痛いかもしれないけどな、これも医療の進歩のためなんだぞ? お前のおかげで救われる沢山の人間がいるんだ」
落ち着かせるようなエンキの声音に、僕は目頭を押さえたい気持ちに駆られたのだけれど、拘束された身体ではそれは叶わない。そのまま、エンキに口へと拘束具をはめられ、何も喋ることが出来なくなる。
「はじめるから」
そう宣言して、エンキが僕の額へメスを降ろそうとした。その時だった。
「何をしてる」
乱暴に開いた扉が、大きな声を上げる。
動かぬ身体のまま、懸命に僕が視線を向けると、そこには怒りを瞳に宿した様子の間宮がたっていた。
「勝手に入ってくるんじゃねぇよ。今施術中なんだ」
笑って応えながら、エンキがメスに力を込める。その痛みに、僕は思わず目を伏せた。
「確かに考えは足りないけどな、手術が必要には見えないぞ、その患者。いや、献体か?」
「部外者は帰れよ」
「帰れるはずがないだろ。何をする気だ? どう見てもお前が、務の脳を砕いて殺そうとしているようにしか見えない」
「だったら何だよ? 別に、俺がそうした所で、お前に口出しする権利なんて無いだろ」
「目の前で、お前の娯楽のために尊い命が一つ失われようとしてるんだから、誰にだって口を出す権利がある」
「命ねぇ。一つどころか数え切れない程奪ってきたお前に言われても説得力がねぇんだよ」
「悪いが俺はお前と違って、興味や楽しみから、人命を粗末にしたこと何て無い」
「結果は同じだ、そうだろ?」
「務を離せ」
「嫌だね」
「務である必要性がないだろ」
「じゃあお前が代わるか? 別に俺はお前でも良いけどな」
「巫山戯るな。お前には、そいつを弄ぶ権利なんて無いんだよ」
「それはそうだ。俺は務を友達だと思ってるし、ちゃんと同意だって取ってる。ただなぁ、確かに今俺の手が滑れば、務の脳の断面は空気に触れることになるだろうな。血がどれだけ跳ぶか、見物だな」
自分の頭上で交わされる会話に、僕は身体をこわばらせた。
けれど、死という未来が本当にあるのであれば、それは寧ろ望ましいのではないかとさえ考えた。
「いい加減にしろ、止めてくれ」
「どうして?」
「そいつがこんな所で死ぬなんて、それもお前なんかの玩具として殺されるなんてな、見るに堪えない」
「随分と言ってくれるな。医療の発達に犠牲がつきものだって言うのくらいは共通認識だと思っていたが。でもなにそれ、務の命乞いか?」
「今そいつの頭蓋を外して一体どんな発達があるのか説明してみろよ」
「命乞いじゃぁないわけだ。じゃあ別に良いだろ、俺がこいつの頭を切り落としたって」
エンキが電動鋸へと手を伸ばす。
「止めろ」
反論など無いだろうと思っていた僕は、間宮の制止に、逆に困惑した。動かない身体の細部へと力を込めながら、ただただ、なぜ間宮が今止めろと言ったのだろうかと考える。
「やっぱり、命乞いか? 動いたらその瞬間、やるから、俺」
僕の額の上へと刃を近接させながら、エンキが笑った。つかみかかかろうとしていた様子の間宮が足を止める。
「素敵な正義感だな。羨ましいよ。それとも何、友情とか言う奴?」
交渉したエンキの声が、モーター音にかき消されていく。
「待て、止めろ」
「そんなに止めて欲しい?」
「そいつは、俺やお前とは違うんだ」
「どういう意味だよ、そりゃあ」
「世の中には生きてることに価値がある人間だっている」
「お前が何を言ってるのか全くわかんね」
「止めてくれ、頼む」
間宮がそう口にしたのをきいて、エンキが鋸を停止させた。
「頼む? それがお願いする人間の態度か?」
***
僕は瞼を開けた。エンキは結局僕の本当の友だちでは無かった。だけどこの件で、僕は結局のところ間宮がいないと何も出来ない――そして間宮もまた、僕がいないと出来ないことが多いのだろうと考えた。
さて。
そんな僕達が、いかにして……恋愛関係に至ったか、だ。
色々あった後、僕達は、二人で大八島国となる大陸の発展を見るようになった。その過程で、少しずつ距離が近づいた。たとえば、
***
その日。
毛布に包まって、僕は天井を見上げた。豪奢な天蓋付きの寝台に寝転がっているから、随分と遠くに見える。抜け出せないこの世界において、最近の僕は、インテリアに凝っている。他にやる事もない。
そんな時、ふっと過るのは、過去の光景だ。
僕は――あの時から、どれくらい変わったのだろう。外見の話では無い。
心の在り方、心の在処、そういったものだ。
暗い室内で、そろそろ朝だからと起き出して、僕は適当にシャツを着た。
今日は雨だ。
外へと出ると、間宮が久方ぶりに白衣を着ていた。真剣な眼差しで、回廊の壁の模様を見ている。最近、雲の下の各地には、プロジェクトが成功しつつある区画が出始めていて、最終的に現在は間宮が携わっている大八島地域にも文明が出来つつあるそうだ。それは僕らが暮らしていた『嘗て』の世界の歴史を模倣した骨組みを下敷きにしているから、非常に温厚で四季のある土地らしく、そこの大地母神の象徴的意匠らしいのだが――見据える間宮の瞳はどこか暗かった。
「務か」
「――どうかしたの?」
「人肉食があったんだ。食葬とは異なる。ある地域において、巫女と呼ばれる象徴的神の寄り代を食しているんだ」
「何か問題があるの?」
「その地域一帯で神聖視されている巫女は盲目の一族の人間で――原因はプリオン、タンパク質異常だから、喰う周囲は、人にしては長い時をおいてからだが、皆盲目になる。これが広がっていけば、大八島は視覚障害者の国となるだろうな。今もだいぶ増加していて、この紋章も今では言葉のような意味合いを持っているんだ」
つらつらと語る間宮を、僕は静かに眺めていた。
真剣な間宮を久しぶりに見た気がする。
こちらに振り返った間宮は、それから何故なのか、小さく息を呑んだ。僕は首を傾げる。
「どうかした?」
「……別に」
「そう」
頷き――邪魔をしては悪いだろうと、僕は踵を返した。
温かいぬくもりに包まれたのは、その時のことである。
一歩追いかけてきたらしく、後ろから抱きつかれた。
正面に回った両腕が、僕を引き寄せる。
僕の肩に顎を乗せて、それから間宮が両腕に力を込めた。
「間宮?」
「――俺に、その女の肉、喰わせる気か?」
全く考えていなかったから、僕は目を伏せ俯いた。
「それとも、自分で喰う気か?」
「思いつきもしなかった――永久の時間、盲目で過ごす覚悟なんて、僕にはない」
「じゃあ、さっき何を見ていたんだ?」
「別に何も――しいていうなら間宮だけど……ただ、そういえば、僕らの生まれた世界の神話によれば、最初に開眼した聖母がいて、その他は目が見えない種族で耳と聴覚が異常発達していたというものがあるから――これから、そうこれから、その地域は僕と間宮の故郷によく似た世界になるのかなとは思ったかもしれない」
「それは今考えたことだろう? 本当は、何を見ていたんだ?」
「どうしてそんな事を?」
「お前が優しい瞳をするなんて、暗くない眼差しなんて、俺は記憶にない限り昔に見た以来だ。最後に見たのは、お前が俺に眼球入りのシチューを振舞ったあの日だ」
その言葉に僕は首を傾げた。
「ただ何気なく、間宮を見ていただけだよ」
そう呟いて首だけで振り返ると、何故なのか虚を突かれた顔をしていた間宮は、頬を僅かに赤くしていた。そしてギュッと改めて僕を抱き寄せた。
「いつもそうなら良いのにな」
間宮はそう言うと、僕の顎を持ち上げて、目を伏せ顔を斜めに傾けて、僕にキスをした。
触れるだけのキスだ。最近僕に、間宮は時折優しい口づけをする。
僕らの関係は、幾ばくかの変化を見せようとしている気がした。
――まるで美しいものだけの上辺を見るかのような、優しい関係に。
下敷きが歪だというのに、ここの所の僕達は、親友に戻ったようになり、そして、そうして――まるでまるでまるで、時にこうして恋人じみた戯れをするのだ。間宮は優しい。僕は、それが表面上だとよく知っている。もう信じる事は無い。だが――時折分からなくなる。いつ裏切り嘲笑されるのかと僕は身構え待っているのに、間宮はただ、こうして僕を後ろから抱きしめて、安堵するように吐息をするからだ。僕は正面を向きなおし、キスを終えた唇を静かに撫でてみる。思いの外、間宮の唇は柔らかい。その感触が残っている。
「務、ずっと言おうと思っていたんだ」
「何?」
「好きだ」
――ああ、この言葉は、いつ裏切られるのだろう?
そう考えながら僕は微笑した。
「僕も好きだよ」
終わりの序曲が響いた気がした。だが――……
……――幸いなことに、僕は未だに終焉の曲の終わりを耳にしてはいなかった。
覚めない夢を、僕は忘れない。
***
と、まぁこのように、現時点に至るまで、抱き合いキスをするように変化した僕らは、時々お互いについて好きだと述べ、そして安定した距離感を維持して過ごしている。戯れの『好き』が真実なのかと問われると、僕側の気持ちとしては、嘘ではない。恨み辛み、憎しみ、色々ある。それは事実だし、今も僕は、間宮が僕を自分に惚れさせて、こっぴどく振るつもりなんじゃないのかと身構えている。きっと間宮は僕への復讐心を忘れていない。だが、現時点では僕らは平穏で。
「ただいま」
そこへ間宮が帰ってきた。僕はリビングのソファで振り返る。
すると間宮が、そんな僕を抱きすくめた。
「おかえり……ン」
間宮が僕に触れるだけのキスをした。目を伏せると、より深く唇を貪られる。
「務」
「うん?」
「務が欲しい」
「……いいよ」
僕は微苦笑してから頷いた。すると僕を腕から解放した間宮が、ソファの上に僕を押したおした。
「ここでするの?」
「すぐに欲しいんだ」
「なにかあったの?」
「――お前が、ここを出て行くつもりだとエンキに言われてデマだと分かっていても気が気じゃなかったんだよ」
僕の服を性急に開けながら、切実そうに間宮が言った。僕は目を丸くしてから苦笑した。その後肌にいくつも鬱血痕を残され、乳首を愛でらた。僕の胸の突起は朱く尖った。
「んン」
甘く噛まれた時には、鼻を抜けるような声が出た。
その後間宮は僕の中をじっくりと解し、挿入した。ぐぐっと奥深くまで貫かれ、僕は片手で口を覆う。それでも声を堪えられない。
「ぁあ……アッ、ん……あぁァ」
「務、好きだ」
「うん、うん」
「どこにもいくなよ――もう」
「ぁ、あ、激しっ」
「もう、俺から離れるな。俺の目の届くところにいてくれ」
「あ、あ、あああ」
切実そうな声を放ちながら、間宮が獣のように僕を貫く。僕の体はびっしりと汗ばみ、全身を熱に絡め取られる。熔けてしまいそうなくらい熱い。僕は正面から間宮に抱きつき、快楽由来の涙を零す。
「ンぁ、イく」
「イけ」
「んあ――!!」
この夜、間宮は荒々しく僕を抱き潰した。
翌朝。
目が覚めると体が綺麗になっていて、毛布を掛けられていた。今は夏だが、空調のお陰で涼しい。
「おはよう、間宮。間宮は起きてたの?」
「おう」
そばの一人がけのソファで、間宮は書類を見ていた。上半身を起こした僕は、そちらを見る。そして告げた。
「ねぇ、間宮」
「ん?」
「僕は今でも間宮の愛情を疑ってるよ。だけど、僕はもう間宮の隣を離れるなんてできないから。だから、どこにもいかないよ」
僕の言葉に虚を突かれた顔をした後、間宮が切ない顔で笑った。
「俺だって務の好意を信じられん。でも――それでも、仮に偽りでも、いいんだよ。俺は、お前が好きだから」
「言葉って難しいね。気持ちの通りとは限らないから」
「そうだな。さて、今日も仕事だ。お前も視察に同行するか?」
「ううん。僕が言ったら、盲目の巫女の血肉を持って帰ったんじゃないかって不安にさせるからやめておくよ。今度こそ誤解で、また虫地獄に放り込まれるのも嫌だしね」
「……」
間宮が押し黙った。きっと、間宮だっていずれの件も忘れていないはずだ。
「でも間宮は酷いことをしたのと同じくらい、僕を助けてくれて、僕を想ってくれてる。だから万が一間宮がなにも見えなくなっても、僕は支えるよ」
「――視覚じゃないが、見えないな」
「え?」
「お前それ、どこまで本気だ?」
「全部本心だけど?」
ああ、伝わらない、交わらない。そう考えていると、立ち上がった間宮が、正面から僕を抱きすくめた。
「務」
「うん?」
「お前は、いてくれたらそれでいいんだ。俺の中で務は、務という独自のポジションにいるからな」
「恋人じゃないの?」
「――っ、それは理想だよ。でもな……でも、たとえ永遠に俺の片想いでもいい」
「片想いしてるのは僕の方なんだけど」
僕はおずおずと間宮の背に腕を回し返した。それからお互い目を見て、顔を傾け唇を重ねた。
これは――そう遠くない将来の話であるが、僕はきちんと、間宮の愛情を信じられるようになる。そんな、残酷な優しさと幸福と。それを亡くなった僕の家族達だって、認めてくれるはずだ。僕は心から、間宮を大切に思っているのだから。
―― 終 ――