あじさい
――毎年GWの二週間後の週末に、僕は弟と共に祖父の家へと出かける。父の仕事の関係だ。すると、祖父の家の庭には、いつも満開の紫陽花が咲き誇っている。瓦と漆喰の壁の蔵の前、無花果の木と池のそば、そこに、青と紫の綺麗な花が見えるんだ。土がアルカリ性か酸性かで花の色が変わるなんて聞いたことがある。僕は頭が悪いから、リトマス試験紙は嫌いだが、この紫陽花は昔からとても好きだ。
そっと手を伸ばしながら、葉っぱを這う蝸牛を見る。頭の上の角が、何となく王冠を彷彿とさせる。あれ、これは目だったかな? 僕は小学生の頃、真面目に理科の勉強をしなかったから、中学になった現在も苦手なままである。そんな僕も、今年は受験生だ。どこの高校に行くのかなんて、まだ漠然としか考えていない。きっとどこか一つくらいには合格するだろう。そう思っていた。
「わっ」
その時、強い風が吹いた。一陣のその風が、僕の髪を攫う。慌てて抑えた時、僕の靴は泥を踏んだ。先程降った天気雨でぬかるんでいたらしい。体勢を崩した僕は、そのまま紫陽花の茂みに突っ込んだ。
「っ」
きつく目を閉じて衝撃に耐える。葉が僕のシャツを撫でた。ドキリとしたなと思いながら双眸を開け――そして僕は瞠目した。
「あれ?」
風景が、変わっていた。
変わらないのは、咲き誇る紫陽花だけだ。
それ以外の周囲は、日本風の片田舎の庭園ではなく、まるで森の中のように変わっていた。慌てて振り返ると、蔵があるはずの背後にも木々が広がっている。そして――そのずっと向こうには、世界史の授業で見たことがあるような西洋のお城がそびえ立っていた。
「……ここは?」
思わず呟いた時、ガサリと茂みが揺れる音を聞いた。視線を前に戻して顔を上げると、そこには険しい目をした一人の少年が立っていた。金色の髪と、日燭みたいな不可解な光り方の瞳をしている。そちらは暗褐色だ。
僕がこれまでの人生において、これほどまでに美しい少年を見た事が無かった。
「お前もエトレール魔法学園の受験者か?」
「――へ?」
一瞬その美に凍りついて声を失った僕だが、吐き捨てるように言われた言葉で、やっと我を取り戻した。
「もう試験は始まる。行くぞ」
少年はそう口にすると、僕の手首を取った。狼狽えながらも、歩き出した少年を追いかける。
「あの……ここは? 君は?」
「――俺は、エルクの国の第三王子、ハルト=エルク・ラ=ディオザールだ。俺を知らないのか?」
「僕、世界史が苦手だからそんな国は聞いたことがないよ……王子? 立憲君主制!?」
「……扉人の受験者か。百二十年ぶりとなるな」
「え?」
「この世界とは違う場所から訪れる、紫陽花に招かれし扉人――たまに、運命の理によって、学園自体が望む生徒は、お前のようにある日会場に喚ばれるらしい」
「何を言っているのかちょっとよく分からない……」
「お前、名は? この俺が名を聞くというのは、名誉なことだ。覚えておけ」
「僕は朝儀だよ」
「アサギか。まぁ良い、話は後だ。試験は一年に一度しかない。遅れては元もこうも無いからな」
こうして手を引かれるがままに、僕はハルトと共に林を抜けた。そして目の前にそびえ立つ古めかしいが豪奢な城を見上げた。僕達が走っていくと、自然と城門が開き、庭園には空中に浮遊している沢山の花が見えた。花弁がロウソクのように明かりを灯している。その淡い紫陽花色の光のせいで、白い昼下がりの校庭を、虹が埋め尽くしているように見えた。
「試験って何をやるの?」
「魔術師としての適性検査だ」
「それ、僕も受けるの?」
「――この、運命の日に喚ばれた以上、時間内に学園の敷地にいた以上は、絶対だ」
そうして連れて行かれた先には、大勢の少年がいた。皆、僕やハルトと同年代だ。つまり中学三年生くらいである。多くの少年は、ハルトを見ると顔を引き締めて、深々と頭を下げた。中には憧れるようにハルトを見ている眼差しや、頬を染めている少年もいる。だが、誰ひとりとしてハルトに直接声をかける者はいなかった。まるで僕が新宿で芸能人を見かけた時の反応だ。
「皆、揃っているようじゃな」
そこへ嗄れた声が響いてきた。視線を向けると、長く白いあごひげの老人が、悠然と下足取りで、中央の演台の前に立った所だった。
「これより入学許可試験を開始する。望んでここへと訪れた者も――紫陽花の扉が誘った者も、皆等しく、その実力を図ろう」
紫陽花、と、そう口にした時、老人が僕をちらりと見た。ドキリとしていると、柔和に目を細められ、小さく笑われた。わけがわからないまま僕が見守っている前で、いつの間にか入ってきた大人達が、真っ白い棒を配り始める。オーケストラの指揮者が持っていそうな棒だ。タクトと言うのだっただろうか。僕も受け取った。
「それではここに、魔術師としての入門秘技――召喚術の行使により、合否を判定させてもらおうぞ。召喚対象は、自由。命あるものから、召喚しやすい思い出深き品まで、なんでも構わぬ。始めよ」
老人のその言葉に、僕は杖を握り締めて、周囲を見渡した。ぞくぞくと皆がタクトを振り、すると白い煙が現れる。その靄が消えると、大小様々な動物や玩具が姿を現したのだ。失敗している人は、誰もいない。
「落ち着け」
その時声がした。縋るようにそちらを見ると、まだ動いていないハルトが、僕を見て片目を細めていた。もうその場で何も召喚していないのは、僕達だけである。
「頭の中に出現させたい対象を思い浮かべ、呼びかけるだけだ。【対話】だ」
「対話?」
「――ここへ来てくれと頼めば良い。今、一番そばにいて欲しい存在に」
「だったらハルト、僕のそばにいて!」
思わず僕が口走った時だった。周囲にそれまでとは桁が違う”白”が、溢れかえった。突然濃霧に襲われたその場には、動揺が広がる。何も見えない。僕が息を飲んだ時、その霧が不意に、罅割れるように瓦解した。霧なのに砕け散ったのである。
「な」
見れば、そこには呆然としているハルトの姿があった。僕は何が起こったのか分からなかった。周囲も呆気に取られたように呆然としている。
「――人間、を……俺を召喚獣にした、だと……?」
ポツリとハルトがそう言った瞬間、周囲から驚愕の息が漏れた。
「馬鹿な――人間を召喚獣に出来た等という記録は、初代学園長だった大魔導師エトレールにしか存在しない。膨大な魔力を持たなければ成し得ない。そんな――……まさか……」
みんなが僕を見ている。居心地が悪くて、僕は涙ぐんだ。
そこへ老人が歩み寄ってきて、僕の肩に静かに手を置いた。
「話は後じゃ。ハルト殿下。君が最後じゃよ」
「で、ですが、召喚獣が召喚術を試した記録など、エトレールの恐れ多くも人の使い魔であった我が祖、初代国王陛下にしか――」
「君にならば、できるかもしれぬよ? なにせ、紫陽花の扉人を見つけたのだから」
老人のその言葉に、ハルトが息を飲んだ。そして握り締めたタクトに視線を落としたあと、決意をしたように顔を上げた。
「やります」
その言葉が終わった時――会場を再び霧が襲った。僕のもたらした霧は、どこか温かかったのだが、今度の霧は、冬の朝のような静けさを伴っていた。息を飲むと、体の奥までもが冷える。僕は一度大きく瞬きをし、そして――息を飲んだ。
正面に、日食に似た、暗褐色の瞳の狼が見えたのだ。
「俺と契約しろ。俺の要請に応え、常に共にいろ」
見惚れた僕は、夢現の気分でふんわりと頷いた。もう僕は、この世界が夢なのではないかと半分ほど思っていたし、その狼がハルトであるというのを直感的に識っていたし、彼は先程僕と共にいてくれることになったのだから、お礼に僕もそばにい用と思ったのだ。
頷いてすぐ、霧が晴れた。今度は、一気に青空に塗り替えられるように白が溶けた。
「人間同士の相互契約が成立じゃな。本年の主席入学は、ハルト殿下と――アサギ!」
老人に名前を呼ばれて、僕は我に返った。するとハルトが深々と頭を下げたので、僕も真似をした。
「エトレール魔法学園の更なる発展と、来期の輝かしい入学生の決定を祝して、試験は終了とする」
そう老人が宣言すると、小さく誰かが拍手をし、それが漣のように広まっていった。
僕も軽く手を叩く。そうしていたらハルトが、じっと僕を見た。
「本契約を――してしまうか?」
「本契約?」
「ああ。人間同士には、別の契約形態があると、王族のみが閲覧可能な古文書で見たことがある。互いに互いを慈しむという契約だ」
「うん、いいよ」
夢だと思っていた僕は、あっさりと頷いた。
――これが、間違いだった。
僕達は、人気の無い皇帝の奥の紫陽花庭園に移動し、東屋で向かい合った。
「何をするの? ……っ!!」
尋ねた僕の肩に手を置き、ハルトが不意に僕の唇にキスをした。目を丸くした僕は、嫌ではないことが不思議だった。だって、僕達は男同士だ。世界にはいろいろな趣味の人がいるというのは知っていたが、僕は自分が男同士でキスをする日が来るなんて思ってもいなかったのである。
「ぁ……」
キスが深くなる。僕は怖くなってハルトにしがみついた。そんな僕の震える体を、彼は優しく抱きしめた。そして耳元で囁く。
「安心しろ、酷くはしない」
「酷い……? それって――ぁ……」
その時、シャツの上から乳首を優しく摘まれた。首筋にチリリとした痛みがはしり、強く座れる。僕は何が起こっているのかわからないまま、呆然としているうちにシャツを脱がされた。下に着ていたTシャツの下に、ハルトの手が忍び込んできて、今度は直接的に胸の突起を撫でられる。するすると僕は抵抗する前に脱がされていき、気づいた時にはボトムスが落ちていた。
「ああっ」
ハルトが僕の陰茎を撫でた。初めて人に触れられて、その刺激が甘く気持ち良かったものだから、僕は声を上げた。自然と漏れてしまう。ゆるゆると手を動かされると、すぐに僕の体は反応を見せた。
「大魔導師エトレールと初代国王陛下は、お互いだけを想うとして、このように睦みあい、繋がったらしい。それは、一つの契約形態だ。これまで俺はそう習ってきた」
「ひ……ぁ……」
「だが、アサギを見ていると、何故なのかお前が欲しいと思って――全てを俺色に染めてやりたくなる。まだ出会ったばかりなのにな。これが、召喚獣と召喚主の結びつきなのだろうか……? こんな感覚は初めてだ」
「ああっ……も、もう出るよ……っ」
「お前に触れていると満たされる。アサギと一つになりたい」
「あ!!」
その時、それまでとは異なり、少し乱暴にハルトが僕を押し倒した。東屋の椅子の上で、僕は太ももを持ち上げられる。
「あああっ」
中にハルトが入ってきたのは、そのすぐ後の事だった。するとツキンと僕の胸にも満たされているような感覚が広がった。僕は、ずっと、”彼を求めていた”――何故なのか『再会できた喜び』が僕に襲いかかった。僕の体は何も知らないのだが、僕の感情は彼を知っていた。僕の記憶は彼を知らないのに、僕の深い奥に眠る何らかの”流れ”が、確かにハルトを知っていた。
「もっと、あ……っ、は」
腕を回してハルトを求めると、更に深く貫かれた。一つになった感覚に、体が狂おしいほどの愛しさと快楽を感じる。繋がった事実に、僕の直感が歓喜していた。
「ぁ……ああっ、あ」
感じる場所を突き上げられながら、僕は涙を零す。それを舐め取り、ハルトが腰の動きを早めた。そうして彼が果てた時、僕もまた嬌声と共に吐精した。そしてそのまま、僕は眠ってしまったらしかった。
「お兄ちゃん?」
弟の声で目を覚ますと、僕は紫陽花の茂みの蝸牛を眺めていた。
――アレ?
「帰ってこないから見に来たんだけど、ぼんやりとして、どうかしたの?」
「あ、ううん……なんでもない」
「もうすぐご飯だよ」
そう言うと弟は、蔵の方へと戻っていく。僕は周囲を見回して、白昼夢だったのだろうかと首を傾げた。紫陽花の花に触れてみるが、特に何事もない。体に違和感も無い。
「……」
狐につままれた気分で中へと戻る。そして手を洗いに洗面所へと向かい――僕は、シャツの首筋に見える赤い痕を見た。夢じゃない? そう考えたら、一気に頬が熱くなった。単なる虫刺されかもしれなかったが、僕はハルトの口付けを思い出していた。
――その年の秋、僕の元に一通の手紙が届いた。
『エトレール魔法学園への入学を許可します』
その知らせに、家族が騒然となった。僕には意味が分からなかったが、祖父には意味がわかったらしい。祖父が、僕を始めたみんなの前で教えてくれたのだ。
「昔から、この高崎家からは、青嵐が吹く季節に、紫陽花に飲み込まれては不意に消え、そしてまた戻ってくる、そういった扉人が現れるんだ。俺が知る人間だと、朝儀の曽祖父がそうだ。言われてみれば、朝儀はよく似ている」
「似ている?」
「生まれ変わりだというんだよ、扉人は。何度も何度も愛しい相手に会うために――会えるようにと、いつかの昔に使い魔だった紫陽花の花びらが扉を繋いだという古文書がある。後で、見せてあげような」
頷いた僕の前で、弟が手紙を見て首を傾げた。
「一般受験も落ちそうだし、推薦は全部落ちたし、ここに入学したら?」
すると呑気な僕の父が曖昧に笑った。
「生まれ変わっても愛し合うなんて、ロマンティックで良いね。俺も、亡くなった母さんと、来世でも会いたいな」
家族は、僕の魔法学園入学に乗り気だった。
――てっきり夢だと思っていたから、そんなことを言われても困る。けれど、僕もハルトにもう一度会いたい。
そう考えながら、秋の庭で紫陽花を見る事にした。茂みが揺れたのはその時の事だった。
「あ」
「――!」
見れば、そこにはハルトが立っていた。
「ようやく会えた。突然いなくなることは、もう許さないぞ。顔を見たくて、思わず扉を探してしまった――召喚獣になったからだとは思うが、自由に行き来できるようで何よりだ。入学届けには、もうサインをしたか?」
「すぐにしてくる!」
「もっともあちらでの生活の準備は既に俺が整えておいた。寮の部屋も同じだ」
「本当?」
「ああ――だから、俺と来い」
僕はこの時、ハルトの手を取った。
こうして――次の初夏、紫陽花が咲き誇る季節から、僕はエトレール魔法学園に入学する事になった。そこでは召喚術をはじめ、数多の魔術を学ぶ事になったのだが、僕の隣にはいつもハルトがいたし、僕もいつもハルトの隣にいる。
「何を見ているんだ?」
「ん?」
僕が日記を書き終えた時、ハルトが僕に声をかけた。現在僕たちは、王宮で、お互いをお互いの使い魔として働いている。召喚獣の中で、思考能力がある者は、使い魔とも呼ばれるのだ。
「また、紫陽花の季節が来たなと思って。僕達が初めて会った季節だから――ううん、何度も巡りあった季節だから」
思わず微笑すると、ハルトが僕を抱きしめた。
「何度でも、俺はお前を想おう」
こうして僕達は、現在は少し大人になったのであるが、愛情は変わらない。
ただ一つ言えるのは――……
「今でも思うけど、体に障るのは、契約の一形態じゃなくて――ただの愛の証だよ」
「そうだな。今の俺は、契約など関係なしに、お前に触れたくて仕方がない」
「ん」
深く口づけをされ、僕はその甘さに良いながら、静かに瞼を伏せる。
僕は、ハルトを愛している。