【1】マッサージ店ジプシー
会員証を差し出し、お名前欄:藍円寺享夜(フリガナ:アイエンジキョウヤ)――と、繰り返し本日まで、俺は各地で書いてきた。
場所は、マッサージ関連のお店において。
時にはタッチパネルで入力する事もあれば、カードを出すだけだったり、口頭で聞かれたりという事もある。種類は問わない。指圧からタイ古式マッサージまで、何でも来いだ。
俺は、マッサージ店ジプシーである。
常にお気に入りの店を探している(が、これは即ち、俺にとって良い店が無いという意味だ)。
どうして俺がマッサージに今日も雨の中わざわざ通って、無駄な三十分に六千円を支払った事を後悔しながら歩いているかと問われたならば、そりゃあ、俺の体がこっているからだとしか言えない。
真面目に、辛い。
頭痛・腰痛・肩こり……そういうの全部が、本当、辛い。
物心ついた時には、既に悩まされていた。どんな子供だよ……。
俺には、子供の頃から、柔らかな肉体は無かったのだろうか……。
そのまま成長し、三十代が見え始めた二十七歳現在、一向に肩こり(他略)の改善は見られない。肩こりに良いと言われる事は、一通り試したが効果はゼロだ。マッサージで、人に直接触られていると、どことなく気休めになるので、今の所、対策としてはこれが一番マシであるとは言える。
黒い傘をさしながら歩いている俺は、水溜りを踏んだ時、嫌な感覚がして、目を細めた。傘の上を見る。勿論布があるから、その先の夜空は見えないが、あからさまに雨足が強まってきているのは分かった。音が激しくなったからだ。水溜りでも無いというのに、靴も水で濡れてしまっている。
元々、天気予報は雨だった。だから、覚悟はしていた。それでも肩の重さに耐えかねた。しかし、行ってきた今、既にもう、また別の店に行きたい。だって、痛いし重いし辛い。俺から肩こりを除去してくれる人がいると聞いたら、俺は何でもするかもしれないってくらい、きつい……。
「はぁ……」
思わず溜息が出た。
「――ん?」
灯りに気づいたのは、その時の事だった。
そこには――……実は、ちょっと前から存在だけチェックを入れておいたマッサージ店があった。Cafe&マッサージという看板が出ている。街から俺宅(寺をしている)までの一本路の入り口付近にあるため、最初は、「こんな店あったっけ?」と、そう言う認識をしたのだったと思う。
一度気づいてからは……俺は、通りかかる度に、その前では、足早になった。
何となくであるが、そう、本当に何となくなのだが……怖いのだ。
俺は、寺に生まれて、一応住職なんていうものを生業としているのだが、若干霊感的なものがあるらしいのだ。らしい、というのは、自分でも懐疑的だからである。
俺、視えちゃった事は、実はほとんど無いのだ。
ただ、小さな頃から、”嫌な感じ”と”何か怖い”は、経験多数である。
また、俺は視えないけど、この土地は、何故なのかテレビで見る常識とは異なっていて、『幽霊? いる、いる!』みたいな人間が多いのだが……彼らに言わせると、俺がお経を読むと、幽霊がいなくなると言うのだ。そんな事を言われても、最初から見えない俺は、最後まで見えないので、いたのかいないのかも不明だし、本当にお経に効果があるのかも分からない。
なお、俺のお寺は、除霊とかを、本来受け付けていない。
密教系の仏教ではあるのだが、この土地土着の亜種要素が含まれている。
それが関係しているわけでは無いのだが、俺的に、やっぱりそういうのは、専門家(この土地だと、俺の家の本家の玲瓏院家とか)が、やった方が良いと思うのだ。お寺は本来、除霊をする所では無いのである。強いて言うならば、浄霊となるのだろう。
が、俺の家、ほぼ檀家ゼロに等しい……。数軒あるだけでも、有難いのだが。そちらでの俺の年収は、世間では坊主はお金持ちだとか言っているが……百万円に達した年は良い方だったりする……。
勿論それじゃあ二十七歳独身男性の俺、マッサージはおろか、食べていけない。生きていけない。よって――俺は、結局、頼まれるがままに、お経を読みに出かけるバイト……端的に言えば、除霊のバイトをしている。
詐欺だとは、言わないで欲しい。見えないけど、一応、”何か嫌な感じ”が”あ、嫌じゃなくなった”程度になるまで、頑張ってお経を読んでいる。俺は、その瑣末な感覚の差異を、一応霊感であると捉え、お祓い屋さんをしているのである。
そんな俺の感覚的に――あの、新しいマッサージ店であるが、どことなく奇妙なのだ。本来、怖いものは、直ぐに分かる。だから俺は、全力回避する。
除霊で食べている俺ではあるが、俺、怖いの本当に無理だ! 無理すぎる! 怖いんだ。怖いのは、大嫌いだ。ホラー映画とか、ありえない。無理!
だからこそ、怖いものには、人一倍敏感でもある。
だと言うのに、あの店……絢樫Cafe&マッサージという店が、『怖い』と明確に気づいたのは、比較的最近だった。
具体的に言うと、店の手前まで普通で、店前通過中のみ悪夢から覚めた時のような不可思議な動悸がして、店を通過後全てが気のせいだった感覚に陥るのだ。
怖い。本当、怖い。え、何コレ?
そうして気合いを入れて見てみると、更に遠方から近づく時は、何か嫌な感じを覚え、大分遠方に遠ざかってからは、凄く怖い感じがすると悟った。
よって、結論として、俺の経験則的に、あの店は、かなりヤバイ。
なので俺は、いつも全速力で通過している。
今も雨だからじゃなく、怖いから足早になりかけて――……「っく、うわぁ」
俺は思わず立ち止まった。立ち竦んだが正しい。ズドンと一気に肩が重くなったのだ。何かが起きたのが直感的に分かった。コレ、アレだ。あの、集落のはずれにあったお化け屋敷の外結界を誰かが破ったな……完全にあそこの気配がする、うわぁ。
そう……俺も、長年悩まされている肩こりの正体に、ちょっとは、気づいてもいる。
霊障ってやつだと考えられる。
だって、朝お経読むと、ちょっと楽になるしな……。
しかし、そんな事を口にしたら、精神科医(仮)の兄に頭を叩かれるので、言わない。
それに俺は、この土地の常識じゃなく、テレビの常識を信じるので、内心では幽霊なんていないんじゃなかろうかとも強く思っている。
けど、けれど、だ。
頭が痛い。俺は蹲りそうになったが、それは堪えた。吐き気までしてきたが、それもこらえた。ズキズキというよりは、ガシっと締め付けられたような頭痛が響いてくる。両肩には、一体何トンの岩が乗っているのか聞きたい程だ。無理だ、これ、歩けない……。
ここまで酷いのは、久しぶりだ。
前の時は、風邪かなと称して、すぐ上の精神科医の兄のもとに出かけたら、「肩にホコリがついてる」と言われて、バシンバシンと叩かれた瞬間に治ったが、兄は、本日は救急のバイトだ。俺には、兄が二人いる。一番上の兄は、子持ちで、別宅で子供と二人で暮らしている。あの人は、心霊現象とかとは一生縁がなさそうな顔をしている。良いなぁ……。
だけど、困った。体も限界だが、雨もかなりキてる。土砂降りだ。
俺は、チラッと、怖いお店を見た。怖い、本当怖い。行きたくない。絶対近寄りたくない。でも……今、ちょっとでも体を楽にして、かつ雨から逃れるには、あの店しか、見渡す限り存在しない。
どうしよう。行きたくない。怖い。でも、肩もまずいし、ああ、けど、怖いよう……誰か、助けて……うーん、怖い……。
と、俺はグルグルと思考の迷宮に投げ込まれた。しかも頭痛がしているから、上手く頭が回らない。俺は、とりあえず家を目指し、重い足取りを再開した。
だが、どんどん肩が重くなる。最悪の具合である。倒れそうだった。救急車を呼んでも良いレベルか、検討を開始した。そんな時、丁度斜め前に、嫌な感じがするお店が迫った。怖いお店だ。怖い。
だが――毎回の常である通り、やはりお店の真正面は、不思議と怖くないのだ。
不可思議な動悸がしつつも、安堵している感覚だ。何なのだろう。
再びチラッとお店を見る。中には、二人の店員さんが見えた。
一人は、背の高い、尋常ではないイケメンだった。爆発しないだろうか。さぞかしモテるんだろうな。童貞の俺からすると、イケメンは、それだけで罪だ。色々な意味で。
俺は、この人物を見た瞬間、視線が釘付けになった。
――怖すぎて逆に見ちゃうんだけど、ナンダコレ?
人生で初めての体験である。俺は、首を傾げた。店の前に来た途端、比較的体が楽になったのもあり、さくっと傘の下で首を捻る事が出来た。
外見自体は、本当に人間か疑う程の美貌の持ち主(男だけど)という以外の感想は、あまりない。形の良い猫のような瞳が、若干堀が深めのせいか、紫っぽく見えるが気のせいだろう。スっと通った鼻筋は、俺に美術センスは無いが、ちょっと石膏像を作れるなら再現してみたくなる程度には、整っている(つまり俺に再現は無理だ)。恰好良く微笑している唇は、きっと十人中七人くらいの街コン参加中女性が話しかけたくなる人の良さそうな艶がある。しかしながら――……”何か怖い”……。
もう一人の少年は、全く怖くない。無個性な十代後半くらいの茶髪の少年は、眺めていると癒される感じがする。ハーフかクォーターなのか、大きなキラキラした瞳が黄緑色に見える。背も低い。だが、威圧感は、身長の問題では無いだろう。
そう考えていた時、例の怖い方の青年と目が合った。
――ゾクリとした。
息が凍る。怖い。それが、やはり、直感的に思った最初の感想だった。
逃げなければ。大至急ここから逃げなければならない。
確かにそう考えているというのに、俺の足は、扉に向かい動き始めた。
ダメだ――惹きつけられて、逃れられない。
その時、俺の脳裏に、激しい雨の音が走った。
……そうだった。今は、土砂降りだ。ちょっと雨宿りするくらい、問題無いかもしれない。そんなちょっとだけの時間で、本当は怖くないって確かめれば良いじゃないか。それでもやっぱり怖かったら、お経を読んだら良いのだ。それに俺、そもそもマッサージに行きたいって思ってたんだった。こんな時間に、道中に開いているマッサージ店があるなんて、ラッキーじゃないか。うん。幸運だよ、俺。
何故なのか、一気に気分が変わった。気分というより、思考だ。思考は、確かにそう変わった。だが、本能的に、やっぱり俺は怖がっているらしい。だって怖いもん。
それでも理由不明のまま、俺は傘を閉じて、店のドアノブに手をかけた。
「いらっしゃいませ」
人の良さそうな顔の店員さん二名が、俺を見た。俺は、体の震えを押し殺しながら、聞いた。
「まだ、開いているか?」