【7】薔薇の香り(★)
「――藍円寺! おい!」
気がつくと、俺は抱き起こされていて、床の上にいた。
ローラが驚いたような顔で、俺を見ている。そして俺の頬に手で触れ、僅かに眉を顰めた。それから短く息を飲んだ。
「お前な……痛いんなら痛い顔して痛がれよ……」
「……」
「てっきり大丈夫なのかと……おいおいおい、これ、かなり痛いんじゃないのか?」
「……」
「お前、相当我慢してたんだな……」
「……今はあんまり痛くない」
何故なのか、周囲に不思議な甘い匂いが漂っている。そのせいなのか、思考が少しぼんやりしている気がした。
「あんまりって、ようするにまだ痛いってことだろ? この強さの薔薇香を使って痛いんじゃ、普通なら動けねぇんだよ……」
よく意味が分からなかったが、とりあえず俺は、食料として失態を犯したように思った。
「悪い……今日は別の所を噛んでくれ」
「ん?」
俯いた俺は、ローラの不思議そうな声を聞いた。
「……藍円寺が良いって言うんなら、まぁ……」
ローラが少し困惑したような声で言った。俺が視線を向けると、首を捻っていた。
それからローラは、俺の顎を掴み、自分の方を向かせた。そして俺の左耳の下に唇を寄せた。強く吸われる。牙は突き立てられなかった。
だが、その瞬間、俺の全身から力が抜けた。完全に傷の痛みも消える。意識が一気に曖昧になっていく。彼の唇が動いた時、ツキンと優しい快楽が広がった。
「ぁ」
気づくと俺は、声を出してしまった。目がとろんとしてしまう。その箇所を吸われるたびに、ゆっくりと体を愛撫され穏やかに高められているような気持ちよさが広がっていくのだ。気づくと周囲の薔薇の香りが強くなっていた。
「あ……ああっ」
それからローラが、俺の右手の付け根を噛んだ。牙が突き刺さってきたが、痛みではなくその刺激が気持ち良かった。背筋をゾクリと快楽が這う。血が抜けていくのが分かる。すぐにそれは終わり、口を離してから、ローラが傷口を舐めた。
すると二カ所の丸い小さな傷が、すぐに霞んでいった。
俺の体はふわふわしていた。温かい。力は入らないのだが、全身が軽くなっているような不思議な感覚だ。俺は、無性に眠くなってきた。
瞬きをしようと目を閉じた時、俺はそのまま目を開けずに眠ってしまった。
――起きると、窓から月明かりがさしこんでいた。
俺がベッドの上で上半身を起こすと、椅子に座っていたローラがこちらを見た。
そこは、以前にも来た事がある、ローラの家の一室だった。
何気なく手を見て、俺は目を瞠った。首にも手にも、包帯が巻いてあることに気づいたからだ。手はそもそも全然痛くないが、首もほとんど痛まなくなっていた。たまに鈍く、ツキンと痛むだけだ。
ローラが手当をしてくれたらしい。改めてローラを見ると目があった。
すると自然と、俺の口が動いた。
「有難う。礼を言う」
「なにが?」
するとローラが怪訝そうな顔をした。
「手当をしてくれたんじゃないのか?」
「ああ、まぁな……別にそこに礼は不要だろ」
そしてそう言うと、視線を逸らして、どこか不機嫌そうな顔をした。
「どちらかと言えば、お前は俺を怒っても良い所だ」
「どうして?」
「どうしてって……どうしてって、お前は痛い思いをしたのが、分かってないのか?」
俺は首を捻った。何せ、頼んだのは俺だ。
「? 俺が、俺からだけ、血を取るようにと頼んだからだろう?」
「そりゃそうだけど……俺が痛くしたのはわざとだし、痛くしないようにもできる」
そんな事は知らなかったので、俺は何度か瞬きをした。
「あー、そ、その……一応言っておくと、藍円寺には、痛くしないで欲しいって言う権利がある。俺はそれをお前に言わなかったな、そういえば。つぅか言わなくても、試しに言うくらいしろよ。その前に、普通に痛がってみせろよ」
俺は十分、昨日など特に、かなり痛がっていたと思うのだが、ローラには、そうは見えなかったのだろうか? 確かに、良質な食料になるべく、そこそこ我慢はしていたつもりではあるが。
「藍円寺は痛いなんて、一言も言わなかっただろ。『いやだ』ってしか言わなかった。言われないと意識してなきゃ分かんねぇよ。普通は堪えずに『痛い』って言うんだよ。そこまで痛みが広がる前に、我慢も普通は出来なくなる」
「……悪い」
「謝るところじゃ全くない。調子狂う」
「その……これからは痛くしないでくれ」
「約束は出来ないけどな。よっぽど痛くしたい気分じゃなきゃ、基本は考慮する」
痛くしたい気分とは何だろうか。俺にはよく分からなかったが、聞かないでおいた。
「とりあえず――その状態で帰すのは不安が有る。今夜は泊まっていけ」
「……良い。迷惑をかけるわけには行かない」
「泊まれ。『命令だ』」
その時、周囲に薔薇の香りが溢れかえったような気がした。
意識がグラつき、思考が曖昧になる。
倒れ込もうとした俺に、ローラが歩み寄り、支えてくれた。その腕の中で、俺は幸福感に打ちひしがれていた。やっぱり、ローラが好きだ。何をされても大好きだ。
そう考えながらローラを見上げると、猫のような瞳と目があった。
「そんな目で見るなよ。俺の事を好きだと勘違いしそうになるだろ」
勘違いではないが、バレては困る。そう思い、俺は顔を背けた。
すると右耳の後ろを、指でなぞられた。
「ひっ……」
「――随分と敏感なんだな。なんだよ、溜まってんのか?」
「ああっ」
ローラに耳へと息を吹き込まれ、そこで喋られたら声が出てしまった。
俺は自分の声に動揺した。慌てて視線を戻し、顔を離す。
硬直した俺を、ローラが不思議そうに見ていた。
彼は俺の反応に動きをとめた。
どうしよう、やはり怪訝に思われているようだ。なのに目が合うと俺は、どんどん真っ赤になってしまった。泣きそうだ。俺はきっと気持ち悪いだろう……。
「そう言う反応されると、俺は勘違いするぞ」
「……」
「俺のことがすごく好きで意識してるようにしか見えない。俺に恋してるように見える」
「……」
「否定しないのか?」
「……」
「それとも俺の理性を試すゲームでも始めたのか?」
好きなのかなんて言われたものだから、俺は胸を抉られたようになった。
実際、大好きだ。顔が熱くてどうしようもない。
だが、絶対に気持ちがバレて欲しくない。
食料のままでいい。
俺は――今では、そう思う理由に気がついていた。
そうだ、そうなのだ。俺は、ふられるのが怖い。人生で初めて味わう恐怖だ。
なにより、ふられてもう二度とローラに会えなくなるのが嫌だ。
ふられたら、相手とは普通会わなくなると思う。それならば、今の方が良い。
そう考えて目をそらした時、首筋を噛まれた。
――やはり、薔薇の匂いがする。
俺はこの日は……そのまま眠ってしまったようだった。
そして、夢を見た。
夢の中で俺は、全身を歓喜で震わせながら、快楽に涙し、下からローラに貫かれていた。
彼の体に腕を回して抱きつき、泣きながら嬌声を上げる。
「気持ち良、っ、あ」
全身がとろけているような感覚で、強すぎず弱すぎない、純粋な気持ちよさにむせび泣いて喘いでいた。
ローラは悪戯をするような目で楽しそうな顔をしている。同時に、俺の首をざくざくと牙でさしている。だが、そこに痛みはない。噛まれるたびに、じわりじわりと快楽が広がるのだ。
噛まれた箇所から広がる快楽は、多分内部の前立腺よりも、ローラの腹に俺がこすりつけている陰茎よりも、ずっとずっと強い快楽だ。
噛まれると、ちかちかと視界が白く染まる。
「もっと……あ、もっと強く……」
俺がそう口走れば、ぐっと深く牙を突き刺しながら、ローラはより深く内部をつきあげる。
「あ、や、もっと弱く」
俺がそう言うと、腰を引き、甘噛みにかえる。全て、俺の希望通りにしてくれる。
だが俺が達しそうになると、弱くといってもググっと牙を深くし、快楽を俺の皮膚の下へと送り込んでくる。俺は声を上げて果て、彼の腹部に白液を出す。
余韻に浸っていると、ローラが俺の出したものを指に絡めて、ぺろぺろと舐めた。
俺はこんなに愛に溢れた心が通じるような性交渉をした覚えは他になく、穏やかな気持ちの良さに全てが満たされていく。
――甘い香りがする。薔薇の匂いに俺は沈んでいる。
ローラは俺の中から体を引くと、優しく俺を寝台に横にした。
そして濡れている俺の太股の精液を指ですくい、それもぺろぺろと舐めている。
それから俺の太股をざくりと噛んだ。痛みはない。やはりただ、気持ちいい。
ローラが口を離し、たらたら流れ出した血を舐め取り始める。舌はその内に、俺の陰茎へと向かい、その後ローラは口淫をはじめた。
じゅるじゅると音を立てて吸い上げられる。再び俺の体は反応をはじめた。
その時ローラが自身の指を噛み、血が垂れる指を二本、俺の中へと押し入れた。上と中の両方から水音が響いてくる。
俺の中へと、ローラは、彼自身の血を塗り込めていく。彼の血は熱い。俺の体にそれがしみこんでいくと、カッと全身が熱くなる。俺はそれが全身に届いた時、声を上げた。
自分でも信じられないほど甘くて大きな声だった。満たされている。満たされていた。
ローラの陰茎が再び押し入ってくる。
かわりに引き抜いた指で、俺の陰茎の先端を嬲る。
先走りの液と血が混じり合っている。
今度は俺の先端から、ローラの血が中へと入ってくる。尿道を暴かれる感覚。
もう一方の手で俺を抱き寄せ、再び首筋をざくりと噛んだ。俺は再び声を上げた。
全身の力がよりいっそう抜ける。
「あ、あ」
俺は喘ぎながら、ローラに血を強く吸われる。ぴくぴくと震えながら、俺は牙の衝撃だけで果てそうになったのだが、今度はそれが出来なかった。
入り込んだ血に精は吸収され、その血が俺の陰茎の中を蠢いた。ずっと達しているような感覚がすぐに押し寄せてくる。
ローラがそれを見計らうように激しく動き始めた。
「ぅ、ぁ、ァ……っ、ン」
俺は前立腺をぐりと刺激され、のけぞった。内部だけで限界を迎え、前後からの前立腺への刺激に、体がはねた。中だけで俺は果てた。内部に熱い液体が注がれる。
――薔薇の香りがいっそう強くなる。
俺の中におかしな力がうずまきはじめる。さらに深く腰を動かされた時、俺はまた果てた。だが……これは夢だから、目が覚めたら覚えていないかも知れない。
――俺の思考はそこで途切れた。