【番外】交通事故(★)
ローラと恋人同士になった俺は――今では、毎日、絢樫Cafeに通っている。
それは、緊張しすぎて会えないという俺の内心よりも、俺が行かないとローラが、
「藍円寺に会えなくて寂しかった」
と、目元に涙を浮かべるものだから、俺は相変わらず緊張しっぱなしなのだが、ローラを悲しませたくなくて通っている次第だ。
ただ、最近では、マッサージをしてもらう事はほとんどない。
それは暗示をかけられなくなったという意味でも……それ無しでも体を重ねているからという意味でもない。断じて違う!
――肩があんまりこらなくなったのだ。
実は、必死すぎてあまり把握していなかったのだが、思い返してみると、バイトの予約時刻を昼に変更した、ローラの元にまだトマトのフリをして通っていた頃から、俺の体は軽くなりつつあった気がする。
最初は吸血の緊張や痛み――快楽で頭から飛んでいるのかと考えていたのだが、どうやらそうではないらしい。
嫌な感じがする機会も、かなり減った。
以前は、二時間は玲瓏院経文を読まなければ嫌な感じが収まらなかったような場所も、最近だと到着して一息ついた頃にはそれが消えている事が多い。
玲瓏院のご隠居(俺の師匠)いわく、人の明るい気は、悪いものを祓うというから――俺はそれだけローラとの恋愛に浮かれているのかもしれない。愛の力とは、偉大だ。って、俺、何を考えているんだ……。
恥ずかしくなって、思わず右手で唇を覆った。左手では錫杖を握る手に力を込める。本日の俺も、僧服姿だ。
「ん?」
そんな事を考えながら歩いていた時、赤信号なのに渡ろうとしているお婆さんが見えた。
「え」
見れば――信号が変わった所だったから、バイクが走ってくる。
しかもそれは……え? よく見なくても、俺の次兄の昼威のバイクだ。
「え、あ」
このままではぶつかる。俺の頭の中には、「お婆さんが大変危険だ」という考えと、「昼威がこのままでは交通事故を起こす」という二つの考えが浮かんだ。浮かんだ時には、既に体が動いていた。
お婆さんの体を抱きしめるようにし――俺は、予定ではそのまま抱きしめて逆方向に逃げるつもりだったのだが……あれ? 気づくと俺の両腕は空振りし、俺は前のめりに転んでいた。額をアスファルトに打ち付ける直前で手を地面についた時、ごくそばで、バイクが止まる気配がした。
「馬鹿野郎!」
「昼威! お前こそ、きちんと進行方向を確認しろ!」
「俺側が青だ!」
「そうじゃない! お婆さんが轢かれる所で――……あれ?」
俺は、自分が飛び出した理由を思い出して、硬直した。
周囲を見渡してみるが、誰もいない。え?
「接触していないのに、頭を打ったとも思えないがな――念のために聞くが怪我は?」
ヘルメットを取り、バイクを止めた昼威が俺の横に立った。
「……俺は平気だ。で、でも……昼威がお婆さんを轢きそうになっていて……」
「何を言っているんだ?」
「昼威、あれ? 俺とお前しか、どうしてここにはいないんだ?」
「――そう言われてもな。俺は家に着替えを取りに行き、これからバイトに行く途中だ」
「で、でも、お婆さんがいたよな?」
俺が焦ってそう聞くと、昼威が半眼になった。
「享夜、視たのか?」
「え?」
「あの老女は――俺が知る限り、常にここにいるけどな。お前から見たという話を聞いた事が一度もなかったものだから、驚いている」
それを聞いて俺は、息をのんだ。
「徘徊癖がある老人がご近所に? それは、ご家族も大変だな……」
すると昼威が、俺を、しょっぱすぎる塩辛を食べた時のような顔で見た。
「ま、まぁ、認知症は切実な社会問題ではある。で? 享夜。お前はこれからどこに行くんだ? 近場なら乗せてやる。馬鹿馬鹿しい除霊のバイトとはいえ、遅れては大変だろうしな」
「あ、いや――これからは、そ、その……デートで……」
その言葉に、ローラとの待ち合わせを思い出し、俺はにやけるのを止められなかった。頬が熱い。ちらりと腕時計を見ると、まだ余裕で間に合いそうだった。
「デート……? お前が?」
「な、なんでもない!」
「場所は?」
「絢樫Cafeだ。そ、そこの、カフェスペースで待ち合わせをしているんだ」
最近、砂鳥くんが、めきめきと腕を上達させていて、俺とローラは大体四時前後から試飲をさせてもらっている。
「……」
昼威が、頬を緩めている俺を、非常に怪訝そうに見ていた。だが、こんな奴でも兄だ。いつか、ローラを紹介したい。逆に昼威は、心霊現象を否定しているし、ローラが吸血鬼だと分かったとしても、絶対にそれを口に出したりはしないだろう。
「まぁ良い。乗れ」
「助かる」
こうして俺は、兄のバイクの後ろに乗った。予備のヘルメットは勝手に取り出してかぶった。そうしてバイクが走り出して、すぐ。昼威が前を見たままで、俺に言った。
「――恋人とは、上手くいってるのか?」
「あ、ああ。幸せすぎて、困るほどだ」
「つまり、恋人になれたのか」
「ッ」
「付き合ったという報告は貰った覚えがないが、良かったな」
「な……あ、あのな……あの……」
カマをかけられた。デートだけならば、付き合ったか否かはわからなかっただろうに。昼威はたまに、小賢しい。こうして雑談をしつつ、バイクが絢樫Cafeの前に止まった。すると、ほぼ同時に、店の扉が開いた。
「これはこれは」
視線を向けると、ローラが立っていた。俺はバイクを降りながら、ヘルメットに手をかける。そして錫杖を手に取りながら、見守る。笑顔のローラの前で――昼威が、対患者用外面の笑顔を浮かべたのを見た。
「ご無沙汰いたしております、先日は弟が大変お世話になったようで」
「ひ、昼威!? どうして知っているんだ!?」
「――藍円寺。昼威先生には、お伝えしたと話さなかったか?」
「あ……そういえば、幸せにしているとかと……光熱水道費……」
俺が肩を落とすと、ローラと昼威が沈黙した。
「昼威は救命救急で生きていくべき医師だからな。光熱水道も、蘇生させる技術だけは持っていたらしい……」
「享夜、そこに直れ。俺の専門は、メンタルヘルスだ」
「藍円寺、これからは、困った時はいつでも俺に言ってくれ」
ローラは笑顔でそう言うと、俺に歩み寄って――俺を引き寄せた。
「俺の藍円寺は、光熱水道費を振り込むご家族のATMではないので、以後お困りの場合は、是非こちらへ。昼威先生なら大歓迎ですよ」
そんなローラの声を聞いて、俺は狼狽えた。
「ローラ、ま、まさか、昼威から……」
血をとって、光熱水道費の代償とするのだろうか? 俺は昼威を相手に、ローラが浮気をするなんて耐えられない。
「藍円寺、馬鹿だな。俺がお前以外に食指が動くはずがないだろう?」
「ローラ……」
そんな俺達のやりとりを見ていた昼威が、咳払いをした。
「――この世界に吸血鬼など存在はしないが、俺のATMより百倍は価値が有る大切な弟は、決してそういった類の餌では無いのだから、愛を嘯いて糧とするような鬼畜の恋人が出来たと知った場合は、俺は兄として全力で阻止する」
昼威はそう言うと、スッと目を細めた。
「要約すると、弟を不幸せにするような恋人は、認めない。別れさせる。程度で言うと、金のない俺が、貯金して、別れさせ屋に依頼するレベルだ」
そんな昼威を見て、ローラが楽しそうな眼差しをした。
「俺も、恋人を不幸にするような、恋人のご家族の存在は不要だと思うので、心してくださいね」
昼威は、何も言わずにバイクを走らせた。それを見送りながら、俺はしばしの間、硬直していた。
「え……お、おい、ローラ」
「なんだ?」
「昼威、あれでも頭は良いから、あ、あんな風に言ったら、そ、その……俺達がこ、こい、恋人だと……」
口に出していたら嬉しくて、俺は舌を噛んだ。
「家族に同性愛者だと気づかれるのは嫌か?」
「ローラが相手ならいい。昼威にはそれに、その内言おうと――」
「じゃあ、恋人が化物でも問題はないか?」
「――ローラ、なら」
静かに答えた俺を、ローラが抱き寄せた。それから俺達は、絢樫Cafeの中に入り、明日の約束を取り付けるまでの間、雑談をした。
その日は昼威が帰ってこなかった。よくある事だ。
帰宅して寝て起きた俺は、その日は、ローラが昨日、テーマパークに行きたいと話していた事を思い出しながら、寺の掃き掃除をした。次第に冬の足音が近づいてくる。今日は、バイトを入れていない。だから、午後になったらすぐにでも、絢樫Cafeに行きたいと考える。名目は、テーマパークに行く日程を決定する、という理由だ。
楽しみだなと思いながら、俺は十三時過ぎにはローラの所につくようにと、寺を出た。本日は火曜日だから、本来であれば昼威がいるのだが、なんでも今日は救急に日勤のバイトを頼まれたらしく、昨日病院に泊まると話していた。
外科医としてならば、昼威の評判は悪くないだろうな。あいつ、なんでそっちに進まなかったんだろう? そう考えながら、俺は色づいている紅葉の街路樹を見た。小さな横断歩道と信号がすぐそばに見える。
ここでは、俺の同級生だった未和ちゃんが、四歳の時に交通事故で亡くなった。以来、今では土地の怪談話として、『小さい女の子にあの世へと引き込まれる横断歩道』として有名だが、寺から絢樫Cafeまでの間にあるこの道で、俺は一度も未和ちゃんの姿なんて見たことがない。酷い噂だ。
幼稚園の頃、俺は未和ちゃんが好きだった。初恋だ。
そして未和ちゃんは、俺の寺に遊びに来る途中で、轢かれた。
俺のせいだと泣いたら、昼威が俺の頭を軽く叩いていった事を覚えている。
「享夜のせいじゃない」
「昼威……でも」
「俺が、昨日から未和と付き合っていたんだ。未和は、お前じゃなく、俺に会いに来る途中だったんだ」
グサッときたが、兄も泣いていたので、俺は小学生の兄と二人で号泣した記憶がある。う、うん。なんというか――その悲惨な事故をなしにするならば、大体俺が好きになった相手は、昼威に惚れていた。だからこそ、ローラに先日、昼威の名前を出されて辛かったというのもあったのかもしれない。昼威は昔から無駄にモテるのだ。
あいつよりも格好良くなろうと俺は日々奮闘しているのだが、あまり効果を感じたことはない。むしろ――いまなお、ローラがもし、昼威に惚れてしまったらと考えるほうが怖い。俺達は、顔はよく似ている……ま、まぁでも、俺達の顔が良いとは思えないが。
天使のようなローラを見てしまうと、あれより素晴らしいのはこの世に存在しない気もする。だが別に俺は、ローラの顔に惚れたわけではない。色々な表情を見るのは幸せだけれども。そう考えていた時、笑い声が聞こえた。
「待って、そんなに走っちゃ危ないよ!」
明るい女の子の声に、車道へと視線を向けると――薄いピンク色のワンピース姿の少女が、白い仔犬を追いかけて横断歩道の中央にいた。俺の視界には、赤信号が入っている。田舎の信号だから、無視する人は珍しくはない。ふわふわの仔犬を追いかけている少女を見た時、なのに俺はざわりと胸に嫌な予感がひしめいた。
その理由に、すぐに気づいた。大型トラックが走ってくる所だったからだ。
ドライバーは、俺の中学の時のクラスメイト。この集落出身のトラック運転手だ。
行き先は俺の家の手前にある、牛乳屋さんのはずだ。いつもこの時間に通る。
「!」
少女とトラックを交互に見て、俺は目を見開いた。このままでは、瀧澤幼稚園に通っているらしい少女は、轢かれてしまう。なにせ、横断歩道の中央で、白いふわふわの仔犬を抱き抱えながら、しゃがみこんでいる。そして、驚いたように、トラックの方を見ている。
「っ」
慌てて俺は、飛び出した。
「危ない!」
そして、女の子を、仔犬ごと抱き上げようとした時だった。
――俺の腕が、からぶった。
え?
「な」
先日のお婆ちゃんを助けようとした時と、まったく同じだった。
狼狽えて息を呑む。慌てて視線を彷徨わせ、俺は右の足首の違和に気づいた。
反射的に視線を下げると、俺の足首を握る華奢な白い少女の指が見える。
『一緒に、逝きましょう』
その声を聞いて、俺は目を瞠った。直後、すぐそばに迫った大型トラックを見た。
――記憶にあるのは、そこまでだ。
◆◇◆
僕は、嬉しそうにしているローラを眺めて、思わず嘆息した。
藍円寺さんと待ち合わせをしているローラは、嬉しそうな顔で、窓の外ばかりを見ている。現在、午後十四時だ。待ち合わせは十三時過ぎだったらしい。藍円寺さんが遅れるのは――実は珍しくない。
除霊のバイトというのは、意外と不規則で、しかも真摯に藍円寺さんは、依頼者の不安が消えるまで、お教を読むだけではなく相談にも対応しているらしいから、結構長引くこともあるみたいだ。
あれ、でも、今日は休みだから早く来るって言ってなかったかな?
僕はそう思いつつも、人間という生き物は、なぜなのかお休みだからという理由で仕事を入れる事があるという不思議な生き物(社畜というらしい)と知っていたので、何も言わなかった。そもそも直接口で聞いたのではなく、読んだだけだしね。
それから――十五時、十六時、十七時。
どんどん時間が経っていった。ローラが、チラチラと、テーブルの上のスマホを気にしだした。藍円寺さんからの連絡を待っているんだと思う。なお、今まであの文明機器が使われている場面を、僕は見た事がない。
ローラは、藍円寺さんの彼氏感を出したいがために、最近契約してきたのである。トークアプリでスタ爆して起こしてくれと藍円寺さんに囁いているようだ。
そんなローラは毎日楽しそうだったが、藍円寺さんが十八時になっても姿を見せなかったものだから、次第に不機嫌そうな表情を浮かべ始めた。ここまで遅れたら、普通は連絡をよこすと思う(藍円寺さんの性格的に)。
何かあったのかな? と、僕も不思議に思っていた時、店の扉が開いた。
入ってきたのは、火朽さんと紬くんだった。
彼らは、藍円寺さんとローラよりも先に、カフェスペースの常連さんとなってくれた、貴重な二人である。
「いらっしゃいませ」
この二人には、カフェかマッサージかと僕が聞くことはない。火朽さんが、
「カフェ以外、ありえませんので」
と、怖い笑顔で前に笑っていたからだ。なので僕も、自然とカフェ側へと促そうとした。だが、いつもとは異なり、紬くんが――ローラへと走り寄った。
「あ、あの」
「あ?」
機嫌が悪いローラが顔を上げる。
「享夜さん、さっきトラックにはねられて、今、総合病院の救急に――」
それを聞いた瞬間、目を見開いて、ローラが青ざめた。
紬くんが、火朽さんに案内してもらって、ローラに伝えに来たのだと必死に話している。
「――僕だったら、会いに来て欲しいからと思って……」
藍円寺さんを慕っているらしい紬くんの声を聞いてすぐに、ローラが立ち上がった。
その表情が、あんまりにも蒼白だったものだから、僕は不安になった。
◆◇◆
――まさか、救命救急のバイト中に、弟が搬送されてくるとは思わなかった。
帽子をダストボックスに投げ捨てて、藍円寺昼威は嘆息した。
それから前髪を手で持ち上げて、不機嫌そうな顔で、ドリンクディスペンサーの前へと向かう。それは、緊急オペ室のすぐそばで、弟である藍円寺享夜がいるICUから少し離れた場所にある。
周囲のスタッフは、病院の規定もあるし、実の家族でもあるから処置から外れても良いと言ってくれたが、昼威は自分の手で意識のない弟の体にメスを入れた。家族の体にメスを入れて動揺して失敗する恐怖よりも、他のヤブ医者や新人に任せるほうが、恐怖が大きかった。
だがその手術が終わったあとは、バイトをそこで終わらせてもらった。
だから、紺色の術着の上に、上着がわりに白衣を羽織って、飲み物を買いに来た。
弟の意識は、まだ戻らない。麻酔が切れる時刻が一時間後だ。
もっとも、麻酔が切れたとしても、必ずしも意識が戻るとは限らない。
そう考えながら歩いていくと、暗い救急の待合席――黒い簡素な横長のソファに、ひとりの青年が座っているのが見えた。
「藍円寺は?」
昼威の姿を見ると、その青年は声を上げた。昼威は、青年の胸元にあるバッジから、絢樫Cafeの従業員である、『ローラ』だと確認する。既に名前は知っていたが、予想外の場所であった場合は、念のため、と、考えていた。
「――日常的に吸血されれば、人間の臓器は悲鳴を上げるし、いくら暗示でごまかそうとも貧血という具体的な数値が出る。あるいは、お前がこういう喰い方をしていなければ、別の結果になったかもしれないな」
率直に昼威が告げると、ローラが凍りついたように目を見開いた。
それを一瞥し、昼威は自販機の前に立ちながら、コーヒーを見た。
弟とは異なり、彼は甘くない飲み物が好きだ。
「そもそも、享夜が交通事故にあったのは、お前のせいだ」
「……どういう意味だ? 店に急いでいたという事か?」
「平和な頭をしているらしいな。無論、違う。お前が、俺の弟に『刻印』したせいで――これまで見えなかった強い霊がいきなり視えるようになった弊害だ」
「!」
「肩こりをもたらすような霊は寄り付かなくなったようでなによりだが――幼い時から耐性を身につけてきた俺ですら、何度も命を脅かされそうになった強力な……お前らにとっては微弱な妖魔、霊が、今は享夜にも視える。ただな、それを生きる人間と区別する手法を、急に力を得ても人間は持たない」
昼威はそう言うと、缶コーヒーを買って、振り返った。
ブラックの無糖だ。
「俺がバイクで送ったあの日も、享夜は、視える人間であれば、幼少時に既に無視する存在であると覚えさせられていた老婆を見て、事故にあいかけていた」
「……」
「西洋の概念は知らないが、玲瓏院に聞いた限り――鬼の刻んだ印により、人に混じった力が弱まる事は無いという話だった。よって、今後、さらに享夜は生き難くなるだろうな。仮に、命を取り留めたとしても」
ひとつだけのコーヒーの缶を、昼威はローラへと差し出した。
「安心しろ。執刀したのは俺だ。誰だと思っているんだ? 俺がむざむざ弟を死なせるはずがないだろう。麻酔が切れたら目を覚ます。そして、そのあとまた寝て、朝にでも意識を取り戻すはずだ」
それを聞くと、ローラが缶に手を伸ばしながら息を飲んだ。
「大切にしないと許さないといったはずだ」
「……ああ」
「今後、いかにして享夜を大切にするか、具体的かつ明確に考えつつ、朝を待て。じゃあな。麻酔が切れたのを確認したら、4913室に運ぶ。せめて見舞ってやれ。それが屍であってもな」
そう言うと、昼威は白衣を翻して歩き始めた。結局、自分の分の飲み物は買わなかった。
――何事にも、絶対など、ない。
いくら己の腕を信じようとしても、目が覚めるかは不安だ。
そうして同時に思うのは、己であれば、家族よりも恋人の顔を、生還した時には見たいという考えだった。
◆◇◆
「ン……」
俺は眩しい光に呻いた。
ツキンと頭痛がする。夢現に、夜中にも一度起きた気がしたが、うまく思い出せない。
あの時は確か、「麻酔が切れましたよ」と言われた気もするが、何の話だ?
そう考えながら上半身を起こした俺は、見慣れない室内に首を捻る。
左の頬に違和感を覚えて触れると、ガーゼがあった。
額と首から下も不思議な感覚がしたから見れば――包帯が巻いてあった。
「ん……? あ」
そこで俺は、トラックに轢かれた事を思い出した。
「目が覚めたのか」
俺の声に、隣の椅子に座っていた昼威が気だるげな声を出した。
「昼威! 俺は、どうなったんだ!? それに、あの女の子は?」
「女の子? ああ――未和か」
「え、あ……」
「享夜。お前な、無駄に心配をかけるな。麻酔が切れたあと、三日も目を覚まさないものだから、俺は自分の腕を疑ったぞ。大体、お前が死んだらお前の葬式は、だ、だから……ッ……の、ばか!」
昼威が立ち上がると、俺の頭を叩こうとして、直前で手を止めた。
そして――泣き出した。
「昼威……」
「どれだけ心配したと思っているんだ」
「……そんなに俺は、やばかったのか?」
「いいや。何の問題もないのに目を覚まさないから、手の施しようがなかったんだ」
兄はそう言うと、白衣の腕で目を拭った。
「――仕事だ。行ってくる。代わりに、付き添い人は他に頼んである。感謝しろ。迷惑をかけるな。ではな」
そう言うと、昼威は出て行った。
あの口調だと、玲瓏院の誰かが来るんだろうなと思いながら、俺はシーツを両手で握る。
ノックの音がしたのは、その数分後の事だった。
「はい」
「――藍円寺」
入ってきたのは、ローラだった。
「ローラ!」
「藍円寺……あ、良かった……良かった」
驚いた俺に走り寄ると、優しくローラが俺を抱きしめた。
その腕の感触と、ローラの存在感が嬉しくて、俺は微笑した。
「大したことはないんだ。全然な。この程度、何の問題もない。心配をかけたな」
「……」
「俺は、平気だ」
そう言いながら、俺はローラが泣いている事に気づいて、思わず苦笑した。
俺のために泣いてくれるローラは綺麗だが、俺はローラを悲しませたくない。
「確かめさせてくれ」
「どうやって? 俺にできることなら――」
「ずっと、こうさせてくれ。藍円寺」
ローラはそう言うと、俺をさらに強く抱きしめた。
「これからは――俺が、お前を守るから」
「え?」
「誰にもお前を連れて行かせたりはしない」
俺は意味が理解できなかったが、ローラの温もりが嬉しかったから、小さく頷いておいた。
それから、俺は退院した。
普段通り――変わらない日常が戻ってきた。
……いいや、ひとつ変わった事がある。
最近は、黒い街猫が、寺のすぐそばにいる事が増えた。そして俺が歩き出すと、バイト先まで付いてくる。そして、俺のバイトが終わると、一緒に絢樫Cafeの手前までついてくる。そして、俺がローラとのデートを終えると、寺までまたついてくる。
「飼いたいなぁ」
俺は隣を歩く黒猫を一瞥し、思わず頬を緩めた。
どことなくローラに似ているその猫が、俺はとても好きだ。
「あ」
その日、横断歩道前の紅葉を過ぎた時、不意に雨が降り出した。
傘を持っていない俺は、歩きながら猫を見る。
――街猫というのは、野良猫をよく換言したバージョンだ。特定の家があるとは限らない。もっとも寺には、野良猫が寝泊りできる場所はたくさんあるが。
「……」
しかし、この黒猫は、今夜、この雨の中で、どうするのだろう?
愛着が生まれていた俺は、屈んで手を伸ばした。
「おいで。お前が嫌じゃなかったら、泊めてやる」
なんだか猫が相手なのに、俺の口調は偉そうになってしまった。
だからなのか黒い仔猫は、一度びくりとしてから――尻尾を立てて、俺へと近づいてきた。それから俺の指をぺろりと舐めた。可愛い。そのまま俺は抱き上げる。もうすっかり足はよくなった。ただ、退院してからすぐに患部を見て、そこに小さな子供の手形があった時は震えたんだけどな……。
噂だと思っていたが、新聞記事を見てみたら、あそこでは何人も事故で亡くなっていた。生還した人の証言だと、女の子に足を掴まれたや、女の子をかばおうとして飛び出したというものが最多だった。
……。
忌々しい噂だと思っていたが、少しは事実も含んでいたのかもしれない。
そう考えながら寺へと戻り、俺は自室に猫を置いた。
そしてダンボールに新聞紙でトイレを作り、時々遊びに来る街猫にあげていた餌を更に出してから、シャワーを浴びた。俺の部屋だけで飼うならば、問題はないだろうか?
逡巡しながらシャワーから出ると、黒い猫が扉のすぐそばにいた。
俺の足にまとわりつく。愛らしい。可愛い……!
「待っていたのか。寝ていれば良かったのに」
俺は猫を抱き上げて、ベッドに下ろした。そして着替えながら、毛づくろいをしている猫を見る。飼うとしたら、名前は何がいいだろうか?
「ローラに似ているから、ローラと……前だったら付けたかもな。でも今は、本物のローラが俺のそばにいる。猫の名前が一緒なら、ローラ好きだぁとか、ローラ愛してるって口走っても不信感が減るからな」
思わずそうつぶやいてから、俺は寝台に座った。すると猫が、びくりとした。
「おいで」
俺は再び手を伸ばし、抱き上げて、ベッドに横になる。
まだ髪を乾かしていないのだが、なんだかまったりしたくなってしまった。
「俺、恋人がいるんだ。その恋人がな、俺が事故にあって目を覚ましたら、会いに来てくれたんだよ。幸せ者だろ?」
思い出して俺は嬉しくなったから、笑顔を浮かべた。誰が連絡してくれたんだろう。まさかローラがすぐに来てくれるなんて、考えてもいなかった。嬉しすぎて、胸がじわりじわりと暖かくなる。
その時、近づいてきた猫が、俺の頬をぺろりと舐めた。
「くすぐったいって」
俺が体を動かそうとすると、そのまま猫は、俺の腕の上で丸くなってしまった。
本当に愛らしい黒猫だ。
そう考えながら、俺は目を伏せた。
そして次に、朝日の中目を開けた時、俺は自分を抱きしめているローラを見てぽかんとした。
「おはよう、藍円寺」
「え」
なんでここにいるのかと聞こうとしたら、額に唇を落とされた。
――この時の俺は、ローラが黒猫の姿になれる事を知らなかったし、交通事故の後から、ずっとボディーガードをしてくれている事も勿論知らなかった。
だからただただ、目を覚ました時に、愛しい顔がそばにある事が嬉しくて仕方がない。
「……おはよう」
そう告げてから、重ねるだけのキスをする。
すると、ローラが俺の頬に指を添えた。それから――俺の服をはだけた。
「ン」
チクリと首筋が鈍く痛み、痕をつけられたことが分かる。
そのままするりと下衣の中に手を入れられて、直接的に陰茎を掌で覆われて俺は震えた。
ゆるゆるとその手を動かされるとすぐに、反応してしまう。
「ぁぁ、あァ、やっ……待って」
その時、耳の中に舌を差し込まれ、すぐに全身の力が抜けた。
「っ、フ」
それから少しの間、慣らされた。俺がその感覚に浸っていると、いきなりそこに与えられる快楽が強くなり、俺は声を上げた。
「ぅ、ぁ……ァ……あああ」
それとほぼ同時に指を引き抜き、ローラが腰を進める。
「キツイ、少し力を抜け」
「ひァ、あ、できなッ……や、ぁ、無理だ」
腰が引けそうになった俺を逃がさないというように、しっかりとローラの手で引き寄せられた。より深々と繋がることになり、もう覚えさせられてしまった快楽から涙がこみ上げてくる。
「無理? 無理じゃないだろう?」
「あ、ぁ……ローラ、う。あああン」
内部で動いた巨大な質量に、体の奥がじんと熱くなる。それから――激しく抽挿され、僕の視界は白くチカチカと染まった。
「ああああああ!」
そのまま乱暴に突き上げられ、気づくと僕は快楽の内に意識を失った。
次に目を覚ますと、ローラが俺を腕枕しながら、じっと見ていた。
改めて、どうしてここにいるのかと考えつつ、俺は赤面した。
「愛してる」
「ローラ……、あ、あの……おはよう」
俺はさっきも言った気がしたが、改めて言った。
するとローラが俺の頬にキスをした。
「ああ。おはよう、藍円寺。今日も、それに明日も明後日も、お前が俺に挨拶をしてくれる朝を、俺は作るって約束するからな」
「――え?」
「俺がどのようにして人間を大切にするかをしっかりと、確かめろ」
ローラは呟くようにそう言ってから、改めて俺を見て微笑した。
「なぁ藍円寺」
「なんだ?」
「――今はやっぱりさ、ほら、妖怪といえど、働いて収入を得る時代だろ? 葉っぱを小金に変える時代は終わったんだ。だから、俺も働こうと考えている」
「働く? どうやって?」
反射的に俺が返すと、ローラが喉で笑った。
「お前の所でバイトをする。いい案だろ? 『そうだろ?』」
それを聞いて――俺は、果たしてバイト料を払えるか不安になったが、小さく笑った。ローラとずっと一緒にいられたら嬉しいという考えの方が、胸を占める割合は大きい。
「カフェは砂鳥くんとして、マッサージはどうするんだ? 火朽くんにお願いするのか?」
「ん? いやなぁ、新しい看板を作成中だ。『絢樫Cafe』という、な。付け足すなら、プラス藍円寺か?」
「なぜ寺の名前を付け足すんだ?」
「寺じゃない。俺の苗字が絢樫で、お前の苗字が藍円寺――伴侶の名前だな」
それを聞いて、俺は言葉を失った。頬が熱い。伴侶って……。
「で、でも、俺はローラを、ローラと呼んでいる。絢樫と呼んだ事はない」
「――じゃあ、俺も享夜って呼んでいいのか?」
「ダメだ」
イケボすぎる声で囁かれて、俺は慌てて首を振った。
するとローラが目を細めて笑った。
「享夜」
「っ」
「愛してるぞ」
以後、俺達は名前で呼び合うようになったのだが、それはまた別のお話だ。