【2】なんだこのお化け屋敷は!





 歩きながら、俺は思い出していた。

 ――これは、目眩がした後の記憶だ。



◆◇◆


 俺は朦朧とした意識の中で、ローラに抱き上げられているのを感じていた。
 そして、次に目を覚ました時には、自分が風邪をひいていると、ローラに聞かされた。
 朧気にだが、俺はローラに失礼な事を言ってしまったような気がする。

『俺はただの客だ。マッサージ店の世話になるつもりは無い。すぐに病院に行く。一介のマッサージ師ごときが、俺を看病できるとも思えないしな』

 有難うの一言が出てこない事を嘆いたはずだ――が、その後から、再び俺の意識は途切れてしまったようだった。

「……なんであんな事を言っちゃったんだろうな」

 俺は、自分が呟いた声で目を覚ました。

 ――ん?

 瞼を開けると、そこには見た事の無い天蓋が広がっていた。あれ?
 ここは何処だろう? 首を傾げつつ、俺は体を起こした。
 そこで初めて、俺は自分が、豪奢な寝台の上にいる事に気がついた。

「え?」

 シーツを掴みながら正面を見ると、巨大な窓がある。白いレースのカーテンが見て取れた。床には高級そうな絨毯が広がっていて、アンティーク風のテーブルとソファがある。

「本当に、ここ、何処だ?」

 俺は自分が何処にいるのか分からなくなり、必死で記憶を辿る。
 そうだ――俺は確か、店で倒れて、ローラにその後、看病をしてもらったのだ。
 だが、ここはマッサージルームでは無い。と、いう事は……?

 ま、まさか、ローラの家!? 天使の家!?

 唖然として、俺は唇をパクパクと開閉させた。俺、もしかして好きな人の家にいるのか? 何それ幸せすぎる……い、いいや、迷惑をかけてしまっているのだから、喜んでいる場合ではない。ぐるぐるとそんな事を考えていた時、部屋の扉が静かに開いた。

「あ。藍円寺さん。ご気分はいかがですか? 目が覚めて良かった。俺、心配しちゃいましたよ」

 入ってきたのは、今まさに考えていたローラ本人だった。俺は目を見開き、硬直した。優しい笑顔を浮かべて、ローラが猫のような瞳で俺を見ている。片手には、銀色の盆を持っていた。

「丁度飲み物を持ってきたんです。それと風邪薬を」
「……その……迷惑をかけた」

 必死で俺が言葉を捻り出した時、ローラがベッドサイドにあった、これまた高級そうな椅子に座った。そして俺のそばのテーブルに、グラスを置く。続いて、よく目にする市販の風邪薬の箱を、ローラがその隣に置いた。

「迷惑だなんて、全然です。藍円寺さんは、大切なお客様ですから」

 それを聞いたら、俺の頬が熱くなった。照れているのがバレないように、俺は俯いて誤魔化すしかない。俺はてっきり、受付表を見て、ローラが俺の名前を都度思い出していると考えていたのだが――もしかしたら名前を覚えてもらっていたのかもしれない。そうならば、とても嬉しい。ローラに、大切だと思ってもらえたのが、とても嬉しい。社交辞令かもしれないが……。

「……貰う」

 気づけば喉が酷く渇いていたので、俺は有難く水を飲む事にした。ローラに見守られながら、グラスを手にしたのだが、見られていると妙に緊張してしまう。口にした水は、よく冷えていて、思いの外美味しかった。風邪薬も飲んでおいた方が良いだろうか? 倒れてから俺には、薬を飲んだ記憶は一度も無い。

「すぐに夕食をお持ちしますね」

 その時ローラに言われて我に帰った。そして窓の外を一瞥した。朝焼けが広がっているのかと勝手に思っていたのだが――現在は、夕方らしい。壁に掛かっている巨大な柱時計を見ると、文字盤が五時過ぎを指していた。

「良い。これ以上迷惑をかけるわけには行かない。帰る。そ、その、後で礼はする」
「お気になさらないで下さい。それに、まだ病み上がりですし、もう少し休まれた方が――休むべきだ、『そうだろ?』」

 俺はグラスを置きながら立とうとして、ローラのその声を聞いた。
 すると、不思議と思考が変わった。一瞬、靄に絡め取られたようになる。

 ……ああ、そうだ。フラフラする体で一人で帰宅するのは危ないし、途中で具合を悪くしたら、さらに迷惑をかけるもんな。泊まっていった方が迷惑にはならないんだ。うんうん。間違いない。

 でも、本当に……?

 突然浮かんだ考えに違和を覚えて、俺は動きを止めた。

「藍円寺、お前は今日、泊まっていく。念のためだ、熱は下がっているが――お礼は今日していってもらう。お礼のために、お前はここに残る。『そうだろ?』」

 瞬間、俺の思考に霞がかかった。まるで普段のマッサージの時の夢のように、全ての現実感が消えて、一瞬、何も考えられなくなる。

「――あ、ああ。そうだな。俺は、お礼のためにも、今夜はひと晩泊まっていくんだ……」
「それで良い」

 その時、パチン、と、指が鳴る音を聞いた。
 俺はハッとして顔を上げた。今自分が何をしていたのか、少しの間思い出せなかった。

「――夕食をお持ちしますね」
「ああ、悪いな」

 そうだった――俺は、今夜もローラの家に泊めてもらうんだった。すっかり忘れていた。数秒前の事なのに。まだ風邪のせいで、頭がぼーっとしているに違いない。

 俺がそう考えていると、ローラが立ち上がった。出て行く彼を見送りながら、俺は改めて部屋を見渡す。そして……気がついてしまった。

「……」

 な、なんだ、この感覚は。
 それまで意識していなかったのだが、気付いた途端、俺の背筋を怖気が駆け抜けた。

 一言で表すると――この部屋、なんか怖い。いいや、この家自体が、なんか怖い。

 空調がついているのは分かるのだが、それとは異なる、冷ややかな冷気が漂っている気がする。イメージで言うと、それは禍々しい黒色に近い。見えちゃった事は、ほとんどない俺であるが、部屋の天井の四隅に、まさしく黒い靄が立ち込めているように見える。い、いいや、幻覚だ。お化けなんか、いるはずがないのだから……! 絶対にいない。俺は信じない……というより、信じたくない。

 だけど――なんだこのお化け屋敷は! もう、そうとしか表現不可能だ。

 思わず震えて、俺は両腕で体を抱いた。早くローラが戻ってくる事を祈る。しかし、中々ローラは帰ってこない。

「!」

 その時、窓がいきなり、ガタガタと音を立て始めた。き、きっと風だ。今日は風が強い日なんだろう。明らかに子供の手が窓を叩いているように俺には一瞬見えたが、目を閉じた今は何も見えない! 風景の高さからして、ここは二階以上のはずだ。電信柱から判断する限り、そのはずだ。その外に、子供の手があるはずはない。気のせいだ。

 ギュッと目を閉じて恐怖をこらえていると、その内に音が止まった。暫く怯えていた俺だが、恐る恐る目を開けてみる。

「うわ!」

 すると先ほどまで何も無かったのに、俺の座っているベッドの上に、一体のフランス人形が鎮座していた。え? 思わず悲鳴を上げた俺は、そのまま硬直した。すると、そのフランス人形が――笑った。笑った? 人形が笑うはずがない。俺の恐怖は最高潮に達した。

「!」

 しかもその時、座っていたフランス人形の首が、ポロリと取れた。
 それを見て、俺は気を失った。