【1】藍円寺昼威の日常
――揺りかごから墓場まで、という言葉を習ったのはいつの事だっただろうか。
藍円寺昼威(アイエンジヒルイ)は、人気のない診察室で、観葉植物に水を上げながら考えた。
はっきり言って、記憶にない。
高校卒業後、医大を出て、無事に国家資格を取り――その後の研修医生活とフェローシップを経て、心療内科・精神科クリニックを開いたのは、昨年の事である。
今年で三十一歳になる昼威は、開業するには非常に若い精神科医だ。
正直、迷った。
何を迷ったかと言われたならば、何の専門医を目指すか、である。
二択だった。産婦人科と精神科である。
昼威の実家は、藍円寺というお寺なので、産婦人科を選んでいれば、出産から葬儀まで対応できると一瞬だけ考えた。
しかし時代は少子化――この田舎の新南津市とて、どんどん出生率は減るはずだと考えた。代わりに、現代のストレス過多社会では、やはり精神科の方が、儲かるだろうと思った。
そんな考えから精神科となった昼威であるが、近隣の大繁盛の産婦人科クリニックを見て考える。昼威のクリニックは、はっきり言って混み合った事は一度もない。
ああ、産婦人科にすれば良かったな――とは、思わない。二つの理由から、昼威はそれを考えた事が無いのである。
まず一つ目。
最初は懐を理由に選んだ精神科であるが(結果、儲かっていないわけだが)、学んでみると、面白すぎた。精神医学最高……泥沼に、昼威ははまりこんでしまったのである。
それから二つ目……なおこれは、公言しては決して認めるわけには行かない事実だ。
――産婦人科には、水子の霊が多すぎた……。
口に出したら、己が精神科の病棟に入院する事になるだろうと確信している昼威は――視える。寺の息子だからなのか、生まれつき、霊が視える。
幼き日、その視えるものが、浮遊霊や、妖(アヤカシ)だと知った頃、昼威は衝撃を受けたものである。教えてくれたのは、本家である、玲瓏院(レイロウイン)家の当時のご当主――現在のご隠居だ。
玲瓏院家というのは、過去に偉人に褒められた事があるとされる、この土地の名家だ。
心霊現象に関して非常に造詣が深いと崇められていて、さらには新南津市では玲瓏院家に逆らったら生きてはいけないとまで言われている。非常に強い霊能力を持つ者が多い。分家である藍円寺にも、その能力が伝わっているらしい。
「昼威よ、視たくないのであれば、これを身に付けるが良い」
そう言って差し出されたのは、銀縁の眼鏡だった。度数の入っていない伊達眼鏡である――代わりに、玲瓏院家の神聖な力を込めてあるとの事で、その古びたデザインの眼鏡をかけると、日常生活が少しだけ楽になった。
視えてしまうから、昼威は心霊現象が大嫌いだ。否定して生きている。
そんな経緯で、現在も伊達眼鏡は愛用している。よく、もっと洗練されたデザインの品にしてはどうかと提案されるが、視力に問題は無い。
ただ、眼鏡に触れると前髪が邪魔なので、後ろに流しているせいで、年齢よりも上に見られる事が多い。同時に、頭が良さそうだとも言われる。
しかし、医師の全ての頭が良いというのは、誤解である。
藍円寺昼威は、浪人こそしなかったし一発で国試にも通ったが――見た目に反して、お世辞にもきちんとした人間ではない。集中力が人よりあるので、熱中した事のみ記憶力が働くし、試験前にもそれは発揮される……が、すぐに忘れるタイプだ。
幼き日は、一夜漬けの名手だった。
その点で言うならば、昼威は三人兄弟なのだが、末っ子の享夜(キョウヤ)が一番きちんとしているだろう。現在の藍円寺の住職は、享夜だ。
なお、長男の、朝儀(アサギ)は、現在三十六歳にして、転職活動中の無職であり、シングルファーザーである。朝儀の息子で来年中学生になる、斗望(トモ)を入れて、この三名が、昼威の近しい家族だ。男ばかりだ。
白衣に袖を通し、空調の温度を確認してから、昼威は時計を見た。
現在、十四時五十分。午後の診察は、十五時からだ。
なお――予約は、二名。本日は、珍しく多い。
「……」
名前を見て溜息をついてから、昼威は待合室へと向かった。
――無人である。予約は十五時半から一名、十六時半から一名だ。
飛び入りの患者が来る事も滅多にない。これでは食べていけないため、昼威はクリニックを閉めたあとは、近所の総合病院の救急でバイトをしている。今日も十九時からはそちらの予定だ。
昼威が脳裏でスケジュールを思い出していた時、不意に神聖な気配がした。
それを感じて昼威は、悪魔にでも遭遇したかのように、嫌そうな表情になる。
足音を聞き取ってからすぐに、クリニックの扉が開いた。
「こんにちは、昼威先生。今日も暇そうで良かった」
「何をしに来た?」
入ってきたのは、この土地で比較的有名な(観光名所である)、御遼神社の跡取り神主だった。馴れ馴れしく、人の傷を抉るような事を、笑顔でサクッと口にした、御遼侑眞(ゴリョウユウマ)の姿を見て、昼威は苦々しい表情になる。年下のくせに、と、思う。
なお、神聖な気配の持ち主は、侑眞では無い。
昼威は、御遼侑眞も嫌いだが、それ以上に、訪れた後輩の両隣にいる妖狐と神様が嫌いだった。それは寺の家系であるから、神道が苦手という意味合いではない。
侑眞本人には一切見えていない、御遼神社の祀る、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と、その遣いの妖狐である、水咲(ミサキ)が、昼威は苦手なのだ。
一度、その二体について、昼威は調べた事がある。天御中主神はどうやら水天宮を総本山とする全国の神社が祀っているらしいから、その系列の御遼神社にいたとしても、不思議はないのかもしれない。だが、妖狐は稲荷神社系である気がする。
調べたといっても、ネットで暇つぶしに検索しただけの昼威には、ただただ神様と妖狐が胡散臭い存在にしか思えない。ただ、気配は神聖だ。それは彼にも理解できる。その上――この二体は、眼鏡を装着していても視えるわけであるから、非常に強力な存在であるとも知っている。
視える、見たくないのに、視える――だからこそ、昼威は、この二体が嫌いだ。
「実は、昼威先生にお願いがあって。俺が来たんだから、わかるでしょう?」
侑眞の声に、昼威は腕を組む。白衣の裾が空調で揺れている。
空気清浄機が放つ良い香りの中で、侑眞が微笑した。
「人形供養を頼まれていまして。困ってるんだよね」
「粗大ゴミに出せ」
「既にお布施を頂いちゃって」
「――享夜に頼め」
「俺の神社でどうしてもと……」
「ほう。で? 寺の息子ではあるが、現在精神科医の俺に、一体何を頼みたいんだ?」
辟易した顔で昼威が促すと、侑眞が楽しそうに笑った。
「呪われてて、燃えないんだよね。だから、ほら、除霊をパンパンって。昼威先生なら見て一分で除霊可能だと思うなぁ。享夜くんだと、お教を読む時間がかかるし、神社で読んでもらうのも申し訳がないし」
その言葉が終わった時、右隣から神様が昼威を見た。
『よろしくねぇ、今回もさぁ。どうせさぁ、なしよりのありでしょ?』
髪も瞳も緑色で、服装が平安貴族風でさえなかったならば、どこからどう見ても二十代前半のチャラそうな神様は、へらりと笑っている。このゆるっとした雰囲気も、昼威はあまり好きではない。
『お布施の三分の一を、侑眞は支払うつもりだ』
続いて、左隣から妖狐が言った。こちらも緋色の瞳で、狐面を首に回し、着流しにマフラーという和洋折衷な姿で無かったならば、十代後半の高校生といった外見だ。笑顔の水咲という妖狐は、最近では――昼威が貧乏であると確信しているらしい。
「帰ってくれ。呪いなんて気のせいだ。俺が払っているのはあくまでもホコリであり、お祓いといったオカルトの類は、この世には存在していない」
昼威は何も聞いていなという表情で、そう断言した。
「今日は救命救急のバイト、二時あがりだよね? じゃ、四時に御遼神社で待ってるので、よろしくお願いするね」
しかし侑眞は、昼威の言葉を無視してそう口にすると、満面の笑みを浮かべた。
「なぜ俺のバイト時間を知っているんだ?」
「えー? 明日の夕方までに人形供養を終わらせたいから――ちょっとね」
ちょっと何をしたのか聞こうとして、昼威は止めた。
バイト先から藍円寺(自宅)に帰るまでの途中に、御遼神社は存在している。
少し立ち寄るくらい、実を言えば問題はない。
「……」
侑眞(と、神様と妖狐)の依頼を引き受ければ、欲しかったウィニコットの直筆原稿が落札できるかもしれない。贋作の噂もあるが。そう考えて、嫌そうな顔をしたまま、昼威は頷いた。
「ありがとう。じゃあ、あとでまた」
こうして、侑眞(達)は帰っていった。何も視なかったとすぐに昼威は首を振る。
それから残された昼威は、自分の金欠具合に嘆きながら、嘆息して時計を見る。
もうすぐ、予約の時刻だ。
その後一度診察室に戻り、カルテを確認してから、昼威は患者を待った。
時間通りに訪れた患者は、二十代の会社員。
主訴は、過食である。
いかに体調が辛いかを訴える彼女を見ながら、眼鏡の奥で昼威は目を細めた。
患者の女性の肩に、眼鏡をしていても視える餓鬼という妖(アヤカシ)が乗っているのはいつもの事である。ひとしきり相談が終わった所で、昼威は餓鬼をつまみ上げて投げ捨てた。
「先生と話していると、体が楽になるんです! 今なら、もう食べなくても大丈夫な気がして!」
そう言って、女性は帰っていった。
……精神疾患ではないから、薬の処方はしていない。
約十五分で終わったため、空き時間にはコーヒーを飲んで過ごした。
摂食障害と診断して薬を出して、処方箋で小遣い稼ぎをしたいという誘惑に時折駆られるが……それでは、誤診である。変な所で正義感の強い昼威には、どうしてもそれは出来ない。
続いて訪れた患者は、六十代後半の男性だった。
主訴は、不眠である。いかに眠れないかについて、見た目がまだ十分若々しい老人が語る。それを静かに十分ほど聞きながら、昼威は男性の頭の上であぐらをかいている小鬼を見た。
「あ、ちょっとホコリが」
昼威はそう言うと、バシンと老人の頭の上を殴った。周囲には宙を空振りしたように見えるだろう。
「――いやぁ、さすがは藍円寺の! 玲瓏院の分家だけはある! とってくれてありがとうございます!」
老人は、女性と違い、はっきりとそう言って、笑顔で出て行った。
睡眠障害と診断する時間すらない。
そしてこの男性は、本人も『小鬼がついているから昼威の所へ行くが良い』と、玲瓏院のご隠居に、娯楽の将棋中に言われてやってきたらしく、原因が怪異だと確信している。
そもそも女性も、この男性も、最初から昼威のお祓いが目的で、このクリニックに足を運んでいる。
昼威は、心霊現象を否定しているので、若い患者は付き合ってくれるのだ、その素振りに。しかし、新南津市という心霊現象に肯定的な土地で生きてきた人々は、特に歳を経ているほど、きっぱりと言う。
なお、本当に精神的に体調が悪い人は、最初から総合病院の精神科に通っているらしいので、あまりここには来ない。来た場合も、酷ければ、無論昼威は紹介状を持たせている。それは地域医としてやらなければならない事だ。
泣きたい気持ちになりつつ、どうせもう今日は患者が来ないだろうと判断し、昼威はクリニックを閉めた。
新南津市には心霊協会なる存在があるのだから、そちらに頼めば良いといつも思う。藍円寺で住職をしている、弟の享夜も、除霊のバイトで生計を立てているほどだ。
が――込み合っているらしく、先程の二名のような軽い霊障かつ慢性的と判断されている人々は、後回しが多いそうで、そんな僅かな人々の希望の星が、このクリニックであるという評判を……昼威は時にネットで見てしまい、都度削除を要請している。
その後、昼威は着替えてバイクに乗った。