【18】赤い糸について
藍円寺は全てが止まっているから、クリニックへと泊まろうと考えてバイクを走らせていると――不意に豪雨に襲われた。思わずバイクを止めるほどの雨で、思わず昼威は停止させてから、空を見上げた。
先程までは逢魔が時の夕暮れの空は快晴だったというのに――今は、薄闇の中でもはっきりと低く街を圧迫する曇天が見て取れる。運が悪い日というのは、つくづく運が悪い。
現状に嘆いていて溜息をついた時だった。
「え」
そこに、いきなり声がした。視線を向けると、侑眞が立っていた。
薄手のコートを羽織っている。もうそんな時期だ。
「昼威先生、何してるの?」
「――雨が酷いから、止まっているんだ」
「確かにこの雨の中じゃ事故を起こしても不思議はない。雨宿り、していく?」
侑眞はそう言うと、神社の裏手に続く細い坂を見た。迷いの林と呼ばれている鎮守の森の中に直通する坂道だ。地元の人間は、決して足を踏み入れない。例外は、御遼神社の関係者を伴っている時だけだ。
「――ああ。悪いな、助かる」
田舎だから咎める者もいないので、道路脇の田んぼのそばにバイクを停めて、昼威は侑眞に歩み寄った。ヘルメットを取ると、侑眞が傘に入れてくれた。そのまま二人、ぬかるんだ坂道を登る。
「先生、元気でした?」
「俺は、医者の不養生とは無縁で生きている」
「しっかり食べてる? どうせカップラーメンとお惣菜だろうけど」
「――ああ。カップラーメンだな。主に」
救急のバイトは多忙なので、空き時間にはカップラーメンばかりを食べているのだ。
惣菜のパックは、藍円寺に帰った時に食べる事が多い。
それ以外の食事は、考えてみると、侑眞の所に顔を出した時ばかりだったが、ここの所はそれが無かった。久方ぶりに顔を合わせた侑眞は、いつもよりも心なしか表情が硬い気がした。
「お前は元気にしていたのか?」
「まぁまぁかなぁ。先生にそんな事を聞かれたのは、初めてだね」
「そうだったか?」
聞き返しつつも、それは侑眞が己のもとに厄介な頼み事を持参しなくなったからだと考える。医大と研修医時代を終えて、フェローシップからこの新南津市に戻った昼威のもとに、考えてみると侑眞は二週に一度は顔を出していたのだ。今ではそれが無いのだが。
雑談をしながら、侑眞の離れに到着した頃には、泥で服も靴も湿っていた。
シャワーと服を借りて昼威が戻ると、侑眞が酒と肴を並べていた。
「先生と飲むの、久しぶりだねぇ」
「そうだな。最近は良い酒が手に入らなかったのか?」
「どうして?」
「誘いが来なかったからだ」
「――お酒と美味しいつまみは、誘う口実にして良いんだったね、そういえば」
そう言って侑眞が苦笑した。なんとなくその表情が気に食わなくて、グイっと昼威はビールを飲む。侑眞は昼威のコップがからになると、すぐに次を注いだ。
「先生は、さ」
「なんだ?」
「幸せってなんだと思う?」
「は? いきなりなんだ」
漠然とした侑眞の声に、昼威は半眼になった。
「御遼神社は、縁結びの神社でもあるから――例えそれが、妖と人間であっても、そうだな西洋で言う赤い糸のようなものが僅かにでもあるのなら、それを強固にするまじないをする」
「良いことだな。御朱印と絵馬で稼ぐより、高額の報酬が得られそうだ」
「――まぁね。そう言った物欲的な事もあるけど、最近、俺は考えるんだ。どのみち、寿命も違うし、別れが来る。その辛さを味わう事になるのに、縁を結ぶというのは、幸せをもたらすのとは異なる。縁結びの神様っていうのは、幸せの使者ではないみたいだ」
侑眞はそう言うと、己のコップを傾けた。それを見て、昼威は箸を手に取りながら考える。
「人間だって、人間同士であっても、死で簡単に分かたれる。死に限らず、些細なことで恋なんて終わる」
「そうだね。片思いをして、それを伝えることができず、片思いを諦めて終わる事もある。例えばその相手の幸せを願うだけで満足できるようになったりしてさ」
「――それは理解できない」
「じゃあ先生は、何が言いたかったの?」
「俺はな、一瞬でも、幸せになれたら、それが幸福だと考える。未来の不安で現在の幸せを潰すなんて、馬鹿げている」
そう言いながら、マグロの山かけを食べて、昼威は改めて侑眞を見た。
「もし、想い合っているのなら、俺はそこに縁がある限り、引き裂くべきではないと思う――が、人の恋心につけいって、利用するような存在は消えるべきだと考える」
「昼威先生? 何かあったの?」
「……ちょっとな。ただこれは、何もなくても普段から考える俺の主観だ」
ビールにつまみに、侑眞の離れは快適だ。こうして後輩と飲むひと時、これもまた縁だろう。考えてみれば、最近侑眞はそれを切ろうとしているのかもしれないと昼威は考える。確かに、水咲がいつか言った通り、いつも昼威は誘われるのを待っていた側であるから、後輩からの誘いがなければ、その時間は簡単に途絶する。
「はぁ。酒を飲んでしまったから、帰れない」
「泊まっていく? この雨じゃ、帰すのも心配だし。藍円寺までは距離があるし、クリニックまではもっと遠いしね」
「ああ。それに――藍円寺は、今、光熱水が止まっているんだ」
「え? どうして? 享夜くん、そういえば最近、除霊を引き受けてないみたいだけど、何かあったの?」
その言葉に、昼威は眉を顰めた。
「そうなのか? 具体的には、いつからだ?」
「二週間は前だと思う。俺が聞いた時点で――知らなかったんだ?」
「……ああ」
「じゃあ怪我や病気で入院しているわけじゃないんだね」
「それは不幸中の幸いだな――ただ、居場所に心当たりがある。明日、迎えに行ってくる」
昼威がそう言ってグラスを煽ると、侑眞が小首を傾げた。
「どこにいるの?」
「お前には関係ない」
「もしかして、想い人の所とか? それなら、邪魔をしちゃダメなんじゃない?」
「――仮にそうであり、享夜が幸せならば、俺だって文句を言わない。残念ながら、享夜は吸血鬼という、非現実的な存在の餌になっている可能性が高い」
昼威がそう言うと、侑眞が息を飲んだ。
「先生、俺も行って良い?」
「ダメだ。俺と俺の家族の問題だ。お前には関係ない」
「だけど――吸血鬼って、鬼でしょう? 危ないよ」
「鬼などこの世界には存在しない。きっと血液嗜好癖がある特殊な人物というだけだ」
その時、雨足が強まった気配がした。何気なく、昼威は閉まっている丸い窓を見る。
「――そういえば、芹架くんはどうしているんだ?」
「まだ、保護してくれた施設から学校に通っているけれど、引き取る交渉をしている所。その件で、御遼神社で引き取ろうと思っていたんだけど……彼方さんも名乗りを上げていてね。あの人はお金には困っていないから、純粋な好意なのかもしれないけど――俺と芹架くんの縁も切るつもりかもなぁ」
それを聞いて、昼威は視線を戻した。
「今日、そういえば会ったぞ」
「どこで?」
「朝儀の家にいた。親しいらしい――思うに、朝儀もシングルファーザーだからな。子育ての話をしていたんだろうな。納得した。うちの甥の斗望と芹架くんは、同級生で親しいらしいんだ」
「なるほどね。そういう経緯か」
そんな雑談をしてから、遅くまで酒を飲み、布団を敷いてもらって、昼威は眠った。本当は、別の場所で出会った別の関係だと推測していたが。
そして、翌日、絢樫Cafeへと出かける事にした。
一度昼威はクリニックへと向かった。そちらで身支度を整えてから、絢樫Cafeと到着したのは、午後になってからの事だった。
少し緊張してから、扉を開く。
すると写真で見た、どこか紫色に見える瞳の青年が猫のような眼差しを昼威に向けて微笑した。
「申し訳ございません。本日は閉店しておりますが?」
にこやかな笑顔の青年の胸元には、ローラという名札がある。
それを確認してから、昼威も対患者用の笑顔を浮かべた。
「こちらに弟が伺っていると耳にしまして――ご迷惑をおかけしているのではないかと、迎えに参りました。お休みの所、申し訳ございません」
率直に昼威が言うと、ローラという名の青年が無表情になった。
スっと目を細めて忌々しそうな顔をされたものだから、昼威も笑顔を消す。
「俺の弟は、吸血鬼の餌では無いんだ。即刻、返してくれ」
「――ここにはいない」
「ではどこにいるんだ?」
「さぁ?」
「まさかもう、喰い殺したとでも言うのか?」
「安心しろ。お前の弟は、幸せにしている」
その言葉を聞いて、昼威は腕を組んだ。
「幸せというのは――」
――縁があるという意味か? と、昼威は聞こうとした。
その縁の形は、餌と吸血鬼というものでも構わないと思った。
弟が許しているのであれば、だが。というよりも、正直最近恋をしている様子だった弟を思い出すに、両思いになったのかと率直に尋ねたかった。
だが、問いかけようとした時、スマホが震えた。音が鳴る。
少し迷ったが、取り出して画面を見ると、『御遼侑眞』とあった。
電話だった。侑眞が電話をかけてきた事は――記憶をたどる限り、二度しかない。
一度は、昼威の両親が亡くなった時であり、二度目は、侑眞の祖父である先代の神主が亡くなった時だ。
「――出直す」
そう言いながら、『信じていいんだろうな?』という想いを込めてローラを見ると、虚をつかれたような顔をした後、ローラが小さく頷いた。ならば、少しの間は信じてみるかと考えつつ……幸せの意味合いをぐるぐると考えながら、昼威は外へと出た。
「もしもし」
『昼威先生、無事?』
「ん? ああ」
『――良かった。先生が死にそうだというご神託があったから、焦った』
スマホの向こうで、侑眞が安堵した気配がした。何を不吉なことをと考えて苦笑しながら、昼威は絢樫Cafeへと振り返る。……本当に、享夜は大丈夫なのだろうか?
些か不安だったが、その後、救急のバイトがあったから、昼威は総合病院へと向かった。
――藍円寺の光熱水が無事に復活したのは、その翌週の事だった。昼威が、給料から、珍しく支払ったのである。なお、享夜が帰宅し、光熱水の蘇生に気づいたのもその週だった。
この件があってから、昼威は考えた。
人間とその他という枠組みだけでは捉えられない場合があって、そこにも縁があるのだなと。