【*】発動(☆)
――夜更け。
正確には、既に”朝”として良い時刻、午前四時。
緑色の紋付姿で、玲瓏院縲は冬の路を軽快な足取りで進んでいた。
陽が未だ登らない。周囲は、闇に包まれている。
普段の接待ならば、家の車を呼ぶ所だが、本日は玲瓏院家と心霊教会の重役二名による、『存在していない会談』の帰りであったから、人目につく事を避けて一人帰宅している。
縲は、気分が良かった。漸く、一つの大きな仕事を終えたからである。
玲瓏院結界の再構築が叶い、縲は明るい気分で、それこそ鼻歌交じりで歩いていた。これで、夏瑪夜明を初めとした凶悪な妖魔の類の多くは、この新南津市から出られなくなったはずであったし、力も封じる事が出来た――そう確信し、頬が緩むのを止められない。
薄く積もった雪を踏みながら、ここまでが長かったなと考える。近くの街灯の下を通り過ぎながら、人気の無いこの今を、内心で一人歓迎していた。幸先が良い。
「っ」
浮かれた気分で歩いていた縲が、硬直したのはその時だった。
街灯のすぐ隣にて、闇に紛れ、闇から浮き上がるように実体化したとある吸血鬼――夏瑪夜明が、縲の背後に立った数秒後の事である。まさに、牙を突き立てられた瞬間だった。
「やってくれたものだ」
「な」
黒い粘着質じみた痛みが左の首筋から流れ込んでくる。周囲に威圧感が溢れかえっているため、縲は身動きが出来なくなった。信じられないという驚愕も、体の動きを封じている。何故……何故、力を喪失していないのか?
「解いてもらおうか」
「!」
「すぐに玲瓏院結界を解除しなければ、私は君の――縲さん、君の命を保証しない」
「ッ、ァ」
痛みから縲が喘ぐ。綺麗な金糸の髪が、肌に張り付いていた。冷や汗と怖気が、彼の体を支配している。
「私は自分の行動を制限される事が非常に嫌いなものでね」
瞬間的に、周囲に薔薇の香りが溢れかえった。それは、夏瑪が縲に”刻印”をした瞬間でもあった。瞬きをするよりも早い、一瞬の出来事だった。
「……ん」
次に縲が目を開けた時、そこは見知らぬ場所だった。最初は事態を理解できないままで、縲はぼんやりと周囲に視線を這わせていた。薄暗い、窓の無い部屋にいた。周囲の壁はコンクリートであり、目立つ家具は無い。続いて認識したのは、自身の両手が頭上で拘束されている事だった。長い鎖が天井から垂れ、手錠に繋がっている。それがピンと縲の両腕を持ち上げていた。背後には柱のものがあるらしいと縲は理解していたが、実際にそこにあったのは、白く巨大な十字架である。
「目が覚めたかね?」
そんな縲の姿を、暗がりの中、ボルドー色の布がかけられた一人がけのソファに座り、人の血に赤ワインを垂らした”血酒”を飲みながら、夏瑪が見ていた。ワイングラスで揺れる酒の色も、布の色も、まだ縲には視認できていなかったが――忌々しい吸血鬼の姿を見て、縲は瞬時に覚醒した。
「私は、知っているとは思うがね、ブラックベリー博士とは異なり、人を喰い殺す事に躊躇は無い。玲瓏院家のご当主であり――仏において、対吸血鬼殲滅部隊にいた縲さんならば、私が”刻印”したというのが、どういう意味か、すぐに理解してもらえると思うがね」
その言葉に、縲が目を見開いた。
「ぁ」
同時に、体の内側に渦巻いている灼熱の存在に気づいた。
「うあ」
もがくように縲が腕を動かしたのはその時だ。
「やぁあああっ」
気がついた時には、絶叫していた。その熱が、快楽だとやっと理解した。
縲は、元々が、祓魔師(エクソシスト)である。性的な接触は厳禁であるし、自慰すら禁止である。もし、一度でも禁忌を犯せば、聖職者はその力を失う。よって、幼少時から禁欲訓練を施されてきた。訓練とは言うが、実際には洗脳じみた思考と肉体への人的な暗示や条件付けが幾重にも行われてきた。だから、縲はその感覚が快楽であると気づくのに、少しの間――遅れた。
「あ、あ、ああああああああ」
よって、襲ってきた感覚は、縲にとっては初めてのものでもあった。常人であっても強すぎるような熱に、純粋な肉体は抵抗力を持ってはいなかった。気づいた時には、前が張り詰め、全身にびっしりと汗をかき、呼吸が苦しくて舌を出して呼吸をしていた。綺麗な緑色の瞳が涙に濡れ、白い頬に涙が伝う。
――果てたい。
未知の感覚ではあるはずなのだが、縲は自身の肉欲を正確に理解していた。
体を揺らし、必死に悶える。瞬きをする度に、涙が溢れる。
「どうだね? 人間らしい、性欲――今までの自分がいかに異常か理解できるだろう? 皆、この快楽に虜だ、人間は。それを知らないで三十年を超える生を歩んできた異常さを嘆いたほうがいいのではないかね?」
ワイングラスを置きながら、夏瑪が失笑した。そして立ち上がると、縲の前に立つ。それからそっとその指先を伸ばして、縲の頬に触れた。
「いやあああああ」
その感触だけで体が熔けて、縲は泣き叫んだ。夏瑪に触れられるだけで、全身が快楽に絡め取られ、何も考えられなくなっていく。自分の足で立つ事が限界になると、一気に頭上の鎖に体重がかかり、手首が痛んだ。
「玲瓏院結界を解くというのであれば、楽に殺してあげよう」
「あ、ぁ、ぁあああ」
「存分に快楽を味わわせてあげよう。この極上の血液のお礼にね」
夏瑪がぺろりと縲の首筋を舐めた。瞬間、全身に快楽が染み込んできたものだから、縲は目を見開いた。
「解くというまでは、少し辛い快楽を味わってもらうことになるだろうがね。死ぬまでの間――自殺したくなるほどの快楽だ。もっともエクソシストの君に、自決の選択肢は存在しないだろうがね。自殺は大罪だったはずだ」
馬鹿にするように笑ってから、夏瑪が縲の首筋を噛んだ。強すぎる快楽が縲の体を突き抜ける。
「もう君は、私の精を受け入れなければ、果てられない体だ。しかしそうすれば、縲さんは力を喪失するね。幸い私は、この程度の結界では力の喪失は無かったが――外には残念ながら出られなくなってしまったよ」
その言葉を耳にした時、既に縲に理性は残っていなかった。