【5】誰もいない空間



 本日も、思わず溜息が出た。今週も、みんなによる『火朽くん』なる人物がいると想定した、僕への実験あるいはイジメが続いているらしい……。

 先生まで止めてはくれない。
 バス停で立ち止まり、暗記している時刻表を思い出しながら、僕は肩を落とした。

 先週と同じように、今週も、ゼミの教室にはいつものメンバーしかいないというのに、全員が『火朽くん』と呼びかけていた。意味不明すぎる。その後、先程までいた教授室においては、僕が火朽くんにお茶を出していないと責められた……そう言われても、いない人にはグラスを用意できない。

 僕も、火朽くんがいるという設定で、生きていくべきなのかな?
 明日から、無駄に、「火朽くん、おはよう」だのと、誰もいない空間に声をかけるべき?

 ぐるぐると悩みながら、到着したバスに乗り込み、僕は帰宅した。

 精神的に疲弊していたので、この日は早く眠る事にした。
 明日は一限だし、朝も早い。

 そうして眠りにつき、翌朝も僕は大学へと向かった。

 今日のこの時間帯は、仏教学科の全体必修とかぶるから、降りたターミナルは混んでいたけれど、僕が取っている講義には、いつも教授と僕しかいない。履修者は多いみたいだけど、出席者は僕だけなのだ。

 十一号館のエレベーターホールで、どうせ今日も一人なのだろうなと考えながら、僕はボタンに手を伸ばそうとした。すると、触れる前に、『▲』ボタンが点灯した。あれ? 先週も勝手に扉が開いたりしたし、このエレベーターは、もしかすると壊れているのかもしれない。即ち、危険物だ。

「気味が悪い。危ない空間に、自分から進む気にはならない」

 僕は呟いてから、階段を目指す事にした。この霊泉学園大学は、古めかしい部分も多いのだ。うっかりエレベーターが故障でもしたら困る。

 余裕を持って家を出たので、無事に講義には間に合った。禿頭の鳴海先生と僕以外誰もいない教室に入り、僕は後ろの方の窓際に座った。

 最初は、兄のロケに無理矢理朝まで付き合わされて、徹夜のままに暇が出来たから、何気なく講義に出てみたのだが――結果、僕以外の学生がいなくて、僕を見たら先生が嬉しそうな顔をしたものだから、心が痛くて、それ以来きちんと僕は出ている。それに話をしっかり聞いてみたら、この講義はとても面白かった。

 こうして講義が始まったので、僕は前を向いた。
 そして、不思議な事に気がついた。

 いつも先生は、僕を見るか黒板を見るだけなのに、今日は――僕と同じ列の扉側も、時折見るのだ。先週は眠かったからどうだったか覚えていないが、今日は確実に見ている。

 何かあるのだろうか? 首を傾げて、僕もそちらを見てみた。
 しかし、何もない。
 気のせいだと考え直して、僕も授業に集中し直した。


 二限は、十一号館の八階なので、階段でも楽に到着できる講堂へと僕は向かった。
 こちらには、まばらに学生がいる。
 ただ、特に親しい人もいないので、僕はいつもの通り、後ろの一角に座った。

 もっとも、大学全体を見ても、特に僕には親しい人間がいない……。
 僕はコミュ障だ。
 誰かが僕に近づいてくる事も、あまりない。それは玲瓏院の名前のせいだと思う。

 だから本日も、窓の外を時折眺めながら、誰と話すでもなく講義を受けた。
 この講義も中々面白い。
 その後、チャイムがなるまでの間、真面目にノートを取っていたら、お腹がすいた。

「冷麺にしよう」

 メニューを思い出しながら僕は呟いた。すると、目の前を蚊子が横切った。

「――本当に鬱陶しい。僕に付きまとわないで欲しい」

 この教室には、先週も蚊子がいた。僕は覚えている。頭にきて、僕は目の前の蚊子を叩き落とした。なんだか、蚊子の感触が無駄に大きく思えたが、気のせいだろう。なんだか、人の腕を叩き払ったかのごとき存在感の蚊子だった。



 ――思わず、先週のことを鮮明に僕は思い出した。二限の時、扉の前で振り返った、あの時だ。巨大な蚊子が飛んでいたのである。

 もうそんな季節なのかと思ってからすぐに、僕は手首を刺されている事に気づいた。

 その後もずっと、蚊子が後を追いかけてきて、あの日も学食まで来た。何度か振り払おうと考えていて、ようやくたたきつぶす事に成功したのが、昼食の時である。

「あのさ、鬱陶しすぎるんだよね。さっきからさ。本当、嫌になる」

 なにせ、ずーっと飛んできたのだ。
 溜息も漏れたし、不機嫌にならない方が難しかった。

「ご飯くらい、僕は静かに食べたいのに」

 俯向きながら、僕は小声で続けた。

「なんていうか、イタイんだよ」

 刺された手首には、かゆみと鈍い痛みがある。
 しかしようやく、撃退できた。だが……。

「動きがさ」

 ……ちょっと俊敏すぎた。

 虫よけスプレーを使用しようと、あの日僕は一人、誓った。
 倒さないと静かに食事ができないなんて、苦痛だからである。

 しかし、今週も遭遇してしまった……もう、諦めなければならない季節なのだろうか。

 そう思い直し、僕は学食へと向かう事にした。


 こうして冷麺を食べていると――非常に珍しい事に、僕の隣に人が座った。
 顔を上げると、そこには時岡が立っていた。

「玲瓏院、隣、いいか?」
「うん」

 宮永の姿はない。しかしこれまでに、宮永がいない場合であっても、時岡が僕の横に座った事など一度もない。首を傾げつつも、僕は彼がカレーうどんを置きながら座るのを見ていた。

「昨日の事だけどさ」
「昨日?」
「火朽の事だ」

 その言葉に、僕は思わず目を細めた。確かに、昨日のゼミでもいるかのように扱われていた。思えば、時岡も僕をからかっている一人なのだ。

「ほ、ほら。春から来た、編入生の」
「編入生の話なんて聞きたくないよ」

 だって、そんな人はいないのだから。第一もう、六月に入って数日が経つ。編入生が存在していたなら、僕だってとっくに知っているに決まってい。

「……あ、えっと、何かあったのか?」
「何かって?」
「さ、さっきの授業で、玲瓏院が珍しく乱暴だったから」

 それを聞いて、僕は話が変わったのだと判断した。きっと僕が不機嫌そうな顔をしているから、編入生云々から話を変えたのだろう。二限には、時岡も出ていたから、思い返すに――蚊子を叩き払った事だろうか?

「僕、大っ嫌いなんだよね。視界に入るだけで苛立つっていうのかな」
「そ、そこまで? なんで?」
「理由なんかないよ。生理的に無理なんだ」
「ほ、ほう」

 心なしか、時岡の笑みがこわばった。しかし、蚊子を嫌いな理由なんて、特にない。
 それとも時岡は、虫を愛していたりするのだろうか?
 蚊子にも命があると考えるタイプだったのだろうか?

「アレを好きな時岡と、僕が分かり合える日はこないと思う。どこがいいの? 好感を持ったことが一度もないけど」

 僕が率直に伝えると、時岡の顔がみるみるひきつっていった。

「僕は存在が許せない」
「理由は、ないんだよな? それに」
「うん。ただ嫌いなだけだよ」

 その後、僕らはそれぞれ食事を取った。しかしもう、時岡は何も言わなかった。