【4】僕には見えない編入生






 翌週……今週もまた、ゼミの日が訪れた。
 昼食の際、僕は冷やし中華を頼んだ。

 もうすっかり夏だ。

 まだ時折紫陽花を見かけるけれど、日中は暑くて仕方がない。
 そんな事を考えながら、僕は普段よりも少し早く、ゼミの教室に入った。

 少人数用の教室で、飴色の長テーブルが三角形を描くように並んでいる。
 普段、ここには七つの椅子がある。
 僕達ゼミのメンバーの椅子と、夏瑪先生の椅子だ。

 まだ誰もいない教室で――僕は、小さく首を傾げた。僕はいつも窓側の長机の前、夏瑪先生の隣に座っているのだが……椅子が一つ追加されている。

 なお、僕の正面の席はいつも通りで三脚、男子三名の席があり、三角形の底辺部分にあたる隣の席には、女子二名の椅子がある。

「?」

 普段は、窓側のホワイトボードに近い椅子が夏瑪先生の席で、ほぼ中央が僕の椅子だ。しかし今日は、僕の隣、女子達のテーブル側に、もう一つの椅子があるのである。

 とりあえず、自分の定位置に座りながら、誰か来るのだろうかと、僕は一人考えた。


「こんにちは!」
「今日も早いね! 祈梨、私達もこれから早める?」

 その時、南方と楠原が入ってきた。彼女達は、夏らしいスカートをはいている。
 僕は見とれそうになったが、その前に驚いた。

 これまでの間、高校生の頃も含めて、僕は彼女達に、このように明るく声をかけられた事が一度も無いからだ。驚いて硬直した僕は――それから、首を傾げた。二人は、僕を見ていない。僕の隣の空席を、何故なのかじっと見ている。え?

 困惑している僕の前で、彼女達は移動し、それぞれの定位置に座った。
 そして……僕の座るテーブルの方を見た。僕ではなく、テーブルの『方角』だ。

「火朽くんって、他の大学から来たんでしょう?」
「そっちには、カノジョとかいたの?」
「ちょ、ちょっと、まほろ! 何を聞いちゃってるの!」
「だ、だって……祈梨も気になるよね?」
「それは、まぁ」
「あ、火朽くんも良かったら、私の事は、南方じゃなくて、まほろって呼んでね!」
「私の事も、祈梨で良いから!」

 二人は、非常に楽しそうに話している。
 ……僕の隣の、空席に向かって。

 呆気にとられた。彼女達は、一体何をしているのだろうか?
 そう考えていると、続いて日之出くんが入ってきた。今日も長い髪が揺れている。
 そして……彼もまた、僕の隣の空席を見た。

「やぁ、火朽くん。君は、いつ見ても好青年だねぇ」

 古めかしい口調を取り繕っている日之出くんは、いつも通りだ。
 しかし、いつもとは異なり、僕の隣に現れた椅子には……誰もいない。
 改めてそちらを見て、僕は思わず半眼になった。

 宮永と時岡という、ゼミの残りの男子二名が入ってきたのは、その時の事である。

「よぉ、火朽! 先週話した通り、今日は宮永のバイト先に、飲みに行こうな!」
「俺、今日は休みだからさ。いやぁ、二限に声かけといて良かったよ」
「ま、ゼミが終わったら、先に教授室でまったりしてからだな」

 入ってきた二人は、やはり僕の横の空席に向かい、笑顔で話しかけている。

 黙っているのは、僕ばかりだ。

 まるでそこに人気者――例えば、双子の兄の絆が座っているかのごとく、僕以外の五人は、かわるがわる何かを喋っている。取り合うかのごとく、皆が話している。空席に向かって……。

 僕には、何が起こっているのか、さっぱり分からなかった。
 全員が、もしかして、僕をからかっているのだろうか?
 確かに僕はぼっちだが、これまでにこういった事は無かった。

 その時、チャイムの音がして、夏瑪先生が入ってきた。
 扉が閉まると、全員が静かになる。これから出席チェックとして名前を呼ばれるからだ。

「ごきげんよう、諸君。今週も出席確認から始めよう」

 夏瑪先生は、笑み混じりにそう告げると、僕の隣に座った。
 定位置だ。空席の方では無い。
 普段通りの先生を見て、僕はホッとした。

 ――しかし。

「火朽桔音くん」

    
 響いた声に、僕は唖然とした。え? 誰それ。
 見渡してみるが、室内にはいつものメンバーしかいない。

 先程まで確かにみんなは、名前だけは先週くらいから耳にするようになった、『火朽』という人に対して、どこにもいないのに声をかけてはいたが、うん、どこにもいないよ!

「楠原祈梨さん」

 けれど、まるで誰かが返事をしたかのような間を置いてから、先生が続けて出席確認を始めた。あいうえお順からなる学籍番号順であるから、ここからはいつも通りだった。

「南方まほろさん」
「時岡悟史くん」
「日之出渉夢くん」
「宮永秋生くん」
「玲瓏院紬くん」

 最後に名前を呼ばれた僕は、狼狽えながらも、必死で返事をした。

「今日も七名、全員に会えて私は嬉しいよ」

 すると、確認を終えた、夏瑪先生が言った。僕は呆然とした。どう考えても、先週までは六名だったからだ。先生自身の事を数えているとも思えない。

「本日の発表者は、宮永くんだったね。それでは、講義を開始しよう」

 その後、宮永による発表が始まった。狐につままれたような気分のままで、僕の頭にはさっぱり入ってこない。状況が、まるで理解できなかった。

 ディスカッションの時も、みんなは、教室に『火朽桔音』という人物が存在しているかのように、討論を交わしていた。夏瑪先生も含めてだ。時折無言の時間があると、みんなは僕の横の空席を注視し、そしてさも誰かが話し終えた風に頷き、時には質問などをしている。


 こうして、何一つ頭に入ってこないまま、僕はその日のゼミを終えた。

 みんなで和気藹藹と、教授室に行く話になっている。
 夏瑪先生に声をかけてもらったので、僕も向かう事にした。

 なんだか怖い。みんなで僕をからかっているとしか思えない。

 きっと教授室で、ネタばらしがある事だろう。彼らは僕をモニタリングして、遊んでいたのだと思う。いいや、先生まで一緒なのだから、何かの実験だったのかもしれない。

 そう考えながら、僕はみんなよりも早く教授室へと向かった。
 大体の場合、最初に入室した者が、お茶の用意をする事になっている。
 鍵を開けてくれる先生は、別としてだ。

 普段であれば面倒だから、わざと遅れて入室するのだが、僕は真っ先に入り、奥の給水スペースへと向かう。そして、グラスを七つ用意した。僕が知るゼミのメンバー六人と先生の分だ。

 ……当然、僕には見えない火朽という人物のグラスを、僕は用意したりはしない。

 だって、絶対からかわれていると思っていたのだから。


 お盆に乗せて、みんながテーブルを囲んで座るソファの方へと戻る。
 僕は最初に先生へと麦茶のグラスを差し出してから、それぞれの前に配っていった。

 ここのソファにも定位置がある。
 この教授室のソファでは、僕は二人がけのソファにいつも一人で座っている。
 だから最後に、自分のグラスを手にして、盆をテーブルの上に置き、静かに座った。

 すると――室内に、奇妙な沈黙が流れた。

「あ、ああ! 玲瓏院くんも、たまには、グラスの数を間違えたりもするよね!」
「そ、そうだね、まほろ! 私持ってくる!」

 声を上げたのは、女子二人だった。
 彼女達は、僕が見守っていると、給水スペースの方に消えた。
 そしてすぐに新しいグラスを……僕の隣に置いた。誰も座っていないのに……。

「……」

 ネタばらしの気配は、無い。僕は思わず、夏瑪先生を見た。
 しかし先生は、いつもと同じ表情で、悠然と微笑んでいる。

 他のみんなは、討論時と同じように、僕の横の空席を見ながら、雑談をしている。
 さも、『火朽』という人物がそこに、座っているかのように。

 何も言葉が見つからない。
 僕は、気まずさを覚えて、席を立った。


 帰り道、僕は疲れきった気分だったので、誰にも会いたく無かった。
 だからバスにも乗らず、たまにはと思って、時間をかけて歩いて帰る事にした。

 僕には、どう思い出してみても、どこにも、火朽桔音なる人物がいたようには思えない。

 確かに、先週くらいから、その名前だけは耳にしてはいた。
 だが、同じゼミには、そんな人物はいなかったはずだし、実際に今日だっていなかった。

「はぁ……」

 思わず溜息をついた僕は、久しぶりに、藍円寺にでも遊びに行こうかと考える。
 住職の享夜さんは、僕にとってある意味、兄のような存在だ。
 もっとも実の兄もいるし、若すぎる父も兄のような感覚だが。

「ん?」

 そう考えて歩いていると――ふと、看板が目に入った。
 cafe絢樫&マッサージと書いてある。

 享夜さんは、昔からマッサージが好きで、よく、僕の祖父にも肩もみを頼んでいる。彼は、僕の祖父の弟子らしい。お寺の仕事よりも、除霊のバイトというオカルトを生業にしている享夜さんは、極度の肩こりにいつも悩まされているそうだ。

 ――まぁ、それだけ、多忙なのだろう。

 芸能人の絆とは違った意味で、享夜さんもお祓いのバイト三昧らしいから、連絡なしに僕が行くと、不在の事も多い。そう考えながら、僕は立ち止まった。

 疲れているし、遊んで気晴らしするよりも、僕も享夜さんのように、マッサージにでも行ってみようかな。親戚だから、享夜さんは僕に気を遣わずに話をしてくれるし、普段は話しているだけで、気分が楽になる。

 だけど、今の僕の気分の急降下には、会話よりもマッサージのような、いつもとは全く違う事の方が、効果があるかも知れない。

 そう考えて、僕はそのお店に入ってみる事に決めた。



「いらっしゃいませ」


 僕が扉を開けると、高校生くらいの少年が、微笑してこちらを見た。

「cafeですか? マッサージですか?」
「マッサージをお願いしたいんですが……」

 少年の言葉に、僕がそう返した時、スッと正面に誰かが立つ気配がした。

「承ります」

 答えた青年は、非常に柔和そうな笑顔で、僕を見ている。物腰も穏やかに、僕に紙を示した。予約名簿とでもいうのか、名前を書く欄がある。僕の他には客の気配は無かったが、僕は静かに記入した。

 名札に『ローラ』とある青年に促され、その後マッサージ用のスペースへと向かう。
 そして、僕は衝撃を受けた。

 ――え、なにこれ下手すぎだろ……。

 あ、あ、あんまりにも、そ、その、ローラという青年のマッサージは、下手くそだったのだ。普段、マッサージになんか行かない僕にも、それがよく分かる。一切、気持ち良くない。

 手の力は強いし、激痛が走る。かと思えば、本当に解して欲しい肩などは、力が弱すぎて効果が感じられない。

 これでは、藍円寺には近いが、享夜さんがこの店の常連になる事も無いだろう。
 そう考えながら、僕は苦痛に耐えた。

 だが――……。

「終了です」

 そう言って青年が、僕の体を一度、パシンと叩いた瞬間、急に僕の全身が軽くなった。
 何が起こったのか不明なくらい、全身が爽快だ。
 これは、すごい! 僕は内心で、歓喜した。

「またのお越しをお待ち致しております」

 こうして、清々しい気分で、僕は店を後にした。やはり、気分転換には最高だったらしい。
 全身が軽くなったせいなのか、僕は明るい気分になり、家へと帰る事にした。