【8】水仙香
さて――この日も、芹架くんが学校の時間に、水咲さんがやってきた。
「いらっしゃいませ」
僕は笑顔で、彼の定位置となっている、右側から二番目の一人がけのソファ席へと促した。そしてメニューを開く。いつも水咲さんは、飲み物は冷たい緑茶だけど、ケーキや甘味を頼む時は、特定の品とは限らない。
「……」
この日、席に座った水咲さんは、メニューに視線を落とすと、そのまま沈黙した。品を迷っているという顔ではなく、どこか塞ぎ込んで見える。心を読まなくても、表情からそれが分かったが、視覚的にも僕には落ち込んでいる色彩が見えた。強い力を持つ妖しは、大体気分の”色”が、体の周囲を漂う色に入り込む。
「どうかしたんですか?」
立ち入った事かもしれなかったが、最近では常連さんの一人と言えるので、僕は少しだけ心配になって、思わず尋ねた。すると水咲さんが、意を決したように顔を上げた。
「今週末、テーマパークに行くだろう?」
「あ、そうですね。よろしくお願いします」
「……御遼芹架には、俺の姿が見えない。その俺が、保護者としてついて行く事になる」
水咲さんはそう言うと、深々とため息をついた。いつもどちらかといえば表情を変えないので、珍しい。どこか飄々としているからだ。
ただ、それを聞いて、僕は何気なく呟いた。
「――芹架くんは、斗望くんと同じくらいには、人間として強い力があるのに、どうして視えないんですか? 僕、てっきり意図的に水咲さんが姿を隠しているんだと思ってました」
僕の言葉に、水咲さんは腕を組んで、ポツリと続けた。
「御遼芹架は、虐待を受けていた。その結果――非常に自罰的な性格形成がなされ、常識とかけ離れたようなもの、例えば怪異が見える事も、自分が苛まれる要因だと考え、心理的に……霊的な視野、視覚を閉ざしている。人間で言うところの、心因性の失明のようなものだ。妖だけが、御遼芹架には視えない」
それを聞き、僕は納得した。お化けが見えるのはおかしいという信念の持ち主は、度々霊がみえなくなる。霊能学を研究しているローラから話を聞いた覚えがある。そう珍しい事ではない。
「水仙香を調合しましょうか?」
「水仙香?」
僕の声に、水咲さんが首を傾げた。
「妖怪薬の一種です。その香りを用いると、ブラックベリーの霊能学で言う、心因性妖不可視現象が、緩和されます。なんていうのか、人間として認識されてしまうんですが……見えるようになります」
水咲さんが息を飲んだ。
「どの程度で、それは作成可能だ? どの程度、どのくらいの期間、効果は持続する? 言葉を交わす事も可能になるのか?」
「今在庫があるので、調合というよりは、瓶をとってくるだけです。香水状なので、吹きかけると、その香りが消えるまで――一日程度は見えます。香りを妖力で振り払えば、効果は消えます。効果がある間は、人間として認識されるので、会話が可能ですよ」
僕がそう言って微笑すると、小さく水咲さんが頷いた。
「代金は? すぐに欲しい」
「これからもお店に来てもらえるなら、それだけで十分です。水咲さんは、大切な常連さんですから」
僕が答えると、驚いたように、何度か水咲さんが瞬きをした。
それから、小さく苦笑するように頬を持ち上げた。
「分かった、今後も立ち寄らせてもらう。それと――」
「はい?」
「水咲で良い。『さん』は不要だ」
その言葉に、僕は笑顔が浮かんできた。
「僕の事も砂鳥で良いです。今、取ってきますね」
こうして僕は、厨房側に戻り、妖怪薬が入っている瓶を手にとった。薄い緑色の香水瓶で、水仙の意匠が施されている。調合した時に、似合う瓶を探したのだ。それと一緒に冷たい緑茶を持っていくと、水咲さん――……水咲が頷いた。確かに考えてみると、僕達は見た目の年齢がそう変わらないのだから、気さくに話しても良いのかもしれない。実年齢は知らないが。
「どうぞ」
「――助かる。ああ……良い香りがするな。水仙の香りだ」
水咲の声に、僕は頷いた。比較的強い妖怪薬だから、生花そのままの香りがする。花は、人間の花が捉える香りとは別に、独特の力を盛っている場合が多い。妖の力とも少し異なるのだが、非常に有効だ。
その後、小学校の放課後が近づいてきた頃、水咲は帰っていった。
――この新南津市では、午後六時に市全体に音楽が鳴る。遅くまで遊んでいる子供には帰宅を促す合図らしい。多くの人間の地域では、午後五時であるらしいが、新南津市は、より、逢魔が時と呼ばれる時刻に合わせているのだろう。新南津市で魔が活発になる時間帯は、平均すると六時以降らしい。
その音楽が鳴り響いた時、ローラが店舗フロアに降りてきた。
「これから藍円寺さんとバイト?」
「おう。行ってくる」
頷いてローラが扉に向かっていった。すると丁度、藍円寺さんが扉を開けようとしていて、驚いていた。一歩早く出たローラがニヤリと笑う。
「人間は、働いたあとに、遊ぶのが楽しいらしいな。テーマパークに備えて、一所懸命に働くか」
「あ、ああ……」
ローラの声に頷き、藍円寺さんが踵を返した。除霊のバイトに向かう二人を見送り、僕は一息つく。それにしても、遊園地に行くのは――実を言えば、僕はあまり乗り気ではない。遮断する事は可能だし、遮断するための妖怪薬も存在するが、自然に過ごしていると、人ごみというのは、覚である僕には辛い。様々な思念が流れ込んでくるからだ。
それは生者のものとは限らない。遊園地へ行きたかったなという想いを抱いて亡くなった人間たちも、浮遊霊としてそこにいる場合がある。テーマパークになど、ほとんど行った事がない僕だけど、数少ない記憶の中に、そうした思い出がある。
霊になると、心が歪んでしまう人間が多い。
僕にはあの世や天国といった場所があるのかは分からないが、死してなおこの世界に留まる人間というのは、次第に歪みが強くなっていくから、不幸だなと感じる。
ただ、最初から歪んでいる僕達妖の場合は、別段不幸ではない。綺麗なものを知らず、元々歪んでいるならば、それは一つの個性だ。だけど例えば、心優しかった女の子が、地縛霊になって、ただただ寂しいからという理由で、人間を自分同様殺してそばに幽霊としておこうとするような歪み方は、見ていて辛い。
僕の同情など求めてはいないのだろうが、死とは、残された生者だけではなく、亡くなった側の一部の人間にとっても、衝撃的な事態なのだろう。