【12】微弱な存在
案内された四階の部屋に入ると、水咲が窓の障子を開けた。僕はそれを眺めてから、黒い漆塗りの机と、隣に続く和室を一瞥する。すると水咲が振り返った。
「奥に露天風呂がある」
その声に、和室の更に先に、小さな扉がある事に気がついた。水咲がそちらに向かったので、僕も後を追いかける。すると裏手の岩山を削るようにした形で、小さな温泉が見て取れた。
「この部屋に泊まった時だけ、入る事が出来るんだ」
水咲はそう言いながら、首元の白いマフラーに手をかけた。そのままするりと着流しを脱いで、水咲が温泉へと入った。僕は、実を言えば、人型を取るようになってから――そしてその前も、一度も温泉には入った事が無い。
シャワーは浴びる。浴槽に泡を満たして、お湯を浴びていると気分が良くなる。しかしそれらはあくまでも娯楽だ。人間のように汗を流すために、清潔を保つために、入浴が必要なわけではない。
「入らないのか?」
「うん、僕は大丈夫」
「そうか。では俺はしばらくこちらに浸かる。適当に楽にしていてくれ」
水咲がそう言ったので、僕は頷き、室内へと戻った。
布団が敷かれている和室を抜け、最初の部屋に戻ってから、黒い机の前に座った。
金箔で小さなススキが描かれている。
壁には『偕老同穴』と書かれた紙が、額縁に入れて飾られていた。
別の壁には、虎が描かれた掛け軸がある。
この部屋にも、隣の和室にも、いくつかの屏風があり、それらには人間が描かれていた。
「失礼致します」
その時、入口の方から声がかかり、僕が振り返った時には静かに戸が開いていた。
見れば、先ほど出迎えてくれた鳥遊里さんがお膳を運んできた所だった。
「これはこれは――……水咲様にご挨拶を、と、思ったのですが」
「あ、お風呂に入ってます」
「そのようですね。良かったぁ、いなくて」
挨拶に来たのに、いなくて良かったというのは、奇妙だなぁと僕は思った。しかし、にこやかに笑っている鳥遊里さんに、悪意は見えない。
「お食事のご用意に参りました」
鳥遊里さんはそう言うと、僕に籠を手渡した。反射的に受け取ると、中に入っている黒い着物が視界に入る。銀と紫の糸で、菊が刺繍されているようだった。何、これ? 笑顔で僕が首を傾げる横で、鳥遊里さんは他のお膳などを、机の上に並べていく。
「お早く、着替えを。水咲様が出ていらっしゃる前に」
「へ? 着替え、ですか?」
「そうです。『覚』なのに、物事を悟るのが下手とは、これはいかに!」
「え?」
僕の正体をはっきりと理解しているらしい鳥遊里さんの声に、僕は苦笑しながら聞き返すしかない。この和服から、僕は一体何を悟れば良いというのか。
「『覚』が、妖狐たる水咲様と閨を共にできるなど、まさに玉の輿! 大奥が偲ばれます」
「あの、どういう意味ですか?」
「これは学がない。お玉の前をご存知ない?」
「……あ、あの」
「良いですか? 水咲様といえば、さながらこの新南津市を人間社会の江戸に例えるならば、江戸城の将軍様のようなお立場のお方なんですよ!」
「はぁ……?」
僕は人間の文化に疎いが、現在聞きたいのは、そういった部分では無かった。なぜ僕が、水咲と、さも一緒に寝るかのように、鳥遊里さんは語るのだろうか。そこについて、深く聞きたかったのである。そんな予定は無い。
「なぜ驚いた顔をしていらっしゃる?」
「鳥遊里さんこそ、なにか誤解を……」
「誤解? この私がですか?」
鳥遊里さんがわざとらしく周囲を見渡したが、当然ここには、僕と彼しかいない。
「いいえ。私はやはり何も誤解などしておりませんねぇ」
「ここが仮に江戸で、水咲が将軍様だとして、僕は大奥に輿入れした人間では無いです」
「人か妖かは問題ではない」
「僕も、そこを問題にしているつもりはないです」
「ならば性別? やはり、種別? 覚ですしね……微弱です」
率直に微弱と言われて、僕は咳き込んだ。人の心が読めるというのは、確かに武力的な意味では、非常に弱い。だからこそ、僕には人に虐げられた過去もあるのだ。
「僕が言いたいのは、僕が水咲の奥さんじゃないという事です」
「え!?」
「どうして驚くんですか?」
「自分が妻だなどと誤解している部分です。そんな立場にあると、どうして思ってしまったんだ? ありえないだろう。君は、餌だ。食べ物。配偶者ではなく、そこのカツオの刺身のような存在だよ」
鳥遊里さんが机を指さした。僕は吹き出しそうになったがこらえた。
「水咲って、人間や妖を問わず、肉食なんですか?」
「うん。水咲様に限らず、妖狐は基本的に肉食だと、もてなす側としては記憶しているよ」
「僕、帰っても良いですか」
「ダメだよ。私の手で、美味しい今夜の酒の肴になってもらわなければ!」
笑顔で鳥遊里さんが顔を上げた時――僕はその後ろに、気配なく立った水咲を見た。
「さぁ! お着替えを――っ!」
鳥遊里さんが言いかけた時、後ろから水咲がパシンと手を振り下ろした。あまり痛そうには見えなかったが、派手に鳥遊里さんが畳の上に沈む。手の衝撃ではなく、その場に生まれた妖力らしい。
「砂鳥、すまなかったな。この旅館の主は、少し――いいや、かなり、人間で言うところの頭のネジが外れているんだ。久しぶりに来たせいで、失念していた」
いつもと変わらない水咲を見て、僕はホッとしながら頷いた。
すると驚愕したように鳥遊里さんが、顔を上げて水咲を見た。
「え?」
「なんだ?」
「まだ手を出していないとでも?」
「悪いか?」
「……それは、失礼をいたしました」
「もうこの部屋には来ないでくれ」
「それは、人払い?」
「お前を寄せ付けたくないという意味以外には、特にない」
そう言って水咲が、ひょいひょいと手を振った。すると強ばった笑みで頷き、鳥遊里さんが出て行った。それを見送っていると、水咲が溜息をつく気配がした。
「鳥遊里は、決して悪い妖では無いんだが、変な妖なんだ」
「そうみたいですね」
大きく頷いてから、僕はお茶を入れる事に決めた。