【6】雪路






 結局、研究室へは行かなかった。縲は嘆息しながら、今、綿雪が積もった歩道を歩いている。体からは熱が引いていた。意識も清明で、それが体を重ねたあかしだと嫌でも分かる。けれど、なのに。何故己が力を失っていないのか理解できない。それは、認めたくはないからでもあった。たった一瞬でもあの行為の時に、己が好意を抱いたことを。

「っく」

 その体が熱くなり始めたのは、午後三時ごろの事だった。
 夏瑪が力の量を調整したのだろうと、すぐに悟る。
 両腕で体を抱き、その場に縲は蹲った。己の吐息にすら感じ入ってしまう。

「あれあれ玲瓏院の若旦那ー?」
「なにしてるんすか」
「あー、喰われてるー、うける」

 その時、そんな声がかかった。濡れた瞳を類が向ければ、ガラの悪そうなあやかし達が己を取り囲んだところだった。

「俺一回お相手願いたかったんだよなー」
「俺もー」

 いつもであれば、振り払える。そして今も力を失っているわけではなかったから、縲は銀のナイフを出現させた。魔は、滅するものなのだから。だが、簡単に手首を取られて、雪路に引き摺り倒される。そして、ばっと和服を開けられた。

 体に力が入らない。潤んだ瞳で、縲は必死に呼吸をする。
 妖魔達の体が肉片になったのはその時だった。

「面白くないねぇ、実に。陳腐で滑稽だ」

 雪を踏む音がしたと思ったら、そこには夏瑪が立っていた。夏瑪はじっと縲を見下ろしてから、抱き起して、その肩にコートをかける。

「その体でふらふらするのは、得策なのかね?」
「っ、お前のところに行くよりは――」
「ほう、随分と愚かなようだな」

 夏瑪はそう述べると、縲に口づけた。その瞬間、『また』縲の理性が途切れた。

「やだぁあああ、あああ、あ、怖かった、あ」
「ほう」
「助けて、あ、あ」
「助けただろう?」
「なんで」
「ん?」
「なんでもっと早く来てくれないんだ」
「――随分な我儘姫だな」

 あやすように縲の背中をたたきながら、夏瑪が苦笑している。そうして夏瑪が腕を回すと、震えながら縲が泣いた。

「俺のことが好きなら、きちんとそばにいてよ」
「私のもとに来なかったのは、縲さんだと思うがね」
「――あ、あ」

 その時、縲の目に光が戻った。そしてハッとしたように、愕然としたように顔を上げた。

「俺は、何を……?」

 どうやら覚えていないようだと判断し、夏瑪は嘆息する。

「さぁね」
「離せ」
「君が抱き着いてきたのだがね?」
「そんなわけが」
「そう思いたいのならば、そうすればいい」

 夏瑪は両腕をほどき、空を仰いだ。

「ここは冷える。移動しないかね?」
「……どこに?」
「そうだな、最寄りならば――絢樫Cafeがある」
「……」
「人間も今滞在していると小耳にはさんだがね?」

 それが亨夜の事だと悟り、縲は小さく頷いた。それからふらふらと立ち上がる。体の熱は、夏瑪がそばにいるせいか、引いていた。それでもよろけた縲を、夏瑪が支える。触れられることにすら元来であれば嫌悪があるはずなのに、奇怪な事に夏瑪の体温が心地いいと思うのを不思議に感じながら、縲は歩き始めた。

 こうして二人が絢樫Cafeに行くと、砂鳥が出迎えた。

「えっと、カフェですよね!?」
「ああ、頼むよ」

 そつなく夏瑪が微笑し頷く。こうして二人は、窓際の一角へと促された。
 メニューを持ってきた砂鳥に、夏瑪が問いかける。

「ローラは、今日は?」
「あー……昨日なんか藍円寺さんがドロドロだったみたいで、抱きつぶしてたから……んー……声をかけてみます?」
「無理にとは言わないがね」

 夏瑪がそう述べた時、話題の当人であるローラが階段を下りてきた。そして真っすぐにこちらの席へと歩み寄ってくる。ローラはまず縲を見て、眉間にしわを寄せた。

「おい夏瑪。なんで藍円寺を撃ったクズと相席してんだよ?」
「それは私が何故刻印したかという意味なら、愚問だな」
「さっさと喰い殺せ。俺はこいつを許さん」
「――私は今、彼に興味がわいているから、もう少し生かしておくよ」
「お前が興味? なんだよ、惚れたのか?」
「悪いかね?」
「藍円寺を害さないなら知らん」

 二人のそんなやり取りを、曖昧になってしまった思考の下、ぼんやりと縲は聞いていた。体が熱い。

「ローラ。彼は、どうやらエクソシストの洗脳がとけかかっているようなんだ。だが代わりに退行する。幼少時のような精神状態になる。そういった症例はあるかね?」
「エクソシストの洗脳を解いた場合のメジャーな反応だろ」
「対応できる妖怪薬はあるかね?」
「まぁな。砂鳥でも調合可能だ。が、藍円寺を害したカスに渡してやると思うなよ」
「根に持つんだな」
「夏瑪。俺にとっては藍円寺だけが正義だ」
「刻印により、今、私にとっても彼が正義なのだよ」
「あ? 俺の愛とお前の食欲を同列に語るな」
「いいや、私も愛してしまったようでね」
「お前が? 愛?」
「おかしいかね?」
「おかしいというか……お前に愛されるなんて苦痛だろ。殺してやれ」
「どういう意味だね?」
「そのままだ」
「――妖怪薬が欲しい。対価はなにがいい?」
「本気か? はぁ。そうだなぁ、じゃ、『玲瓏院紬の安全』だ」
「ん?」
「お前、襲ったんだろ? 夏祭りで」
「まぁ」
「うちの火朽がキレてたぞ。俺は知らんが、俺にも仲間を想う気持ちはある」
「そうか。では以後、玲瓏院くんから血を取る事は永劫ないと誓おう」

 それを聞くと頷いたローラが、ばちんと指を鳴らした。するとテーブルの上に、小瓶が出現した。

「これだ。百合香の一種だな」
「感謝する」
「おう。しかし人間に親切なお前というのも気味が悪いな。教授職でそこまでかわったのか?」
「まぁそれはあるが――ほうっておいてはいけない気がしてね」
「へぇ。興味ない」
「君は藍円寺亨夜くんにしか興味がないのだろう?」
「その通り!」
「友人がいがないな」
「そんなもの、欲しいのか?」
「不要だな」

 そこへ砂鳥が紅茶のカップを二つ運んできた。縲は朦朧としたような顔をしている。素早くそちらのカップに、夏瑪は妖怪薬を垂らす。そして縲に飲むように促した。曖昧になっている思考で頷いた縲は、それを飲み込み、すぐに瞠目した。

「な……俺は……」
「よわったな。何処まで覚えている?」
「え……俺は……、……え? あれ?」
「縲さん?」
「そうだ、俺は玲瓏院縲となったんだ。そしてお前を追いかけて……っ、眩暈が」

 縲の体が傾く。それを見て、夏瑪がローラへと視線を向けた。

「副作用があるのかね?」
「いいや? ただ、よほど強い暗示だったんだろうな。しばらくは抜けないかもな。夏瑪。本当に大切なら、家にでも連れ帰って囲っておけ。この状態のエクソシストほど、無防備な人間はちょっといない」
「参考にしよう」

 こうしてその後、夏瑪は縲を連れ帰った。