【一】出会い
ベルス侯爵家の夜会が、既に懐かしい。時が流れ、八の月が訪れた。
僕はこのバルミルナ帝国の現皇帝だ。
ルイス=ベルス・ヴァルミルナというのが戸籍名で、魔術名はルイス=ナイトレル・ヴェルリス・ヴァルミルナだが、僕は魔力はあるものの魔術師では無いので、魔術名を使う機会はほとんどない。
もうすぐ夏も終わる。
本日は皇宮で、侯爵家以上の爵位を保持する家の者の中で未成年のみが招かれる――逆に言うと、強制参加の儀式があった。決してその総数は多くはない。なお皇族は参加しないため、僕は本日は保護者として訪れた人々と歓談していた。ユーゼ父上も同様だ。
それにも疲れ、僕は庭に出た。
僕が前皇帝陛下の養子となったのは、八歳の時の事だ。現在宰相をしているユーゼ父上が、前々皇帝陛下のご落胤だった事が手伝い、直系の血がより濃いからという理由で、後継として迎えられたのである。僕に、早々に帝位を譲った前皇帝陛下は、非常に優しい方だった。僕は三人目の父のように感じている。
――父。
女性が生まれなくなってだいぶ経つという。僕自身は、女性を直接目にした事がない。代わりに、男性同士で魔術により妊娠・出産が可能になったこの世界において、僕は現在、結婚して後継者をもうける事を望まれている。既に後宮に迎える側妃については選定を終えているが、直接の打診はまだであるし、そうするにしろ、まずは正妃を迎える事となる。
僕が産む側となる場合でも、相手の配偶者は正妃と呼ばれる事になる。
正直、政略結婚で良いだろうというのが僕の考えだ。しかしながらユーゼ父上や、僕を生んだルツ父様の考えは異なるようで、『番い』が望ましいと度々口にする。
この世界では、魔力色により特定の香りが感じられる相手が存在するらしい。その相手こそがたった一人の、運命の番なのだという。別段、『本当の番い』同士でなくとも子供は生まれるのだが、番同士は強く惹かれるらしい。
「僕の番いはどこにいるのでしょうか」
ポツリと呟いてみた。眼前には、小さな池があり、そこには三日月が浮かんでいる。空を映す水面は静かで、今日は夜風が涼しい。そんな事を考えていると、その風に乗り、ふわりと爽やかな梨のような香りがした。なんだろうかと振り返る。そして僕は息を呑んだ。
ここは皇宮の庭だ。部外者は立ち入る事が出来ない。
だが、僕のすぐ後ろに、一人の青年が立っていたのだ。銀色の長い髪を、後ろで結んでいる。目は青だ。長身で、整った顔立ちをしている。僕は彼を見上げた。僕もそう背が低い方ではないが、この人物は背が高い。
「貴方は?」
護衛を置いてきた事を後悔した――が、同時に、置いてきて良かったとも思った。直感的に、『もっと二人で話がしたい』と、彼を見て僕は思ってしまったらしかった。梨の香りが、どんどん強くなっていく。
「……ジェフと」
その名を聞いたが、僕は貴族の中に該当する名前の持ち主を見つけられなかった。国内の貴族の名前は全て覚えているのだが。類似の名前はある。ただ服装と物腰からして、青年は貴族に見える。
「ジェフですか」
「お前は?」
「――僕の顔を知らないのですか?」
意外な態度に驚いて、僕は目を丸くした。すると僕との距離を詰めるように、ジェフが歩み寄ってきた。すると梨の香りが強くなった。ドクンと僕の胸の奥深くが疼く。ずっとこの良い香りに浸っていたい。最初は魅了の魔術かと疑ったが、僕は魔道具の装飾具でそういった魔術を無効化しているため、それは考え難かった。
「有名人なのか?」
貴族なのに皇帝である僕を知らないというのは、いよいよ不思議だ。だが、それらがどうでも良いと思えるほど、僕は目の前のジェフに惹きつけられていた。なんだろう、この胸の動悸は。
「貴方が知らないのですから、違うようです」
「そうか。所で、そのスモモのような香りの香水は、どこで買ったんだ?」
「僕は香水はつけていませんが――……そちらこそ、その梨のような香りは?」
僕は、直感的に理解していた。
なにせ、『香り』だ。番いの条件である。僕達は、お互いに香りを感じている。即ちそれは、魔力色が一致しているという事だ。世間一般的には、運命の相手だとされる状態だ。
正直、彼が運命の相手ならば、僕は嬉しくてたまらない。
「……名前、早く教えてくれないか」
「ルイスです」
「どこかで聞いたな」
名乗ったらさすがに気づかれるかと思ったが、ジェフは首を捻っているだけだ。
さらに歩み寄ってきたジェフは、それから僅かに屈んだ。僕は彼の顔をまじまじと見る。
顎を持ち上げられたのは直後の事で、そのまま僕は、強引に唇を貪られた。
皇帝である僕に、このような態度や行為をした者は、過去に一人もいなかった。本来ならば僕は警戒し回避しただろうが、香りが僕の頭を痺れさせる。僕もまた、ジェフとキスがしたかった。
口腔に侵入してきたジェフの舌が、僕の舌を絡めとる。僕もまた目を伏せ、必死にそれに応えた。何度も角度を変えて、僕達はキスをし、気づけば僕は双眸を閉じていた。時折息継ぎをしながら、もっとこの時間が続けば良いと僕は願っていた。
「っ、は」
長い口づけが終わった時、僕は双眸を開けて、彼を見上げた。我ながら蕩けた瞳をしていた自信がある。荒々しいキスで、決して巧みだったわけではない。
皇宮の鐘が十回鳴ったのは、その時の事だった。
「――帰らなければ」
ジェフは少しだけ困ったような顔で後ろに振り返った。僕は思わず、彼の右腕に触れていた。
「またお会いできますか?」
「ここは皇宮の庭だ。俺がここへと来る機会はもう無いだろうな」
「そうですか……ならば、僕が会いに行きます。貴方は、どこの家の方ですか?」
「……言いたくない」
彼はそう言うと、吐き捨てるように吐息した。そして顔を上げると、どこか苦しそうな、焦燥感に駆られているような目をした後、長々と瞼を閉じた。そうして、次に目を開いた時には、無愛想な無表情になっていた。
「今宵の俺は、どうかしていた。もう会う事は無いだろう」
そう言うと、ジェフは僕の手を振りほどいて歩き始めた。
「待っ――」
僕は引きとめようとしたが、ジェフの足取りは早くなり、その後走るようにして姿を消してしまった。まるで夢でも見ていたように、僕は見えなくなった彼の背中があった方角を、暫しの間見据えていたのだった。