【二】妃の選定






「はぁ……」

 気付くと溜息が零れてしまう。
 朝、自室の窓ガラスにピタリと左の掌で触れて、僕は三日前の事を思い出していた。

 ジェフと出会った鮮烈な夜の記憶。

「……」

 無理にでも、それこそ身分を明かしてでも、どこの誰なのかを聞いておくべきだったと後悔したのは昨日の事だ。すぐに見つかるだろうと判断して、強く聞かなかった事が悔やまれる。

 軽く頭を振り、僕は謁見の時間だからと、部屋を出る事にした。
 騎士に先導されて謁見の間に入ると、既に宰相であるユーゼ父上の姿があった。
 片手で書類を見ながら、部下の文官に指示を出している。

 眺めているとすぐに目が合った。僕は普段から浮かべている微笑を心がけて、唇の両端を持ち上げる。そのまま玉座まで進むと、ユーゼ父上が歩み寄ってきた。

「具合でも悪いのか?」
「――え?」
「昨日は特に多忙では無かったと記憶しているが、眠れていない時の目をしているぞ?」

 それを聞いて、気付かれているとは思わなかったため、僕は焦った。

「気のせいでは?」
「大切な息子の不調に気付けないほど、俺の目は節穴では無いが」

 胸がじんわりと温かくなった。今では皇帝と宰相という関係性ではあるが、それでも大切な家族である事に変わりは無い。

「もうすぐ、正妃や側妃の選定ですから、考える事が色々あるだけです」

 心配をかけたくはなくて、僕は微苦笑して見せた。実際これは事実でもある。既に招待状は昨日送付を終えたと聞いている。五日後、その『強制力』を持つ招待状が届いた者は、この皇宮に集められる。先方に断る権利は無い。

 そこでまずは正妃を決定し、他の候補者の中から側妃を選ぶ事になる。
 魔王の繭の件もあるから、国が盤石である事を示すためにも必要な結婚だ。こと人間同士にあっては、決して帝国は隙を見せない。

「そうか。無理はするなよ」
「有難うございます」
「君が用意したリストは完璧だった。ただ難点を言えば、やはり『番い』が見つかっていない事だろうな。俺個人としては、先に側妃を迎えても構わないと思うが」
「順番の変更は余計な混乱を招きます」

 答えながら、僕はドキリとした。
 番いという言葉で、瞬時にジェフの顔が脳裏をよぎったからだ。

 直感が、彼こそが僕の番いだと訴えている。だが、僕には立場がある。それは変えられない事実だ。

「陛下、後悔が無いようにな」
「問題はありません」

 自分の声が、どこか白々しく感じてしまったのは、仕方が無い事だと思う。
 現在の僕は、ジェフの事を思い出してばかりいる。

 そんなこんなで執務には身が入らず、この日も一日を終えた。


 ――五日後。
 選定の場は、あっという間に訪れた。この日は朝から曇天で、お日柄が良いとはとても言えなかった。候補者が集められた午後二時半になると、突然の豪雨が帝都を襲った。人を不安にさせるような空の色。

 時間になったので、隣室から僕は謁見の間の玉座まで進む事にした。
 真っ直ぐに前を見て歩く。傅いている多くの人々が見えた。
 皆僕の妃候補の貴族令息だ。

 僕は玉座にゆっくりと座り、それから微笑を浮かべる事にした。この表情は、ある種の僕の武装だ。

 が。
 そうして室内を見回そうとした瞬間、僕は硬直した。正面の列の右から二番目――確かあそこは、エリクス侯爵家の次男がいるはずの位置、そこに僕はジェフの姿を見つけた。

 確か名前は、ジェフリー=エリクスだ。類似の名前の持ち主として、名前だけは検討した人物でもある。なお、そういう意味合いを抜きにして、正妃候補の筆頭でもある。

「陛下?」

 隣に居たユーゼ父上が、そっと僕の肩を叩いた。

「……皆の者、おもてを上げてください」

 慌ててそう続けつつも、僕はジェフから目が離せなかった。ゆっくりとジェフも顔を上げる。直後、僕達の視線は真っ直ぐに交わった。あちらも目を見開き、息を呑んでいる。

 空間が、時間が、停止したような錯覚に陥った。
 梨のような香りが強くなった気がする。
 僕達二人しか、この場に居ないような、そんな感覚になった。

 それは馬鹿げた空想だと理解している。より正確に言うのであれば、僕の視界にジェフしか入っていなかったというのが正しいだろう。

 ユーゼ父上がこの場の意味を説明している声が、どこか遠くで響いているようにすら感じた。

「それではまず、一対一で――」
「宰相閣下」
「――何か?」
「彼と話がしたいんです」

 僕はジェフの名を小声で告げた。するとユーゼ父上が心なしか驚いた顔をした。だが否を唱える事は無かった。

 そのまま僕は一度、隣室へと移動した。謁見の控え室でもある応接間だ。青い布張りの椅子に座っていると、少しして扉が開いた。単身入ってきたのは、ジェフだ。僕は彼が施錠するのを見ていた。今度こそ僕達は、出会った夜のように二人きりになった。

「皇帝陛下だったのか」
「ええ。本当に気付いていなかったのですね」
「まさか護衛もつけずに一人でいるとは思わないだろう……」

 対面する席まで進んできたジェフは、それから一礼して腰を下ろした。洗練された物腰を見ながら、僕は酷い胸の動悸を抑えようと躍起になる。

「とても病弱には見えませんが、体調は良いのですか?」
「家に引きこもるための方便だからな」
「引きこもる?」
「基本的に貴族の行事が好きになれない。無意味な夜会や人脈作り。連綿と続く魔術関連の一部の行事を除いては、関わりたくないんだ」

 正直なその言葉を聞いて、理性では『正妃には向かない』と考えた。だが、感情がわめき立てる。そんな事柄はどうでも良いのだ、と。今、決して僕はジェフを手放すべきではない。そうしてしまったら、一生後悔する自信があった。