【二】
――寿命延長技術が出来たその年、俺は迷っていた。自分でいうのもなんだが、俺の頭脳は後世に残すべきだ。でも……こ、恋人が渋っているからだ。もう付き合って、一年になる。
「鴻! 何で迷うんだよ?」
「ん? また延命処置の話?」
「そうだ」
「僕はほら、刹那的っていうか、後悔しないように人生は歩みたいから」
「長い人生があれば、やり直せる事だってあるだろう?」
「根本的に価値観が違うんだと思うよ。僕はね、やりなおさない。『今』を精一杯生きる。だって、『今』さ、葵を幸せにしたいんだもん」
「……」
糸のように細い目で微笑まれながらそう言われると、俺は言葉に詰まる。
俯けば、鴻のデスクに置いてあるチラシが目に入った。
――『百年後のあなたや周囲に手紙を書いてみよう!』というイベントのチラシだ。
この前、二人でテーマパークに行った時に受け取った品で、俺の家にも同じものがある。手紙をポストに投函するだけで良いらしい。
……鴻だって、意識していないわけじゃないはずなのに。
手術をして寿命を延長しなければ、百年後に手紙を読む事なんて出来ないのだから。
でも、でも、だ。
鴻がいないのなら、いなくなってしまったのなら、俺はその後を一人で生きていけるとは思えないから、手術を受けられないでいる。もし、鴻がどうしても受けないというのならば、俺は共に生涯を終えても良いのかもしれないと、どこかで考える事がある。だが、やはり、永遠を共に過ごしたいというのが本音だ。
「葵は早く手術を受けるべきだよ」
「人の気も知らないで」
「じゃあ、僕と一緒に死ぬ?」
「馬鹿を言うな! お前の考えを変えてやる!」
この日も俺は憤慨し、そして、それだけで終わった。
鴻が俺の意見を聞き入れてくれる事は無い。鴻は優しい性格をしていると思うのだが、譲らない所は本当に一切譲らない。
――スペースコロニー『ネ』に、隕石が迫っていると判明したのは、それから三日後の事だった。
すぐに軌道を計算し、コロニーの設計図と俺は向き合った。こちらの対処として唯一可能な回避方法は、俺が開発した人型戦術機で、隕石を破壊し、あちらの軌道をそらすというものだけだった。何よりも、時間が無かった。
「俺が行きます」
立案し、俺が述べると、周囲が沈黙した。そして、隣にいた鴻がスッと手を挙げた。
「いいえ、僕が行きます。縁堂博士には、事後処理をしてもらう必要があります」
「え、でも――」
「この計画は、パイロットの生還率が非常に低いと予想されます。我々は、リスクを考えなければならない」
「ふざけるな、鴻。何を言って――」
「私情を挟むな、葵。いいや、縁堂博士。貴方には、やるべき事が山ほどあるでしょう? 分かっている?」
「……」
「それに――安心していいよ。僕がただ死ぬとは思わないで」
その後、満場一致で、出撃するのは鴻に決まった。
俯き、俺は一人震えていた。周囲は、自分の命を犠牲にしてでもコロニーを救おうとしているとして、鴻を賞賛している。だけど。そんなの、俺は耐えられない。
必死で隕石の軌道や人型戦術機による作業工程を再確認しながら、俺は希望が見えてきたとすら口にしている周囲に対し、怒鳴りたくなったが、震えるしか出来なくで、泣きそうになったが、それを見られるのも癪で、何より本人も笑顔の鴻が許せなくて、思わず席を立った。
そして久方ぶりに、一人で自宅のマンションに戻った。もう俺に出来る作業は無いから、俺が退勤しても、誰も何も言わなかった。
静かな室内で、俺はキッチンにある、お揃いのマグカップを見た。黒猫の模様が入ったそのカップは、鴻が買ってきた品だ。他にも、お揃いの箸も、茶碗も、歯ブラシも、全部鴻が持ち込んだ。奴のマンションにも、俺の分もある。
観葉植物を見ながら、どうしてみんな、笑っていたのかと俺は両腕を抱いて、涙ぐんだ。
そのまま、数時間。
気づくと、午後の八時を回っていた。インターフォンが音を立てたのは丁度その時だったが、俺は出る気力がない。鴻がいなくなってしまう可能性が非常に高い明日が迫っている。俺は、鴻がいなくなってしまうくらいならば、コロニーに隕石がぶつかる方がマシだとすら思い始めていた。ガチャリと鍵が開く音がしたので、俺は来訪者を悟る。合鍵を持っているのは、鴻と大家さんだけだ。
「葵」
「……」
「信じてないんだ? 僕が帰ってくるって」
「……お前は信じているのか? そうであるなら、俺が行ったって良いはずだろ?」
俺が顔を向けると、歩み寄ってきて、鴻が屈んだ。そしてソファに座っていた俺の顎を、手で持ち上げる。それから触れるだけのキスをした。
「生還率は、変わらないと思うけど――研究と兼任している君よりも、僕の方が操作に長けているのは事実じゃないかな?」
「だけど……っ、発案者は俺だし、俺の方が計画を熟知しているし、だから……今からでも――そうだ、今からでも、変更を。それが良い。ああ、そうだ。俺なら、絶対に帰ってくるから、だから」
「葵って、嘘が下手だよねぇ」
「は?」
「帰ってこられないと思ってるから志願しようとした。僕はそれが許せなかったから、自分が代わる事にしました」
「どういう意味だ?」
「葵。僕はね、今を生きてるんだよ。後悔しないように生きてる。何度も伝えたよね?」
「……」
「好きな相手を、恋人を、置いてであっても、その決意は変わらない。万が一僕に何かあったとしても、コロニー自体は助かる可能性が非常に高い計画だ。さすがは、葵の発案だけはあるね。そしてさ、この『ネ』には、沢山の人が住んでいる。そのみんなを、僕は守りたい。その為になら、葵を置いていける。でも、葵は違うでしょう? 葵の場合は、ただの自己犠牲だ。僕みたいに、利己的に他者の幸福を願っているわけでも何でもない」
鴻はそう述べると、俺の頬に右手で触れたまま、じっと俺を見た。
「僕は葵の、犠牲になるなら自分が、自分は死んでも良い、みたいな考えが好きになれない。葵は生きるべきだ。それと、僕は他者を幸せにしたいけど、その筆頭は紛れもなく葵だよ。僕は、葵を幸せにしたい」
「そんなの、綺麗ごとを言ったって、鴻だって同じだろ? 結局、死ぬつもりなんだから。お前が死んだら、俺は幸せになんてなれない!」
「違うよ。僕は、生き続けるよ」
「だって、手術だって受けていないのに――」
「生命活動の維持のみを、僕は生きる事だとは考えないだけだよ。これも、僕と葵の価値観の違いだろうね。葵はさ、僕が仮に死んでしまったら、僕をあっさり忘れるの?」
「忘れるわけが――」
「うん。じゃあ僕は、葵の中で生き続けるという事になるね」
「――え?」
「葵がいる限り、僕は生きているのと同じだよ。だから、お願いがある」
俺を正面から、鴻が抱きしめた。柔らかな髪が、俺の頬に触れる。肩に、鴻の顎がのる。
「君に、僕の事を刻みつけさせて」
「鴻?」
「ほら。決戦の前は、性欲が高まるっていうよね? 本能なのかもしれないって話」
「っ……」
「そもそも、始まる前から後ろ向きでは、どうにもならない。それに今、僕は葵が欲しい。葵を抱きたい。だから、抱かせて?」
耳元で、掠れた声で囁かれた。俺は涙腺を潤ませながら、小さく頷く。
そんな俺の耳の後ろを指でなぞり、座っていた横長のソファに、そのまま鴻が押し倒してきた。こうしていつものように、けれどいつもとは違う夜が始まった。
「あ、ぁ……」
首元に、鎖骨の上に、胸に、腹部に――いくつものキスマークをつけられる。
既にもう、二時間も愛撫をされている。俺の全身を舐め、そうして口づけ痕を刻み、それからまたぺろりと肌を舐める鴻は、いつもよりも丁寧に、いいや丁寧すぎるほどに、俺の体を扱う。堪え性の無い俺は、早く欲しいと哀願するのが常で、そうすればいつもは鴻は挿入してくれるのに、今日はまだ、ローションをたっぷりつけた指を時折挿入してくるだけで、俺の全身をひたすら愛撫してばかりだ。
「……っ、ぁ……」
時々陰茎の筋を指で舐めては、俺の先端から零れ始めた液を舌で舐めとる。
それ以外は、ずっと俺の体をドロドロにしている。俺の内部はとっくに熱を帯びていて、早く欲しくて仕方がない。理性が消し飛びそうなほどの、優しいのに強い快楽が、いっそう恐ろしい。ここまで丹念に前戯をされた事などなくて、俺は全身から力が抜けたまま、息をするのに必死になっていた。鴻はそんな俺の唇もまた幾度も奪う。
「う、ぁ……ああ……鴻、早く――っ、あ、あ」
「もっと僕の名前を呼んで」
「鴻、鴻!」
「もっと欲しいって言って」
「欲しい、早く、あぁ……」
その後も何度も口づけられ、愛撫され、俺は何も考えられなくなりそうだった。僅かに残った理性が、これが最後なのだと唱える。だが、それ以上に与えられる快楽がもどかしくじれったく、なのに――俺の思考を麻痺させていく。
「挿れるよ」
「う、ン……ぁア!」
挿入された瞬間、俺は放った。ビクンと跳ねた俺の体を見て、鴻は薄く笑う。弛緩したままの太股を持ち上げられ、斜めにそのまま挿入された。俺の足の肌にも、鴻が舌を這わせる。そして、根元まで挿入した状態で動きを止めると、鴻はぺろりと彼自身の唇を舐めた。そして獲物を盗る前のような顔をして笑ってから、ゆっくりと腰を揺さぶった。それだけで、俺の陰茎は再び反応を見せた。そして必死に息をしていると、鴻が少しして動きを止めた。
「あ……ああ……あ……え? 鴻、鴻……なんで、動いて……」
「どうしようかなぁ」
「あああああああ!」
鴻はグッと俺の前立腺を押し上げた状態で、動きを完全に止めた。俺の腰が蠢く。自分でも、内壁が鴻の陰茎に絡みついているのが分かる。そのまま鴻が動いてくれない状態で、太股を持たれているから上手く動けもしない中、俺は再び果てた。頭が真っ白に染まる。
「あ、あ、あ、ああああ! 嘘、あ、コレ、ダメだ。ダメ、ダメ、またクる。あ、あ、あああ! あっ、ッ、おかしくなる、やぁ、ああ!」
「スローセックスもたまにはいいでしょう? 夜通し楽しめる」
「あ、あ……あ、ン……っ」
「いっぱい、イって良いから」
「ひ、ぁ……ア……んあ……」
その内、涙が乾かなくなってしまった俺は、頬をずっと濡らしながら、意味のある言葉さえ紡ぐ事が出来なくなった。快楽が強すぎて、もうそれしか考えられなかった。
「こうしてれば、少しは恐怖も消えるんじゃないかな? これが、僕が葵にしてあげられる最後の事だからね。僕も気持ち良いけど、何より、蕩けている葵の顔、これを覚えている限り、きっと僕は何事にも耐えられる。僕は手術、本当に受けなくて良かったよ」
鴻が何を話しているのか、もう理解が出来ない。
この夜、俺は朝方までずっと貫かれていた。そして気づくと、繋がったままで眠っていた。
――翌朝、目を覚ますと体は綺麗になっていたが、俺は寝過ごしていた。
既に、鴻の姿は無い。
慌てて時計を見れば、体に染みついていた起床時間のままだったから安堵したが、今は平時ではない。このままでは、鴻が行ってしまう。
「嫌だ」
俺は口走り、慌てて着替えて外套を羽織り、外へと出た。
既に人型戦術機の整備が終了しているようだと知り、俺はまっすぐにハンガーへと向かった。まだ間に合う。やはり、俺が代わりに行くべきだ。
「鴻!」
ハンガーに行くと、鴻が丁度搭乗する所だった。周囲も鴻も、俺を見る。
「やっぱり俺が行く!」
「葵……もう今から計画の変更なんて出来ないよ。それは分かっているでしょう? パイロットの変更だって、している時間が惜しい」
「でも――」
「縁堂博士。これは決定だよ? 僕が行く」
わざとらしく、真面目腐った顔で、鴻が俺を苗字で呼んだ。
同時に、本気で行くつもりなのだという決意が伝わってくる。
俺の指先が震え、冷たくなっていく。気づけば、俺は思わず首を振っていた。
「頼むから、やめてくれ。行かないでくれ」
結果――俺は泣きながら縋った。
だが、そんな俺の頭をポンと撫でるように叩くと、鴻は笑った。
「僕は行くよ。言ったよね?」
「?」
「葵を幸せにしたいって」
「だったら――」
「幸せにするためには、生きていてもらわなきゃ。ちゃんと、手術受けるんだよ。約束だからね」
「鴻!」
俺は手を伸ばしたが、警邏の衛兵に拘束された。そのまま、指令室に連れていかれた俺は、鴻が隕石を破壊する姿を見ていた。人型戦術機の両腕が、隕石の重みと熱に耐えきれずに破壊される様を見た。確かに見たんだ。そして――見ている事しか出来なかった。
ほぼ相打ちになる形で、鴻の機体は砕け散った。直前で、救命ポットで鴻は脱出した。だから俺は叫んだ。
「すぐに、すぐに救援に!」
「――あの軌道と重力場では、回収は見込めない。捜索班の側に被害が出る」
それが、上層部の結論だった。
それ以外は、何も無かった。
俺はこの日、何度も訴えたが、最終的には警邏の衛兵に拘束され、退勤を命じられた。
絶望とは、こういう事を言うのかもしれない。俺は、雨の中、傘もささずに帰宅した。泣きながら、でもその涙は、雨が隠してくれた。俺が立案さえしなければ、何度もそう思った。だが、それ以外の選択肢は無かったから、だから同意は得たのだ、周囲の。
帰宅し、壁を右の拳で殴りつけた。
そして、エントランスの扉が閉まってすぐに、崩れ落ちた。号泣しながら、俺は鴻を想った。もう、鴻は何処にもいない。いいや、そうではないのだ。まだ――『生きている』はずなのに、捜索は打ち切りなのだ。助けを期待しているかもしれない、なのに、なのに。何も出来ない。両頬を濡らす温水は、室内では、雨すらも隠してはくれない。
「なんで……」
どうして助けに行く事すら許されないのだろう。もう、全てが嫌になる。
その後の数日、俺は自分が何をしていたのか覚えていない。
鴻が言ったような、事後処理に呼ばれるという事も無かった。そうである以上、俺が隕石の破壊に出たって良かったはずだ。そうであれば、今頃鴻だって……生きていたはずだ。己の死より、愛する者との別離の方が、俺にとっては辛い。
次に気が付いたら、コロニーの救命救急のベッドに寝ていた。なんでも、衰弱して倒れていた俺を、家賃の支払い確認に来た大家が見つけたらしい。こんな事ならば、銀行での引き落としにしておけば良かった。これも、鴻が、『やっぱり家賃は手で渡そうよ?』なんて言って、俺の生活リズムを変えたせいだ。その癖に、いなくなって。
こうして、俺の入院生活が始まった。
そして、ある日。
「――手術も終わりましたからね」
「え?」
訪れた看護師に言われ、俺は目を瞠った。
「手術、って、なんの?」
「やだなぁ、寿命延長技術を用いた手術ですよ。まだ受けていなかったなんて驚きです。コロニーの救世主が」
「!」
「これからも、その叡智、みんなに分け与えて下さいね」
悪気も無い様子で看護師は言ったが、俺は戦慄した。
鴻がいない世界で、永遠に生きる――?
そんなの、無理だ。無理に決まっている。気づけば慟哭し、その日俺は、思いっきり泣いた。いっそうの事、気がくるってしまったのならば、楽になれるのだろうか。俺はすすり泣きながら、思案した。もう嫌だ。こんな現実は嫌だ。
「縁堂博士」
そんな俺のもとに、ある日部下が訪れた。|晴宮《はるみや》|汰柏《たかせ》という軍人だった。同じ旧日本由来の地球系人類だ。
俺は虚ろな瞳を向けた。すると、彼は最新型のボイスレコーダーを俺に渡した。
「まだ、生きておられますよ」
「……え?」
「ほら」
『今は、時計的に三年目、かぁ。通信……そろそろ届かなくなるか……ま、こっちの受信機が壊れてるから、一方通行だけど。ただ、良かったら、葵に――縁堂博士に、僕は元気だと伝えてほしいです』
「!」
「これは、一昨日基地が受信したものです。ほかにも、あります。戻ってこられませんか?」
「あ……」
「捜索も救助ももう無理ですが、会話するチャンスはゼロではない」
晴宮の言葉に、気づくと俺は、ポロポロと泣いていた。
その後、ベッドを下りた。自発的に、床に足をついたのは、久方ぶりの事だった。
マンションはそのままになっていて、帰宅すればそこには、在りし日と変わらない、鴻の気配を感じさせる品が溢れていた。
「……また、二人でこのマグカップ、使えると良いな」
そう呟いた俺は、苦笑しながら涙を零した。気づくと、笑いながら泣いていた。